(その3)

41年6月22日午前3時ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」が開始された。作戦開始はバルカン作戦のため当初予定から遅れ、きしくも1812年6月24日フランス皇帝ナポレオン1世のロシア遠征とほぼ同じ日になった。170個師団のドイツ軍は3つの軍集団に分かれ広大なソ連に侵攻した。南方軍集団(ルントシュテット大将)がキエフに向かい、最大兵力の中央軍集団(フォン・ボック大将)はミンスク、スモレンスクを陥しモスクワに向かう。北方軍集団(フォン・レープ元帥)はレニングラード(現サンクトペテルブルク)を目指して進む。不意を衝かれた赤軍は大混乱に陥る。ソ連の空軍は飛行場に翼を並べたままドイツ空軍の急降下爆撃機と戦闘機に攻撃され、初日に約1,200機を撃破された。スターリンはイギリスのチャーチル首相からドイツの侵攻が近いと警告を受け、日本のドイツ大使館に出入りしていたスパイ、リヒャルト・ゾルゲからは侵攻の日にちまで報告を受けていたにもかかわらず、前線部隊には警戒態勢を取らせることも警告することもしなかった。逆にドイツ軍を刺激するなと命令していた。

ソ連兵の多くはドイツ軍から爆撃、砲撃され、戦車が目の前に現れて初めて侵攻を知った。ソ連軍は南方軍の方面を攻撃主力とみて兵力を割いたため南方軍は、苦戦し進撃の速度を鈍らされた。比較的ソ連軍の手薄な方面を進む中央、北方軍集団は猛烈な速度で進撃する。ドイツ軍の前に姿を現したソ連軍のT34戦車やKV1戦車はドイツ軍主力の3、4号戦車を性能面で圧倒し、37、50ミリの対戦車砲も歯が立たなかった。特にT34は装甲を傾斜させた被弾経始に優れた設計、ディーゼルエンジンによる高速と長い航続距離、強力な76.2ミリの備砲を備えていた。ドイツ軍は88ミリや捕獲したソ連軍の76ミリ砲でT34を撃破した、ソ連軍も西側諸国と同じく戦車を集中して投入せず、乗員の訓練度が低く、大部分は旧式のBT戦車だったのでドイツ軍は戦車戦で勝利を得ることが出来た。スターリンの粛正で、将軍・将校を多く失っていたソ連軍は特に高度の知識を要求される機甲部隊や空軍、海軍の戦闘運用能力を欠いており、軍に配属された政治将校の命令は、しばしば軍事常識から外れた硬直したものだった。中央軍集団は6月27日ビャリストク、ミンスクでソ連西方軍50万を包囲し、32個歩兵師団、8個戦車師団を壊滅し。戦車2585両、砲1500門、航空機250機を破壊もしくは捕獲、29万の捕虜と大量の物資を得た。ソ連西戦線正面軍パヴロフ大将は敗戦の責を負わされ銃殺される。7月末にはモスクワまで320キロまで到達する。北方軍集団はバルト3国を占領し8月13日ノブゴロドに到着、9月4日にレニングラード攻撃が開始され市内には砲撃と爆撃が加えられた。15日にはスターリンはドイツ軍を迎え撃つレニングラード司令官にゲオルギー・ジューコフ大将を任命した。しかしヒトラーは兵力を南方へ転用するためレニングラード攻略を停止、同市を包囲下においた(同市は44年1月まで包囲に耐え抜いた)。8月ヒトラーは中央軍集団にモスクワへの進撃を中止させ、南のウクライナ、コーカサス方面を先に攻略するよう命令した。ヒトラーは首都モスクワより南方の穀倉地帯、油田を手に入れるのが先だと判断したのである。グデーリアン、ボックら将軍達はモスクワ進撃を主張するが、ヒトラーの意志は変わらなかった。

8月26日中央軍の第2装甲軍がノブゴロドでジェスナ河に橋頭堡を築いた。9月11日南方軍の第1装甲軍がドニエプル河を渡河。14日南方軍のクライスト将軍の第1装甲師団と南下した中央軍グデーリアン上級大将の部隊とがキエフ東方で出会い、ソ連南西方面部隊50個師団を包囲した。ソ連軍司令官はキエフ放棄と撤退を求めたがスターリンは死守を命令、数日後撤退を許可するが、既に手後れとなりソ連軍は包囲され将兵は絶望的な抵抗を行ったが、9月26日キエフは陥落。スターリンの恐怖政治下で苦しんでいたウクライナ人の中にはドイツ軍を解放者として歓迎する住民も多かった。ソ連軍の戦死・捕虜は57万7千人(ソ連側発表)、戦車1万8千両の損害を蒙った。ヒトラーの作戦は一応戦闘では勝利を納めた。

しかし、ドイツの2倍に当たる1億7千万人の国民を持ち人的資源に優るソ連は、訓練不足ながら続々と兵士を前線に投入し、軍需工場をドイツ空軍の攻撃圏外であるウラル地方へ疎開させた。イギリス、アメリカは兵器・戦略物資を援助する。「我々は、敵の師団を約200と踏んでいた。いまやすでに360を数えている、10個師団を撃破すると敵は新たな10個師団を投入してくる」(参謀総長フランツ・ハルダーの8月の日記)。9月30日ヒトラーは将軍達の主張を聞きモスクワ侵攻作戦「あらし」を発動。10月3日ヒトラーの演説「私は何の留保条件もつけることなく、東方の敵(ソ連)は打ち倒され、再び起き上がることがないと言える」。10月6日ドイツ軍はモスクワ防衛線を突破してブリヤンスクを占領、10月13日にはモスクワまで149キロのカリーニンが陥落。ドイツ軍は1812年ナポレオン軍がロシア軍を破りモスクワへの道を開いた古戦場ボロジノへと進む。スターリンは極東から転用した1個師団を防衛に投入、ドイツ軍は果敢な抵抗に大きな損害を出しながらボロジノを奪う。モスクワではレーニンの遺体が搬出され、政府機関が書類を焼却、市民が塹壕ほりや速成訓練で防衛隊に動員された。ナポレオンに敗れたクゥトーゾフはモスクワを放棄したが、スターリンは11月7日ドイツ軍の砲声が聞こえる「赤の広場」で革命記念日のパレードを行い、ノモンハンで日本軍を撃破したジューコフをモスクワ防衛に呼び踏みとどまっていた。ところがここにきてドイツ軍の進撃速度は鈍ってきた、作戦が遅れるうちにロシアのステップは雨季に入り、秋の雨は舗装の無い道路をぬかるませ自動車はもちろん、戦車さえも泥にはまって動きがとれなかったのである、また補給線は伸び切り、損傷した戦車や戦闘車両はドイツ本国に送り返さねば修理できなかった。ソ連の大地は西ヨーロッパと違いインフラが未整備であらゆる物資を本国から輸送しなければならなかったが、道路や橋梁も貧弱で鉄道は軌道幅が違いドイツの幅に直さねばならなかった。これまで6週間以上継続して戦争をしたことの無かったドイツ軍は短期決戦のあてが外れた。

まもなく例年より早く冬が到来し、道路は凍結し、車両は再び動けるようになったが、冬用の被服はなく凍傷にかかり落伍する兵士が続出した。11月15日には気温が零下22度まで下がったとグデーリアンは報告した。ドイツ軍の車両は水冷エンジンが凍結し、シリンダーに罅が入る。また大砲や銃器のオイルが凍結し可動部が動かなくなり、光学照準器は低温による誤差のため意味をなさなかった。確実な武器はスコップと銃剣に手榴弾だけという有り様だった。それでも将兵は不屈の意志で戦いを進め、吹雪の中モスクワまであと30キロに迫る、12月2日ドイツ軍第258歩兵師団の偵察大隊はモスクワ近郊に突入し、クレムリンの尖塔を望んだが、翌日には寄せ集めの労働者を含むソ連軍に撃退された。12月4日気温は零下35度となり、ドイツ軍は前進をやめ文字どおり凍結してしまう。12月6日ジューコフは反撃に出てモスクワ前面のドイツ軍を押し返した。シベリアで日本軍と対峙していた冬季経験豊富な部隊がゾルゲの日本の攻撃は無いという情報を受け、前線に到着していた。北方からモスクワに迫っていた第3装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)、南方の第2装甲軍(グデーリアン)の戦線が相次いで突破された。ソ連軍の装備は寒さにも適応しT34戦車は厳寒の中でもディーゼルエンジンが作動し、幅の広いキャタピラは雪上でも行動できた。ドイツ軍は機械の対応も被服の補給さえ不十分だった。15日にはソ連軍はカリーニンを奪回し、モスクワから200キロに渡ってドイツ軍を撃退した。これより前南方軍集団も11月21日ハリコフを占領したものの、30日にはソ連軍の反撃により奪還され、退却を強いられた。ドイツ軍不敗神話の終わりが始まった。

12月7日同盟国日本は宣戦布告なしにハワイのパールハーバーを攻撃、アメリカ太平洋艦隊の戦艦多数を撃沈する。ヒトラーは日本に対ソ参戦を期待していたが、日本はソ連と中立条約を結びアメリカとの戦争に踏み切ってしまった。アメリカは中立法を改正して武器貸与法でイギリス、ソ連に兵器・戦略物資を送り、大西洋では船団を護衛するアメリカ駆逐艦とUボートが交戦をすることがあったが、外交的にはヨーロッパの戦争には孤立主義の世論からイギリス寄りの中立を保っていた。しかしヒトラーはこの戦争開始のやり方にはおおいに満足であった。大島駐独大使に「まことにうってつけの宣戦布告だ、こうした方法でなければだめですよ」と語った、しかし「私はいかにしてアメリカを負かすか、まだ分からない」とも語る。11日ドイツはアメリカに宣戦を布告する、イタリアもこれに倣った。3国同盟条約では同盟国が他国から攻撃を受けた場合には共同してこれに当たる事になっているが、同盟国から宣戦した場合には他の2国には参戦の義務はなかった。しかし、ヒトラーは参戦した。いまやドイツはソ連、イギリス、アメリカの3大国と戦うことになった。チャーチルはアメリカの参戦に歓喜する。

東部戦線では2月にはソ連軍の反撃もまずい攻撃で息切れし、退却したドイツ軍は防御拠点を築き戦線は落ち着いてきた。4月21日ドイツ中央軍集団北翼の5個師団10万が空輸を受けながら持ちこたえ、1月からソ連軍に包囲されていた、デミヤンスク救出が成る。ヒトラーは「撤退を許さず、死守せよ」の命令を乱発し前線の戦術的撤退まで認めなかったが、41年末から42年には命令に背いたとしてブラウヒッチュ、ボックにグデーリアンまで罷免してしまった。ヒトラーは4月戦力を補強し南方軍集団を2つに分け、A軍集団(リスト元帥)は南方のドン川西で敵を撃破、コーカサスの石油を押さえ、B軍集団(ヴァイクス将軍)はボルガ河畔の工業都市スターリングラード(現ボルゴグラード)を占領する新たな作戦(ブラウ「青」作戦)を発動する。5月にソ連軍はハリコフ付近で攻勢に出たが撃退される。ドイツ軍は冬の打撃から立ち直り、再びソ連軍に損害を与えた。ソ連軍は当初、ドイツ軍がモスクワを攻略するものと判断し、兵力を温存するため戦略的な撤退を行った。B軍集団は開戦期を思わせる快進撃を見せた。7月3日、820ミリ、600ミリ臼砲を投入した第11軍(マンシュタイン上級大将)とルーマニア軍の攻撃でクリミア半島のセヴァストポリ要塞が陥落。7月にはボルホフ川西部でソ連軍第2打撃軍がスターリンの命令で撤退を許されず、包囲され補給を断たれて多くの兵士が飢餓と病気に倒れた。11日にはモスクワ攻防戦で戦功を上げたソ連軍アンドレイ・ウラソフ中将が捕虜になる。ウラソフはスターリンに幻滅し、反スターリンのロシア人捕虜や協力者を編成して戦闘に立ち上がらせる用意があるとドイツ軍に打診した。ドイツ軍の一部には彼らに戦闘部隊の編成を認めさせ、共に戦わせようとするグループがあり、42年11月スモレンスクで「ロシア解放委員会」が設立されたが、ヒトラーはスラブ民族は人間以下のものであり、対等な同盟者として扱うことは論外だとし、同委員会は活動を停止した。一部のソ連兵捕虜はドイツ軍の収容所から脱走しても、反逆罪で収容所送りか処刑されるため、収容所で死ぬよりはドイツ軍に補助要員あるいは戦闘員として加わった。

A軍集団の進撃は当初は順調で、7月23日ロストフを占領したがコーカサス山岳地帯でソ連軍の頑強な抵抗にあい停滞した。ヒトラーはA軍集団の第1装甲軍を援護するためB軍集団の第4装甲軍(ホト上級大将)を西に向かわせ、歩兵主力の第6軍(パウルス上級大将)を代わりにスターリングラード攻略に向かわせた。しかし進撃速度の遅い第6軍が8月にスターリングラードに到達した時にはソ連軍の防備は強化されてしまっていた。ヒトラーは突然スターリングラードを急いで占領せよと命令、いったん西に向かわせた第4装甲軍をまたスターリングラードに呼び戻した。スターリンは防衛総司令官エリュメンコ大将と第62軍司令官チュイコフ中将に死守を命じ、党中央委員会書記マレンコフ、軍事会議委員フルシチョフを派遣。ソ連軍はボルガ河を背にした文字どおり「背水の陣」で不利な態勢ながらスターリンの名を冠したこの都市を死守する構えである、ヒトラーにしてみればこの都市の名前自体が戦略上の目的よりも重要であった(ラジオ演説では都市名にはこだわっていないと冗談交じりに語ったが)。かくして副次的な作戦であったスターリングラード攻略は両軍の総力を挙げた戦いとなる。

8月22日ドイツ第6軍を援護する第14装甲軍はスターリングラード北部を押さえボルガ河に達した、第4装甲軍は南からスターリングラードを圧迫する。しかし、攻略には兵力が足りず周辺部には弱体なルーマニア、ハンガリー、イタリア軍の同盟国軍を配置した。スターリングラードの包囲は完全ではなくソ連軍はボルガ河を渡って兵士や物資を送り込んだ。9月ドイツ軍は空軍の猛爆撃の後、市内に突入し激しい市街戦が展開される、瓦礫の中で両軍は時には白兵戦を交えながら1区画の奪取をめぐり血を流した。こういった市街地の戦闘ではドイツ軍の戦車は機動力を生かせない。しかしあせるパウルスは装甲師団の戦車、装甲車まで市街戦に投入、装甲師団の用兵を誤った投入に抗議したヴィッテルスハイム、シュベドラー両将軍は罷免されてしまった。一方、南方のA軍集団の第1装甲軍(クライスト大将)は8月9日マイコプを陥し、22日にはコーカサス山脈の最高峰エルブルス山に山岳部隊が登頂し、ハーケンクロイツを山頂に立てた。しかし、険しい地形と装備の不足、ソ連軍の頑強な抵抗を受けて進撃が停滞した。油田のあるバクーへ向かったが補給が続かず、空軍の援護もなくなり、油田もソ連軍が撤退の際破壊したため皮肉にも、油田地帯で燃料が尽き動きが止まってしまった。 グロズヌイ攻略に向かった北欧志願兵から成る「ヴィーキング」師団も9月下旬にソ連軍の強力な防御を受けクルプ峡谷までしか進めなかった。怒ったヒトラーはスフミ攻略が不可能だと訴えたA軍集団リスト元帥を解任し、クライストに代えたが状況は変わらなかった。9月下旬には参謀総長ハルダーまで解任し、一時は自らA軍集団の指揮を取っている。スターリングラードでは11月中旬にはジェルジンスキー・トラクター工場、赤いバリケード工場など、市内のほとんどをドイツ軍が制圧していた。チュイコフの第62軍は辛うじてボルガ河の数百メートルの渡河地点にしがみついていた。しかしジューコフのソ連軍はドイツ軍がスターリングラードに掛かり切りになっている間に機動力を生かし、反攻に転じ逆にドイツ軍を市内に包囲する作戦を考えていた。ハルダーらはドイツ軍の側面が脆弱であることをヒトラーに進言したが、ソ連軍には予備兵力が無いと思い込んでいたヒトラーは、ソ連軍が150万の予備兵力を準備しているとの情報を無視した。

11月19日ソ連軍は100万の将兵、戦車980両をスターリングラード正面のエリューメンコ軍、西南方面ヴァツーチン軍、ドン河方面ロコソフスキー軍の3集団に分けてドイツ軍の脆弱な側面を攻撃、市の南西にはルーマニア第3軍の対戦車能力を持たない部隊が配備されていた。これを補強していたドイツ第48装甲軍団は旧式なチェコ製戦車を配備された予備部隊で燃料不足から2カ月もエンジンをかけておらず、移動命令が出たときには偽装のためかけられた藁に住み着いたネズミに配線をかじられ、始動するとショートが起き104両のうち42両しか出撃することが出来なかった。ソ連軍の3500門の火砲の猛射を受けたルーマニア第3軍の陣地は、ソ連第5戦車軍の200両以上のT34にたちまち突破され、市の西カラチでソ連軍が合流。11月23日には第6軍と第4装甲軍の一部20個師団、33万人、戦車600両とルーマニア軍2個師団が市内の廃虚に包囲されてしまった。パウルスはこの時点で弾薬2戦闘日分、食料は12日分しかないと報告し、最低1日750トンの補給を求めた。ヒトラーは「現在のボルガ・北部戦線はいかなることがあっても保持せよ。補給は空輸によって行う」と第6軍にスターリングラード脱出を許さず、包囲から飛行機で脱出したパウルスを市内に送り返した。ハルダーの後任となったツァイツラー少将もスターリングラードからの第6軍の脱出を求めたがヒトラーは拒否。第4航空軍フォン・リヒトフォーフェンは30万の兵への物資の空輸は能力を超えるとしたが、パリにいたゲーリングは電話を受けると、補給は1日500トンを包囲網中にあるピトムニク、グムラクの飛行場に空輸で行うと安請け負いした。ヒトラーは北方にいて、9月のレニングラードでのソ連軍の反撃を阻止したマンシュタイン元帥にドン軍集団を結成させ、敵の攻撃を阻止しスターリングラードの奪回を命じた。しかし、マンシュタインが司令部に到着してみると彼が指揮すべき部隊の第6軍は包囲され、第4装甲軍はわずかしか残っておらず、ルーマニア第3、4軍は大損害を受けていた。 マンシュタインはフランスから第6装甲師団、予備から第17装甲師団など部隊をかき集め13個師団を揃えたが、移動に時間がかかるうちに12月を迎えていた。ヒトラーは「第6軍は今後スターリングラード要塞部隊と呼ばれる」 と語るが、冬を迎えたスターリングラードでは土は凍結して塹壕を掘ることも出来ず、木材は戦闘で燃え尽き零下40度の寒気とソ連軍の砲火を防ぐものはテントしかなかった。

12月12日、これ以上待てないと判断したマンシュタインは「冬の暴風」作戦を発動した。第6軍救援のため第4装甲軍の3個師団がホト上級大将の指揮で、スターリングラードまでの120キロを戦いながら進む。マンシュタインは救援軍に第6軍を合流させ脱出の既成事実をヒトラーに認めさせるつもりであった。ソ連第1親衛軍は12月16日にはドン川西のイタリア第8軍前線を攻撃、弱体なイタリア軍は撃破されロストフが脅かされ、救援軍は西からソ連軍の強圧をうける。ホトは第6軍の前線まであと35キロのところで進めなくなった。マンシュタイン元帥は独断で第6軍のパウルスに脱出して救援軍に合流するよう命じたが、ヒトラーは死守を命令。官僚的な性格のパウルスは第6軍には30キロ分の燃料しかないとして合流を拒否。パウルスはヒトラーの命令を守ってしまったため第6軍の命運は尽きた。 ホトは撤退し、200キロを飛ぶ空軍の物資補給は1日65トンがやっとで食料の最低必要量さえ輸送できず、第8航空軍団は輸送機の他に爆撃機もかき集めて輸送に投入したが、ゲーリングの約束した500トンは1回も達成出来なかった。空軍は攻撃と悪天候で488機の損害を出した。スターリングラードでのドイツ軍の絶望的抵抗は43年まで続いたが、1月には餓死者が記録される。1月21日には飛行場を失い、細々と続いた補給もパラシュート投下のみになる。24日パウルスは降伏の許可をヒトラーに求めた。ヒトラーの返事は「余はすべての降伏を禁じる。軍は弾薬が尽きるまで抵抗せよ。第6軍の英雄的行動は、ヨーロッパの救済に、前代未聞の貢献を成すものである」。1月30日ドイツ軍は3つの地域に分断され、これまで2回のソ連の降伏勧告を拒否したパウルスは弾薬、医薬品、食料が尽き「運命が24時間以内に迫った」と無電を打ったが、ヒトラーは降伏禁止命令と共にパウルスを元帥に昇進させ「歴史上プロイセン・ドイツの元帥が降伏したことは無い」と返電した。翌日、国営百貨店の地下室に置かれた司令部でパウルスは降伏した。包囲後の戦闘でドイツ軍16万が戦死し9万1千人(将軍24人)が捕虜になった。ヒトラーの2つの目標、スターリングラードも南部の油田も手に入らなかった。

北アフリカのロンメルは41年4月に2回に渡り要衝トブルクの英軍を攻撃したが、兵力不足で奪取できなかった。戦車238両の増援を受けた英軍ウェーベル大将は5月15日に反撃作戦をおこなったが、ロンメルに見破られ逆にハルファヤ峠を奪われ失敗した。5月末にはロンメルにもやっと第15装甲師団の増援が届いた。ウェーベルは再び攻勢をかけ「バトル・アクス」作戦を発動、6月15日ハルファヤ峠を攻撃するが、英軍の重装甲を誇った「マチルダ戦車」(Mk2、2ポンド砲、最大前面装甲78ミリ)はドイツ軍の88ミリ砲に撃破され、攻撃は失敗する。ロンメルは逆襲に転じ英軍はエジプトに撤退した。チャーチルはウェーベルを罷免しオーキンレック大将を後任にあてた、オーキンレックは失った装備を補給してから反撃を試みるつもりで備蓄に務めた。11月ドイツ軍を上回る戦力が整ったと判断したオーキンレックは「クルセーダー」作戦を発動、11月18日キレナイカに侵入、トブルク南のシディ・レゼクの飛行場を占領した。同日、英コマンド部隊がロンメルを狙ってベダ・リットリアの司令部を襲撃したが、すでに司令部は移動しており、ロンメルもいなかった。出だしが遅れたロンメルは状況の把握に努め本格的な攻勢と判断。シディ・レゼクに増援を送り、トブルクの英軍との合流を阻止する。英軍は大軍だが広く展開しすぎていると判断したロンメルは飛行場にいた英第7機甲旅団を襲い、救援の第22と第7機甲旅団を各個撃破し飛行場を奪回し、エジプトに迫った。態勢を立直したオーキンレックは東西からドイツ軍を挟み撃ちにすべく移動したが、ロンメルはトブルク南まで撤退した。英軍は11月27日にはトブルクに到達、戦力を消耗したロンメルはトリポリタニアへ撤退し来年の補給を待った。独伊軍の補給は地中海のマルタ島から出撃する英軍に妨害され、必要量を輸送できなかった。

42年1月補給と兵員がトリポリに到着、21日ロンメルは攻勢に出た。29日ベンガジを占領。ガザラを守る英軍防衛線を陸側に迂回して海岸へ進出しようとした、英軍はこれに対し予備の機甲部隊を投入、英軍が新たに配備した6ボンド対戦車砲とアメリカ製M3戦車に苦戦したものの、トブルク西の「大釜陣地」に篭もり88ミリ砲の射程に英軍戦車を誘き出して撃破、英軍の攻勢をしのいだ。ロンメルはエジプト国境に進むと見せかけて再度迂回し、6月20日3万5千の英軍が守るトブルクを総攻撃、21日についにトブルクを占領した。トブルクでは1万の捕虜と膨大な軍需品が手に入った。ロンメルは敗走する英軍を追ってエジプトに侵攻したかったが、戦闘に疲れたイタリア軍から邪魔されヒトラーに直訴してエジプト侵攻の許可を受けるが、すでにイギリス軍の混乱は収拾していた。ロンメルは6月30日にアレクサンドリア西、ナイル川まで約100キロのエル・アラメインに達し防衛線に攻撃を加えたが、補給線が伸びたドイツ軍の戦車は50両ほどになってしまい、増援を受けたイギリス軍の防御は堅くついに突破出来なかった。

ロンメルはトブルク占領の功績により6月21日最年少(50歳)の元帥に昇進していたが「元帥になるより1個師団を」と家族への手紙に書いている。8月チャーチルは再び指揮官を交代させオーキンレュクの代わりにアレクサンダー大将を任命、第8軍司令官にはバーナード・モントゴメリー中将を充てた。8月30日ロンメルは再びエル・アラメインの英軍を攻撃しようとし戦線後方のアラムアルファ高地を攻撃するが、補給を受けたモントゴメリーは陣地を対戦車砲で強化し、燃料に乏しいドイツ軍の攻撃は失敗した。砂漠の厳しい気候の中で常に前線を回り、兵士と同等の食料しか口にしなかったロンメルの身体は不調を来し、持病の肝臓疾患と高血圧症が悪化したため、9月23日療養のため本国に帰った。10月23日、戦車1000両などドイツ軍の約2倍の戦備を整えたモントゴメリーは「スーパーチャージ」作戦を開始。エル・アラメインから攻勢を開始し、ドイツ・イタリア軍前線に1200門の火砲から砲撃を浴びせた。地中海のイタリア輸送船は次々に撃沈され補給に乏しい独伊軍は戦線を突破される。 ロンメルの留守を守るシュトゥンメ将軍は前線視察中に機関銃の掃射を受け心臓発作を起こし死亡した。急遽ロンメルはアフリカへ戻るが、状況は悪く11月3日には残る戦車は23両しかなかった。5日ヒトラーの「貴下は部隊に勝利か死以外の道を示してはならない」との撤退禁止命令に背き撤退を命じる。独伊軍はエル・アゲイラまで1000キロを2週間で撤退した、しかし逃げ遅れた歩兵部隊やイタリア軍は多数が捕虜になった。枢軸軍は2万5千の戦死者と3万の捕虜を出した。11月19日には独伊軍はキレナイカから西へ撤退する。43年1月26日にはチュニジアまで後退する。ロンメルは北アフリカからの撤退をヒトラーに進言するが、ヒトラーは例によって死守を命じた。

42年11月8日にはフランス領モロッコ、アルジェリアに連合軍が上陸(トーチ作戦)しており独伊軍は挟み撃ちされる形になる。ビシー政権のフランス軍は連合軍と交戦し、カサブランカでは米戦艦「マサチューセッツ」が仏降伏時に未完成のまま逃れてきていた戦艦「ジャン・バール」と砲撃を交わし撃破した。10日仏ダルラン提督は連合軍と停戦する。ヒトラーはフランス領土全域とチュニジアへの進駐を決意。26日フランスのツーロン港に停泊していたフランス艦隊はドイツ軍が侵入すると一斉に自沈した。ヒトラーは12月3日第5装甲軍(フォン・アルニム上級大将)を新設し、43年1月末になって新型重戦車「ティーゲル」装備の大隊を含む増援をアフリカに送り戦力を増強させたが、半年でも早くこの増援があればエジプトを占領できたのにと将兵を悔しがらせた。2月13日第5装甲軍はまだ砂漠に不慣れなアメリカ軍第1機甲師団に攻勢をかける、「ティーゲル」の攻撃を受けたアメリカ軍は戦車150両を撃破され129人の戦死、2000以上の捕虜、行方不明者を出し歴戦のドイツ軍に緒戦で痛撃された。18日ドイツ軍はカセリーヌ峠を占領した。アルニムの南にいたロンメルはマレトからガザフに進出し、敵の弱点をテベサとみて攻撃許可を求めたが攻撃は強固なターラに変更されてしまう。このため連合軍が待ち構えていた地点を攻撃することとなり、やむなくロンメルはメデニーヌのモントゴメリーの英第8軍を攻撃するが、またもや強固な防御地点をまともに攻撃する結果となり攻勢は頓挫した。23日司令部からアフリカの部隊を「アフリカ軍集団」に統合してロンメルに指揮権を与えるという命令が届いたが、前日にロンメルはカセリーヌ峠を捨て撤退を開始していた。ロンメルは指揮をアルニムに任せ3月9日アフリカを去る、再度ヒトラーにアフリカ撤退を進言するが拒絶され再びアフリカに戻ることは無かった。17日米第2軍団の攻撃がチュニスへの退路を断つため開始され、20日マレト防衛線への英第8軍の攻撃が始まった。5月12日海路撤退することが出来ず、包囲されたアフリカ軍団とイタリア軍25万はチュニジアで降伏した。

ドイツの軍需産業は前線から多大の装備を要求されたが、ヒトラー(彼は軍服のデザインから戦車の武装、銃器、飛行機、艦船の生産量など細部に係わった)やNSDAP幹部の細部に渡る口出しと、頻繁に変更される命令や仕様変更によって大きな混乱に見舞われていた。42年までは陸海空3軍は独自の工場を傘下にしており、ある工場はフル生産しても他の工場は仕事が無いなど融通は効かなかった。たとえば師団規模にまで肥大したSS師団は国防軍師団よりも戦車や砲、各種車両などを優先的に配備され。空軍相のゲーリングは自分の名前を冠した空軍所属の装甲師団を作り、党第2位である自分の権限を使い装備を優先的に回させた。空軍においても4発の戦略爆撃機計画(ウラル爆撃機)は37年に中止され、技術局長エルンスト・ウーデット上級大将の無能から新型機開発や生産管理は進まなかった、ウーデットは第1次大戦の撃墜王だったが、組織の管理能力が無く、急降下爆撃に固執しあらゆる爆撃機に急降下能力を要求。4発の大型機He177まで急降下性能を求めた、このため同機は2つのエンジンを連結し1つのナセルに納めるという無理な設計をしたため火災を頻発し開発は失敗した。戦闘機においても主力機Bf109(Me109)の後継機Me209の実用化も失敗した。戦争末期に連合軍機を速度差で圧倒したジェット戦闘機の開発にも冷淡であった。41年秋からFw190戦闘機が投入されるが、高々度では性能が低下するためBf109と並行して使用された。41年11月にウーデットは自殺する。しかしヒトラーが個人的に親しかった建築家のアルベルト・シュペーアを42年軍需相に任命してから軍需資材の統制を軍需省に一本化し、中央生産委員会を設け生産の効率化に成功した。またスターリングラードの敗北で意気消沈したヒトラーは罷免していた装甲師団産みの親グデーリアンを復職させ43年2月装甲軍総監に任命。グデーリアンは装甲師団の組織と訓練の権限と、シュペーアと共に生産部門の権限も得た。グデーリアンは装甲軍の兵士を訓練し、戦車の増産に力を入れたしかし、中戦車「パンテル」(75ミリ砲)、重戦車「ティーゲル」(88ミリ砲)は生産工程が多く、まだ技術的に修正しなければならない個所が多く生産は軌道に乗らなかった。このため生産工程の少ない突撃砲(戦車の車体に前方しか射撃できない砲を載せた装甲車両、自走砲とも)によって数を補わなければならなかった。

42年6月アメリカ第8空軍がイギリスで編成され、7月4日にはオランダを爆撃した。アメリカ軍は4トンの爆弾を積め高度1万メートルを飛行する「空の要塞」B17爆撃機を投入しドイツの都市を昼間爆撃し、夜間はイギリス空軍が爆撃を行った。当初はドイツ軍の迎撃戦闘機や高射砲により大きな損害を出していたが、大規模な爆撃により次第にドイツの戦争遂行力を減滅させていった。

42年12月31日イギリスからソ連への輸送船団JW51B攻撃のため出撃した、ドイツ海軍ポケット戦艦「リュッツォー」、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」と駆逐艦6隻は敵輸送船団に対してほとんど損害を与えられずに帰還した。ヒトラーは海軍に敵が優勢な場合には交戦を禁止していたが、オスカー・クメッツ中将は悪天候下で敵の陣容が分からずに、船団護衛のイギリス駆逐艦や遅れて救援に現れた巡洋艦2隻からの激しい防戦を受け、駆逐艦1隻が沈没し「アドミラル・ヒッパー」が損傷したため敵が優勢であると判断して引き上げた。ヒトラーは激怒し全ての大型艦を解体して資材をより有効に使うよう命令し、海軍長官レーダー元帥を解任した。後任のカール・デーニッツは大型艦の解体は撤回させたが、駆逐艦以上の艦艇の建造は中止され、海軍大型艦艇の作戦行動はさらに積極性を欠くことになった。

43年春には東部戦線のドイツ軍装甲師団は、戦車と装備の補給を受け戦力を貯えることができた。またソ連軍も再びドイツ軍の攻勢を予測して戦力を補充していた。42年2月にドイツ軍はハリコフでソ連軍の攻撃を撃退していた。ハリコフの北クルスクではソ連軍の戦線がドイツ軍戦線に100キロほど突出していた。ヒトラーはこの部分に着目し、南方軍、中央軍集団が南北から挟撃してソ連軍を包囲する計画で攻撃を命じた。南方軍集団司令官マンシュタインはハリコフの勝利の後4月には攻撃可能だと報告していたが、ドイツ軍部隊集結は新型戦車を待つ内に遅れ5、6月にはソ連軍がスパイ網や英ウルトラ情報から、ドイツ軍の攻撃を予測し防備を固めてしまった。しかし43年7月4日「チタデル(城砦)」作戦は奇襲の要素が失われ、強襲となったが開始された。両軍ともに満を持したクルスク戦にはドイツ軍90万、戦車・自走砲3700両、砲1万門、航空機2500機。ソ連軍133万7千、戦車・自走砲3306両、砲2万門、航空機2650機が激突した。ソ連軍中央方面軍ロコソフスキー上級大将は脱走兵の情報から攻撃を予知し、600門の砲と「カチューシャ」ロケットでドイツ軍に先制砲撃を加える。北部から攻撃する第9軍(クルーゲ元帥)のドイツ軍戦車はソ連軍の防御陣地線に突入を図るが、初陣の「パンテル」は機械故障が多発、「4号戦車」は強固な陣地から対戦車砲と、地雷原に撃破されて大きな損害を出す。重装甲の突撃砲「フェルディナント」(88ミリ砲1、機銃1装備)は砲撃をものともせず戦線を突破するが随伴の歩兵がついてこれなかったため、ソ連兵の肉薄攻撃で撃破されてしまった。重戦車「ティーゲル」は威力を示し、対戦車砲やT34を撃破したが、北部からの攻勢はソ連軍の猛烈な抵抗でオルホヴァトカ村で停滞した。第9軍はやっと10キロ進出するのに戦車の3分の2を失った。それでもドイツ軍は攻勢を維持し、南部から攻撃する第4装甲軍(ホト上級大将)、ケンプ作戦集団は北部の第9軍より強力な陣容で南部のオボヤン地区に攻撃を加えた、第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」同第2「ダス・ライヒ」同第3「トーテンコープ(髑髏)」など精鋭を含む13個師団はソ連軍の戦線に圧迫を加え前進した。南部ではドイツ軍はソ連空軍機の来襲をレーダーで捕らえ、戦闘機を迎撃に出撃させ爆撃機を撃退し制空権を押さえた。

7月6日にはドイツ軍はペトロフカに達した、8日第4装甲軍はソ連第6親衛軍司令部を制圧、12日にはプロホロフカに向かい第4装甲軍の武装SS師団はソ連第5親衛戦車軍と激しい戦車戦を展開した。両軍1500両の戦車は乱戦となり双方射撃距離が近いため高速のT34は76.2ミリ砲でも「ティーゲル」戦車の88ミリの長射程に対抗できた。上空ではドイツJu87急降下爆撃機、ソ連Il2襲撃機「シュトルモビク」が敵戦車を求めて乱舞した。ドイツ軍の損害は多かったがやや有利に攻撃を進めていた。マンシュタインはあとひと押しだと見た。しかし、7月13日ヒトラーは「チタデル」作戦の中止を命じた、11日連合軍がイタリアのシチリア島に上陸したのである。ヒトラーは装甲師団をイタリアに向かわせようとしたのだった。実際にイタリア本土に連合軍が上陸したのは2カ月後で部隊の転用は早すぎた。7月14日ソ連軍の反撃が開始され、7月30日には攻勢が始まった地点までドイツ軍は後退した。8月にはハリコフとオリョールをソ連軍が奪回。ドイツ軍は3330名が戦死、戦車約1千を失い、ソ連軍は約1万7千名が戦死、戦車約2千台の損害を出したがクルスクを守り抜き、東部戦線ではこの史上最大規模の戦車戦以降、兵員、装備の調達が続かないドイツの守勢が続く。ソ連軍は対戦車戦と機甲部隊の運用を、犠牲を出しながらもドイツ軍から学び取ってしまっていた。9月25日スモレンスクが奪回される。「チタデルは、東方におけるわれわれの主導権を維持しようとした最後の試みであった。失敗に等しいこの作戦の中止とともに、主導権は最終的にソ連軍側に移った。チタデルは東部戦線における戦争の決定的な転回点である」(マンシュタイン元帥回想録)。

7月11日連合軍が「ハスキー」作戦を開始。イギリス第8軍と米第7軍(ジョージ・パットン中将)が上陸したシチリア島では、北アフリカで戦っていた空軍のヘルマン・ゲーリング装甲師団が、アメリカ軍が上陸した橋頭堡のジェラをイタリア軍リヴォルノ師団と共に攻撃するが、沖合いからの艦砲射撃で撃退された。ドイツ軍はシチリア島から、8月11日には英米軍の連携の齟齬をついて撤退を開始する。敗退を続けたイタリアは厭戦の空気とムソリーニへの不満がみなぎり、前線ではろくに抵抗せずに連合軍に降伏する将兵が相次いだ、3月には30万人の労働者がストを行い軍需生産も止まる。ヒトラーほど単独の独裁態勢を固めなかったムソリーニは自身で多くの閣僚ポストを兼任、参謀総長にカバレロ元帥に替えてドイツ嫌いのアンブロジオ元帥を任命し、軍部の人事や内閣の改造で乗り切ろうとしたが、7月24日に5年ぶりに開催されたファシズム大評議会において国王に軍の統帥を返すよう議決されてしまう。議決案はファシスト党古老のディノ・グランディが起草、娘婿の元外相チアノまでが賛成し、賛成18、反対7、棄権1であった。大評議会自体は議決機関ではなくファシスト党の諮問機関だったが翌日、結果を上奏に国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の離宮に参内したムソリーニは、国王にその場で解任されジュゼッペ・カステッラーノ准将によって逮捕されてしまった。22年にムソリーニを首相に任命した国王もすでにムソリーニを見限って休戦を望んでいた、後任の首相には元参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥が任命され、連合国との休戦交渉を秘密裏に行った。ムソリーニの逮捕に抵抗するものはなく、7月28日ファシスト党は解散を命じられファシスト体制はあっけなく崩壊してしまった。ヒトラーは「われわれの敵の中で最も腹黒いやつ(バドリオ)が後を継いだ」とカイテルに語った。バドリオは9月3日連合国と秘密休戦協定を結び、8日連合国は放送を通じて休戦を公表した。3国同盟の一角が崩れ、元々イタリアはあてにならなかったとはいえドイツはヨーロッパで更に苦しい戦いを続けることになった。イタリアの脱落を予想していたドイツ軍は休戦と同時にローマを含むナポリ以北を迅速に占領下に置き、イタリア兵を武装解除し抵抗するものは攻撃した。バドリオと王室は南部のブリンディジに逃れる。連合軍は9月3日メッシナ海峡から上陸、9日イタリア本土ナポリ南のサレルノに上陸した。

ヒトラーは盟友ムソリーニの救出をSS特殊部隊オットー・スコルッエニー大尉に命令。スコルツェニーはムソリーニがアペニン山脈グランサッソの標高2914メートルのホテルに軟禁されているのを突き止めた。3方を山で囲まれケーブルカーが通っていたが約100名のカラビニエリ(警察と軍隊を合わせたような組織の兵、現在でもある)が警備していた。9月12日スコルツェニーはSS特殊部隊と降下猟兵部隊を率いて、山頂のわずかな広場にグライダー12機(着陸成功8機)と離着陸距離の短いFi156連絡機2機で強行着陸。 スコルッエニーらはホテルに突入するとカラビニエリをなぎ倒しながら部屋に入り、ムソリーニに「総統閣下の命令でお迎えにあがりました」と敬礼した。ムソリーニはスコルッエニーを抱きしめると「友である総統が私を見捨てないことはわかっていた」と感謝を述べた。急襲にあっけにとられたカラビニエリ達は簡単に武器を捨て、ムソリーニの救出に成功する。ムソリーニとスコルツェニーは連絡機で脱出し、残りの兵はケーブルカーで下山した、作戦後には両軍の兵士が共に記念写真を撮るほど余裕を見せるあざやかな作戦だった。ヒトラーは功績に対して騎士十字章を与え、スコルツェニーを少佐に昇進させた。スコルツェニーはこの後も数々の特殊作戦を指揮し「ヨーロッパで最も危険な男」の異名をとる。13日ミュンヘンでヒトラーに会ったムソリーニは堅く抱擁した。

ヒトラーは、後にガンと分る胃痛に憔悴して気力を失っていたムソリーニを「イタリア社会共和国」(RSI)の首班につけさせ、ドイツ占領下のイタリア北部ガルダ湖畔サロに政府を置いた。「我はふたたびファシスト・イタリアの指揮に就いた」と演説したが、もはや何も実権はなく完全にヒトラーの傀儡であった。バドリオ政権は10月13日ドイツに宣戦し、ヒトラーはドイツ軍に逮捕された元外相チアノらを反逆罪で処刑するようムソリーニに指示。占領下のローマで反ファシストの抵抗組織が「国民解放委員会」を結成。両政権のイタリア人は敵味方に別れて血を流すことになり、市民にもパルチザン活動でドイツ軍を攻撃する者も多かった。当然ドイツ軍は「裏切り者」を厳しく取り締まり多数が逮捕、処刑され、強制労働に送られた。ドイツ軍南西軍集団(アルベルト・ケッセルリンク大将)は上陸した連合軍に対し、モンテ・カシーノ付近に防衛線「グスタフ・ライン」、フィレンツェ付近に「ゴシック・ライン」を構築して頑強に抵抗、大きな損害を与える。ロンメルはケッセルリンクと共に作戦指揮に当たっている。チャーチルはイタリアを「柔らかい下腹」と見ていたが山地の多いイタリアでの連合軍の進撃は遅れた、山岳地形のモンテ・カシーノでは精鋭の降下猟兵が数度の攻撃を撃退していた。連合軍は山頂にある聖ベネディクト修道院を爆撃で破壊した。連合軍は44年1月22日ドイツ軍背後のアンツィオに上陸して3月モンテ・カシーノを占領、6月4日にはローマに入城した。

(ホーム)(その4)(その2)(その1)