(その4・最終章)

イタリアに連合軍が上陸し、東部戦線でドイツ軍が守勢に回ると次は北フランス方面への連合軍の上陸が予想された。すでに42年8月19日フランスのディエップにイギリス、カナダ軍が奇襲上陸を行いドイツ軍の反撃で大損害を出し撃退された作戦があった。この作戦は本格的反攻ではなく、威力偵察的なものであったがドイツ軍に「反攻近し」と警戒を強めさせた。連合軍は北フランス上陸作戦「オーバーロード」の期日を44年5月に定め、アメリカ軍ドワイト・アイゼンハワー大将が総司令官に任命されていた。ドイツ軍のヨーロッパ西部を担当する西方総軍(ルントシュテット元帥)はB軍集団(ロンメル元帥)がフランス北部を担当していた。ロンメルは「最初の24時間で勝負がつく」と、連合軍の反攻を上陸軍が橋頭堡を築く前に海上か水際で撃破すべきだと考えていた。連合軍の攻撃が始まれば制空権を失ったドイツ軍は航空攻撃にさらされ、部隊の移動も反撃も困難になるからである。一方、ルントシュテットは上陸軍を内陸まで引き込み反撃を加え撃破する考えだった。さらに連合軍の上陸地点の予想はロンメルとヒトラーはノルマンディ地区と踏んでいたのに対し、軍首脳は距離的にイギリスに近いカレー地区を予想した。ヒトラーは連合軍の反攻に対して「大西洋防壁」を築くと盛んに国民に演説していたが、実状は要塞などとても完成にほど遠い状態であり、固定要塞で戦う戦略思想自体、ドイツ軍が戦争初期に打ち破ったものだった。敵を水際で撃破しない限り戦争に負けると考えたロンメルは海岸地帯の防備を固めるため砲台を建設し、水中には妨害物と爆発物を仕掛け、海岸には地雷を埋めた。また自身の設計による数々の妨害物を配置する、空挺部隊を防ぐ木とワイヤーの妨害物は「ロンメルのアスパラガス畠」と呼ばれた。しかし装備は資材不足によりロンメルを満足させるものではなかった。ロンメルはトート部隊(軍需省の建設部隊)や空軍の高射砲部隊に助力を求めたが、指揮系統の違いから拒否される。そして最もロンメルが必要とした物「装甲師団」はヒトラー直接の命令下に置かれていて、ロンメルの手元には無かったのである。ヒトラーはロンメルとルントシュテット両者の主張の折衷案として、装甲師団を海岸と内陸の中間に配置した。フランス北部にいた部隊の多くは東部戦線で消耗したものが再編のため休養していたり、高齢の兵士や外国人で構成された部隊であった。また、ヒトラーは最初の考えを変え反攻はカレーで行われると思うようになっていた。

44年6月4日ロンメルはヒトラーと会見するためフランスを離れた、悪天候から連合軍の上陸はしばらく無いと報告されていた。ロンメルは後方に置かれていた装甲師団を海岸に移動して自分の指揮下に置くよう要請する予定だったが、連合軍は6月6日朝天候が回復したノルマンディの海岸に3個師団の空挺部隊に続いて5カ所に上陸してきたのである。ロンメルは自宅で誕生日を迎えた妻と過ごしていた、彼は急ぎ同日深夜フランスの司令部に戻った。さらに運が悪いことにフランスにいた装甲師団の「戦車教導師団」は東部戦線へ移動することになっており一部の部隊は既に移動していた、また第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」も海岸から離れた内陸部にいた。このため上陸した連合軍に強力な反撃が出来る装甲師団は第21装甲師団のみだった。また空軍もフランスにいた部隊は連合軍の空爆が激しくなったドイツ本土防衛のため6月4日移動したところだった。リールの第26戦闘機連隊の撃墜王ヨーゼフ・プリラー大尉(最終撃墜101機)は「上陸を予期していたら、連隊を後退させず、こっちに連れてくるべきだ。移動の最中に攻撃が始まったらどういう事になるのだ」と上官に電話で文句を言った、飛行場には彼と列機の2機しか戦闘機がなかったのである。上官は悪天候で反攻は考えられないと対応した、彼は部下に言った「上陸が始まったら我々2人だけで出撃してくれと頼むだろう、今の内に飲んでおこう」。実際プリラーはたった2機で出撃する破目になった。ドイツ第3航空軍は50機の稼動がやっとで、それもDデイ初日に1機の連合軍機も撃墜できなかった。ドイツ軍の対敵諜報部は英BBC放送でベルレーヌの詩の第2句が放送された48時間以内に上陸作戦が行われる事を掴んでいたが、ディエップ型の奇襲なのか本格的反攻なのか軍首脳の判断が分かれ、また情報自体が諜略かもしれないと判断し、第2句を傍受したものの軍を待機状態にしただけだった。ロンメル自身も情報の混乱から陽動作戦か本格反攻か判断に迷った、彼の司令部には降下した空挺部隊はゴム人形だとか、別の場所に敵機の大軍がいるといった報告が届いた。実際連合軍は人形を降下させ、アルミ箔を飛行機に見せかけばらまいた。しかし海岸を守るドイツ兵はこれが反攻であることが分かっていた、前面には海が見えなくなるほどの艦船がいたのである。各種艦船2千727隻、そして上陸用舟艇2千500隻以上が殺到していた。オマハ海岸に上陸したアメリカ軍第1、29師団は潮に流され3キロも場所を間違えた。海岸には東部戦線から移動した第352歩兵師団が配備されており、崖の上からドイツ軍守備隊の猛烈な射撃を受けたアメリカ軍は多数の戦死傷者を出した。

15キロ離れたユタ海岸では抵抗は軽微であった、ユタでも目標からずれた場所に上陸したのだが、こちらは幸運に転んだ。ユタに上陸した米第7軍セオドア・ルーズベルト代将(26代米大統領の息子)はかまわず内陸に前進した。ソード、ジュノー、ゴールドの海岸に上陸したイギリス、カナダ軍はオマハほどの抵抗を受けず内陸に進んだが、作戦初日に陥すはずだった主要目標カーンの占領は時間がかった。ドイツ軍の装甲師団の移動にはヒトラーの許可が必要だったが、ルントシュテット元帥からの要請にヨードルは就寝(ヒトラーは不眠に悩み睡眠薬を服用していた)していたヒトラーを起こす事を拒否した。就寝から覚めたヒトラーは許可を与えたが貴重な時間は失われていた。カーン南西に待機していたドイツ軍第21装甲師団は最初空挺部隊を攻撃するつもりでオルヌ川の東に向かったが、命令が変更され海岸の敵を攻撃するため引き返しカーンへ向かい、ジュノーとゴールド海岸の中間のイギリス軍を攻撃した。しかし協働の歩兵部隊との連絡がつかず、待機する内に時間を浪費。第22装甲連隊の戦車は攻撃に移るが連合軍の対戦車陣地から猛烈な射撃を受け停止する。翌日以降も戦車教導師団、第12SS装甲師団の反撃が行われたが激しい航空攻撃と度重なる目的地変更から敵の前進を遅らす程度の抵抗にとどまった。連合軍はDデイ初日で約2500人の戦死者を出したが、水際で上陸軍を叩き潰すロンメルの戦略は挫折した。11日にはオハマとユタ両海岸の連携がなり、同日ドイツ西部方面戦車司令部が爆撃され壊滅。16日カーンを攻撃した連合軍は艦砲射撃を加え、第12SS装甲師団長フリッツ・ヴィット大佐が戦死。27日シェルブールが陥落した。ヒトラーは激怒し、第7軍司令官フリートリヒ・ドルマン大将は軍法会議を恐れ自殺した。7月2日ルントシュテットはカーンの放棄と艦砲射撃の射程外への後退を求めたがヒトラーは彼を解任した(後任フォン・クルーゲ元帥)。パリへの道を開くカーン攻略はドイツ軍の抵抗で大きな損害を出したが、7月9日ほぼ制圧された。

7月17日司令部のあるラ・ロシュ・ギヨンに向かっていたロンメルの車はリヴァローでイギリス軍機から機銃掃射を受けた。車は横転し運転手は即死、ロンメルは頭蓋骨骨折の重傷を負い野戦病院へ搬送された。7月20日ヒトラー暗殺未遂事件が起き加担を疑われたクルーゲは、召還の途中で終戦を懇願する遺書をヒトラーに書き自殺。後任にモーデル元帥が任命される。8月1日アメリカ第3軍(ジョージ・パットン中将)がブルターニュ半島の攻略に出撃、ヒトラーは反撃を命じかき集めた4装甲師団を投入するが作戦は連合軍に察知され、ドイツ軍は一時モルタンを奪回したものの反撃に失敗する。8月15日連合軍は、ほとんど抵抗を受けずに南フランスのカンヌ、ツーロン地区に上陸。16日ドイツ第7軍と第5装甲軍15万はファレーズに包囲され猛烈な爆撃、砲撃で大損害を蒙り、脱出した部隊も大半の装備を失っていた。ドイツB軍集団はノルマンディで40万の死傷者と20万の捕虜を出した。

ノルマンディ戦の最中の44年6月ジェット戦闘機Me262が実戦投入された、しかしこの時はヒトラーの命令によって爆撃機として使われたため、実力を発揮できなかった。44年の夏ごろには戦闘機隊が編成され、あらゆる連合軍レシプロ戦闘機を速度差で圧倒し終戦まで戦い続けた。しかし燃料不足と生産工場の爆撃などで数が少なく、熟練の搭乗員も既に多くが戦死し戦局を変えることは出来なかった。ほぼ同じ6月にはパルス・ジェットのV1ロケット(Fi103、無人飛行爆弾)が投入されたがV1は戦闘機や対空砲火で撃墜でき、地上からの発射には固定式ランチャーを必要としたが、目立つランチャーは連合軍の空爆で破壊され、あまり脅威にはならなかった。9月6日にパリに向けて、次いで8日にはイギリスへ発射されたV2(A4)ロケットは1トンの弾頭を積み成層圏を飛翔するため発射されると迎撃することができず、発射台は移動式で発見は困難だった。V2は45年3月までに3300発が発射され、イギリスのロンドンなどには最盛期で1日30発が発射され、ロンドンには総計約500発が命中した。V兵器のVはドイツ語の報復(Vergeltung)で、連合軍の無差別爆撃に対する報復を意味する。V2の開発責任者は陸軍兵器局のワルター・ドルンベルガーで、彼の部下には戦後アメリカに渡りアポロ計画を主導するフォン・ブラウンがいた。アメリカ軍のアイゼンハワー元帥は後に「V2があと半年早く完成されていたら、大陸反攻はできなかったかもしれない」と回顧録に記したという。

7月20日東プロイセンのラシュテンブルクにある総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」でヒトラー臨席の会議が開かれた。通常会議は午後1時に始まったが、この日はヒトラーがムソリーニと会見するため30分早められた。国内軍司令官フリードリヒ・フロム大将の参謀長フォン・シュタウフェンベルク大佐は報告を行うため出席していた。彼の鞄にはイギリス軍がレジスタンに送った物を捕獲した爆弾が仕掛けられていた。この爆弾は時限式で薬品が金属を腐食させる作用で点火される物で、時計式と違い音がしないためこの暗殺にはうってつけの物だった。シュタウフェンベルクは別室で薬品の入ったアンプルをつぶし点火装置をセットし、鞄をテーブル中央で報告を受けていたヒトラー右側のテーブルの下に置いた。爆弾は2つ用意されたがセットしたのは1つだった。シュタウフェンベルクは「電話をかけてくる」と会議室を出て通信室に入り短い電話をすると外に出た。会議では次に報告を行うのはシュタウフェンベルクの番になっていた。カイテルが彼の所在を尋ねた時、12時42分爆弾が炸裂した。テーブルが吹き飛び、天井が抜け梁が落ち中にいた24人のうち速記者が即死し、足を吹き飛ばされたハインツ・ブラント大佐が2日後に死亡、最終的に6名が死亡した。しかしヒトラーは右腕の打撲、足のやけど、鼓膜が破け落ちてきた梁で背中に裂傷を負い、脳震盪で一時的に動けなくなったものの命に別状はなくカイテルに連れ出された。シュタウフェンベルクが置いた鞄は、ヒトラーの隣にいたブラント大佐が樫テーブルの脚の陰に置き直したため、爆風が遮られたのであった。また建物が平屋で天井が抜け爆風が外へ抜けた事も幸いした、地下壕であったら爆弾の衝撃はより強くなっていただろう。犯人は直ちには分からなかったが、通信室の伍長がシュタウフェンベルクの電話が短かったことを不審に思い、さらにシュタウフェンベルクが大本営にいないことが分かった。シュタウフェンベルクは爆音を聞いて成功を確信し、そのまま飛行機でベルリンにクーデター実行のため向かっていた。ところがヒトラーは生きていた。さらに爆破後大本営の電話を遮断するはずだった暗殺グループの一員で通信総監エーリヒ・フェルギーベル中将は、なぜか回線の遮断を行わなかった。

暗殺グループの中心は東部戦線にいた中央軍団参謀長フォン・トレシュコウと、ベルリンの国防軍副司令官フリートリヒ・オルブリヒト中将だったが、彼らはヒトラーの死が確認されるまでクーデター計画の実行をためらい、時機をのがしてしまう。ベルリンではヒトラーが党の反乱者に暗殺されたとし、戒厳令を布告し政府高官を逮捕。反乱軍を鎮圧するとして「ワルキューレ作戦」を発動し部隊を動員する計画だったが、シュタウフェンベルクがベルリンに来てみると計画は全く進んでいなかった。シュタウフェンベルクの話を聞いたオルブリヒトはヒトラーは死んだものと思い、陸軍を動員することを国内軍フロムに進言する。フロムはヒトラーの死を疑いカイテルに電話で確かめた、カイテルはヒトラーの生存を明かす。オルブリヒトはフロムを逮捕して軍にNSDAPと政府の制圧を命令するが、大本営との通信は保たれており、ヒトラーの健在は知られてしまっていた。ベルリン警護大隊エルンスト・レーマー少佐は上官のフォン・ハーゼ少将から拠点の占拠を命じられたが、そこにいた政治委員のハンス・ハーゲは命令は怪しいと感じゲッベルスに電話した。ゲッベルスは驚きレーマーを呼んだ、ヒトラーが死んだと思ったレーマーは自分の上官がクーデター派なのか分からず判断に迷ったが、ゲッベルスは電話で直接ヒトラーと話させヒトラーの生存を教えた。ヒトラーはレーマーに反乱鎮圧を命じる。ラジオはヒトラー生存を伝えクーデター派は失敗を思い知る。警護大隊は国内軍司令部を包囲した、司令部内のヒトラー派の将校は武器を手にオルブリヒトの部屋に突入し、シュタウフェンベルクとオルブリヒト、元参謀総長フォン・ベック元帥らクーデターグループ6人を捕らえた。将校らはクーデターグループに逮捕されていたフロムに状況を説明し、処置を求めた。フロムは直ちに6人を反逆罪で即決軍法会議にかけることにした、ベックは自殺を図る。実はフロムは積極的に関わらなかったが、クーデターグループに肯定的な言質を与えたことがあり、早く彼らの口を封じないと彼自身が危なかった。フロムは警護大隊に彼らの銃殺を命じ、21日午前0時15分中庭で処刑が行われた。シュタウフェンベルクは「神聖なるドイツ万歳」と叫び倒れた。東部戦線にいたトレシュコウはクーデターの失敗を知り、戦死を装い手榴弾で自殺を遂げた。トレシュコウは今回の事件以前にも暗殺を計画し、43年3月ヒトラーの乗機に爆弾を仕掛けるなどしたが、ついにヒトラーを倒すことが出来なかった。

ヒトラーは暗殺未遂事件の昼すぎに予定通りにムソリーニと会談。「私は、数時間前かつてない幸運を経験しました」と話し、ムソリーニを爆発現場に案内し、ズタズタになった彼のズボンを見せた。ヒトラーは死を免れたのは神が使命を果たすのを求める啓示だと語った。「われわれの状況は芳しくないが、今日ここで起きた事は新たな勇気をあたえる」と気力のないムソリーニを鼓舞した。しかし、2人の盟友の会談はこの日が最後になった。ヒトラーは21日ラジオ演説で陰謀を非難し「わたしは、わたし自身にとっては恐ろしくもないが、ドイツ国民には悲惨な結果をもたらすであろう運命を免れた、わたしはそこに、今後も自分の仕事を続けなければならないという神意のしるしを見る」と国民に呼びかけた。ヒトラーはこの事件を契機に国防軍に対して猜疑心を強め、SS隊員に会見する高級将官たちの拳銃を預からせ、鞄の中を調べさせた。暗殺グループはもとより多少でも関わった者に対するヒトラーの報復は凄まじかった「恥知らずな裏切り者に対しては情け容赦のない処置が下される」(総統司令部)。多くの逮捕者は国家・総統に対する犯罪を裁く「国民裁判所」で死刑判決を受けた。裁判長を務めたローラント・フライスラーが見せしめを意図して被告を法廷で口汚なく罵り、延々と演説をする様は記録映画に残されている。元国防軍防諜部ヴィルヘルム・カナリス提督、同中央事務所長オスター・ハンス。クーデター成功時には国防軍司令官に就く予定だった陸軍元帥エルヴィン・ヴィッレーベン。元ライプチヒ市長カール・デルゲラーらが逮捕、処刑された。逮捕者は600人以上に及び、軍関係者は元帥3人を含め65人が自殺、処刑された。

報復は国民的英雄ロンメル元帥にまで死をもたらした。ロンメルはヒトラーに早期戦争終結を進言したが、軍人としての忠誠心からヒトラーを殺害してまで戦争を終わらせるつもりはなく、陰謀には加わっていない。しかし反ヒトラーグループはロンメルを当てにしていた。ロンメルの参謀長だったハンス・シュパイデル中将にはベック、グィッレーベン、クルーゲらが接触していた。逮捕された反ヒトラーのフランス軍政長官カール・シュテルプナーゲルの副官ホーファッカー中佐は、ロンメルが私を当てにしてよろしいと語ったとゲシュタポに供述した。シュテルプナーゲルも自殺を図りうわ言の中でロンメルの名を口にした。ヒトラーはロンメルを殺す決意を固めた。シュパイデルも9月7日逮捕されロンメルもいよいよ自身の運命を悟った。10月14日ヒトラーから派遣されたエルンスト・マイゼル、ヴィルヘルム・ブルクドルフ両将軍がヘルリンゲンの自宅で療養中のロンメルを訪問した。7月に受けたロンメルの負傷はかなり回復していた。2人はヒトラーからのロンメルに裁判か自決を選べという伝言を伝えた。自決を選べば家族の安全とロンメルの名誉は保証するというものだった、裁判を受けても死刑の判決しかないと知っていたロンメルは自決を選択した。2人は毒薬を持参していた。ロンメルは高射砲連隊から休暇で自宅に帰っていた16歳の息子マンフレートと副官のアルディンガーを呼び、「わたしは15分後には死んでいるだろう」とヒトラーの要求と自殺を選んだことを伝え、アフリカ軍団の外套を着ると、元帥杖を手にして2人の将軍と共に迎えの車に乗り込んだ。車がウルムの病院に来たときロンメルは既に死んでおり、医長は検視を拒否された。車の中で起きたことは分からないが、おそらくロンメルは毒薬をあおりたちまち死亡したのだろう。マイゼルはすこしの間彼と運転手はブルクドルフに車から出され、戻った時にはロンメルが死んでいたと戦後供述したが、ブルクドルフはベルリンの総統官邸でヒトラーと死んでいる。ロンメルの自宅周辺には彼らが抵抗した場合に備えてSSの部隊が配置されていた。ロンメルの死は7月の負傷による塞栓と発表され、18日ウルムで国葬が行われ、暗殺未遂事件との関連は一切公表されなかった。ロンメルの国葬でヒトラーの弔辞を代読したルントシュテット元帥が差し出した腕を、ロンメル夫人ルシーは拒んだ。

東部戦線においてもドイツ軍は崩壊しつつあった。スターリンの元には空前の大兵力が準備されていた。白ロシア方面166個師団はドイツ軍の2倍、戦車は4.3倍であった。6月22から28日にかけてソ連軍は「バグラチオン」作戦を開始、4つの前線を突破し7月3日にミンスクを奪回した。25日にはウクライナのリボフを奪回し、ウクライナと白ロシアからドイツ軍をたたき出した。18日にはポーランドに入り27日ルブリンを占領。翌日には独ソ不可侵条約の国境だったブレスト・リトフスクに達し独ソ戦開始の地点までドイツ軍を押し戻した。15日間に25個師団を失ったドイツ中央軍集団は壊滅状態となり鉄道、産業施設を破壊しながら敗走する。8月1日ソ連軍が迫ったのを知ったワルシャワの市民抵抗組織「郷土軍」は亡命ロンドン政府の指令で、自力でワルシャワを解放しようと武装蜂起する。モスクワ放送は市民に蜂起を呼びかけていた。ところがソ連軍はワルシャワ前面のヴィスツラ川で進撃を止めてしまった。「郷土軍」の市民はドイツ軍に勇敢に抵抗したが、ドイツ軍は600ミリ臼砲、装甲師団を投入してワルシャワを破壊する。スターリンは西側諸国寄りの「郷土軍」が自力でワルシャワを解放することによって発言力を得ることを拒否し、ドイツ軍に鎮圧されるのに任せたのである。すでに親ソ連の「ルブリン政権」が戦後のポーランドをソ連の衛星国化するため用意されていた。スターリンは西側連合国が「郷土軍」に物資の空中投下を求めた時も飛行場の使用さえ拒否した。「郷土軍」は追いつめられ地下水道に逃れて戦った、ワルシャワに投入されたSS第36武装擲弾兵師団は、問題のある兵士を集めた懲罰部隊で暴虐の限りをつくした。10月2日8週間の抵抗の後「郷土軍」は降伏する。この戦闘でワルシャワ市民は25万の死者を出した。ヒトラーはワルシャワの徹底的な破壊を命じる。8月23日ソ連軍が迫ったルーマニアでクーデターが起き、ドイツに宣戦。8月31日ソ連軍はブカレストに侵攻、ルーマニアのプロエスティ油田を喪失したドイツ軍は燃料の枯渇に見舞われた。8月26日ブルガリアはソ連に宣戦しておらず同盟から脱退しドイツ軍を自国から追放したが、ソ連に宣戦されると直ちに降伏し、10月にドイツに宣戦。8月29日にはスロバキアで反ドイツの蜂起が発生、2カ月に渡って抵抗を続けた。9月2日にはフィンランドがソ連と停戦し、大統領になったマンネルヘイム元帥はソ連軍による占領を免れる代わりに、国土からのドイツ軍の排除を要求され、ドイツ軍と戦闘状態に入った。10月13日イギリス軍がギリシャのアテネに入城。10月15日ハンガリーの指導者ホルティ提督がソ連との停戦を図ったが、ドイツ軍に察知されスコルツェニーらによって軟禁されソ連との停戦が阻止された。ユーゴスラビアではヨシプ・チトーの率いる共産パルチザンが自力で国土の大部分を解放していた。

西部戦線では8月19日アメリカ軍がセーヌ河を渡河、パリのレジスタンスは蜂起する。この時点でアメリカ軍にはパリ占領の予定はなかったが、この蜂起によってパリを急ぎ占領することにし、自由フランス第2機甲師団と米第4歩兵師団がパリへ向かった。24日連合軍はパリに突入、ホテル・リッツに総司令部を置いていたドイツ軍守備隊司令官フォン・コルティッツ中将は、部隊をノルマンディ戦線に転出されて兵力がなく、ヒトラーのパリ破壊命令も無視した。コルティッツは25日午後降伏する、もっとも停戦は厳格に守られず小競り合いが起きた。またフランス人同士の抵抗組織の勢力争いから戦闘が起きた、蜂起したレジスタンスは共産党が中心で、ドゴールの自由フランスはまだ権力を確立していなかった。レジスタンスや市民は対独協力者を殺害し、ドイツ人の子供を持つ女性の髪を切り、通りを引き廻しさらし物にした。9月17日モントゴメリーのイギリス軍はオランダで「マーケット・ガーデン」作戦を開始。2日間でオランダの河川の主要な5つの橋ソン、フェーヘル、フラーフェ、ナイメーヘン、アルンヘムを確保し100キロを突破、ライン河に迫る作戦だった。 米第82、101空挺師団が4つ目までの目標に降下したがソンの橋は破壊されてしまい、次の2つの橋は確保したがナイメーヘンの確保はドイツ軍の抵抗で20日までかかったが、地上軍イギリス第30軍団との連絡に成功した。17日イギリス第1空挺師団は前進する機械化部隊の100キロ前方、最も遠い5つ目の目標アルンヘムに降下して橋の北側半分を確保し地上軍の到来を待ったが、降下地点にはドイツ軍SS第9、10装甲師団が集結していた。軽装備の空挺部隊は包囲され、ドイツ軍の激しい抵抗で進撃が遅れた第30軍団の到着まで持ちこたえられず25日降伏し、9月20日作戦は中止され連合軍の急進撃は一息ついた。弱体化したとは言え、強力な重戦車を持つドイツ装甲師団は米英機械化部隊にとっても手強い相手だった。11月28日になってようやくイギリス軍はアントワープに入った。ヒトラーは9月25日「民族動員令」を発令し、16歳から60歳の男子を「国民突撃隊(Volkssturm)」に動員した。ゲッベルスは国民を「総力戦」へと鼓舞する。連合軍の将兵には戦争はクリスマスまでに終わるといった、楽観的な雰囲気さえあったが、ヒトラーはまだ戦争を捨てていなかった。西側連合軍に大打撃を加え単独講和を結び、ソ連との戦いに戦力を集中する構想であった。そのためには西側連合軍に攻勢をかけなければならない。

ヒトラーは再びアルデンヌを突破、アントワープを占領しベルギー北の連合軍を包囲するという作戦を明らかにした。モーデルやルントシュテットら将軍連はこの壮大な作戦に「この作戦にはよって立つべき脚がない」と反対したが「フリードリヒ大王はロスバッハとロイテンで2倍の敵を打ち破った、いかにしてか?大胆な攻撃によってだ。なぜ歴史から学ぼうとしないのだ」とヒトラーに押しきられる。当初31個師団が投入される予定だったが、戦況の悪化から20個師団が当初攻勢に出る事になった。このうち第2装甲師団とSS第1、2、6、12装甲師団、戦車教導師団は強力な戦車を揃えた虎の子の精鋭部隊である。作戦は3個軍団で約80キロの前線を突破、第6SS装甲軍(ディートリッヒSS上級大将)は北部を攻撃しミューズ河を渡りアントワープまで約200キロ突進し、第5装甲軍(マントイフェル中将)は中央を進みアルデンヌを駆け抜けミューズ河からアントワープまでの側面を押さえる、第7軍(ブランデンベルガー大将)は歩兵主体で南部を進み第5装甲軍の側面を援護し連合軍の反撃を防ぐ。2日目にはミューズ河を渡り、7日目にはアントワープまで達する計画である。12月16日午前5時30分2千門による砲撃が開始され「ティーゲル」「ケーニス・ティーゲル」を含む970両の戦車が進撃した。この「ラインの守り」作戦は連合軍に感づかれることなく奇襲は成功した、この前線にいたアメリカ軍機甲1個、歩兵5個師団は戦闘で消耗した部隊が再編中か、装備こそ完全ながら実戦経験が皆無の新兵だった。ドイツ軍は40年の攻勢を再現すべく突進した。悪天候のためドイツ装甲師団最大の脅威、空からの連合軍機の攻撃からはしばらく逃れられる。12月15日濃霧の中、イギリス空軍には飛行禁止令が出されていたが、アメリカ軍には適用されていなかった。グレン・ミラーを乗せてイギリスからパリへ飛び立ったアメリカ軍UC64「ノースマン」機はそのまま消息を絶った。

ヒトラーは作戦に当たりオットー・スコルツェニーらに特殊部隊の編成を命じていた、兵士は英語に堪能でアメリカ軍の軍服と装備で偽装し戦線後方に侵入し、橋など拠点を占拠し、偽の命令でアメリカ軍を混乱させる任務を帯びていた。攻撃はアメリカ軍司令部には最初「5件の軽度の侵入」と報告されアメリカ軍は本格攻勢への対応に遅れを取ったが、第7、10機甲師団を呼び寄せた。のちに2個空挺師団と第1、3軍を投入した。17日ドイツ第6装甲軍の攻撃はモンシャウ=ロスハイム間の米第99師団の前線に向けられたが意外にこの新米のアメリカ軍は善戦し、1日半もの間持ちこたえた。しかしロスハイム渓谷ではヨーヘン・パイパーSS中佐の戦闘団が突破に成功した。第5装甲軍の前進も順調でバストーニュに向かった。18日から19日にはアメリカ軍が緊急防衛線を築いたエルゼンボルン丘陵で雪の中激戦が展開されたが抜くことは出来なかった。シェネー・アイフェルでは孤立した米106師団の2個連隊8千から9千名が降伏した、太平洋戦線のバターン半島に次ぐ規模であった。ドイツ軍は敵の拠点が抵抗した場合、占領に時間を割くより孤立させ先に進む方針であった。急進撃を続けるパイパーは17日ホンズフェルトに突入していた、しかし燃料の不足が起きており、後続の補給部隊は来ていなかった。パイパーは軍法会議の危険を冒し予定のコースを外れてブリンゲンにある米軍の燃料集積所を襲い燃料を分捕ると、元のコースに戻って進撃を続けた。18日にはスタブローに達する、しかしトロワ・ポンの要衝の橋の確保に失敗する。午後には天候が回復し出撃が可能になった連合軍機の地上攻撃を受け、ストゥーモンに止まった。

スコルツェニーの特殊部隊「第150装甲旅団」は捕獲した米軍のM4「シャーマン」戦車やドイツ戦車を偽装して米戦車に似せた車両まで用意していたが、前線の突破が遅れるうちに進撃路の渋滞にはまってしまい、第1SS装甲師団に加わり通常の部隊として作戦に参加した。しかしスチラウ大尉率いる部隊は数台のジープがアメリカ軍に紛れ込む事に成功した。彼らは標識を変えたり、電話の切断などの軽度の破壊しか出来なかったが一隊が見破られて捕虜になり、任務を自白したためアメリカ軍に大きな心理的恐怖を与えた。アメリカ兵は認識票や命令書を信用せず、ワールドシリーズや漫画の主人公の質問を浴びせてからお互いを確認する騒ぎだった。この一隊はさらに連合軍最高司令官アイゼンハワー大将の殺害計画を自白(実際には計画されていなかった)したためフランスの司令部で、アイゼンハワーは強力な護衛下で軟禁状態となってしまった。サン・ヴィット防衛司令官ブルース・クラーク准将までもが特殊部隊に疑われMPに逮捕された。彼がシカゴ・カブスのリーグを間違えて答えたためである。21日バストーニュはアメリカ第101空挺師団の増援と共に第5装甲軍に包囲されてしまう、アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告を拒否する。

同日にはサン・ヴィットへの攻撃が開始され、23日にはアメリカ軍はサン・ヴィットから脱出した。23日天候が回復し、連合軍機の攻撃が激しくなったが、第5装甲軍の第2装甲師団はミューズ河まで6キロのセルに達した。戦車教導師団、第9装甲師団の増援と燃料補給を受けてミューズ河を渡るはずであったが、増援も燃料も届かなかった。そこへ北からアメリカ軍第2機甲師団(ハーマン少将)が攻撃をかけてきた。26日激戦の末、第2装甲師団は敗れドイツ軍はミューズ河を渡れなくなった。第2SS装甲師団はマネーまでしか進めなかった。南の第7軍にはアメリカ第3軍(パットン)が襲いかかってきたがドイツ軍の抵抗は激しく、持ちこたえていた。24日のクリスマスには連合軍の反撃が強化され、燃料の不足したドイツ軍は動きが取れなくなった。26日には包囲されていたバストーニュにアメリカ第3軍が合流し、両軍の戦車が激戦を展開した。ドイツ軍重戦車「ティーゲル」「ケーニス・ティーゲル」はアメリカ軍M4「シャーマン」戦車を撃破したが、燃料不足と航空攻撃、アメリカ軍の物量に圧倒された。ドイツ軍先鋒部隊は連合軍の攻勢で突出部に取り残されつつあった。マントイフェルは撤退をヒトラーに求めたがヒトラーは例によって「死守命令」を繰り返した。しかしもはや勝敗はついていた。燃料が尽き、退路の橋を失ったパイパー戦闘団は23日車両を放棄し、徒歩で前線を突破し味方の前線まで帰りついた。45年1月1日ドイツ空軍は「ボーデンプラッテ」作戦を開始、連合軍の航空基地を奇襲し約400機を撃墜破したが、悪天候と搭乗員の練度不足や連合軍の反撃でほぼ同数を失い空軍も戦力を失った。1月8日ヒトラーは撤退を許すが多くの部隊は失われていた。1月23日サン・ヴィットを連合軍が奪回、ドイツ軍は攻勢を開始した地点まで押し戻されていた。この作戦でドイツ軍は戦死、負傷、行方不明約8万。連合軍約7万7千の損害を出した。双方約800両の戦車を失ったが連合軍は簡単に補充できたのに対し、ドイツ軍には損失を補充する生産力はなかった。ドイツ軍最後の攻勢は頓挫し、西部戦線では連合軍の進撃を遅らせる効果はあったものの無理に兵力を投入したため、東部戦線が手薄になりソ連軍の進撃を早める結果となった。

45年2月12日アメリカ、イギリス、ソ連の連合国首脳はクリミア半島のヤルタで会談し、戦後の連合国の勢力圏を決めドイツの無条件降伏を要求した。体調を崩していたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはスターリンの要求に大幅に譲歩し東ヨーロッパでのソ連の優越権を認めてしまった。ゲッベルスはドイツが敗北すれば、数世代後までドイツは奴隷化計画によって分割占領され抑圧される。ドイツ民族はあくまで戦いに勝利しなければならない、とヒトラーと国民を鼓舞した。13日夜、ドイツ東部のドレスデンをイギリス軍爆撃機が爆撃。ドレスデンにはソ連軍の侵攻を避けて、大量の避難民が市内に流入していた。翌日にはアメリカ軍爆撃機が再び爆撃を加えた。この人口密集地への無差別爆撃によって大火災が発生し、ザクセン王国以来の歴史的建造物も焼失。3万から13万(住所が登録されていない避難民の犠牲者を確定できないため)の市民が死亡した。

ワルシャワ前面で停止していたソ連軍は、45年1月17日廃虚となったワルシャワを攻略。東プロイセンからダンチヒ(現グダニスク)を目指す。西部の攻勢で手薄になった東部戦線は有効な抵抗ができず、東プロイセンでは博物館から時代物の大砲を出してソ連軍を迎え撃つありさまだった。ソ連兵はこれまでの仕返しとばかりに住民たちに略奪暴行の限りをつくした。グデーリアンはソ連軍の攻撃が始まれば東部戦線は、「カードの家のように」簡単に崩壊するとしてヒトラーにバルト諸国、バルカン諸国、ノルウェーを放棄して兵力をオデール川戦線に集中させることを進言した。特にラトビアのクールラントには北方軍集団18個師団が閉じ込められ孤立していた。グデーリアンはソ連軍が225個師団と25個機甲軍団を持ち、歩兵で11対1、機甲部隊で7対1、砲と航空機が20対1の優位を持っているとの情報部長ラインハルト・ゲーレン少将の分析報告を示したが、ヒトラーは戦線の縮少に応じなかった。1月25日かねて実戦の指揮を求めていたSS長官ヒムラーは創設されたヴァイクセル軍集団の司令官に収まりソ連軍を迎え撃つ。当初精強を誇ったSS部隊もすでに消耗し、新編された部隊は戦闘経験に乏しくかき集められた軍集団の陸軍、国民突撃隊はばらばらに配置され、実戦経験のないヒムラーの担当した戦線はたちまち突破された。3月にはグデーリアンはしぶるヒトラーを説得してヒムラーを軍の指揮から外させた。2月13日ハンガリーのブダペストが陥落。3月6日ヒトラーはハンガリーでソ連軍へ反攻を命じ「春のめざめ」作戦を開始した。ドナウ河の西にいるソ連第3ウクライナ戦線正面軍を攻撃してブダペストの奪回とハンガリーの油田の確保を目指した。しかし投入された第6SS装甲軍はアルデンヌの攻勢で疲弊した部隊で、作戦はソ連軍に察知されていた。15日までにドイツ軍はバラトン湖付近から雪解けの泥の中を約30キロ前進しただけで、ソ連軍の反撃を受け逆に包囲され退却した。ヒトラーは自分の名を冠したSS連隊「アドルフ・ヒトラー」が後退したことに怒り、同連隊に袖章を外すよう命令。兵士は袖章を外して溲瓶に詰めたり、戦死者の腕ごと送り返した。3月5日ドイツは満16歳の男子の徴兵を始める。19日ヒトラーは悪名高いネロ命令「焦土作戦」を命令し、撤退の際には全ての産業施設、生活基盤を破壊し敵に渡さないよう命じた。シュペーア軍需相は「将来の国民生活の基盤までを破壊する事は出来ない」と反対したが「戦争に負ければ国民もおしまいだ、ドイツ国民が最低生活になにが必要か考える必要は無い。わが国民は弱者であることが証明され、未来は強力な東方国家(ソ連)に属することになるからだ。いずれにせよ優秀な人間はこの戦争で死んでしまったから生き残るのは劣った人間だけだろう」と命令の撤回に応じなかった。実際にはこの命令はシュペーア軍需相の努力でドイツ国内の現場ではかなりサボタージュされた。

3月5日ケルンを占領したアメリカ第1軍(コートニー・ホッジス中将)が7日ライン河にただ一つ、破壊されずに残っていたレイマーゲンのルーデンドルフ橋から侵入、ドイツ軍はジェット爆撃機、V2、スコルツェニーの特殊部隊まで投入して橋を落とそうとするが失敗する。モントゴメリーのイギリス・カナダ軍も3月22日マインツ付近でライン河を渡河した。3月28日ヒトラーと作戦を巡り激しく論争したグデーリアンは、6週間の休養を命じられ事実上解任される。ソ連軍がベルリンに迫る中、4月5日にはソ連軍の主目標はチェコのプラハだとして装甲部隊のうち4個部隊を南に移動させてしまう。4月12日アメリカ大統領ルーズベルトが死去、ゲッベルスはプロイセンのフリードリヒ大王(2世)がロシアのエリザヴェータ女帝の死で窮地を脱した故事(7年戦争、1756〜63年)になぞらえ奇跡の再現だと語ったが、専制君主のいない近代国家には奇跡は起きない。

18日ルールでアメリカ第1、9軍に包囲されたドイツB軍集団32万5千が降伏しモーデル元帥は自決。ソ連軍は4月中旬にはオデール・ナイセ線まで進出する。4月11日オーストリアのウィーンを占領、14日ジューコフ元帥のソ連軍第1白ロシア軍集団はオデール川を渡河しベルリンに迫る、南からはイワン・コーニェフ元帥の第1ウクライナ軍集団がナイセ河を渡った。20日ソ連軍の砲撃が既に爆撃で大部分が破壊されたベルリンに加えられた。25日ソ連軍はベルリンを包囲し、ソ連軍第58狙撃師団とアメリカ軍第65歩兵師団の兵士はエルベ川畔トルガウで出会い両軍兵士が交歓した。ベルリンは東西から包囲され、アメリカ軍は中部ドイツを攻撃することになり、首都攻略はソ連軍に任される。事実上の(ゲッベルスは1月30日「ベルリン防衛総監」に任命されていた)ベルリン防衛責任者ゴットハルト・ハインリーチ上級大将はベルリンを守るのにわずか2個軍しか持っていなかった、北部の第3装甲軍(マントイフェル)と第9軍(テオドル・ブッセ)でしかもほとんどの部隊は定数や装備を満たしておらず地図上に存在するだけだった。そして第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」、第33武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」、第15武装擲弾兵師団「ラトビア第1」といった外国人の部隊が含まれていた。これも師団とは名ばかりで合計1千名ほどだった。しかし、パンツァーファウスト(簡便な携帯型対戦車ロケット兵器)を手にしたヒトラーユーゲントの少年や外国人の部隊はむしろ勇敢に戦った。彼らはドイツが負ければ祖国から裏切り者として処刑されるのが分かっていたのである。ヒトラーのアーリア人至上主義から見ると、ベルリンで最後まで戦ったドイツ軍が外国人部隊だったのは最大の皮肉である。ヒトラーはまだドイツ軍が保持する南部に包囲前に逃れることも出来たが、ソ連軍に包囲された第3帝国の首都ベルリンを去ろうとしなかった。ヒトラーらは連合軍がソ連と米英の勢力争いから分裂することに望みを託していた。「明日敵が仲たがいするかもしれないというときに、今日わたしが戦争をやめるとしたら、ドイツ国民と歴史は必ずやわたしに犯罪者の烙印をおすだろう」この観測は合っていたが、連合国が分裂して冷戦が始まるのはドイツの敗戦後であった。ベルリンではSSが脱走兵と疑わしい市民を、即決で処刑し街灯に吊るした。

4月20日56歳の誕生日を迎えたヒトラーは総統官邸地下壕の外に出て、ベルリン防衛に従事するヒトラーユーゲントの少年兵を激励し勲章を授ける。この際のムービーフィルムでは健康を害した彼の左手はひどく震えている。総統官邸はベルリン改造計画の一環として、建築総監シュペーアが38年に設計して竣工したものでコンクリートの耐弾構造になっており、地下15mの防空壕は爆撃にも耐えられるようになっていた。この後彼は地下壕から出る事はなかった。ヒトラーは禁煙、禁酒家で菜食だったが主治医テオドール・モレルの調合した多くの薬を服用した。それらは即効性がある代わりに有害な成分を含み、健康をさらに蝕んだ。またパーキンソン病を患っていた、ウィーン時代に感染した梅毒が悪化したとする説もある。夜には誕生日を祝うパーティーが開かれた、ゲーリング、リーベントロップ、カイテル、党官房長マルチン・ボルマンが祝辞を述べ、14日に自らの意志で安全な地域から官邸に来ていたエバ・ブラウンも列席した。この後ゲーリング、リーベントロップらがベルリンを離れた。ボルマンはヒトラーにベルヒテスガーデンの大本営に移るよう進言したが「自分はベルリンに残る、移りたいものは勝手にゆくがよい、咎めはしない」と断った。「自分が首都から逃げ出していたら、他人を責める資格はない。わたしはいまや運命の命ずるところに従わねばならない。助かる見込みがあるとしても、わたしはそうするつもりはない。船長もまたこの船と運命を共にする」。21日ヒトラーはソ連軍に対する反撃を命令、空軍の地上勤務兵、事務職まで1人残らず投入させようとするが、既に兵力はなかった。ヒトラーはベルリンの北に配置したフェリックス・シュタイナーSS大将指揮のSS部隊に対し反撃を命令し「この命令に無条件に従うことを拒否した将校は、即座に銃殺刑に処す、シュタイナー将軍はこの命令の遂行に責任を負わなければならない」と直接命令したが、兵力はヒトラーの地図上に存在していただけで、この部隊自体が包囲されており、シュタイナーは積極的な攻撃をしなかった。 英米軍と対峙し南西からベルリン救援を命じられた第12軍(ヴァルター・ヴェンク)もポツダムまで進出し、兵士や市民の西への脱出路を援護するのがやっとであった。

22日バイエルンのベルヒテスガーデンにいたゲーリングは、ヒトラーが正気を失い空軍参謀長コラーに「交渉になったら、ゲーリングの方が自分よりうまくやる」と発言したことを聞き、ヒトラーに全ドイツの権限委譲を電報で求めた(ゲーリングは41年にヒトラーの後継者に定められていた)。この電報を受けたヒトラーは当初冷静だったが、ゲーリングの政治的ライバルであるボルマンはこれは反逆であるとして批判した。25日ベルリン放送はゲーリングの一切の職務からの解任を発表、ゲーリングはSSに逮捕されてしまう。ヒトラーはゲーリングの行動を裏切りと判断したのである(逮捕命令はボルマンの独断とする説も)。空軍大臣にはフォン・グライムを元帥に昇進させ指名した、グライムは26日女性飛行家ハンナ・ライチと共に連絡機でガトウ飛行場から戦闘の最中にベルリンにやってきたが、ベルリン上空で対空砲火で足に負傷、とっさにハンナが操縦を代わり機をブランデンブルグ門近くに着陸させた。ヒトラーはライチの勇気を称賛し「君はなんと勇敢な女性だろう。この世には、まだ忠誠心や勇気が残っているのか」と話した。しかし、腹心であるSS長官ヒムラーもヒトラーを見限った。ヒムラーはスウェーデン赤十字のフォルケ・ベルナドッテ伯爵を通じて西側連合国と和平を画策したが、チャーチルとアメリカ大統領ハリー・トルーマンは西側だけの停戦を拒否、ソ連を含む全連合国への無条件降伏を求めたため交渉は決裂した。連合軍の放送でヒムラーの背信を知ったヒトラーは、ベルリンから逃れようとしていたヒムラーの連絡将校ヘルマン・フェーゲラインSS中将を反逆の共犯として軍法会議にかけ官邸の庭で射殺した。フェーゲラインの妻はエバ・ブラウンの妹だった。ヒトラーは28日夜グライムとハンナに「今度はヒムラーが裏切った、貴官らはベルリンから脱出してヒムラーを逮捕せよ」と命じ、自分の脱出用に用意されていた最後の連絡機を2人に提供した。ハンナの操縦する連絡機「アラド96」は砲撃で穴だらけになった東西枢軸通りを巧みに縫って離陸、対空砲火をかわして炎上するベルリンを脱出した。ヒトラーは遺書を秘書のトラウトル・ユンゲにタイプさせ戦争の継続を命じ、ゲーリング、ヒムラーを党から追放。SS長官にカール・ハンケ、第3帝国の首相にゲッベルス、大統領兼国防軍最高司令官にフレンスブルクの海軍潜水艦隊司令部にいるカール・デーニッツ提督を充て、NSDAP党首と個人遺言の執行人にボルマンを指名した。

4月28日ソ連軍は総統官邸まで1キロ以内に迫る。29日イタリアのドイツ軍が降伏。スイスに逃れようとしたムソリーニはパルチザンに捕らえられて射殺され遺体はミラノで吊された。同28日深夜から29日早朝、ヒトラーは長年愛人関係にあった33歳のエバ・ブラウンとの結婚式を市職員ヴァルター・ワーグナーの立ち会いで行った(結婚証明書の日付は29日)。エバは長い間存在を知られないように孤独に耐えていた女性だった。ヒトラーは「私は既にドイツと結婚している」と語り、結婚は職務の邪魔になると考えていたが、今や彼の率いるべき第3帝国は滅びようとしていた。ヒトラーはエバの長年の献身に報いるため最後に正式に結婚したのである。ささやかな披露宴が開かれ側近たちが祝福を述べた。翌正午ごろ起床したエバは「お嬢様」と呼びかけた当番兵に微笑を浮かべて「もうヒトラー夫人と呼んでいいのよ」と答えた。4月30日ヒトラーは部屋に掛けていたフリードリヒ大王の肖像画を総統専用機の操縦士ハンス・バウルに贈り、側近や秘書と静かに握手を交わして別れを告げた。午後3時50分(時刻は諸説あり)エバと2人で部屋に入ったヒトラーは拳銃(ワルサーPPK)で頭を撃ち抜き自決、エバは青酸カリのカプセルを服用した。この前ヒトラーは愛犬のブロンディを毒殺させ、自身とエバの死体を見分けがつかぬように焼却するよう命じた。ヒトラーの秘書ハインツ・リンゲとルートヴィヒ・シュトムフェッガー医師はSS隊員と共にヒトラーの死体を地下壕から運び出した、エバの遺体はオットー・ギュンシェ少佐が運んだ。2つの遺体は外の砲撃で出来た穴に入れられゲッベルス、ボルマンの見守るなか、ガソリンをかけて焼かれた。ボルマンが遺体の始末を引き受け、リンゲはヒトラーの遺品を焼却するため場を離れた。あとでリンゲは遺体はSS隊員がどこかへ運んで埋葬してしまったと聞かされた。首相に就任したゲッベルスはソ連軍と停戦の交渉をするためロシア語の話せるハンス・クレープス中将とヴァイトリングの参謀長フォン・ドフヴィングをソ連軍陣地に向かわせた、ソ連軍は部分的停戦を拒否し無条件降伏を求めた。ゲッベルスは怒りヒトラーの後を追うことにした。5月1日ゲッベルスは6人の子供を薬物注射で殺すと、SS隊員に自身と妻マクダを射殺するよう命じた。「総統をとりまく裏切りの中で、死にいたるまで総統に忠実であった人間が一人くらいいても良いのではないだろうか、もし私がそうしなかったら軽蔑すべき裏切り者として以後の人生を生きねばならないのだ」翌日朝、ソ連軍第8親衛軍の兵士が総統官邸に突入、中庭に黒焦げの死体がくすぶっているのを発見した。ゲッベルスの遺体も焼却されていたが、不完全だったのでソ連軍によって確認された。しかしヒトラーの遺体は確認が出来なかったか、あるいは意図的にスターリンが隠したため、脱出説を含めた謎を生んでいる。今日、ヒトラーの頭蓋骨とされるものがモスクワの公文書館に保管されている。

官邸に残っていたものはブルクドルフ、クレープス両将軍が自決。ヒトラーの遺書を携えたボルマンとヒトラーユーゲント総裁アルトゥール・アックスマンらがベルリン脱出を図る。ボルマンはヴァイデンダマー橋付近で戦車の爆発で死んだ(73年西独検察が公式にはレールター駅付近)とされるがそのまま行方をくらました。シュトムフェッガー医師が銃撃で死亡、ギュンシェ、リンゲ、バウルはソ連軍の捕虜になった。アックスマンは脱出に成功しのちにバイエルンで連合軍に逮捕される。5月1日のメーデーまでに帝国議会(国会議事堂)に赤旗を立てようとするソ連軍と、立てこもるSS隊員との間では激戦が行われた。5月1日ドイツの放送局はワーグナー作曲「神々の黄昏」送葬行進曲に続いて「総統は最後の瞬間までボルェシェビズムに対する戦いを続けながら本日午後(意図的な日にちの誤り)総統官邸の司令部においてドイツのために倒れました、後継はデーニッツ海軍元帥…」とヒトラーの死を発表。5月2日ベルリン防衛軍司令官カール・グァイトリング大将(第56戦車軍団司令官、この6日前にハインリーチの後任となった)はソ連軍ワシリー・チュイコフ元帥にベルリンの降伏を伝え、戦闘停止を命令した。生き残った兵士は西側占領地区で降伏しようと西へ向かった、ソ連軍の捕虜になることはより過酷な報復を受けることを意味した。5月4日午前フランスのアイゼンハワー司令部のあった学校で、ドイツ軍ヨードル元帥は無条件降伏。ソ連の要求で8日にベルリンでも調印式が行われカイテル元帥は無条件降伏文書に署名した。チャーチルとアメリカ大統領トルーマンは5月8日をヨーロッパ戦争勝利の日(VEデー)とした。ヒトラーの千年帝国、第3帝国は12年3カ月で終わった。

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