アドルフ・ヒトラー Adolf,Hitler(1889〜1945)

(その1)

1889年4月20日、オーストリア北部のブラウナウで生まれる。母の異なる兄アロイス2世と姉アンゲラがいた。父アロイスは1837年6月にシュトローネスでアンナ・シックルグルーバーの私生児として生まれ、父親は確定されていない。このため後にヒトラーにはユダヤ人の血が流れているとの説を生むことになる。父アロイスは学歴が無かったが勉学に励み出世を重ね、75年からオーストリア・ハンガリー帝国の税関吏を務めており、家計は豊かだった。76年アロイスは育ての親ネポムク・ヒードラーに一族の子として認知されたのを機に、シックルグルーバー姓をヒトラー姓に変える。アドルフの母クララは60年8月生まれ、85年にアロイスの3人目の妻となる。クララはアドルフを含めて6人の子を産んでいるがアドルフ、パウラの2人だけが成年に達した。92年父親の昇進により、一家はドイツのパッサウに移る。94年弟のエドムントが生まれる。95年オーストリア、リンツ近郊のハーフェルトヘ移り、アドルフはリンツのフィシュルハム小学校に入学、成績は優秀だった。96年妹パウラが生まれる。97年ラムバッハに移る。98年レオンディングに移る。1900年役人の職に就けたかった父親の反対を押しきりリンツ上級実科学校に入学も留年。弟のエドムント死去。03年1月役人を引退していた父アロイスが肺出血で死去。04年シュタイル上級実科学校へ転校するも国語と数学の成績不良と、呼吸器系疾患のため05年退学。リンツへ移る。06年芸術家を目指し、音楽家志望の友人アウグスト・クビツェクとオーストリアのウィーンヘ上京。リヒャルト・ワーグナーに傾倒し食費を削ってオペラを観劇、大量の読書をこなした。07年10月画家を志しウィーン造形美術大学を受験するも不合格。12月母クララがガンのため死去、診察したユダヤ人医師は「多くの臨終を見たが、彼(ヒトラー)ほど悲しんだ者を見たことがない」と後に語った。08年9月ウィーン造形美術大学を再び不合格になる、このころ絵を描きながらウィーンを放浪。風景画や絵葉書などをユダヤ人の画商に売り生計を立てていた、写実的な彼の絵画は建物の描写には優れた技能を発揮したが、人物などは苦手であった。13年5月ドイツ帝国のミュンヘンに移り、オーストリア・ハンガリー帝国の徴兵を忌避(後に身体検査で不適格)。ここでも絵やポスターを書きながら芸術家、建築家を目指していた。

14年6月オーストリアの皇位継承者夫妻がセルビアのサラエボで暗殺され、7月オーストリアはセルビアに宣戦。8月にはオーストリアと同盟するドイツ帝国はロシア、フランスに宣戦し、第1次大戦が始まる。かつて雑多な民族構成を嫌い、オーストリアの徴兵を忌避したヒトラーだがバイエルン国王に手紙を書き、オーストリア国籍のままドイツ帝国陸軍に志願、第1バイエルン歩兵連隊に配属される。10月ヒトラーの連隊はベルギーのイープルでイギリス、ベルギー軍相手に前線に投入される、このときは第16予備歩兵連隊に配属されていた。ヒトラーは伝令兵として勇敢に戦闘に参加、伝令兵は砲撃で電話線が切断されると、塹壕を回って命令を伝える危険度の高い任務である。12月第2級鉄十字章を受賞する。16年10月フランス北部ソンムにおいて砲撃の爆風で吹き飛ばされ負傷、後送されベルリンの病院で静養する。17年3月前線に復帰。18年5月連隊賞状を受ける。6月マルヌの戦いで、伝令の途中フランス兵4人を捕虜にする。8月第1級鉄十字章を受賞、この勲章は通常、将校にしか与えられないものでヒトラーの階級(伍長勤務上等兵)での受賞は異例の栄誉である。しかしヒトラーの抜群の働きにもかかわらず伍長以上の昇進は出来なかった。これには戦友と打ち解けず将校としての資質がなかった、伝令兵として司令部で重宝されたため、オーストリア人であったためドイツ軍では将校になりにくかった、などの説がある。10月イギリス軍の毒ガス攻撃により一時的に失明し、パーゼヴァルクの陸軍病院入院。キール軍港での水兵の反乱をきっかけに11月ベルリンで共産主義革命。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位、オランダに亡命し、休戦。ヒトラーは病院のベッドで敗戦を迎えた。事実上ドイツとオーストリア・ハンガリーの同盟国側敗北で大戦終結。オーストリア・ハンガリー帝国も皇帝カール1世が退位、亡命。600年を超えるハプスブルク帝政が終わった。19年6月ドイツに対し過酷な賠償と領土の割譲、軍備の制限を課したヴェルサイユ条約調印。退院したヒトラーはバイエルン第2歩兵連隊に配属、後にミュンヘンの第7師団に移る。ミュンヘン大学で政治理論などの速成教育を受け、復員兵へ共産主義が浸透するのを防ぐ政治教育を担当する。19年の秋ごろヒトラーは上官から当時多くあった小政党の調査を命じられる。ヒトラーはこの小政党のひとつ「ドイツ労働者党」(19年1月創設)の集会に参加して政治傾向を探ることにした。

集会はミュンヘンの小さなビアホールで行われた。講演の後自由討論に参加したヒトラーは、弁舌の才能を発揮し「ドイツ労働者党」の創設者、アントン・ドレクスラーの歓心を買い入党の誘いを受ける。最初ヒトラーはこの党があまりに小さかったため、強い印象を受けなかった。ヒトラーの上官カール・マイヤ大尉は活動資金を渡しヒトラーの入党を許した。ヒトラーは調査のため入党したこの小政党で自身の才覚を生かせれば、政治目的の達成のために指導者となれるのではないかと考え、党の発展に力を注ぐことになる。党員番号は7番であった(自称7番、555番の実質55番目とする説が有力)。敗北したドイツは帝政が崩壊し、混乱を極めていた。ドイツ帝国軍は「共和国軍(ライヒスヴェーア・Reichswehr)」と改称されヴェルサイユ条約で兵力は10万に制限され、参謀本部、空軍と1万トン以上の艦艇、潜水艦が禁止された。政権を担った社会民主党フリードリヒ・エーベルトは右翼勢力と共闘、社会民主党から分派した共産党「スパルタクス団」を19年1月義勇兵団の兵力で鎮圧。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害される。共和国最初の選挙では、社会民主党は4割の議席を獲得し、共和国は首都の混乱を避けてワイマールに議会を開く。しかし首都ベルリンをはじめドイツ各地で共産勢力との武力衝突が続く。20年3月12日には政府から解散を命じられた、エーアハルト海軍大尉の指揮する右翼義勇軍エーアハルト海兵旅団がベルリンへ進撃。政府はドレスデンに逃れ、ベルリンでは東プロイセン州総督グォルフガング・カップが新政府を宣言した。共和国政府と労働者団体はゼネストで抵抗し、3月17日カップと海兵旅団はベルリンから引き揚げた。

第1次大戦ではドイツ本土は戦場にならず、国民は肉親を失い物資や食料の不足に苦しんだが、戦闘での敗戦意識が希薄であった。そのためドイツ軍はなお戦闘力を持っていたが、共産主義者とユダヤ人が背後から国を裏切ったため敗北したとする説が流布した。フォン・ヒンデンブルグ元帥(参謀総長・タンネンベルグ戦でルーデンドルフ将軍と共にロシア軍に大勝、後の大統領)は「ドイツは戦場で敗れたのではなく、背後からナイフで刺されたのだ」と語った。実際には、政府に休戦を求めたのは西部戦線の攻勢が行き詰まったヒンデンブルグ自身であり、ユダヤ系のドイツ軍人は勇敢に戦い、化学者は毒ガス兵器の開発に貢献した。ドイツ政府はアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの14カ条の休戦提議により休戦交渉を行ったが、ヨーロッパの連合国は、ドイツに対しより懲罰的なヴェルサイユ条約の受託を要求した。特に国内が戦場となり150万の死者を出したフランスは、ウィルソンの無賠償主義に対し事実上支払い不能な多額の賠償金の取り立て、ドイツに対し一方的な軍備の制限を要求。さらに、戦争責任をドイツの侵略行為にすべて負わせ、皇帝ら戦争犯罪者を連合国の法廷に引き渡すことを要求、承認させた(前皇帝は亡命しており、引き渡しは実際には行われなかった)。戦争を犯罪と規定する国際法は例がなかったが、ドイツは連合国との交渉の余地は与えられず、国民は屈辱感から共和国の政治家「11月の犯罪者」への攻撃と、反ユダヤ主義になびいた。ヴェルサイユ条約に署名したマティアス・エルツベルガーをはじめ独立社会民主党党首ハーゼ、元外相ヴァルター・ラーテナウらが条約への協力派と見られ相次いで暗殺された。

ヒトラーが入党した「ドイツ労働者党」の集会は「実際には7人の委員から成り、それで全党を代表していたわれわれの小さな委員会は、小人数のカード・クラブの首脳部以上のものではなかった」(ヒトラー)。入党したヒトラーは次第に大きな会場(もっぱらビアホール)で党の集会を開き、規模を拡大し参加者を増やしていく。彼は党勢拡大に消極的であったドレクスラーを説得し、活発な宣伝活動を続け、党員を獲得していく、集会を妨害する左翼勢力との乱闘は毎度の事だったが、軍隊経験者の多い党側もこれに対抗するため後に突撃隊(SA、Sturmabteilung)と呼ばれる私兵組織を作る。こうした中ヒトラーは熱弁をふるい続け、党活動に自信を得た彼は軍を退役する。20年4月「ドイツ労働者党」は党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP・ナチスまたはナソス。ナチスという呼称は当時、敵対勢力が侮蔑的に使った)に改める、また改名に先立つ2月綱領を明確にし「反ユダヤ」「ヴェルサイユ体制打破」「国家社会主義」など25項目を制定する。また党のイメージを力強く印象付けるため、赤い地の中心にハーケンクロイツを配した旗をシンボルとし「ドイツよ目覚めよ」のスローガンと褐色の制服(旧帝国軍のアフリカ派遣軍の軍服がたまたま多く手に入ったため)で整然とした行進を行った。ヒトラーの演説は単純だが分かりやすい反ユダヤやヴェルサイユ条約の破棄、中央政府ワイマール共和国の批判、労働者の生活向上といったテーマが繰り返されたが、政治の混乱や失業、賠償金の支払による高率のインフレに苦しむ聴衆を魅了した「大衆の受容能力には限界があり、彼らの理解力は小さい。そのかわり彼らの忘却力は大きい」。12月反ユダヤ系新聞「フェルキッシャー・ベオバハター」を買収し党新聞とし、ディードリヒ・エッカートが編集長を務め、後にアルフレート・ローゼンベルクに引き継がれる。21年7月党の左派委員がヒトラーの不在中に、社会主義者との連携を図った事からヒトラーは脱党、自分を党第1委員長にし独裁的権限を与えなければ復党しないと宣言した。エッカートがドレクスラーを説得し、29日ヒトラーは党首に就任。やがてミュンヘンにおいてNSDAPは知名度をあげてゆく。このころ幹部となるエルンスト・レーム、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、ルドルフ・ヘス、ヨセフ・ゲッベルスが党に参加してくる。22年になると党員は3万を擁するようになった。

23年1月11日フランスとベルギーはイギリスの反対を押しきり、ヴェルサイユ条約の賠償金延滞(2年以内に200億、21年までに1,320億マルク)を口実に、ドイツのルール工業地帯に派兵して占領。工場を接収し炭坑から石炭を持ち去り、公金、企業の労賃を差し押さえた。戦時中にも国土への敵軍の侵入を許さなかったドイツ人の憤激は高まり、ヴィルヘルム・クーノ首相は武力によらない「消極的抵抗」を指示。公務員に占領軍への服従を禁じ、ルール地方のドイツ人はゼネストで対抗した。 しかし、労働者のデモ隊とフランス軍の衝突では死傷者が出た。NSDAP党員アルベルト・シュラーゲターは鉄道の破壊工作を行い実力で占領に抵抗したが、逮捕されフランス軍事法廷で銃殺されると抵抗の英雄と称賛された。 生産の中心地帯のストはドイツ国内経済にも打撃を与え、ストで蒙った経済的損失をドイツ政府は各人に補償したため、ヴェルサイユ条約賠償金の支払と併せてインフレは高進し、マルク紙幣の価値は暴落した。8月のマルクの対ドル・レートは1ドル=110万マルクだったが、11月には1300億マルクとなる。1日換算ではマルクの価値はその日の内に1000分の1になることになる。

ミュンヘンのあるバイエルン州は、ホーヘンツォレルン王朝のプロイセンを主体としたドイツ帝国に編入される前は、プロイセンに次ぐ王侯国で、普墺戦争(1866年プロイセン対オーストリア)ではオーストリア側に付き敗北。普仏戦争(1870〜71年プロイセン対フランス)の際、国王ルートヴィヒ2世(政治より芸術を好みワーグナーのパトロン、築城に熱中し廃位され謎の水死を遂げた事で知られる)はどっちつかずなあいまいな政策を取り、結局はプロイセンとの同盟により参戦した。フランスを破ったプロイセン宰相ビスマルクは、ドイツ統一に慎重なルートヴィヒ2世に圧力をかけ、財政援助を与え、自治権を認める代わりにプロイセン皇帝ヴィルヘルム1世をドイツ帝国皇帝に推戴させる親書をしたためさせた。1871年1月ドイツ皇帝即位式が占領下のフランス・ヴェルサイユ宮殿で行われドイツ帝国が成立した。バイエルンはドイツ帝国に編入されてからも、ヴィッテルスバッハ王朝の国王を擁き高度の自治権を持っていた。第1次大戦の末期に指導者は、ドイツ帝国の敗色が濃くなると連合国との単独講和を図ったほどで、1918年11月ベルリンより先に革命が発生し、国王ルートヴィヒ3世は退位。独立社会民主党(左翼系)のクルト・アイスナーが共和国を宣言した。バイエルン州、プロイセン州などはワイマール体制下でも独自の行政、司法権を持ちさらに軍隊も保持していた。このような歴史的背景からバイエルン州には反中央政府の気運が満ちていた。

アイスナーは19年2月右派貴族に暗殺され、アドルフ・ホフマンを首相にレーテ(労働者兵士農民評議会・ロシア語のソビエト)と社会民主党の左翼連立政権が出来たが、4月6日右派のバイエルン議会とレーテの対立からホフマン内閣が崩れ、ホフマンは北部のバムベルクで名目上の政府を維持した。7日独立社会民主党とレーテの政権が出来(「バイエルン・レーテ共和国」)、マルクス主義共産党は反対勢力になる。13日右派トゥーレ協会がレーテにクーデターをしかけ、これを武装を整えていたマルクス主義共産党が鎮圧し「レーテ共和国」を宣言。武装組織、労働者赤衛軍を組織した。ホフマンはこれを鎮圧しようとするがバムベルク政府軍は赤衛軍との戦闘に気が乗らず。赤衛軍は南バイエルンに進出した。ホフマンは中央政府の援軍を要請する。ベルリンの国防大臣ノスケはフォン・エップ大佐に志願兵部隊を編制させ、バイエルンの境界の北チューリンゲンでトゥーレ協会の助力で訓練をしていた。この部隊にはレームも参加している。中央政府軍、エップ志願兵部隊、バイエイルン西の州ヴュルテムベルクの部隊は5月1日ミュンヘンを包囲、市街戦のすえ4日占領した。この際市民に多数の犠牲者が出た。5月1日モスクワのメーデーでソ連のレーニンは「ソビエト・バイエルン」の万歳を叫んだが、マルクス主義共産党政権は短命で壊滅した。バイエルン州には反動から、より右翼的な気運が広がった。

23年11月8日ヒトラーはベルリン政府との対立から混乱していた、右翼的なミュンヘンのバイエルン政府の主導権奪取を決意。午後8時30分、拳銃を手に突撃隊(SA)を率いて政治演説会のためミュンヘン最大のビアホール、ビュルガーブロイケラーに集まっていたバイエルン州政府幹部を監禁する。ヒトラーは州総督フォン・カール以下を威嚇し、ヒトラーをドイツの首班としバイエルン摂政にカール、ドイツ警察大臣にフォン・ザイサー(バイエルン警察大臣)、ドイツ国防大臣にフォン・ロッソウ(バイエルン国防軍司令官、ベルリン政府からは罷免されたが地位に留まっていた)、ドイツ国防軍を第1次大戦の英雄ルーデンドルフ将軍が指揮するという「国民政府」計画に賛同させ、クーデターはいったん成功する。ヒトラーは武器を威嚇に用いたものの今日、クーデターという語感から連想されるような政府転覆を図ったのではなく、バイエルン政府実力者を取り込んで、カールやロッソウが計画していたものの実行に躊躇していた「ベルリン進撃」を実行させようとする。このためクーデターは3人の協力を必要とした。カールらはバイエルンの独立派だったが、ヒトラーは独立には反対していた。ベルリンでは中央党グスタフ・シュトレーゼマン首相がマルク安定を優先し、ルール地方の占領に対しての抵抗を中止しておりカールや右翼から批判されていた。ところが、カールらはヒトラーが場を離れるとルーデンドルフのすきをついて逃げ出し、ベルリン政府はフォン・ゼークト将軍にクーデター鎮圧を指示。バイエルン国防軍将校団もヒトラーからカールらの分離を促した。カール、ロッソウ、ザイサーは9日午前2時55分ヒトラーのクーデター否認を電報で公表した。

これに対しルーデンドルフ将軍やヒトラーらは、市民の支持を得、政府に圧力を掛けようとデモンストレーション行動を計画。午前11時30分、ヒトラーたちNSDAPメンバーとルーデンドルフ将軍ら3000人がデモ隊列を組む。ビュルガーブロイケラーを出発しいくつかの警察の警戒線を突破し、オデオン広場に向けて行進した。デモ隊の前列にはヒトラーらNSDAP幹部と「バイエルン国防軍が私に銃口を向けることなどありえない」と語ったルーデンドルフが立った。しかし、将軍廟付近で警戒線を張っていた警官隊と揉み合う内に12時30分ごろ、突然銃撃されデモ隊16名(警察側3名)が死亡。隊列は四散し、デモ隊は警察に武装解除された。ヒトラー自身は隣で腕を組んで行進していた者が銃撃され倒れ込んだ際、路上に引き倒され左肩を脱臼しその場は脱出したものの、11日に逮捕される。顔を知られていたルーデンドルフは銃撃は免れたがそのまま前進して逮捕され、ゲーリングは足を撃たれオーストリアまで逃げのびる。バイエルン軍司令部を占拠していたレームは午後になって降伏した。疎漏な計画で行われたクーデターは失敗し、党は解散を命令される。この事件はミュンヘン一揆(プッチ)またはビアホールクーデターなどと呼ばれる。

ヒトラーらの裁判は24年2月からミュンヘン陸軍士官学校で行われ、ヒトラーは自らの行為を認め、クーデターは国家を救うため愛国心から行ったものであると主張し、ベルリン中央政府を国民への裏切り者と激しく批判する。カールらは自身とルーデンドルフに累がおよばないようにヒトラーだけが事を起こしたかのように主張し、結果ヒトラーを実力以上の大物と世論に認識させ、逆にカールらの大衆への人気は凋落した。ルーデンドルフは無罪となる。ヒトラーの弁論は判事や裁判官の共感を呼び、禁固5年という軽い判決が下された(武力革命の最高刑は終身刑)。ヒトラーはランツベルク要塞(刑務所として使われた)に収監されたが、内部ではかなりの自由が認められていた。やがてヒトラーは秘書役のルドルフ・ヘスに後に「わが闘争(MeinKampf)」として出版される本の口述を開始する。「わが闘争」は彼の目指す国家社会主義を集大成したもので、ユダヤ問題、共産主義、人種論を展開した。例えば人種論では人種を3つに分類し、文明を創造する「文化創造的」人種アーリア人(純粋なドイツ人)、「文化維持的」アーリア人との交流や刺激を受けて文明を維持する(日本人はこれに分類された)、「文化破壊的」とくにユダヤ人。と主張した、よって優秀な民族が劣性な民族を屈服させることによって文明は発展する、とりわけユダヤ人の根絶はアーリア人にとって民族的義務であるとした。そしてドイツ民族の生存圏を東方へ拡大しなければならない。これらの思想はヒトラーのウィーン時代の読書や大戦の経験から成立していったもので、終生つらぬき通される。反ユダヤ思想自体はヨーロッパなどキリスト教国に古くからあったものである。特に世紀末のウィーンでは蔓延しており、反ユダヤ主義政治家のウィーン市長カール・ルエガー、汎ドイツ党首フォン・シェーネラーらが活動していた。ヒトラーが反ユダヤ思想に傾倒したのもウィーン滞在以降である。当初の題が「虚偽、愚昧、怯懦との4年半の戦い」だったこの本は第1部が25年7月、第2部が26年12月に発行された。党の宣伝もあって「わが闘争」は政権獲得までに30万部も売られたが、その内容を荒唐無稽としてまじめに受け取れず読み通せない者も多かった。ヒトラー自身「政権を担うことが分かっていれば、あの本は出版しなかった」と語ったともいわれる。24年12月バイエルン最高裁はヒトラーに恩赦を与え僅か9カ月で釈放される。

ヒトラーは党の再建に取り掛かり、地下活動をしていたメンバーと合流し25年2月再建集会を開く。武力革命に失敗した彼は以後選挙運動による合法活動をもって政権を目指すことにした。ヒトラーの演説は精力的に行われたが、これを恐れた政府はヒトラーの公開演説を2年間禁止する。しかたなく彼は党の組織固めに力を注ぐ。この時期党組織は攻撃部、建設部の2系列に編成されたいくつかの局、党本部を中心に全国に広がる大管区、小管区、細胞からヒトラーユーゲント、婦人団といった下部にまで効率的でヒトラーの統制が行き届くように編成され、政権獲得に大きな役割を果たす。28年4月ゲッベルスを党宣伝部長に任命。5月総選挙でNSDAPは12の国会議席を獲得、同年末の党員数は10万を超えた。12月ヒトラーは自分のボディガード部隊の編成をユリウス・シュレックに命じ、後に親衛隊(SS、Schutz Staffel)としてレームの率いる突撃隊(SA)とは別の軍事組織として発展してゆく。30年9月の総選挙では107議席を獲得、第2党となる。32年7月の選挙では230議席を獲得第1党となった。このころ世界はニューヨーク株式の暴落で始まった世界不況の混乱の中にあり、その影響を敗戦国ドイツはより痛烈に受ける、32年の失業者は610万を数えた。ワイマール共和国の政権を担当した社会民主党や中央党は有効な対策を取れず、30年から32年にかけてミュラー、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーと内閣が交代し、議会政治が麻痺。ヒンデンブルグ大統領の非常権限に頼って首相指名を受け、統治を行う有り様だった。有権者はワイマール体制を批判するNSDAPを支持したのである。

31年9月18日、ミュンヘンのアパートでヒトラーの政治生命を脅かす事件が起きる。ヒトラーが姉アンゲラから預けられ、面倒を見ていた姪のアンゲラ・ラウバル(姉と同名・通称ゲリ)がヒトラーの銃で自殺したのである。しかもヒトラーがゲリを殺したと疑われる状況になっていた。ヒトラーはこの19歳下の姪に恋愛感情を抱いていたともいわれ、大きな精神的打撃を受ける、またこのスキャンダルを政敵が利用すれば大きな脅威となる。結局ヒトラーは自殺時に現場にいなかったことが判明し殺害の嫌疑は晴れたが、しばらくヒトラーは悲しみにくれることになる。ゲリの自殺の動機は不明だが。ヒトラーの子を妊娠していた、別の青年から求婚され悩んでいた、すでにヒトラーと交際していたエバ・ブラウンがヒトラーに宛てた手紙を上着から発見し、嫉妬のあまり拳銃で胸を撃ったなどの説があるが、遺書もない自殺者の動機は永久にわからないだろう。エバは17歳の時、専属写真家のハインリッヒ・ホフマンが、自分の店で働いていたのを紹介した金髪のふっくらした明るい娘だった。しかし、エバの方からヒトラーを訪問することは厳禁されていた。エバも孤独に耐えかね、少なくとも2回自殺を図ったが未遂ですんだ。

32年2月ドイツ国籍を取得したヒトラーは大統領選挙に出馬、現職の第1次大戦の英雄ヒンデンブルグと争う。共産党テールマン、国家人民党デュスターベルクが出馬。準備段階ではツェツペリン伯爵の後継者として知名度の高かったフーゴ・エッケナーをヒトラーの対抗馬として与党候補に推す動きがあったが政治経験の無さと、高齢のヒンデンブルグが再出馬を決意したこともあり、事実上ヒトラー対ヒンデンブルグの対決となる。選挙戦では健康不安のあるヒンデンブルグは1回も選挙演説をせず、ヒトラーは航空機を駆使し、精力的に地方遊説をこなした。ゲッベルスは「ヒンデンブルグに敬意を、ヒトラーに投票を」のスローガンを叫び、宣伝を展開した。結果はヒンデンブルグ1865万票、ヒトラー1339万票。どちらも過半数を取れなかったため4月決選投票が行われる。ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラーは敗れる。4月13日ブリューニング首相とグレーナー国防相・内相は過激なSAとSSの活動を禁止。

しかしNSDAPの勢力は侮りがたいものになっており、中央党、国家人民党などの保守、右派は勢力を伸ばしてきた共産党に対抗するためNSDAPとの連携を模索するようになる。5月末にはブリューニングは失業者に仕事を与えて、ユンカー(土地貴族)の農園に植民させる政策を取ろうとするが、これを嫌ったユンカーの意を受けたヒンデンブルグに解任される、先にグレーナーも辞任に追い込まれていた。国防相シュライヒャーは中央党右派のフォン・パーペンを自分の意のままになる人物と見て、ヒンデンブルグに推挙し首相につける。中央党を除名されNSDAPの支持を頼むパーペンはSA、SSの活動を解禁する。7月20日パーペンは社会民主党の牙城だったプロイセン州のオットー・ブラウン首相(社会民主党)を罷免。プロイセン州を中央政府統治にする。7月のローザンヌ会議で、ヴェルサイユ条約の賠償金の大幅な減額(30億マルクもしくは支払を猶予)に成功するが、ヒトラーはヴェルサイユ条約自体の破棄が出来なかったと攻撃。復古王政主義だったパーペンは憲法改正で政党、議会を解散し権威国家を作ろうとする。議会は共産党の提出した不信任案を可決。議会運営に自信を無くしたパーペンは、ヒンデンブルグにヒトラーの首相指名を進言するが、ヒトラーを「ボヘミアの伍長」(オーストリア出身をボヘミアと勘違いしていたか、よそ者という蔑称の意味か)と軽蔑していたヒンデンブルグは拒否する。シュライヒャーと路線の違いが表面化したパーペンは辞任させられ、後任はかねてNSDAPに気脈を通じ、ブリューニング、グレーナー追い落としの黒幕だった国防相のシュライヒャーが任命される。

シュライヒャー自身は首相指名を求めず、背後で陰謀を巡らすつもりであったが大統領に首相指名されてしまった。シュライヒャーはNSDAPの分派を図り、グレゴール・シュトラッサーを副首相につけようとするが成功せず、ヒトラーにも副首相を拒否される。33年1月銀行家や実業界の有力者とヒトラーが秘密会合を持ち、共産党の進出に危機感を持った彼らの支持を取り付ける。前年11月、ベルリン交通局労働組合のストで社会民主党を敵にNSDAPと共産党が共闘(ゲッベルスの独断とも)したため、実業界からの献金が途絶え、前年7月の選挙で獲得した230の議席を11月には196に減らしていた。この実業界との和解で再び献金を受ける事ができた。分派工作でヒトラーの恨みを買ったシュライヒャーは、今度は社会民主党と組もうとするがこれまでの右派的な姿勢から社会民主党に拒否される。大統領権限による議会解散と、総選挙の延期をヒンデンブルグに頼むが拒否され辞任する。再びパーペンがヒトラーをヒンデングルグに推挙する。なおもヒンデンブルグはヒトラーの首相指名を拒んだが、秘書役の子息にまで説得されついに33年1月30日ヒトラーを首相指名する。「ヒトラーのごとき人物を首相に任命する不愉快な義務を負う破目になった」大統領は伍長あがりのヒトラーを元帥の自分が任命するのを屈辱と感じたのである。正午ごろ新政府の宣誓式でヒトラーは右手を上げて大統領の前で宣誓を行った。「私はドイツ国民の福祉のために力を尽くし、ドイツ国民の憲法と法律をまもり、私の義務を履行し…」その夜NSDAPのSA、SS、ヒトラーユーゲントの首相就任を祝う松明(たいまつ)行列がブランデンブルグ門から首相官邸に行進した。党員ばかりでなく市民もこの若い43歳の新首相に新時代への期待をかけ行進に加わった。

ヒトラーを首班とした、新内閣は外相フォン・ノイラートが留任、国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクと鉄兜団ゼルテが入閣。閣僚11人のうちNSDAPからはヒトラーの他に、内務大臣ウィルヘルム・フリック、無任所大臣ゲーリングの2人しかはいっていない。副首相に納まったパーペンらはヒトラーを取り込んで利用し政権を強化したつもりであった。しかしそれは甘すぎた。政権側になったヒトラーは宿敵、共産党をたたくことから始めた。プロイセン州の内務大臣を兼務していたゲーリングを通じて警察にSSやSAの隊員を送り込み警察を掌握、さらにSS、SA、共闘関係の右翼団体「鉄兜団」員などで警察予備隊を創設し、攻撃準備を整えた。この年のちにゲシュタポ(国家秘密警察Geheime Staatspolizei)と呼ばれるプロイセンの特別警察が発足。2月24日ベルリンの共産党本部を捜索、主要党員を逮捕する。27日夜国会議事堂に火災が発生する、この事件を共産党の陰謀としてさらに共産党員を逮捕(実行犯としてオランダ共産党員ファン・ルッペを逮捕、死刑)、またこの事態を利用して大統領の非常権限(憲法48条)でワイマール憲法の基本的人権を停止し、政敵の自由な拘束が行えるようにした。3月5日の総選挙でNSDAPは288議席を獲得。3月9日共産党を非合法化。かつて社会民主党を憎みNSDAPと共闘さえしたドイツ共産党は、ヒトラーを過小評価する誤りをおかした。3月14日ゲッベルスを国民啓蒙宣伝大臣に任命。

3月23日クロール・オペラ・ハウスで開かれた議会において、憲法改正によらず大統領権限を侵さない限り、ヒトラーに自由に法律の制定を認めるという「授権法案」が提出される。中央党、人民党、国家党が賛成、社会民主党が反対するが441対94で可決。81議席を持っていた共産党は既に非合法化されている。この時の社会民主党オットー・ヴェルズの反対演説が国会でヒトラーへの最後の抵抗となる。議長ゲーリングが結果を宣言、ヒトラー、NSDAP党員が起立し、党歌「ホルスト・ヴェッセル」を斉唱、「ジークハイル」の叫びが議場に響いた。この法律は4年間の制限が付いていたが、第3帝国の崩壊まで機能し続けた。ヒトラーが次に目をつけたのは労働組合である。5月2日メーデーの翌日ドイツ各地の組合事務所を襲い、組合員を逮捕し解散させる。最後は社会民主党の番である、6月22日クーデターの容疑で同党を禁止。7月14日新党を禁止する法を出す。ヒトラーの対抗勢力は共同して抵抗せず、個々に撃破されていった。当初NSDAPと連携的関係にあった、中央党(カトリック政党)、人民党、国家党などの中道、右派も力を失い自発的解散を強いられる。3月22日ダッハウに強制収容所が作られ、ユダヤ人に対しては4月7日公職の追放が行われた。5月10日NSDAP学生同盟の主導で「非ドイツ的」書物を焼く焚書がベルリン大学を始め各地で行われた、対象になったのはカール・マルクス、レマルク(反戦小説)、トーマス・マン(民主主義)、ジークムント・フロイト(精神分析、ユダヤ人)、ハイネ(詩人、ユダヤ人)など退廃的とされたものとユダヤ人の著作。

7月20日バチカン(ローマ・カトリック教会)と協定が結ばれカトリックは信教の自由を認められる。宗教そのものを認めない共産主義より、教会はヒトラーを選択したのである。この協力は第3帝国崩壊後まで続き多くの戦犯容疑者が教会の助けで脱出している。10月14日国際連盟、ジュネーブ軍縮会議を脱退。ヒトラーは労働者の組織化、地位向上にも力をつくし「歓喜力行団」(Kdf)を作り労働者へ安価に旅行、演劇、映画、コンサートなどの福利厚生を提供した。また高速道路(アウトバーン)を建設し、国民車構想を打ち出し「自動車が富裕階級のものである限り、国民を貧富の2階級に分ける道具にしか過ぎない、自動車は国民大衆の物でなければならない」と、当時は金持ちしか持てなかった自家用車が労働戦線(DAF)への990マルクの積み立てで労働者にも買えると夢を掻き立てた、これは戦争のため実現しなったが、フェルディナント・ポルシェ博士の試作車は戦後のフォルクスワーゲン・ビートルにつながる。公共事業の増加によって34年12月には失業者は26万まで減少した。34年に帝国経済相にドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁ヒャルマール・シャハトが任命され、シャハトの経済手腕は経済の再建に大きな成果をもたらした。国内には組織された反対勢力はなくなった。しかし、政策上の相違からNSDAP内部から強力な敵が生まれることになった、エルンスト・レーム幕僚長の率いる突撃隊(SA)である。

SAは「体育・スポーツ部」として21年9月に創設され、党の戦闘部隊として共産党や政敵の攻撃に力を発揮してきた、ミュンヘン一揆でヒトラーが入獄していた間、レームは解散を命令されたSAを「フロントバン」の名称で隊員を集め、以前より隊員数を増やしていた。合法活動に転換したヒトラーからSAに穏健な政治活動を求められたレームは反発し、26年南米ボリビアへ去り軍事顧問に就く。30年SA第9中隊がベルリンで党管区を占拠し、ゲッベルスの解任を求める事件が起き、レームの指導力を必要としたヒトラーは彼をボリビアから呼び戻し、再びSA最高指導者にした。しかしヒトラーが政権を獲得すると武装した対抗勢力はいなくなり、失業者を吸収し250万を擁すまでに強大化したSAは、ヒトラーと対等に話すレームの強烈な個性もありヒトラーの統率が効かなくなりつつあった。レームは「灰色(国防軍の制服色)の岩は褐色(SAの制服色)の濁流に呑み込まれなければならない」と、SAが正規軍である国防軍にとって替わることを主張していた。ドイツ正規軍はプロイセン以来の伝統的なユンカー(土地貴族)を中心としたもので、下層階級出身で第1次大戦の歴戦の将校であるレームは、国防軍をNSDAP革命の敵と見ていた。SAと国防軍の対立は危険な状態になっていた。将来の戦争の際には職業軍人が必要であり、国防軍を重視するヒトラーはレームの粛正を決意する。29年1月にSS長官になったヒムラーと、警察組織を掌握したいゲーリングはライバルを蹴落とそうと盛んにヒトラーに粛正を求めていた。レーム自身には反乱の意志は無かったとされるが、ヒトラーの意を受けた親衛隊(SS)長官ヒムラーは保安諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒを使いSAの反乱謀議をあばかせる。

34年6月30日ミュンヘン郊外のバート・ヴィース・ゼーの温泉で、SS部隊とヒトラーが自ら拳銃を手に宿泊していたレームらSA幹部を逮捕。レームには自決を求めるが、応じずシュタデルハイム収容所でテオドール・アイケらSSに翌日射殺される。同時に多数のSA幹部も各地で逮捕、殺害される。また前首相のシュライヒャー夫妻、ヒトラーと路線が対立していた党左派グレゴール・シュトラッサー、23年のミュンヘン一揆で苦杯をなめさせられた、元バイエルン州総督カールらも殺害された。この粛正は「長いナイフの夜」と呼ばれ、公式には77人が殺害されたと発表された。実際には200名以上が殺害されたという。元首相のパーペンは危ういところで助命された。レームの後任には内通していたハノーバーSA管区長ビクトール・ルッツェが任命された。この粛正によってSAは事実上消滅し、代わって粛正を実行した親衛隊(SS)がNSDAPの戦闘組織の中心になる。この後も、黒い制服にルーン文字の稲妻の記章を付けたSSはヒトラーへ絶対の忠誠を誓い、恐るべき恐怖を歴史上に残すことになる。ブロンベルク国防相は軍からシュライヒャー、ブレドウ(前官房長)ら犠牲者が出たものの粛正を称賛、ヒトラーは身内を切り捨てたことで国防軍の支持も獲得し、内外の敵を一掃したのである。6月30日から7月2日に行われた事は「国家の正当防衛」として合法化された。

34年8月2日老齢のヒンデンブルグ大統領が死去する。19日ヒトラーは首相と大統領を兼任する総統の地位に就く、国民投票は圧倒的多数でヒトラーの総統就任を認めた。9月4日ニュルンベルクで第6回党大会を開催、党の団結と権力の掌握を優れた演出で印象づけた。35年になるといよいよ懸案の外交に本格的に取り組む。1月ヴェルサイユ条約で国際連盟の管理下に置かれていたザール地方で住民投票を行い、圧倒的多数の賛成で同地方をドイツに復帰させる。3月16日ヒトラーは再軍備を宣言、徴兵制の施行、空軍の保持を明らかにした、これはヴェルサイユ条約に違反する。4月11日イギリス、フランス、イタリアの3国はドイツの再軍備に対し「ストレーザ戦線」の形成で対抗する。さらにフランスはソ連と同盟を結び、ソ連は反ファシズムの「人民戦線」を提唱、チェコスロバキアと同盟を結びドイツは包囲された形になる。しかし、わずか2カ月の後6月18日ヒトラーはイギリスの海軍力の35%の艦船、45%の潜水艦の保有をドイツに認めるという、「海軍条約」の締結に成功する。ヴェルサイユ条約では潜水艦の保有は認められなかったから、イギリスは自ら同条約を反故にしたことになる。10月にはイタリアのベニト・ムソリーニがエチオピア(アビシニア)に侵攻。11月国際連盟はイタリアへの経済制裁を決議。当初オーストリア問題をめぐって対立していたヒトラーとムソリーニは連携関係となっていく。ヒトラーは経済制裁を受けたイタリアに戦略物資を供給。イタリア軍は近代装備の無いエチオピア軍相手に苦戦し戦車、航空機、毒ガスまで投入してようやく翌36年5月首都アジスアベバを陥落させ、エチオピア皇帝ハイレ・セラシェはイギリスに亡命。「ストレーザ戦線」は早くも崩壊した。

35年9月15日ユダヤ人の市民権を剥奪、ほとんどの職業から締め出しアーリア人との結婚を禁止した(アーリア人と1/4より血が濃いユダヤ人との結婚を禁止)「ニュルンベルク法」を布告。36年3月7日ヒトラーはロカルノ条約による非武装地帯ラインラントに進駐、軍部は反対したがイタリアのエチオピア侵攻への国際連盟の弱腰からヒトラーは賭けに出る。もっとも内心ではフランスの攻撃を非常に恐れた、進駐したドイツ軍は僅かな兵力(当初3個大隊)でフランス軍がヴェルサイユ条約・ロカルノ条約違反を口実に攻撃すれば撤退するしかなかったからである。「進駐後の48時間は、私の生涯で最も神経を消耗した」(ヒトラー)しかしフランスや各国は非難を決議したものの進駐を黙認した。ヒトラーの国民への威信は大いに上がった。8月1日ベルリンで第11回オリンピックを開催、国家元首であるヒトラーが開会を宣言。計算された演出はNSDAPの絶好の宣伝となった、テレビ中継、聖火リレーと記録映画はこの大会から始まった。記録映画「オリンピア」(邦題・「民族の祭典」「美の祭典」)の監督に抜擢されたのは、既に34年の党大会記録映画「意志の勝利」でヒトラーから評価された、女優レニ・リーフェンシュタールである。オリンピック期間中ユダヤ人排斥は自制された。

37年7月18日ミュンヘンで「大ドイツ芸術展」を開催。翌日、付近の会場で「退廃芸術展」を併せて開催した。前者はNSDAPの推奨する写実、自然主義的な人物、風景などの「見て分かる」絵画、彫刻などを展示した。人物はアーリア人の優越性を表現するギリシャ調の彫刻、ルネッサンス期風絵画。女性は北欧神話などを題材とした健康的な表現が推奨され、写実的な裸体画であっても、均整の取れた女性美を表現したものが展示された。ヒトラーお気に入りの画家で、帝国造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーの神話に因んだ裸体画は、陰で「ドイツ恥毛の巨匠」などと揶揄された。「退廃芸術」とされたものは、極端に変形された人物、風景など「見て分からない」抽象芸術、「ドイツ表現主義」など。同性愛、黒人、ジプシーなどを美しく描いたものはアーリア人の優越性への挑戦とされた。また写実的であっても戦争の悲惨な現実を描いたものは、愛国の英雄を辱め国防義務の忌避へつながる政治的退廃とされた。また「退廃芸術展」には精神病院の患者が描いた絵画が一緒に展示され、芸術家たちが精神病と同一かそれ以下であると定義した。排斥された芸術家はユダヤ人作家はもちろん、パウル・クレー、オスカー・ココシュカ、エルンスト・バルラッハ、ケーテ・コルヴィッツなど。NSDAP党員だったエミール・ノルデも原色を多用した作風だったため弾圧された。また美術館やユダヤ人から持ち出されたゴッホ、ピカソ、ゴーギャン、モディリアーニなどの作品が外国に売却された。一部はヒトラーの黙認でゲーリングの個人コレクションとなった。「退廃芸術展」はモダン・アートを観賞する最後の機会となり、入場者は5カ月で200万を数えた。ウィーン時代自然主義画家を目指したヒトラーに、流行の表現主義芸術は手痛い報復を受けた。さかのぼって、ヒトラーが政権を獲得した33年には、工作教育、形態教育の一体を志向した総合芸術学校「バウハウス」(1919年ユダヤ人建築家ヴァルター・グロピウスがワイマールに創設、25年デッサウへ移る)が左翼的として、解散させられている。また、ヒトラーが心酔していたワーグナー(ワーグナー自身も反ユダヤ主義者だった)のオペラは大々的に上演され、バイロイト音楽祭は国民啓蒙の舞台となった。

36年7月18日スペインの共和国政府(人民戦線政府)に対し、カナリア諸島に左遷された元参謀総長フランシスコ・フランコ将軍ら軍部は反旗を翻した。当初はスペイン本国の反乱軍は鎮圧され、アフリカの植民地モロッコでフランコが指揮する3万7千の部隊を本国に輸送できるかが内戦の帰趨を左右する。制海権は政府側が握っており、フランコ側は航空輸送によらなければ、本土に展開できなかった。ヒトラーとムソリーニはフランコ支援を決意、7月25日には輸送機をモロッコへ送り込む。さらに空軍、陸軍の義勇兵部隊「コンドル軍団」や戦車を投入、イタリアも陸軍や空軍を介入させた。共和国側はフランス、イギリスの不干渉政策から両国の支援は得られなかったが、ソ連の軍事顧問、戦車、戦闘機。各国の義勇兵からなる「国際旅団」の支援を受け内戦は国際代理戦争の様相を呈する。スペイン内戦はドイツの新型兵器や戦術の実験場となり、特に再建間も無いドイツ空軍に貴重な経験となった。コンドル軍団のバスク地方都市ゲルニカ爆撃の悲劇は37年4月26日である。フランコは苦戦したものの次第に政府軍を圧迫、人民戦線政府の内部抗争もあり38年にはソ連の軍事顧問と「国際旅団」が引き揚げ、39年1月フランコはカタルーニャ地方に攻勢をかける、3月にはマドリードを占領。75年に死去するまでスペインを独裁統治した。スペインへの介入は独伊の関係を緊密化させ内戦中の36年10月イタリアのガレアッツォ・チアノ外相(ムソリーニの娘婿)がドイツを訪問し、12月にはムソリーニが「ローマ・ベルリン枢軸(Asse)」という表現を使い、37年9月にはドイツを訪問した。ムソリーニはヒトラーの歓待を受けSSの整然とした行進やドイツ軍の演習に魅了され、さっそく自国の軍隊にドイツ軍の行進「鵞鳥ステップ」を取り入れた。11月7日イタリアは日独に結ばれていた「防共協定」(反コミンテルン協定)に加入した。

つぎは懸案の自身の出身地であり、同じ民族のオーストリアの併合である。ドイツとオーストリアの併合はヴェルサイユ条約で禁止されていた。第1次大戦で敗北したハプスブルク帝国の版図は連合国によって解体され、オーストリアは内陸の小国にされた。ハンガリーの農業地帯とチェコスロバキアの工業を失ったオーストリアの経済は苦境にあり、31年にドイツとの関税同盟を結ぼうとするがフランスの妨害を受けて撤回を強いられた。しかし、オーストリアとドイツの統合を警戒していたイタリアがドイツと接近したため、オーストリアの独立は危機に瀕する。すでに33年、社会主義者とオーストリアのNSDAP勢力を弾圧していた民族主義的なオーストリア首相、エンゲルベルト・ドルフスが襲われ負傷。翌34年7月25日にはNSDAP勢力がクーデターを計画、陸軍の制服で変装したクーデター派は首相官邸でドルフスを銃撃し、放送局を占拠した。クーデターは鎮圧されたものの、重傷を負ったドルフスは死亡するという事件が起きていた。この時はドイツの強大化をかねて警戒し、個人的にもドルフスと親しかったムソリーニが激怒し、(その日ムソリーニはドルフスの夫人と会食していた)4個師団をオーストリア国境ブレンネル峠に派兵、ヒトラーを牽制した。ヒトラーはいったん引き下がる。この約1月前の6月14、15日イタリアのベニスでヒトラーとムソリーニは初めて会見している。ムソリーニは1883年に生まれ、20年にファシスト党を組織し「統領」(ドゥーチェ)に就任。22年10月の「ローマ進軍」でイタリア史上最年少の39歳で国王から首相に指名されて、ファシスト党独裁政権を率いており、ヒトラーよりも年長で先輩格である。ムソリーニもヒトラーを見下しており、会談でもオーストリア問題の対立から冷淡な対応を取った。しかしやがて両者の関係は逆転していく。36年には7月ドイツ・オーストリア協定が結ばれ主権尊重・内政不干渉を唱えたが、秘密協定ではオーストリアNSDAPの代表を政権に就けることを要求していた。

38年2月4日ヒトラーは国防軍の2人の元帥フォン・ブロンベルクを女性問題で、フォン・フリッチュを同性愛スキャンダルを理由に解任、2人はヒトラーの対外進出に反対していた。ヒトラーは自ら国防軍最高司令官になり、国防省を廃止し国防軍最高司令部(OKW)長官にウィルヘルム・カイテル、陸軍総司令官にフォン・ブラウヒチュを就け、多くの将軍をヒトラー派に入れ替えた。2月オーストリア首相フォン・シューシュニックはヒトラーにオーストリアNSDAP指導者ザイス・インクヴェルトを内相につけ、オーストリアNSDAPを合法化し、逮捕されていた党員を釈放するよう要求された。シューシュニックはザイス・インクヴェルトを入閣させたものの、フランスに近くドイツの影響の薄いインスブルックで国民投票を行い逃れようとする。ヒトラーはオーストリア大統領ウィルヘルム・ミクラスを恫喝し、投票を阻止、シューシュニックは辞任に追い込まれる。むろん後任はインクヴェルトである。新首相の要請によるとして3月12日国境が開かれ、ドイツ軍が進駐を開始、翌日にはオーストリア国会で合併法が成立した。ヒトラーはオーストリアに入り、少年時代を送ったリンツ市の市庁舎バルコニーから演説。14日ウィーンで市民の歓喜の中、かつて不遇の青春を送った街の英雄広場を前にドイツとオーストリアの支配者として凱旋演説を行った。合併の可否を問う国民投票は両国で99%以上の賛成を得た。

次にヒトラーが狙うのは、第1次大戦後の民族自決の結果生まれた国家チェコスロバキアである。同国にはズテーテン地方(明確な画定はなく、同国の外周部をさす)にドイツ系住民350万がドイツとオーストリアの敗戦で取り残されていた。今日、平和的にチェコとスロバキアに分離独立していることでも分かる通りチェック人、スロバキア人、ウクライナ人を含む多民族国家である。ゲッベルスは同地方のドイツ系住民が迫害をうけていると盛んに宣伝し、同地のNSDAP組織も盛んに騒乱を煽っていた。チェコスロバキアは武器産業が発展しており小火器はもちろん自動車、戦闘機、戦車を生産でき、軍隊も一応の規模を保持していた。また国境には要塞を建設しており、ドイツの侵略には英仏と共に武力で対抗する決意であった。今度ばかりはヒトラーも戦闘を覚悟し軍部に「緑作戦」と称する作戦計画を作らせチェコ攻撃を38年10月以降と定めた。イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは9月15日戦争回避のためヒトラーと会見し、ズテーテン地方のドイツ割譲を認め、22日チェコ政府の同意を取り付けて再びヒトラーと会見した。ところがヒトラーは更に要求をつり上げ10月10日までのズテーテン地方の割譲、ポーランドとハンガリーへのチェコ領土の割譲を求めてきた。チェコは要求を拒否、いよいよ戦争は避けられなくなりイギリス、フランスも動員を始める。チェンバレンはなお戦争回避を図り、イタリアのムソリーニに仲介を依頼、29日にミュンヘンでムソリーニをホスト役に英独仏伊4カ国の首脳会談が開かれることになる。ミュンヘン会議にはフランスから首相エドアール・ダラディエが参加、会談はドイツの要求をほぼ受け入れ30日、ズテーテン地方を10月10日までにドイツに割譲する「ミュンヘン協定」が調印された。当事国チェコスロバキアのエドワルド・ベネシュ大統領はこの会談に参加さえしていない。チェンバレンは戦争を回避した英雄として帰国し空港では群衆が「平和の使徒」を歓迎した。チェンバレンはドイツの勢力をソ連に向けさせ、時間を稼ぐ間に自国の軍備を整えようとした。しかしこの宥和政策は戦争への時間稼ぎをしたにすぎず、平和を求めるあまり戦争を招来した歴史上のいい例となった。ドイツ参謀総長フォン・ベックらはチェコ侵攻に異議を唱え辞職。後任のフランツ・ハルダーは緑作戦を作る一方、全面戦争となった場合ヒトラーへのクーデターを計画していたが、ミュンヘン会談によってヒトラーが外交で勝利を得たため実行の名分を失った。

チェコは英仏の支援がなければ単独でドイツに対抗できず、産業の中心だったズテーテン地方を失う。39年3月14日ドイツの支持でスロバキアのヨセフ・ティソーが独立を宣言し、ドイツに保護を求める。ベネシュは辞任するとイギリスへ亡命。スロバキアの分離に対し、チェコ大統領エミール・ハーハは軍隊にスロバキアへの進撃を準備させ、戒厳令を発令した。しかしこれはヒトラーの思うつぼだった。列車でドイツに入り深夜ヒトラーに会見したハーハは、攻撃の恫喝で心臓発作を起こし、チェコの独立を放棄する宣言に署名。ゲーリングは「プラハのような美しい街を爆撃しなければならないのは残念だ」とハーハに語ったが、実際にはその時刻は霧のためドイツ軍機の離陸は不可能であったという。15日ドイツ軍がプラハに進駐。同日午後ヒトラー自身も自動車を連ねてプラハに入った。「ボヘミア・モラビア保護領」としてチェコ自体も消滅した。スロバキアは保護国になり、残る領土はポーランド、ハンガリーが併合する。チェコの軍事産業は無傷でヒトラーの手に渡りチェコ製の兵器はドイツ軍によって第2次大戦で使われる。ドイツ軍のプラハ進駐はスラブ系住民には侵略であり、武力抵抗は無かったが抗議の意思表示をする者も見られた。これまで旧領土の回復と、ドイツ民族の統合をスローガンにしてきたヒトラーの「花の戦争」はチェコ解体で終わりこれ以降は侵略となる。また第3帝国の崩壊後ズテーテン地方のドイツ系住民は財産没収の上追放され、多数が虐殺される悲劇を生む。22日ヴェルサイユ条約でリトアニアに割譲されていた、バルト海沿岸の都市メーメルを併合。

38年11月7日フランスのパリにあるドイツ大使館で、ユダヤ人青年ヘンシェル・グリーンスパンが大使と誤認した書記官フォン・ラーツを銃撃する事件が起きた。グリーンスパンは両親がドイツから追放されたため報復を決意してドイツ大使を狙っていた。ラーツは皮肉にもゲシュタポから注意人物と見られていた、グリーンスパンはフランス当局に逮捕されたが、ゲッベルスはこの事件を絶好のユダヤ人排斥の機会とみてユダヤ人襲撃を扇動する。ラーツが死亡した9日夜から10日の朝にかけてユダヤ人商店、ユダヤ教会が襲撃され91人が殺害、3万人が逮捕され強制収容所に送られた。破壊されたユダヤ商店のショーウィンドーのガラスが散乱した事からこの襲撃は「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)と呼ばれた。ゲーリングはユダヤ人の資産は接収すべきで、無秩序な破壊を行ったとして経済計画担当者の立場からゲッベルスを非難した。翌39年1月「水晶の夜」をあるクリスマス・パーティで非難した経済相・帝国銀行総裁シャハトは解任された。シャハトはヒトラーを政権獲得以前から支持していたが、再軍備計画に伴う財政出費に異議を唱えていた。シャハトが解任されると、帝国銀行の理事もNSDAP党員2人を残して辞任した。後任にはヴァルター・フンクが任命された。

残るドイツ旧領土はポーランドである。ポーランドは第1次大戦前にはロシア、プロイセン、オーストリアなどに18世紀に国土を分割されロシア革命で18年独立。ソビエト政府がドイツ帝国と単独講和を結ぶと、20年侵攻してきた赤軍を撃退し、ヴェルサイユ条約で各国に独立を認められた。しかし敗北した旧ドイツ領土とウクライナ地方を多く取り込むこととなり、特にダンチヒ(現グタニスク)を含む海への出口はポーランド回廊と呼ばれ、これによってドイツは本国と東プロイセン(現ロシア領カリーニングラード)が分断されてしまっていた。すでに34年にドイツ・ポーランド間に不可侵条約が結ばれていたが、38年10月リーベントロップ外相はポーランドのユーゼフ・ベック外相にダンチヒの返還を求める。ポーランドはチェコの例を見ておりイギリス、フランスとの同盟を盾に要求を断固拒否する。39年4月ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄、同日にイギリスとの海軍条約をも破棄する。5月19日フランス、ポーランド軍事協定締結。英仏はソ連ともポーランド防衛の協定を結ぼうとするが失敗する。ヒトラーはチェコの時と同じくポーランドを攻撃しても英仏は介入しないと見ていた。しかしソ連の出方は予想できなかった。ヒトラーのイデオロギーからは「共産主義」の総本山ソ連は宿敵である。しかし今は両面作戦となるソ連との戦争は避けたかった、ヒトラーは外相リーベントロップにスターリンへの親書を持たせモスクワへ派遣する。スターリンにしてみても、自ら30年代後半から行った赤軍の大粛正の結果、軍隊が弱体化しドイツと戦う力は無かった。また英仏に対してもドイツの勢力をソ連に向けさせようとする政策に不信感を覚えていた。たとえ英仏と組んでも、チェコ問題の弱腰から両国は頼りにならず、それならソ連にも勢力圏の取り分を認めるヒトラーと今は組んでおくべきだと判断した。ヒトラーの政権獲得以前の独ソは共にヴェルサイユ体制から疎外されていたため、22年4月ラパロ条約を結び外交関係を締結、双方の第1次大戦の賠償を放棄、軍事交流をおこなっていた。ドイツはソ連のリーペック基地でヴェルサイユ条約で禁止されていた空軍の訓練を行い、カザンでは戦車の研究をした。ソ連はドイツから生産技術などを学んでいた。ヒトラーが政権を獲得すると共産党を弾圧し、両国の軍事協力は停止する。しかしポーランド侵攻を前に現段階ではソ連との衝突は避けなければならない。

8月23日モスクワで独ソは10年間の不可侵条約に調印する。この宿敵と見られていた両国の提携は西側諸国に衝撃を与え、フランス首相ダラディエは「新聞記者のでっちあげではないか…」と外相に問い掛けた。満州でソ連と武力衝突を繰り返していた日本では平沼首相が「欧州情勢は複雑怪奇…」と辞任した。独ソ不可侵条約の秘密議定書では互いの勢力圏を定めていた。ポーランドのブレスト・リトフスク以東、エストニア、ラトビア、リトアニア(北部国境)のバルト3国、フィンランドをソ連の勢力領域としていた。英仏は24日ポーランド援助条約に調印するがもはや抑止力とはならなかった。

39年9月1日未明ドイツ軍はついにポーランドを攻撃、宣戦の布告はなかった。前日31日ドイツのウライウィツクにある放送局がポーランド兵に襲撃される事件があった、しかしこれはSSのハイドリヒが計画した自作自演で、放送局を占拠して反ドイツのスローガンを叫んだのはポーランドの軍服を着たSS隊員で、射殺されたのはポーランドの軍服を着せられた強制収容所の囚人だった。この作戦でポーランド軍の軍服を調達したのはオスカー・シンドラーである。ヒトラーはポーランドの攻撃を理由に「白作戦」ポーランド攻撃作戦を発動した。ダンチヒでは親善訪問中のドイツ軍艦がポーランド軍陣地を艦砲射撃し、陸戦隊を上陸させ市内を制圧した。ドイツ軍はハインツ・グデーリアンの戦略思想を具体化した戦車の集団投入と機動力を生かして、伝統的に騎兵重視のポーランド軍を圧倒。空軍はスペイン内戦の経験から編み出した急降下爆撃でポーランド軍を戦闘配置につかせる前に猛爆する。攻撃自体は奇襲であったがポーランドも戦争は時間の問題として軍備を増強し数値上の兵力はほぼ互角だったが、機甲部隊は軽装甲1個旅団しかなくドイツの装甲6個師団、軽装甲4個師団とは大差があった。そのうえドイツ軍の快進撃の前にポーランド軍は予備役の動員を行う時間も無かった。戦車はドイツ1号戦車(機銃のみ)、2号戦車(20ミリ砲)、3号戦車E型(37ミリ)、チェコ製38t(37ミリ)、数は少ないが4号戦車(75ミリ)など3195両。ポーランドは装甲車両総計で約1000両で7TP(37ミリ)、原形の英ヴィッカース製6t戦車と合わせて約150両、仏製ルノーR35(37ミリ)が約50両、小型戦車TKが約400両、内数十両は20ミリ砲を装備していた。空軍力においてもドイツ戦闘機Bf109が最大速度560Km/h、開戦時保有1056機に対しポーランドのPZL・P11cは固定脚で390Km/h、他の戦闘機を併せても159機とされる。

実際にポーランドを攻撃したドイツ軍は陸軍5個軍、45個師団。北方軍集団(ボック上級大将)は北方から第4軍、東プロイセンから第3軍がポーランド回廊を挟撃して、ワルシャワ、ブレスト・リトフスクに向かう。南方軍集団(ルントシュテット上級大将)はドイツ東部とスロバキア方面から8、10、14軍が侵攻した。空軍は第1、4航空艦隊1450機(戦闘機550機、爆撃機880機)が出撃。ポーランド軍はドイツ軍の革命的な戦略思想に翻弄され、早くも7日にはワルシャワまで押しまくられる。3日英仏はヒトラーの予想に反し、ポーランドからの全部隊の撤退を求める最後通牒を発した上、ついにドイツに宣戦する。第4軍、グデーリアンの第19装甲軍団は17日にはブレスト・リトフスクで、南方から侵攻してきた14軍と連絡し、ポーランドの残存兵力を包囲。同じ17日にはソ連軍が東からポーランドに侵攻、ポーランドは2大陸軍国に東西から挟撃される。ポーランド分割を定めた秘密議定書の存在は前線司令官には知らされていなかったため、驚いたドイツ軍とソ連軍の間に一時戦闘が起きた。英仏の救援はなく、27日包囲されたワルシャワが陥落、29日ワルシャワ北西のモドリン要塞も降伏。生き残った兵はルーマニアに逃れ政府はイギリスに亡命。28日独ソが「国境・友好条約」を締結しリトアニアのソ連領域入りと、ポーランド分割を協定し、再びポーランド人は国家を失う。ドイツ軍の損害は戦死1万0572、戦傷3万0522名。戦車217両。航空機285機。ソ連軍は捕虜にしたポーランド軍将校数千人をスモレンスク付近のカチンの森で殺害して埋めた(この虐殺は後の独ソ開戦後、同地を占領したドイツ軍によって発見される。ソ連は長らくドイツの仕業と主張したが、ゴルバチョフ政権下で初めて、40年4月ごろ秘密警察NKVDによる虐殺を認めた)。

8月24日に調印された英仏とポーランドの同盟条約では、英仏はあらゆる手段によって軍事援助を行う定めになっており、開戦初日にはドイツへの爆撃、15日目には大規模な攻勢を開始することになっていた。当時西部国境のドイツ軍はほとんどが2線級の34個師団、装甲師団は1個旅団戦車50両、空軍は50機ほどの手薄な配備になっていた。ヒトラーは英仏が西部国境で攻勢に出ることは無いと踏み、将軍連の反対を押しきりほとんどの戦力をポーランド作戦に投入したためである。ヒトラーの賭けは的中し英仏は西部国境から攻勢をかけることはなく、フランスは9月7日にザール地方でごく小規模の消極的な攻撃をしたのみで、英仏の後ろ盾をあてにドイツに譲歩しなかったポーランドを見殺しにした。フランス軍は西部国境に102個師団、戦車2500両、空軍1200機を配備しており、イギリスも3個師団を派遣していた。英仏がこの好機をとらえて攻勢に出ればドイツ軍は危機に陥っただろう。9月中旬になってフランス軍総司令官モーリス・ガムラン元帥はポーランド軍総司令官に「東北フランス戦線では、軍の主力の半分以上が戦闘に入っている。ドイツ軍は猛烈な抵抗を試みているがわが軍は前進を続けている。ドイツ空軍の大部分をわが軍はひきつけている。」と同盟を反故にした事を取り繕うためかウソをついた、すでにポーランド軍は壊滅していた。

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