会報1998年秋 報告とお願い

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張家口地震のその後

 

 8月23日から26日まで、当会理事3名(F.N、A.J、Y.I)が、張家口の北の張北と尚義(一番ひどかった県)へ行ってきました。市や県の責任者は憔悴していました。1月から不眠不休の活動をしてきたのです。基本的に災害は克服されたと言っていいでしょう。国際援助、国内援助はみな学校と民家の再建にあてられていました。我々のカンパは学校再建に使われました。張北と尚義だけでも倒壊学校は669校にのぼります。今回お見舞いに10万円持って行きましたが、それは、学校の机、椅子など備品購入にあてたいと張家口市政府はいっていました。学校と民家の再建に要する費用3億元。現在1億元。その差額は災民が自給。

 村々はまさに瓦礫の廃虚でした。人気のないこわれた囲いのなかに豚がいたり、にわとりが走り出たりしていました。村そのものが別の場所にひっこして再建しているのですが、家畜は、そのまま置いていって、時々戻って世話をするのだそうです。子どもの声に誘われて行ってみると、2張のテントの中で子どもたちが勉強していました。再建村のれんが作りの学校にもうすぐ移れるのだそうです。倒壊学校はいま80パーセント再建達成、9月の新学期にあわせるべくがんばっているそうです。

どうして町は無事で村だけがこのように被害が大きかったのでしょうか。村の家は、レンガづくりでさえなかったのです。火山岩を積み上げて、両面に土を塗っただけの家は、振動にもろかったのです。 民家の再建補助は2人以下の家は1間分(柱と柱の間を間といいます)2000元、3人以上に家は2間分、4000元。
 それ以上は自己負担、自分たちでレンガを積み上げていました。
 現在なおテント暮らしをしている民家は10パーセントだそうです。
 死者が比較的少なかったのは、不幸中の幸いでした。
 ここは、モンゴル草原の南端にあたります。作物は、小麦、攸麦(蕎麦に似ている)亜麻、馬鈴薯、雑豆、甜菜等。食糧の自給ができるのがなによりのことでした。 
 あの土地の方々の努力に敬意を表し、この土地への救援は一応終わります。当会からの救援カンパは、零下30度の現地に一番早くついて大変感謝されていることをご報告して会員の皆さまに現地に変わってお礼もうしあげます。
 なお夏の水害カンパについてもお申し出がありましたが、この取り組みは、それぞれの県、または日中友好協会などのルートを通して行ってくださるようお願いいたします。

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再び興隆県へ授業団が行く

 8月17日から22日まで昨年にひきつづき、授業団17名が興隆県に行きました。

 教材は今年は重量がかなり制限されて、リコーダー200本、さんすうセット126箱、ピアニカ74台、文具3箱。リコーダーは大水泉、モクイ、大杖子の中学に、さんすうセット、ピアニカ、文具は3つの郷の昨年さしあげていない学校にさしあげました。  

 アルトリコーダーを使った音楽の授業と昨年さしあげた顕微鏡を使った生物の授業はモクイ中学で行いました。その前夜おそくモクイに着いたのですが、先生も生徒も待っていてくださって、校庭でキャンプファイヤーの明かりのもとでの交歓会はとても熱気にあふれた楽しいものでした。
 村人もたくさん出てきて見ていました。村をあげてのお祭りであったのかもしれません。 

 その夜は、モクイ中学の寄宿舎に泊めてもらいました。ボランティア貯金の配分金と、私たちのカンパで建ったあの寄宿舎です。学生たちは夏休みで家に帰っていましたから。清潔なベットで一夜を明かしました。水洗トイレもきれいにお掃除がしてありました。

 モクイと大杖子では、昨年泊めていただいた家にそれぞれお礼に走りました。とても喜んでいただきました。

 昨年は古老たちの話から人圏の様子を少し理解することができました。今年は無人区にされた地域に入って当時の様子を聞きました。横河の羊羔峪、洒河の大帽峪、藍旗営、さらに横河上流の大水泉から万人求、山を越えて成功村から黒河沿いにモクイにたどりつきました。ここはバスの通れない道で8台のジープをつらねました。根拠地だった五指山の麓を一周したことになります。

 最終日、1945年9月1日、興隆在住の日本人及び日本兵が北京に徒歩で脱出したルートをたどって北京に帰りました。途中、清の東陵を見学しました。北京では廬溝橋と記念館及び宛平城の弾痕を探して城壁を一周しました。記念館の見方は、表の館だけではなく、奥へ奥へ行くと侵略の実相を知ることができます。これからいらっしゃる方のために付加しました。

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谷に響きわたった笛の調べ

 今年は、音楽(リコーダー)の授業の通訳を担当し、良い経験をさせていただいた。

 
 8月20日早朝、N.A・K.M両先生がリハーサルする「エーデルワイス」の調べがモクイの谷に響きわたった。小さく白く気高く輝く高山の花に、祖国をいつまでも祝福せよと歌うこの曲は、抗日の伝統ある興隆へ捧げるにはぴったりのものだった。石づくりの建物は音響がとても良く、外では村人や運転手さんたちも感動のおももちで聞いていた。
 授業の時は後ろに立っているモクイ中学の先生方もリコーダーを持っていっしょに練習、皆で「喜びの歌」とか「かっこう」の2曲をマスターした。

 私自身の思い出だが、小5の時、リコーダーがはもる美しさとその興奮を音楽の先生から教えてもらって以来、休み時間や放課後に友達といろいろな曲を吹いて過ごした楽しさは忘れられない。興隆の山々の子どもたちにもそんな楽しい思い出を作ってもらえたらやはり嬉しい。指導の実際をめぐっては、教師間のさらなる経験交流が必要だ。「また来年もぜひ来てください」というモクイ中学の先生たちの言葉は決して社交辞令ではない、真剣な響きがあった。(M.I)

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顕微鏡を使い、山の子どもたちにウミホタル

 千葉県の県立高校で生物の教員をしているO.Kさんが、モクイで顕微鏡を使った授業をしました。顕微鏡は、昨年埼玉から贈ったものです。教材として、千葉からウミホタルを持ち込みました。

生きているウミホタルを十分な量、用意したはずでしたが、成田で海水を取り替えたときに不純物が混じっていたようで、飛行機に乗る前に既にほぼ全滅。しかし奇跡的にも1匹だけかろうじて救出に成功。これを大切に抱えて中国へと向かうことになりました。モクイでの授業までの4日間、O.Kさんはただ一匹残ったウミホタルを生かしておくため数時間おきに海水を取り替えたり大変な気の使いようでした。気がつくとウミホタルのサンプル瓶を相手に格闘していました。モクイは中国の山の中ですから、おそらく海を見たことのある子どもも少ないでしょう。

 モクイの沢を飛んでいる陸のホタルと、千葉のウミホタルと、面白い対比になるのではと期待をしていました。授業は、まず乾燥ウミホタルを発光させて、子どもたちを引き付ける予定だったのですが、教室が思うように暗くならずに、大薮さんは困っていたようです。しかし箱と暗幕で、ほんの一角ですが暗闇を作って見せたウミホタルの発光には子どもたちは食い入るように見ていました。O.Kさんは真っ暗闇で発光させると幻想的であると説明したので、残していったウミホタルのサンプルで夜もう一度実験してくれたのではと思っています。
 その後、死んではいるものの観察できるように特殊保存をしたウミホタルを子どもたちに配って、顕微鏡で観察をしてもらいました。子どもたちは、この1年で顕微鏡の扱いに結構慣れたようで、手際よく作業、スケッチをしていました。そして、ただ一匹生き残っていたウミホタルを一人づつ順番に見本として観察してもらいました。顕微鏡の下でピクピクと、まさに生きている生物を観察するのは海の生物だけにことさら新鮮だったようです。

私も地学が専門でありながら、生物の授業を持ったことがあります。顕微鏡で観察させる材料を用意するのには結構苦労させられました。ところが、生物専門の先生に聞くと以外と身近にいくらでも材料がころがっていることに驚かされます。千葉では生物の教員同士が情報交換していますが、顕微鏡を授業で使い始めた中国の学校では、結構このへんが課題になったりするのではと考えました。顕微鏡を贈るだけでなく、中国の興隆県では何が観察の材料になるのか、一緒に教材研究をしていくことも必要なのでしょう。(K.A)

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万人求村での出来事

 美しい険しい谷合いの道の渓谷沿いにこの村はあった。
 八路軍の本拠地「五指山」にちかく、ここは、当時の日本軍が、無人区とした場所である.

 ここでは、呂さんをはじめ8名の人からの証言を聞いた。証言が始まる前にピンクのシャツを着た中年の男性がなにやらわめいていた。現地の世話役らしい人に場外に押しやられていた。中国語の判らない私は何を言っているのか判らなかった。
  無人区とは、人が立ち入ってもいけないし、耕作もしてはいけない。家も作物も焼き払らわれ、人は見つかったら殺される場所であった。八路軍と民衆を切り離す作戦のひとつであった。
 任さん(61歳)は、1945年当時8歳(満6歳)、父、母、姉、弟、の4名が日本軍に殺された。
 最初は、日本軍がこの村に入ってきた様子を物静かに話していたが、たった一人残された苦労があなたたちにわかるか、父、母、姉、弟の4名を殺された気持ちがわかるかと、身をよじるように訴えられたとき、私たち一同は、彼を正視することができなかった。
 ピンクのシャツを着た中年に見えた男性も被害者の一人と後でわかった。=後略=(K.M)

 万人求(河北庄)・・・戦争中は万人仇という意味を込められて呼ばれたというこの村でお会いした、任さんの涙に歪んだ顔と怒りの声がよみがえってくる。任さんは、私たちが到着した時すでに涙を浮かべていた。私たちの到着を表情に出して待っていてくれた証人の古老たちの中で、任さんだけは下を向いたり、自分の両手を見つめたり、麦わら帽子で顔を隠したりして落ち着かなかった 。その様子が私の目に飛び込んできたとき、この人の口からはどんな辛い思い出が出てくるのだろうと、胸を締め付けられた。怒りに震えた彼の口を出た言葉は咽び、詰まり、ほとんど聞き取れない。
 「黒岩の部隊がここまで来て、・・・母と2歳の弟と8歳の私と・・・ここまで追い出されて・・・父母が先に捕まって、家は焼き払われて、食べ物のないひどい目に遭い・・・母が弟を抱いて、ご飯を届けに来て、家族4人はみんな殺されて、どこで殺されたのか・・・1945年4月のこと・・・」
 任さんの声は耐えきれず突如荒くなり、その先を徐さんは通訳してくれなかった。=後略=(Y.I)

 なんといっても万人求の出来事は忘れられません。
 昨年の旅の話をしたときに、生徒の一人から出た疑問、「先生、本当に中国の人は皆許してくれたの?」は、それ以来ずっと私の胸にわだかまっていました。そんなはずないのですから。
 そして、木陰に集まって静かに語り始めた任さんが、やがて8歳で孤児になったいきさつまで来て、せきを切ったように激して涙とともに叫び始めた時、「どうしよう」と思って緊張しました。
 目の前で、赤子を抱えて倒れていた母の姿、連行されて帰らぬ父、そしてたったひとり残されて以来の孤独と苦労、50年余り胸にとじこめていたその想いが一度にあふれたようでした。
 すでに、まわりに集まった村人の中には、老人たちの前に何事か叫んで抗議する人(40歳くらい?)がいました。「さんざん悪事をした日本人が、今さら何だ」といっているとのことでした。
 県や村の責任者の方々が、入れ替わり立ち替わり、なだめて、他へ連れていって説得しているようでしたが、証言が始まってもしばらくその抗議の声はやまず、任さんの涙と重なって、非常に強い印象となりました。かっての日本軍が行ったことは、そうやすやすと許されることではないのです。
感情をおさえられなくなった任さんにF.Nさんがあやまり慰める間、トウさん(県党史弁公室前主任)は、私たちを囲む村人たちに向かって話し始めました。いくつかの単語とその素振りから、「今ここにいる日本人は、昔のことを知り、国へ帰って真実を知らせるためにやってきた友人である」と力説していることがわかりました。あとで聞くと、その演説の前段で、”村人の日本人への怨念は良くわかるし、自分もかつての日本人が目の前にいたら、きっと殺したいと思うだろう”と村人への共感を述べていたということです。
 柔和なトウさんの毅然とした姿に打たれるとともに歴史的障害をのりこえて日中友好の絆を結ぼうとする決意を感じて、涙が止まらなくなりました。帰国後の責任の重さもずしりと感じた場面でした。
  何度も現地を訪問し、人間的信頼関係を築き、裾野を広げていくことの大切さがわかりました。(A.J)

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興隆で考え感じたこと

 今回、興隆県の山奥の渓谷沿いに散在している集落を訪問し、村人たちと接して感じたものは、とても新鮮で、記憶に残りました。
 ひとつには、50年以上も経っている出来事を、証言者たちは一寸前の出来事のように鮮明に覚えていることです。それだけ日本軍の兵士たちが非人道的で、残虐な事を興隆県の人々にやりつづけてきた事の証であると思います。ふたつには、我々日本人の訪問者に対して、ものすごく親しみこめた人間味溢れた眼差しで迎え入れてくれたり、疚しさの全くない神々しい、特に子どもたちの汚れのない目の輝きをしていることに、強烈な印象を持ちました(質素な住まい、生活とは対照的に)。このようなすばらしき人々を拷問にかけたり、殺戮するとはとても私には信じがたいことではありましたが、証言者たちの証言を聞いて、私は事実以外の何ものでもないことを感じました。まさに日本軍国主義のもとで、殺人鬼と化してしまうものであることを実感した次第であります。この悲惨な歴史を二度と繰り返さない為には、ひとつは興隆県の証言者たちの証言を多くの中国人、日本人が直接聞き、その聞いたことを更に多くの人たちに語り継いでいくことが必要だと改めて再認識しました。魯迅は『故郷』の中で『もともと地上に道はない歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』と述べています。興隆県の人々と友好の道を切り開いた『F.N先生』の造り上げた道は、今回の訪中で更に道らしきものになってきたと感じています。
 ☆延々と続く絶景の山々と渓谷☆すべてレンガ作りの家☆どこの家も老若男女が家の前に出ている☆若い女性、女の子がおしゃれで、きれいな人が多い☆山羊の群れの世話や、家の仕事をよく手伝う子どもたち☆急斜面も利用してあらゆる所に見られるトウモロコシ畑☆修理屋さんの多い町☆ユニークなトイレ等々
 21日北京で投降するために日本軍が撤退する道を辿っているとき、トウ氏が、山行(私の大好きな漢詩)の雰囲気を醸し出す場所で、その漢詩の朗詠と解説をしてくださったことにとても感動し、漢詩の勉強をしようという衝動に駆られたのでありました。
 山行 遠上寒山石徑斜 白雲生処有人家 停車坐愛楓林晩 霜葉紅於二月花 (千葉 O.K)

 興隆への旅をもう一度確かめたいと思い、「無人区長城のホロコースト」を読んでいます。
 車で走った山道、広がる景色、山間の集落、そしてなによりも証言してくださった老人たちの姿が文章と重なってきます。あののどかな山奥の暮らしの中に突然襲いかかった日本軍の暴虐。家を焼かれ、家族や隣人、たくさんの人々の虐殺を目の前にし、自分もいつ銃剣で刺されるかもしれない極限の状況。そして、決して消し去ることのできない悲痛な思いを抱えてこれまでの歳月。今でも万人求で家族全員を殺された古老が私たちに向けた怒りの言葉とやりきれないような表情が浮かんできます。
 今回の旅は、行く先々が日本侵略の跡であり重たい事実をつきつけられる旅ではありましたが、反面、山の中の村に新しい学校や寄宿舎が建ち、そこで学んでいる子どもたちとの交流をもつことができ、とても明るい気持ちになりました。
 特に、私たちの旅にかかわってくださった興隆の方々の事前の周到な準備、ずっと行動を共にしてくださった好意には、言葉に言い尽くせないほど感謝しています。
 F.N先生は、「私たちにできることは、その事実を検証し、心に刻むことであろう。そして、鉄砲を持って頼まれもしないのに勝手におしかけいったときとは別の日本人が、新しい友情を携えて出かけることであろう。」とこの本を結ばれています。
 今回の旅に同行し、50数年前の悲劇を超え、かたい友情がはぐくまれている姿を目にし、深い感動を覚えました。(H.M)

 中国は2回目になります。9年前に尋ねた南京でも証言を聞く機会があり、その内容に心が氷つくようでした。それと同時に、きちんと知らずにきた自分自身そして日本の歴史教育に、日本人としてとても恥ずかしい思いがしました。また、「ナガサキ」「ヒロシマ」止まりになっている平和教育、被害者意識だけを子どもに教えていたのではないかと反省させられました。
今回、興隆に来て、無人区のことや人圏のことを初めてくわしく知ることができました。また、何年たっても癒されないおじいさんの思いを知り、涙が出ました。しかし、それでもあのおじいさんの思いのどれだけを私はわかることができたのかと思います。聞いた者の責任としてきちんと伝えていかなければなりません。本当の交流は真実をきちんと知ることからしか始まらないと思いました。
 また、どこは行っても懐かしそうに寄ってこられるお年寄りの方々にF.Nさんとの信頼の深さを感じました。(Y.K)

 7日間の中国の旅・・・心身ともにパニック状態で帰国した。「帰ったら心の中でゆっくり整理します」とお約束したにも関わらず、なかなか整理できないどころか、パニックが高じて熱を出し数日寝込んでしまった。
 第1に、古老の証言。聞いて必死でメモをとったけれど、心を感じさせないようにしなければ聞き続けることはできなかった。毎日毎日何人もの古老からの証言。そこで何度も聞かれる三光政策、人圏、無人区のこと。日本人の一人としてこの歴史に責任があるということを改めて痛切に感じた。証言を聞いているとき、辛くて身を切られるようだった。
 第2に、中国の貧しさ。戦争が終わって、日本と同じように50余年の月日が流れたはずの中国。村々で出会った人々は、大人も子どももみんな一様に穏やかで平和な顔をしていた。けれど、彼らのどの形容し難いほどの貧しさをどのように受け止めればいいのだろうか。
 第3に、子どもたち。日盛りの中、沿道にずらりと並んで、「熱烈歓迎」をしてくれた子どもたち。古老の証言の後では、子どもたちの顔さえまともに見られなかった私ではあるが、授業を真剣に受けていた子どもたち。信じられない程粗末ないすに腰掛けて、傷だらけの机で日本の先生の話にじっと耳を傾けていた子どもたち。そしてあの交流会の夜。東京の武道館のコンサートだってあれほどの熱気に包まれることは滅多にあるまいと思われた。そして子どもたちのどの出し物も見事な表現力で本当にびっくりした。日本の子どもたちや大人(教師)に、何よりも中国の子どもたちのすばらしい表現力を見せたい、伝えたいと思った。
 なんとか今のこの時点で心の中を整理し、余計なものを全て捨てたとき、最後に残る思いは、「近い将来、私たちが出会ったあの子どもたちの手によって、きっと中国は物心ともに豊かな国になるに違いない」ということである。(M.E)

 酒田港にも強制連行があったことを、興隆から帰ってきて初めて知りました。関心を持っていないと何も見えたり聞こえたりしないということを身を持って経験しています。(C.T)

 ずっと以前から、いつか行ってみたいと思っていた中国・万里の長城で、悲惨な出来事があったのを知ったのは、今年の4月。K先生と平和教育研究交流会議に参加したときでした。
  あの時は「八路軍」「人圏」という言葉を聞いても、何のことかさっぱりわからない私でしたが、大分に帰り、本を読んだり、K先生から話を聞いたりするうちに、万里の長城に対する思いが少しずつ変わっていったように思います。

 私が今回の興隆への旅に参加しようと思ったのには2つの理由がありました。ひとつは、今まで私の知らなかった中国を知る必要があると思ったからです。(今まで何も知らなかった反省も含めて)興隆へ行けば、本を読んだだけでは得ることができない”何か”を感じることができるのではないかと考えたからです。
 ふたつめは、教員という立場を離れて、何か活動したいと思ったからです。学校では校内の平和教育を担当していますが、担当だからしていること、教員だからしていることが多いように感じます。平和教育は、私の中で大切にしているものですが、時々、もし私が教員になってなかったら、平和教育について考えただろうかと考える事があります。そんなとき、教員という立場を離れても、ひとりの人間として、平和を大切にしたいと思います。今回の旅は、自分の本当の意志で参加できる旅でしたので、行くことを決めました。

 興隆に行って、話を聞くにつれて、”このことは、自分の中だけにとどめておいてはいけない。できるだけ多くの人に、子どもにも伝えなくては”と思うようになりました。そしてまた、”私たちが日中友好のかけはしにならなくては”とも思うようになりました。(実際は何もできないし、思い上がった考えかもしれませんが・・・)S.K先生が時々言われている「歴史の事実を伝えるだけでなく、これからの日中友好を子どもたちとどう考えていくかが大切。」ということが実感として湧いてきました。
 また、興隆に行くことがあれば、是非、参加をしたいと思います。そして、その時は、新しい仲間を誘おうと思います。(Y.K)

 また行ってもいいのかなあ、新しい人が行く方が拡がるのだけれど・・・でもやっぱり行きたい!・・・ということで、2回目の参加となった。
 出迎えてくださった孟さんをはじめとする興隆の方々に「あなたは昨年も来ましたね。2回目ですね。」と言われ、覚えていてくれたんだととっても嬉しくなった。そして興隆の道を進みながら、そうそうこうだったのよね、この景色よね、と車窓の風景がとても懐かしくてまるで故郷に帰ったような気持ちになった。人も場所も、昨年と変わらない温かさで私たちを迎えてくれたのだった。

そんな中で、昨年にはなかったもの・・・各地に石碑が建てられていたことに感動した。昨年モクイの殺人坑に行ったとき、トラック一杯になる程の骨が出てきた場所なのに、くるみの木が植えられてはいるものの野ざらしのままなので、追悼碑をたてた方が・・・と言いながら何もできなかった私たちだった。
 そこに、ちゃんと県政府によって、歴史の事実を後世に伝える文を刻み込んだ碑が建てられていた。今回、5ヶ所で見ることのできたそれらの真新しい碑に、興隆県政府の方々の熱い心意気を感じた。
 そして、昨年以上より多くの場所でより多くの証言者の方々から話を聞き、ますます日本侵略の事実が私の中に定着していった。こんな山奥の小さな村々で普通の暮らしをしている庶民であるお年寄りの一人ひとりが、みんな凄惨な体験を持っているのだ。万人求では、任さんという方が、当時8歳だった自分に立ち返ったように、思いの丈を家族が殺された悔しさを、声をふりしぼって訴えられた。任さんの家族を無惨に殺してしまった日本人につながる私・・・任さんは私の父よりも年が若い。もし私の父がそのような体験を持っていたなら、私は許さないし、恨んで恨んで恨み抜くだろう。任さんの思いや怒りに限りなく近づきながらも、でも私は日本人であることの呪縛から逃れることはできないのであり、何ともしがたい矛盾した思いで涙をこらえながら聞いていた。昨年は、日本にいる今は普通の暮らしをしている加害者たちが沈黙していることに怒りを覚えたのだが、今回は、その沈黙している加害者たちにつながる自分ということの責任の重さを痛感せざるを得なかった。日本人としての責任を負いながら私自身がどう償いの行動をしていくのかが問われている。
 今まで、よく日本が「いつか来た道」になってしまうのではとその時々の状況の中で言われてきたが、新ガイドラインや有事立法制定問題等が出ている今ほど、危機的な状況はないのではと思われる。それに加えて、証言者の方々も知っておられたように、日本の侵略の事実を否定しようと執拗に運動し続ける人たちがいる。いろんな悪い状況にどう太刀打ちしていけばいいのかと、大上段にかまえて考えても大きなことができるわけでもない。やはり、自分の周りにいる身近な人々そして子どもたちにこの事実を丁寧に伝えていくことしかない。そして絶対に「いつか来た道」にはしないぞと固く決意をしたのだった。

やっぱり来てよかった。2回も来てよかった。日本軍の行った無人区作戦、三光について更によく分かったことはもちろんのこと、興隆の方々との親密度も増した気がする。モクイと大杖子で宿泊させていただいたおうちの皆さんとも再会できた。昨年「また来ますから。」と言って分かれたのだが、その言葉が嘘にならなかった。皆さん懐かしそうににこにこして声をかけてこられた。本当に嬉しかった。
 3回目への意欲が湧いてくる。それまでに、自分のできることを確実にやっていきたい。
 お世話になった中国の方、日本の方、多くの方に・・・有り難うございました。(K.I)

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温州のこと

  • 瑞安市湖嶺鎮湖嶺中学の寄宿舎の落成は来年の1月の予定。 ----- 外務省小規模無償援助金の750万円によります。
  • 同湖嶺鎮芳庄中学校ミシン教室棟来年4月落成予定。ボランティア貯金配分金546万円によります。10月末現在段々畑を整地中。
  • 助学金・奨学金の支給について -----経 済も好転し、9年の普通教育をという政府の呼びかけのもと、親たちもがんばって、子どもの中退はなくなり、だいたい中学まで行けるようになりました。来年は一時、支給を停め、基本調査をやりなおして以後奨学金(高校・大学)の支給に切り替えることになりました。資格を持った教員不足は深刻ですから、人材育成は急務なのです。
  • 宮崎県のM高校が、芳庄中学の生徒ひとり招聘してくださることになりました。ミシンの授業団のひとりF.Iさん(体育)が友人の長嶺哲哉さんと相談して実現にこぎつけてくださいました。
  • 昨年ミシンの授業を受けた40人の生徒のうち3人が、職業高校の縫製科に進学したそうです。本格的な洋裁の技術を持った教師が、あの学校には必要ですが、よい情報があればお知らせください。
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今後のこと

  • 4月に第3次ミシン授業団が、落成式参加を兼ねてでかけます。
  • 興隆県大杖子中学の建築費を外務省小規模無償援助資金に申請していましたが、中国関係は、今年は一括して水害地への支援にあてる旨、北京の大使館から連絡がありました。ここも毎年水害のでる地域ですから、もう少し折衝してみようと考えています。
  • 教材輸送は来年6月船便で送り出す計画です。横浜と門司で積み込む予定です。どうぞ教材集めにご協力ください。ピアニカ、リコーダー、キーボード、さんすうセット、顕微鏡、放送設備(旧)など。期日6月10日まで。送り先 当会事務局
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往来

  • 日中友好平和条約締結20周年記念を記念するシンポジウムに9月団長として来日された黄さん・何さんご夫妻を囲んで9月17日、当会理事たちは歓迎の夕食を共にし、懇談を重ねました。黄さんは、元副総理、外交部長、この条約締結の中国側の最高責任者でした。その若い日スノーと延安へ行を共にし、「中国の赤い星」は、黄さんの通訳なしではこの世に存在しなかったことでしょう。
  • 2回の興隆行で通訳をつとめてくださった徐さん(「人民中国」副社長)が来年2月中国大使館の参事官として、東京に着任されます。若いころからの知り合いでしたから、気楽にお願いし、本人も気楽に引き受け、私たちの旅を助けてくださいました。こういう旅は正確に同時通訳ができる方でないと、いささかの誤解があってもいけませんからお願いしたのでした。
  • M.Iさんの職場、国立教育研究所が、興隆県教育局の孫局長、劉副局長、狄教育研究室副主任の3人を招いてくださることになりました。2月28日から2週間、日本の教育事情を視察します。スケジュールが決まりましたら、関係の県にお知らせしますので、よろしくお願いします。

 

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