関東大震災80周年記念「戒厳令と有事法制を考える」集会が、9月14日、亀戸のカメリアホールで開かれました。今年はSARSの関係で、中国からのお客様を迎えることができず、日本人だけの学習会になりました。しかし自衛隊のイラク派遣をめぐる問題等、不穏な政治情勢のもと、じっくりこの問題を考える機会をもてたことはよいことでした。
集会は、虐殺事件の犠牲者への黙祷で始まり、事件を映像で紹介しました。関東大震災当時、現在の江東区大島町(当時、東京府下南葛飾郡大島町)には、出稼ぎにきていた中国人が住んでいましたが、震災直後の9月3日、宿舎から集団で連れ出され、路上や空き地で殺されました。またかねて中国人労働者を守り、支援していた中国人留学生王希天は軍隊の手で惨殺され川に流されました。千葉県の演劇グループは、王希天が官憲に危険人物とにらまれていたことを演劇で明らかにしました。これは外務省外交資料館に残っていた文書を劇化したものでした。この虐殺事件を時の政府は徹底的に隠蔽し、現在にいたるまで公式の謝罪はおろか事実認定も行われていません。衝撃的な事実に会場は思い沈黙に沈みました。
この事実を知った人たちは、「関東大震災の時、殺された中国人労働者を悼む会」(現、中国山地教育を支援する会」)を結成し、民間交流の活動を進めてきました。虐殺された労働者の故郷である中国温州市に王希天と中国人労働者の殉難碑を建立、犠牲者の遺族の就学援助、学校や、寄宿舎の建設援助、日本の教師たちによる職業教育(ミシンの技術指導等)の交流をすすめてきました。これらの記録も映像で紹介しました。いつか桂川村の書記が言ったことがあります。「こんな山奥の村まで何度もみなさんが来てくれるので、村人たちの心も次第に和んできているのです。
集会の最後は、今井清一さん(横浜市立大学名誉教授・当会世話人代表)による講演「1923年の戒厳令と今日の有事法制」でした。膨大な資料を使って、虐殺事件の背景として、国内外の民衆運動の盛り上がりとそれに恐怖を抱く指導層があったこと。郡が震災の中で敵と想定し、戒厳令を発し、さらに適用範囲を拡大解釈して実施した事実を示されました。今井さんの話は、先日成立した有事関連法の下で、仮想の「武力攻撃事態」を前提にした政府による強権発動と人権制約が起こるであろうと暗示するものでした。また虐殺事件の責任を回避した日本の指導部は、その非常事態体制を総動員体制に切り替えて侵略戦争にのめり込んでいったわけですが、敗戦にあたっても、国民が立ち上がるのを恐れて、非常体制を敷こうとしていたことも紹介されました。
集会散会後、事件に関するフィールドワークを実施しました。当時東京市内に居住できなかった中国人労働者たちは、府下大島町に住み、主に荷揚げ人夫として底辺労働を担っていました。王希天はかれらのために僑日共済会を組織していたことなどをNさんから説明を受けて出発。僑日共済会跡では建物の大きさに驚き、そのすぐれた活動を偲び、労働者が引き立てられていった路地、虐殺の場所8丁目の広場跡では、犠牲者のことを心に刻みました。逆井橋の袂では、殺され、顔を切り刻まれた上、川に流された王希天の無念に思いを馳せました。
現地に行ってみて本当によく分かったという参加者の感想にほっとして散会しました。フィールドワークの参加者60数名、16台のタクシーを連ねて2時間の急ぎの見学でした。集会の参加者は、150人余。東京のみでなく、東北、北陸、近畿、九州からの参加もありました。ごくろうさまでした。