会報1997年秋 報告とお願い

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モクイの中学の寄宿舎が建ちました
 
 600人の寄宿生の入れる寄宿舎が落成しました。8月19日、日本の先生たち24人が、モクイ郷の政府、県政府、中学校の先生や生徒たちとともに落成を祝いました。各室スチームの通る4階建ての立派な建物です。ここは冬は零下30度まで下がる所です。暖房は必須条件です。各階にトイレと洗面所もついています。ボランティア貯金の利子の配当金第2期工事分(ボイラーとボイラー室)391万4千円と、当会の寄付金200万円(炊事場、食堂建設費及び2段ベット購入費)、教材(算数セット・鍵盤ハーモニカ・顕微鏡)の目録贈呈も行いました。すでに第2期工事は、6月から始まっています。ボランティア貯金の配分金が内定した段階ですぐ引き続き工事を進めるよう連絡しました。ここは11月から3月までは工事のできないところですから。
 寄宿棟の東寄り直角の場所に右からボイラー室、食堂、炊事場と並びます。また生徒たちの後ろの方に見える細長い低い建物は、学校と寄宿舎兼用のトイレです。鉄製2段ベットもすでに購入されて、学校の方に届いていました。これから組み立てて入れるそうです。
 学校は寄宿舎の西方地続きの平屋のレンガづくりですが、とりあえず整備されていました。ここへは、唐山市の車両工場の労働者たち(1万人)が、40万元(550万円)のカンパを届けてくれたのだそうです。いま中国ではこういう互助運動が少しづつ広がっています。
現在村の6ヶ所に分散して寄宿している生徒たちは、寒い冬の来る前にこの寄宿舎に入って勉強することが出来るようになることでしょう。

ちなみに日本からは当会経由で、1031.4万円贈りました。

 

国際ボランティア貯金 2年分 831.4万円

当会寄付金          200万円

他に現地郷政府負担金     570万円

県政府負担金         103万円

唐山労働者カンパ       550万円

 モクイ中学校は郷にひとつの中学校として、歩みだそうとしています。先生と教材、校舎の不足から、今ある3つの中学はここに統合されます。モクイ郷には、40の小学校があります。中学の寄宿舎に入れるのは、通学距離25キロメートル以上のものということになります。それ以下の生徒は通学しなければなりません。将来的になお問題を残しています。

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大水泉中学校は11月落成の予定

 今年の3月外務省小規模無償援助資金102510ドル(1300万円)が大水泉中学校校舎建築費として出るようになったことは、6月にお知らせしました。4月から着工してもう大分工事は進行しています。11月には落成の予定です。寄宿舎は当面、今校舎として使っているところが使われる予定です。この郷も3つの中学がここに統合されます。

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大杖子中学は危険校舎

 94年の水害で興隆県では24の学校が浸水、破壊されて使用不能になったことは昨年お知らせしました。石流(土石流の土がないのです)は昨年はモクイの谷を直撃しました。大杖子郷は、94年及びそれ以後も毎年洪水に見舞われています。農民たちは、賽の河原の石積みのような努力を続けています。大杖子小学校はいよいよ危険になったので取り壊し、やっと県からお金が出て目下改築中でした。中学を建て替えるお金はありません。県から出たお金では、その一部分しか建て替えられません。それでも一番ひどい校舎は取り壊し、立て替えを始めていました。レンガの校舎が危険校舎とは想像ができるでしょうか。写真はまだ現在使っている建物の崩壊ぶりです。ここも西の車河堡中学も2ヶ所に分かれて学校がありました。寄宿舎を見たとき、みんなは一様に胸を痛めてことばをなくしました。50センチ幅のスペースに育ち盛りのこどもたちが寝返りもできずに並んで寝ている姿を思い浮かべたからです。大杖子中学に、車河堡中学は統合されます。
 郷長も党書記も40歳前半で、今年赴任しました。モクイから柳河口に抜ける南北の道はかれらの初仕事です。一番おくれた地域の開発は彼らの肩にかかっています。興隆県では、要所要所にこういう人材が配置され、彼らも喜んでその使命を果たそうとています。

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興隆への旅

 今回の旅は8月16日から24日まで。興隆県の一番僻地の3つの郷を尋ね交流を深めました。みなさまからお寄せいただいた教材をとどけ、それを使って現地のこどもたちに授業をし、こどもたちといっしょにレクリエーションを楽しみ。小・中の2グループに分かれて座談会を開き、ざっくばらんに話し合いました。授業は模範授業をするというのではなく、日本ではこんなふうに使っているのですが、もしよかったら使ってみてくださいということです。そして無人区の人圏の跡を見て、古老たちの話を聞き、村の民家に泊めてもらいました。参加者は小・中・高の教師を中心とする24人でした。

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教材集め

 集まった教材は、算数セット365個、鍵盤ハーモニカ340台、顕微鏡54台、リコーダー20本、その他文具。

 今回当会へ送っていただいたもののほか、県内に呼びかけて大量に集めてくださったのは、広島平和教育研究所でした。教材集め、点検、手入れ、箱詰め、空港への輸送まで、裏方を引き受けてくださったのは、Sさんです。94年に彼は、温州の山地で授業をした経験の持ち主です。94年の時は93年に温州に行った大分県のFさんが同じく教材を集め、自らトラックを運転して空港まで運んでくださったのです。当会にはそういう経験と協力の伝統が出来つつあります。

 顕微鏡は、こどもたちの使ったものをみなさまからお送りいただいた外に高校で廃棄したものをもらうことができました。一定年数経つと高校では廃棄処分にするのですが、そのまま実験室の片隅に眠っていることがあるのです。Y.Tさんは、あちこち高校へ電話をかけて、K高校に該当の品があるということで、受け取りに行きました。

 「3階の生物教室の前にづらりと50個以上の顕微鏡の箱が積み重なっていた。車まで運ぶだけでも大変だ。通りかかった運動部の生徒たちが手伝ってくれた。「中国のこどもたちに送るんだ」といったら、「それはすごいや、いいな。金八先生みたいだね。」と意味不明のことをいった。
 見てみると埃だらけで箱の痛んでいるものも多い。とにかくゴミみたいなものも含めて全部いただいた。部品が欠けていたり、レンズが埃だらけになっていたり、どれも10年以上は使用していないものばりだった。レンズは専用クリーナーで丁寧に拭いた。中にはレンズの内側まで汚れているので分解する必要があった。部品が欠けているものは、いくつかを組み合わせて完成品にした。結局41台仕上がった。運搬中の破損がこわいのでエアーなんとかという保護シートで箱の中の本体を固定し、梱包した。
 消耗品としてスライドグラス(500枚)と、カバーグラス(1000枚)を購入して入れておいた。また「ぜひこの顕微鏡で自然の秘密を追求し、自然の美しさを楽しんでください。」というメッセージと、基本的な操作方法を中国語訳した簡単なプリントと「顕微鏡の世界」という図鑑を4冊同封した。
 光学顕微鏡は相当古くても、構造的には新品と変わらない。70倍から600倍まで見ることができるこれと同種のものを今新しく買えば、カタログで見ると8万円はする。どこかの学校の倉庫に眠っていて、今後使用する可能性のないこの種の教材がまだあるのではなかろうか。」(Y.T)
 顕微鏡大41台は、3つの郷の3つの中学に、小13台は大杖子小学校に、図鑑1冊づつ添えて。また算数セット、鍵盤ハーモニカは、3つ郷の10の小学校にそれぞれ1クラスの授業に困らないだけの数を送りました。千葉悼む会から、3つの中学にラジカセ1台づつにフォークダンスの曲のテープを添えて送りました。

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甦る教材、日本の先生たちの授業

 算数の授業は1年生はY.Mさんが、おはじきを使って、2年生はS.Kさんが時計を使ってしました。通訳は、1年M.Iさん、2年徐さん(「人民中国」副社長)。撮影者以外は机間指導に入りました。通訳を介した授業でありながら、先生と生徒の間に一分の隙もない授業でした。初日、大水泉でY.Mさんの授業を見た興隆県の教育局長孫さんは、授業が終わるとすぐ「先生がこどもに近づき、こどもに考えさせる、こんな授業は初めてみました。」と言いに来てくれました。2年のS.Kさんの授業もこどもたちを楽しく考えさせました。飛行機の中で覚えた速成中国語を交えて、「S.Kさん、のりにのってる」とはある団員のことば。風船300個はS.Kさんが労働金庫からもらってきたのです。風船は番外のヒットでした。
 授業参観の中国の先生たちは、こどもたちを学習の主体にする授業方法を吸収しようと、後の座談会が、授業の研究会のようになる場面もありました。

 音楽の授業はK.Iさん、K.Mさん、M.Uのトリオで行いました。主たる授業者を交替しながら。算数も音楽も授業者は中国の3年生までの教科書と日本の教科書を事前に比較研究していきました。「94年の温州の授業の反省の上に今回は教材の選曲から、準備から、3人のチームワークで出来て、少しは有意義な学習が出来たのではないかと思います。」(M.U)

 

 中国の音楽の教科書の中から、「メリーさんの羊」を選び、数符と中国語の歌詞を模造紙に大きく書いたものを準備し、いっしょに歌うことから始めました。「それははじけるようなすばらしい歌声でした。」(K.M)

 「それでも反省点はたくさんあります。初めて鍵盤ハーモニカに触るこどもたちに5本の指を使う曲にしたのは、抵抗が大きかったし、リズムも三拍子や、付点音符や伸ばす音があったりするとむつかしいと思いました。次回にする時は、もっと要素の単純な曲を探して、それに中国語で歌詞をつけて、初めてのこどもでもみんなが成功の喜びを感じるような授業にしていかなければと思いました。」(M.U)

 2日目のモクイでは、途中事故のために渋滞に車が巻き込まれ、到着が大幅に遅れたために、急遽算数と音楽と3クラス平行して同時に行うことになりました。音楽は3年生を教室に入れて、通訳はA.Mさんが担当し、ピンチを救ってくれました。

 「たった1時間だけのいきなりの授業風景もスリリングで楽しいものだった。担当した先生も、こどもたちも最初は緊張ぎみだ。しかしものの10分もするとこどもたちに笑顔が現れてくる。生徒たちの目は好奇心で輝きを増してくる。背筋がピンとのびており、応答は凛としていた。健康的だ。思わず声をかけたくなる。この時ほど中国語を少しでも勉強しておけば良かったと悔やんだことはない。」(Y.T)

 「日本では再び教材としえ息づくことのない算数セットや、ピアニカが、中国のこどもたちによって命を与えられたような授業を見た時、学びたい希望にあふれたこどもたちの目に触れた時、来て良かった、来て良かったと思いました。」(M.S)

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レクリエーション

 「小学校でのこどもたちのダンスの見事さには度肝を抜かれた。貧しい山地の学校で営々と育まれてきた<文化>のすばらしさだ。特に赤いスカートの女の子たちのダンスでは、高く揚げた手の指の先までがロシア風舞曲のリズムを軽快に刻んでいて、くっきりと印象に残っている。タイツ姿のこどもたちのコミカルでモダンなダンスも心地よいものであった。素朴だがすばらしいリズム感と表現力が育っている。躍動的で健康であり気持ちが良い。」(Y.T)

 日本側も体育のJ.Tさん・K.Mさんの指導でたちまち「ジェンカ」を全員修得、全校の生徒・中国の先生たちもいっしょに踊りました。こどもたちがヤンコーを踊ると日本の先生たちもすぐ飛び込んでいっしょに踊りました。こどもたちは日本の先生が大好きになりました。

 県の教育局長孫さんの話によると興隆県では、未就学児童をなくすために、各級幹部は1年に1ヶ月分の賃金の80パーセントを教育費として拠出しているとのことです。詰め込みでない教育方法の改善、教師のレベルアップのための各種研修、地元産業に結びつけた職業教育などに力を入れています。
「さらに上級学校へ進学しても、技術者として、教師として、幹部として、地元に帰り、地元に貢献しているということも行く先々で確かめられました。例えば、交流会で懇談した先生たちは単身赴任の校長を除いて全部地元の人でした。農村から都会へ出たがる人が多いと聞いていましたのに、興隆県では逆のことが現実になっているので驚き感心してしまいました。小学生のころから郷土愛を教えているとのことですが、教育の普及と充実をバネに経済発展を図ろうとする孟副県長の意図は順調に行っていると思われました。このような時期に私たちの会の活動がタイミングよく役立つことが出来たことはうれしいことでした。」(A.J)

「今回の旅行で私が一番感じましたことは、中国という広大な国の「広い」ということと、その広大さゆえの「進歩に対するおおらかさ」といったものでした。中国の人々からは、日本のリズムはいそがしすぎるのではなかろうか、とも思ったりしました。中国のこどもたちを前に授業できましたことは、私にとって、一生の思い出となりました。」(Y.M)

 

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古老たちの話

 興隆県は、昨年報告しましたように、戦争中、山は焼き払われ、人々は河べりの人圏(人囲い)に入れられ、餓死、凍死、病死、強姦、拷問、殺人、強制連行、七三一送り、と日本軍はひどいことをしたところです。その歴史の概略をトウ靖功先生(前・党史弁公室主任)に話していただき、あと訪問する村むらで、古老たちの話を聞きました。

 

 「古老の話には声も出ません。むごい目にあった当事者の直接の証言です。息をのんで聞いているしかありません。おそらく日本では普通のおにいさん、おじさんであった人たちが、命令とはいえ「人圏」「無人区」をつくり、「三光」を実施しているのです。これをどのように解釈したらよいのでしょうか。日本の軍隊は兵隊の人間性を喪失させ、命令だけを聞くロボットにしていたのでしょうが、「それにしてもなぜこんなひどいことを」という思いは消えません。実は私の父親も最下級の兵隊として中国戦線に送られ、八路軍と戦ったようです。(詳しいことはほとんど話しませんが)大きな気の重い宿題を抱え込んでしまいました。(E.H)

 「日本軍の三光作戦についても知識としては知っていた。しかし戦後世代の私にとって戦争自体が遠い昔の出来事になってしまいがちである。今、目の前にその時のことをついこの前のことのように語るおじいさんがいる。「日本人は恐い!」とその時のことを思い出すと声にならなくなり、涙を流すおじいさんがいる。そうだ。遠い昔のことではないのだ。戦後わずか15年後に私は生まれたんだし、そんなおじいさんたちと今この時を共有しているのだから。ごく普通に暮らしている人々が、未だにこんな悲しみを抱えながら生きている。今回14人くらいの古老のお話を聞いたのだが、そのバックに限りない人々の沈黙があることを想像させる。」(K.I)

 「三光の一番ひどかった土地に行きその山や河をこの目で見た。当時の人達に直接あって話を聞いたという経験は、私にとって大きな衝撃であり、貴重な体験となりました。まず、その山深いにも関わらず大きな樹木のはえていない不自然さ、道すがら木を見たときにホッとする気持ち。いかに日本軍は山々を焼き払ってしまったのか。あの地域の山は簡単に樹木が根付くような地質ではないようです。苔が生え、土を作り、大きな木が生えるようになるには、まだまだ何年もかかるでしょう。それによって起こる水害。そして、どんな顔をして聞いていいのやら、私たちは発する言葉を失ってしまう当時の人達の話。見ること聞くことひとつひとつが胸に刺さるようでした。また過去の事実に加えて私の心を捉え考えさせられたのが、50年前の加害者である日本人を気持ちよく迎えてくれた現地の人達のあたたかい心と日本軍の作り出した今も残る災害に負けることなく力強く生きていく現地の人達の姿でした。私自身の気持ちが強く持てるようになりました。生徒の前に出ても必ず前よりも実感のある話ができるはずです。」(K.A)

 

 「日本軍の戦争の爪痕は深く、静かに残っていた。ことばも発せないほどのショックを受けた。そういう事情を乗り越えて現地の方々は温かくやさしく迎えてくれた。なんということだろう。この人々に対して、私たちは50年前のお詫びもまだなのに・・・申し訳ないという気持ちと同時に、どうしてここまでやさしくできるのだろうかという思いでいっぱいになった。児童文学者の灰谷は言っている。「つらい思いをした人ほど他人にやさしくなれる。」と。
 古老の話も聞いた。残虐な体験は深いしわに刻まれ、淡々と語られる語り口はやさしく、時にはとぎれ涙声になる。特に女性に対する暴力については、黙ったまま墓場まで持っていくという決意が痛々しく感じられた。」(M.U)

 「人圏の壁の前で殺人坑のわきで、当時の思い出を語るおじいさんたちの褐色に日焼けし深い皺が刻まれた頬に、時折涙が伝わり落ちた。それを私たちとともに聞いているのは、いつのまにか集まってきた村人たち、あかちゃんを抱いた若い母親、幼児たち。50数年前の出来事は風化されず、こうして今も村人の共通の歴史認識を形成しているのである。中学の現代史の授業で直接この地域の日本軍に言及はしないと、教育座談会で中国側の教師は語った。しかし戦争の体験は確実に各家庭の中で祖父母から孫へ伝えられているのである。」(Y.I)

 「それでも「今はこころから歓迎します。これからは日中友好です。」と語られた車河堡小学校に来てくださったご老人たちの気持ちを思うと、日本人のひとりとしてこの夏出会った人々の思いを一人でも多くの人に伝えていかなければと思う気持ちでいっぱいになりました。」(Y.T)

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民泊

 「モクイでは「殺人坑」の跡から直線で500メートルも離れない趙さん宅に民泊させていただいた。もてなすということはこういう心づかいのことだったのだと、遠い昔の祖母や伯母の有りようなどを見る思いがした。同じ日本人として聞くだけでも辛く申し訳ない事実の残るこの地の人々の笑顔を、足元を照らしていただきながら案内された道々に飛び交うホタルの姿とともに一生忘れることはないと思う。」(C.T)

 「ここの方はなぜこんなにも美しいのでしょう。私たちをこんなにも親切に心温かく受け入れてくださって。こころの美しさが表情の美しさになって・・・ただ感動しています。」(M.N)

 「モクイでの第一夜、ごやっかいになったのは、趙方江・張守蓮夫婦の家でした。<馬道>(人圏の壁の内側のかなり高いところにつくられた細い道、砲楼につづく。壁には銃眼が残っている。)遺跡見学で坂道を登ったその真下の家です。<人圏>の門を入ってすぐの庭先に山椒の木のあった家です。夫婦にはこどもさんが二人、長男の桂生君は中3、長女の艶平ちゃんは小3で昼間ピアニカの授業を受けた子でした。その晩はうれしくて私たちを橋のところまで迎えに来てくれました。翌朝おじいさんはこのあたりの人圏のことを「あっちもこっちもずっと壁だった。」と身ぶりで示し、そうしながら涙が出たのでしょう、目をしきりに手でこすっていました。その時、馬道をオンドリ、メンドリが並んで闊歩している様子が、絵のように焼きついています。」(M.I)

 「柳河口の農家では、やさしい主婦が侵略の口火を切り、叔父さんという人が、周恩来のことばを引用して中日人民の友好を説いた。私は生きている歴史のまっ只中にいると実感した。」(Y.I)

 

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歴史の事実を見据えて新しい友好を切り開く

 2人、または3人ずつ分宿させていただいたのですが、その感動は日本に帰ってからも、みんなの心を温めてくれているのです。私たちの今回の旅は、単なる謝罪の旅でも、贖罪のたびでも、ましてや調査や、ボランティアの旅でもありませんでした。歴史の現実を見据えて新しい友好を切り開く旅でした。興隆県での最後の昼食の後、K.Mさんのリードでみんな歌いました。「いーつまでも絶えることなく、友達でいようー・・・」

 山のこどもたちの学習状況を、お年寄りの健康を、自然災害を気遣って、安否を問う、そういう友人としてのおつきあいがこれからもつづいて行くことを願っています。ボーダレス(国境なき)の世界とは、論じるものではなく、つくっていくものなのでしょう。

S.Kさんの「つぶやき」
 「平和教育が歴史認識の段階で止まってはだめなんですね。歴史認識の上にたって友好をどう展開するか、こどもたちに引き継がなければいけないのは、そういうことなんだと、今回の経験でそのことがよく判りました。」(S.K)

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M.Nさんの思い「殺さなかったか」

 8月19日、興隆県政府招待所を出発したマイクロバスは、モクイへと向かう途中、事故のため一時停止した。そこは、下から見上げるとほぼ垂直のようにも見える断崖。そのてっぺんから、八路軍が岩を落として日本軍に抵抗したのだという。
 その時、ここをかつて日本の兵隊が歩いたのだと思って、不思議な気がした。その兵隊は、日本を遠く離れ、来たくもなかった戦場に来て、今、八路軍の襲撃におびえているのだ。
 あたり一帯は、切り立った断崖だらけだし、トウモロコシ畑の背丈は高い。そのトウモロコシ畑からは、突如八路軍が現れるかもしれない。そのように思えば、トウモロコシ畑を焼き尽くすことにも抵抗を感じなかったかもしれない。

 父は戦争末期に兵隊に取られた。父が行った戦場は、興隆ではなかったが、しかし、所属部隊が異なれば、この地を歩いているのは父だったのだ。あるいは、その土地を歩いていたのは僕自身だったかも知れない。
 僕は殺さなかっただろうか。僕は奪われるものの痛みを知るだろうか。僕は犯されるものの声を聞くだろうか。
 僕らを興隆県の人たちはあたたかく迎えてくれた。
 そして、今1ヶ月以上が過ぎて、僕は日常の中にいる。
 書店に行けば、日本の残虐行為がなかったことのように記す本ばかりが山積みされている。
 今、トウさんの証言を文字おこししながら、ふと興隆県の山道を思い出す。

もう一人の僕は、ひょっとすると今も兵隊の姿で、興隆の山道をさまよっているかもしれない。(M.N)

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温州五鳳中学校に食堂が出来ました。

 前号でお知らせしましたように、6月当会から炊事場・食堂の建設費として、60万円送りました。7、8月の夏休み中に工事をして、9月から利用しているはずです。これで運動場や、校舎の軒下で、立ったまま食べるという風景もなくなることでしょう。

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外務省小規模無償援助資金の申請(本年度分)
    1. 温州瑞安市湖嶺中学寄宿舎建設費(昨年度申請継続審議、上海総領事館管轄)
    2. 興隆県大杖子中学校校舎建築費(9月申請、北京日本大使館管轄)

次年度申請予定

  1. 温州瑞安市芳庄中学校ミシン教室棟建設費等

 

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瑞安市からの僻地教育視察団来日延期

 瑞安市からの僻地教育視察団が、来日したいという申し出が6月にあって、9月末から1週間の受け入れ準備をしていましたが、この夏2度の台風に襲われ、出かけられる状況ではなくなったという連絡が入りました。これまた無期延期になりました。見学予定県では、いろいろ受入の手配をしていただきましたのに申し訳ございませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。

 瑞安市芳庄中学校への第二次授業団の派遣は来年3月の予定です。

 

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