会報1999年秋 報告とお願い
CONTENTS

 

 

先頭へ戻る

 

 この会が成立して、9年目になります。 その間、ずっとお支えくださいましてありがとうございます。 最初のお願いから、毎年の報告にお答えくださいまして、カンパをお送りくださいましたことに尽きない感謝を抱くものです。考えてみれば、お顔も存じ上げず、会報の紙切れ一枚に応答していただくのですから、そしてそれが10年近くもつづくのですから、年間3000円の会費といいながら、御随意にと申し上げれば、年金の中から1000円ずつ送ってくださる方もいらっしゃれば、1万円、2万円と送ってくださる方もいらっしゃって、その年の必要額はまかなえるのですから、不思議なことです。

 

先頭へ戻る

 

温州の就学保障

 関東大震災の時、日本で殺された温州山地の中国人労働者の遺族の子どもたちの就学保障をすることから、この会は始まりました。国も9年の普通教育をと声をかけていますし、親たちも、助学金が支えで、がんばれば上の学校に行かせることができるということで、中退はなくなりました。経済も好転してきています。しかし子どもたちが中学生になると、職業教育がどうしても必要です。段々畑の天までつづく村から、出稼ぎに出るのですが、技術を持たないと肉体労働に頼るしかありません。ミシンの授業導入は、女生徒の自立を助けるひとつの試みです。

 

先頭へ戻る

 

教育条件整備

 95年から外務省の小規模無償援助資金と郵政省のボランティア貯金の配分を得て、教育条件整備をしてきました。不足額は、臨時カンパでみなさまに助けていただきました。
  温州の山地には、中学校の校舎が2校(外務省小規模無償援助資金)、ミシンの教室棟が1校(郵政省ボランティア貯金配分金)たちました。 96年から支援をはじめた興隆県には、中学校の校舎が2校(外務省)、寄宿舎が1校(郵政省・当会カンパ)建ち、小学校の増改築3校のうち2校は郵政省、1校は当会カンパで建ちました。(10年の歩みを御覧ください。)

 

先頭へ戻る

 

興隆のこと

 興隆県は、戦争中日本軍に焼き払われて無人区にされたところです。 三光の一番ひどく行われたところです。1933年河北省から、無理に満州国に入れられました。五族協和、王道楽土の満州国のはずですが、興隆県には、日中戦争の中で日本軍の行った罪悪のサンプルがみなそろっています。連日の討伐、検挙、拷問、虐殺、強姦、強制連行、細菌謀略、毒ガス等々。1939年16万人の人口は、1945年10万5千人になっていました。家族に犠牲者のいない家はありません。犠牲者はすべて農民です。1996年までこの県は、外国人の入ることのできない未開放地区でした。植林は、南から行われてきましたが、お金がつづかず、北の方は依然として木のない岩山です。毎年洪水に見舞われ、日照りの今年は干ばつで、作物は7割だめになりました。しかし村人たちは、貧しい中でも誇り高く生きています。
  興隆にも貧しさのために就学できない子どもたちはいます。 県長以下県の公務員たちは、一年の賃金の中から、1ヶ月分の80パーセントを拠出して、そういう子どもたちの就学保障にあてているのです.。

 

先頭へ戻る

 

授業研究交流

 1997年から毎年夏、教育研究交流団を派遣していますが、目的はふたつ、教材を持ち込み、授業のなかで、それを使って中国の先生に見ていただく、日本では、こんな使い方をしているのですが、よかったらお使いくださいと。子どもたちの利発な目はかがやき、励まされるのは日本の先生たちでした。先生たちともざっくばらんな話し合いがつづけられます。 もうひとつは、古老の話を聞いて、歴史の真実を知るということです。
  今年は建築費をとどける3つの村で、授業をしました。石仏、営南峪、茅山です。石仏小学校で、中国の先生の国語と算数の授業を見せてもらいました。県の教育どんな僻地にも出かけていって、授業方法の改善指導に当たっているので、質の高い授業でした。
  日本側の授業も前回の反省の上に立って、教材など工夫されていました。時計を使った授業(Sさん・Kさん)は、蘭子ちゃんの一日の生活を写真にとって、日本の子どもたちの生活を紹介しながら、中国の子どもたちの時間帯を考えさせるものでした。
  Tさんは、中国でも子どもの大好きなドラえもんを連れてきて、いっしょに5、10のかたまりとして、数をとらえさせる練習に、ブロックを使いました。
  Mさん、Iさんは、青虫さんと蓑虫さんのおうちを聞くという歌をつくって、一緒に歌いながら、鍵盤ハーモニカのドとソの位置を子どもたちに判らせる工夫をしていました。

 今年の団(27名)には、天津の南開大学の日本からの留学生(Hさん、Oさん、Oさん)が参加し、最後の茅山の授業の通訳にはこの3人の学生が、活躍しました。日本の若者の未来に大いに希望を持ちました。

  新しい土地での古老の話は、また心をえぐるものでした。みな熱心にメモをして、歴史の事実を凝視し、曲がりなりにも戦後の平和を守ってきた各種の法制の崩壊してく日本の現実にどう対処すべきかを、それぞれの場で考え行動する課題を負って帰ったのでした。

 

先頭へ戻る

 

終わりの日を見定めて、終わりなき旅を

  宋慶齢さんは、救済と福祉を考える場合、常に開始と方法と終点を考えなければならないといいます。開始は常に問題を知った「今」であり、「終わり」の日を見定めて「方法」を考えようといいます。
  この会の支援も震災80周年を迎えるまでには、大型?プロジェクトは、終わることができると思います。しかし、教材などの支援をつづけながら、友人として「ごきげんいかが」と訪ねつづける旅に終わりはありません。

 民衆の平和の意志は、国境を越えて友情をはぐくみ、子どもたちの未来にゆるぎない信頼の大道を残すことでしょう。
  皆さま方の変わらぬ御支援に感謝し、今後もいっしょに歩き続けていただけますよう、改めてお願い申し上げます。

 

 

会報目次へ戻る