興隆で考え感じたこと
今回、興隆県の山奥の渓谷沿いに散在している集落を訪問し、村人たちと接して感じたものは、とても新鮮で、記憶に残りました。
ひとつには、50年以上も経っている出来事を、証言者たちは一寸前の出来事のように鮮明に覚えていることです。それだけ日本軍の兵士たちが非人道的で、残虐な事を興隆県の人々にやりつづけてきた事の証であると思います。ふたつには、我々日本人の訪問者に対して、ものすごく親しみこめた人間味溢れた眼差しで迎え入れてくれたり、疚しさの全くない神々しい、特に子どもたちの汚れのない目の輝きをしていることに、強烈な印象を持ちました(質素な住まい、生活とは対照的に)。このようなすばらしき人々を拷問にかけたり、殺戮するとはとても私には信じがたいことではありましたが、証言者たちの証言を聞いて、私は事実以外の何ものでもないことを感じました。まさに日本軍国主義のもとで、殺人鬼と化してしまうものであることを実感した次第であります。この悲惨な歴史を二度と繰り返さない為には、ひとつは興隆県の証言者たちの証言を多くの中国人、日本人が直接聞き、その聞いたことを更に多くの人たちに語り継いでいくことが必要だと改めて再認識しました。魯迅は『故郷』の中で『もともと地上に道はない歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』と述べています。興隆県の人々と友好の道を切り開いた『F.N先生』の造り上げた道は、今回の訪中で更に道らしきものになってきたと感じています。
☆延々と続く絶景の山々と渓谷☆すべてレンガ作りの家☆どこの家も老若男女が家の前に出ている☆若い女性、女の子がおしゃれで、きれいな人が多い☆山羊の群れの世話や、家の仕事をよく手伝う子どもたち☆急斜面も利用してあらゆる所に見られるトウモロコシ畑☆修理屋さんの多い町☆ユニークなトイレ等々
21日北京で投降するために日本軍が撤退する道を辿っているとき、トウ氏が、山行(私の大好きな漢詩)の雰囲気を醸し出す場所で、その漢詩の朗詠と解説をしてくださったことにとても感動し、漢詩の勉強をしようという衝動に駆られたのでありました。
山行 遠上寒山石徑斜 白雲生処有人家 停車坐愛楓林晩 霜葉紅於二月花 (千葉 O.K)
興隆への旅をもう一度確かめたいと思い、「無人区長城のホロコースト」を読んでいます。
車で走った山道、広がる景色、山間の集落、そしてなによりも証言してくださった老人たちの姿が文章と重なってきます。あののどかな山奥の暮らしの中に突然襲いかかった日本軍の暴虐。家を焼かれ、家族や隣人、たくさんの人々の虐殺を目の前にし、自分もいつ銃剣で刺されるかもしれない極限の状況。そして、決して消し去ることのできない悲痛な思いを抱えてこれまでの歳月。今でも万人求で家族全員を殺された古老が私たちに向けた怒りの言葉とやりきれないような表情が浮かんできます。
今回の旅は、行く先々が日本侵略の跡であり重たい事実をつきつけられる旅ではありましたが、反面、山の中の村に新しい学校や寄宿舎が建ち、そこで学んでいる子どもたちとの交流をもつことができ、とても明るい気持ちになりました。
特に、私たちの旅にかかわってくださった興隆の方々の事前の周到な準備、ずっと行動を共にしてくださった好意には、言葉に言い尽くせないほど感謝しています。
F.N先生は、「私たちにできることは、その事実を検証し、心に刻むことであろう。そして、鉄砲を持って頼まれもしないのに勝手におしかけいったときとは別の日本人が、新しい友情を携えて出かけることであろう。」とこの本を結ばれています。
今回の旅に同行し、50数年前の悲劇を超え、かたい友情がはぐくまれている姿を目にし、深い感動を覚えました。(H.M)
中国は2回目になります。9年前に尋ねた南京でも証言を聞く機会があり、その内容に心が氷つくようでした。それと同時に、きちんと知らずにきた自分自身そして日本の歴史教育に、日本人としてとても恥ずかしい思いがしました。また、「ナガサキ」「ヒロシマ」止まりになっている平和教育、被害者意識だけを子どもに教えていたのではないかと反省させられました。
今回、興隆に来て、無人区のことや人圏のことを初めてくわしく知ることができました。また、何年たっても癒されないおじいさんの思いを知り、涙が出ました。しかし、それでもあのおじいさんの思いのどれだけを私はわかることができたのかと思います。聞いた者の責任としてきちんと伝えていかなければなりません。本当の交流は真実をきちんと知ることからしか始まらないと思いました。
また、どこは行っても懐かしそうに寄ってこられるお年寄りの方々にF.Nさんとの信頼の深さを感じました。(Y.K)
7日間の中国の旅・・・心身ともにパニック状態で帰国した。「帰ったら心の中でゆっくり整理します」とお約束したにも関わらず、なかなか整理できないどころか、パニックが高じて熱を出し数日寝込んでしまった。
第1に、古老の証言。聞いて必死でメモをとったけれど、心を感じさせないようにしなければ聞き続けることはできなかった。毎日毎日何人もの古老からの証言。そこで何度も聞かれる三光政策、人圏、無人区のこと。日本人の一人としてこの歴史に責任があるということを改めて痛切に感じた。証言を聞いているとき、辛くて身を切られるようだった。
第2に、中国の貧しさ。戦争が終わって、日本と同じように50余年の月日が流れたはずの中国。村々で出会った人々は、大人も子どももみんな一様に穏やかで平和な顔をしていた。けれど、彼らのどの形容し難いほどの貧しさをどのように受け止めればいいのだろうか。
第3に、子どもたち。日盛りの中、沿道にずらりと並んで、「熱烈歓迎」をしてくれた子どもたち。古老の証言の後では、子どもたちの顔さえまともに見られなかった私ではあるが、授業を真剣に受けていた子どもたち。信じられない程粗末ないすに腰掛けて、傷だらけの机で日本の先生の話にじっと耳を傾けていた子どもたち。そしてあの交流会の夜。東京の武道館のコンサートだってあれほどの熱気に包まれることは滅多にあるまいと思われた。そして子どもたちのどの出し物も見事な表現力で本当にびっくりした。日本の子どもたちや大人(教師)に、何よりも中国の子どもたちのすばらしい表現力を見せたい、伝えたいと思った。
なんとか今のこの時点で心の中を整理し、余計なものを全て捨てたとき、最後に残る思いは、「近い将来、私たちが出会ったあの子どもたちの手によって、きっと中国は物心ともに豊かな国になるに違いない」ということである。(M.E)
酒田港にも強制連行があったことを、興隆から帰ってきて初めて知りました。関心を持っていないと何も見えたり聞こえたりしないということを身を持って経験しています。(C.T)
ずっと以前から、いつか行ってみたいと思っていた中国・万里の長城で、悲惨な出来事があったのを知ったのは、今年の4月。K先生と平和教育研究交流会議に参加したときでした。
あの時は「八路軍」「人圏」という言葉を聞いても、何のことかさっぱりわからない私でしたが、大分に帰り、本を読んだり、K先生から話を聞いたりするうちに、万里の長城に対する思いが少しずつ変わっていったように思います。
私が今回の興隆への旅に参加しようと思ったのには2つの理由がありました。ひとつは、今まで私の知らなかった中国を知る必要があると思ったからです。(今まで何も知らなかった反省も含めて)興隆へ行けば、本を読んだだけでは得ることができない”何か”を感じることができるのではないかと考えたからです。
ふたつめは、教員という立場を離れて、何か活動したいと思ったからです。学校では校内の平和教育を担当していますが、担当だからしていること、教員だからしていることが多いように感じます。平和教育は、私の中で大切にしているものですが、時々、もし私が教員になってなかったら、平和教育について考えただろうかと考える事があります。そんなとき、教員という立場を離れても、ひとりの人間として、平和を大切にしたいと思います。今回の旅は、自分の本当の意志で参加できる旅でしたので、行くことを決めました。
興隆に行って、話を聞くにつれて、”このことは、自分の中だけにとどめておいてはいけない。できるだけ多くの人に、子どもにも伝えなくては”と思うようになりました。そしてまた、”私たちが日中友好のかけはしにならなくては”とも思うようになりました。(実際は何もできないし、思い上がった考えかもしれませんが・・・)S.K先生が時々言われている「歴史の事実を伝えるだけでなく、これからの日中友好を子どもたちとどう考えていくかが大切。」ということが実感として湧いてきました。
また、興隆に行くことがあれば、是非、参加をしたいと思います。そして、その時は、新しい仲間を誘おうと思います。(Y.K)
また行ってもいいのかなあ、新しい人が行く方が拡がるのだけれど・・・でもやっぱり行きたい!・・・ということで、2回目の参加となった。
出迎えてくださった孟さんをはじめとする興隆の方々に「あなたは昨年も来ましたね。2回目ですね。」と言われ、覚えていてくれたんだととっても嬉しくなった。そして興隆の道を進みながら、そうそうこうだったのよね、この景色よね、と車窓の風景がとても懐かしくてまるで故郷に帰ったような気持ちになった。人も場所も、昨年と変わらない温かさで私たちを迎えてくれたのだった。
そんな中で、昨年にはなかったもの・・・各地に石碑が建てられていたことに感動した。昨年モクイの殺人坑に行ったとき、トラック一杯になる程の骨が出てきた場所なのに、くるみの木が植えられてはいるものの野ざらしのままなので、追悼碑をたてた方が・・・と言いながら何もできなかった私たちだった。
そこに、ちゃんと県政府によって、歴史の事実を後世に伝える文を刻み込んだ碑が建てられていた。今回、5ヶ所で見ることのできたそれらの真新しい碑に、興隆県政府の方々の熱い心意気を感じた。
そして、昨年以上より多くの場所でより多くの証言者の方々から話を聞き、ますます日本侵略の事実が私の中に定着していった。こんな山奥の小さな村々で普通の暮らしをしている庶民であるお年寄りの一人ひとりが、みんな凄惨な体験を持っているのだ。万人求では、任さんという方が、当時8歳だった自分に立ち返ったように、思いの丈を家族が殺された悔しさを、声をふりしぼって訴えられた。任さんの家族を無惨に殺してしまった日本人につながる私・・・任さんは私の父よりも年が若い。もし私の父がそのような体験を持っていたなら、私は許さないし、恨んで恨んで恨み抜くだろう。任さんの思いや怒りに限りなく近づきながらも、でも私は日本人であることの呪縛から逃れることはできないのであり、何ともしがたい矛盾した思いで涙をこらえながら聞いていた。昨年は、日本にいる今は普通の暮らしをしている加害者たちが沈黙していることに怒りを覚えたのだが、今回は、その沈黙している加害者たちにつながる自分ということの責任の重さを痛感せざるを得なかった。日本人としての責任を負いながら私自身がどう償いの行動をしていくのかが問われている。
今まで、よく日本が「いつか来た道」になってしまうのではとその時々の状況の中で言われてきたが、新ガイドラインや有事立法制定問題等が出ている今ほど、危機的な状況はないのではと思われる。それに加えて、証言者の方々も知っておられたように、日本の侵略の事実を否定しようと執拗に運動し続ける人たちがいる。いろんな悪い状況にどう太刀打ちしていけばいいのかと、大上段にかまえて考えても大きなことができるわけでもない。やはり、自分の周りにいる身近な人々そして子どもたちにこの事実を丁寧に伝えていくことしかない。そして絶対に「いつか来た道」にはしないぞと固く決意をしたのだった。
やっぱり来てよかった。2回も来てよかった。日本軍の行った無人区作戦、三光について更によく分かったことはもちろんのこと、興隆の方々との親密度も増した気がする。モクイと大杖子で宿泊させていただいたおうちの皆さんとも再会できた。昨年「また来ますから。」と言って分かれたのだが、その言葉が嘘にならなかった。皆さん懐かしそうににこにこして声をかけてこられた。本当に嬉しかった。
3回目への意欲が湧いてくる。それまでに、自分のできることを確実にやっていきたい。
お世話になった中国の方、日本の方、多くの方に・・・有り難うございました。(K.I)
|