会報2002年11月
CONTENTS

いつの間にか11月になりました。暑かったり、寒かったり、不順な日がつづいてやっと秋になりました。お変わりございませんか。2001年度(2001.10.1〜2002.9.30)の報告を致します。

  1. トウ子峪中学校の理科棟建設資金は270万円送りました。
  2. 興隆県の孟副県長が亡くなりました。
  3. こども図書館のこと
  4. トウ子峪中学校で
  5. 北京大学で
  6. トウ家溝小学校に行く
  7. モクイの午後と夜
  8. 王廠溝
  9. 湖底の長城
  10. 西南の国境線の東半分
  11. ミュラー夫人Nさんのこと
  12. 李将軍を訪ねる
  13. 通訳Rさんの感想
  14. 関東大震災80周年がきます
  15. 関東大震災80周年の記念行事は次のように持ちます
  16. 本年度の会費とカンパをお願いします
  17. 理事に関するお知らせ
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1.トウ子峪中学校の理科棟建設資金は270万円送りました。

 今年のショックは、ボランティア貯金の配分金がなくなったことでした。しかし、みなさまのご協力で8月5日の送金を前にちょうど270万円になりました。ご病気や、突発的な用事で夏の興隆行きに参加できなくなった方々は、その分の一部を振り替えて送ってくださいました。心配して3万円、5万円と送ってくださる方がけっこういらして最後に理事のYさんから、10万円いただいて、5日の朝は270万円になっていました。いつものように、丸ノ内の中国銀行から、送金することができました。1ヶ月で、必要な額をそろえてくださいましたみなさまに心からお礼を申し上げます。その後も、会費・カンパとして少しずつ入ってきましたから、授業用の顕微鏡を(中学校にも14台あるので)Aさんに北京で6台6万円でいいものを買ってもらって届けることができました。全体会計は会計報告の欄をごらんください。

  今年の教材のご寄付は下記の通り。

種類 台数 届け先
鍵盤ハーモニカ 112台 幼稚園・トウ子峪小・トウ家溝小・モクイ小・王廠溝小
リコーダー 20本 トウ家溝小
算数セット 38セット トウ子峪小・トウ家溝小
顕微鏡 7台 モクイ小
キーボード 1台 幼稚園

 

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2.興隆県の孟副県長が亡くなりました

 1月31日、春節を前に孟さんがお亡くなりになりました。交通事故でした。瀋陽にボイラーを買いに行く途中でした。急カーブの続く山の運転よりも、整備された大道の方が危ないのです。前の大きなトラックに突っ込んでしまったのだそうです。同乗者5人即死でした。興隆県にとっては大きな損失です。

  孟さんは94年、Nが最初の調査には行った時、39歳の一番若い副県長でした。299の村々を実際に歩いて、自分の目で見て民情を確かめて歩いていました。まだ行っていない村が10村あるといっていました。多分その翌年にはくまなく歩き終わったことでしょう。だから何を聞いてもすぐ正確な答えが返ってきます。生徒のこと、先生のこと、村の経済事情、洪水被害状況等、それは机上の統計ではなく、自分の目で確かめたことでした。

  今年の3月、温州への事務連絡の帰りにNとJは、遺族のお見舞いに行きました。過去5回の興隆行に参加し、孟さんにお世話になった方々から、遺族に寄せられたカンパ50万円を届けました。昨年9月、Oさんとこども図書館の件で興隆県に行ったときお会いしたのが最後になりました。長女のイギリス留学が決まって、2日後に出発という時でした。Oさんは、イギリス留学の先輩として励ましていらっしゃいました。

  彼女は勤工倹学(働きつつ学ぶ)の道を選び、父の知人の中華料理店で皿洗いをして学校に行っていました。はじめの1年は英語の勉強に集中するのですが、英語はもともとできたので、半年で必要な試験に合格していました。春節に帰宅していた時の父の事故でした。一家は動転し、嘆き悲しみました。彼女は母の側にいて、興隆の町で働くつもりになっていたようです。しかしこれからの長い人生を考えた時、自分に実力をつけなければならないこと、おかあさんも今はさびしいけれども、後ではきっと喜んでもらえること、おとうさんのすすめてくれた道を歩き通すことの方が大事であることなど、本人と話しました。その後彼女は、興隆行のみなさまのカンパを基にして、旅立ちました。彼女が父と相談して決めていた専攻は、金融・財政学でした。 この夏彼女は帰っていませんでした。その代わり、ロンドンから、支援する会のみなさまへのお礼のFAXが入っていました。

  8月18日招待所の会議室で孟さんの家族(夫人と次女)にみんなで会いました。お見舞いを申し上げ、過去5回の参加者からの追悼文集及び、記念の写真集、ビデオテープをさしあげました。TさんとAさんが編集してくださいました。次女は来年大学入試です。 今年の興隆行は、8月17日〜25日。参加者はO団長以下26名でした。 北京大学の教授Kさんは、O先生の健康を気遣って、同行されました。Sさんが、専属の通訳としてO先生のお世話にあたりました。 団の通訳は、Rさんの奮闘をAさんが助けてくださいました。

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3.こども図書館のこと

 こども図書館は、外観はできていました。第一小学校の中にあります。4階建てです。1〜2回は図書館、3〜4階は、コンピュータ教室です。各階9×21メートルの189平方メートルの広さです。1階は、幼稚園を含めた就学前のこどもたち、また小学校低学年のこどもたちのための絵本を主にした部屋、2階は小学校高学年の利用する部屋になります。内装も設備もまだ。ドアも仮のドアがつけられていました。幼稚園のこどもたちが歌や躍りで歓迎してくれました。Oさんは、おみやげに持っていった「おおきく、おおくく、おおきくなあれ!」という紙芝居をSさんの通訳で、熱演されました。こどもたちも興味しんしんひきこまれてたのしいひとときでした。

  北京と上海の出版社に寄贈を頼んだ絵本は、ぼちぼち届き始めていました。いっしょに行ったSさん(中国文物研究所副所長)は、書籍の寄贈と、関係機関のコンピュータの買い替え時期に、古い分を一小に寄付するよう働きかけることを申し出てくださいました。

  みなさまからカンパをいただいた図書購入費は、10月の理事会で、100万円送ることに決めました。しかし送る時期はもう少し後で、各社の寄贈状況を見てからにすることになりました。

 

  午後は、団員は学校見学コースと、日本との合併企業の工場見学コースに分かれ、OとNは、今後の図書館運営について関係者と座談会を持ちました。

「無人区」をテーマに中央テレビ局は番組編成

 今回は北京放送のYさんが北京から同行し、中央電視台(テレビ局)が興隆で待ち受けていました。中央テレビ局の若者3人組みは、「無人区 長城のホロコーストの悲劇」の中文版をもとに、「無人区」というテーマですでに興隆に入って10日間、老人たちの証言をフィルムに収めてきていたのでした。日本人の教員を中心とするグループがなぜ毎年やってくるのか、かれらはそれを明らかにしたかったようです。Oさんのインタビューからはじめて、興隆での全行程をかれらは映像にし、北京では、Rさんとの会見場面にも来ていました。11月頃の放映の予定だとかいうことでした。

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4.トウ子峪中学校で

 トウ子峪は、興隆県の西南の峪です。1938年7月八路軍は、六道河、興隆を攻め、トウ子峪を通って、靠山集に集結します。冀東の住民20万人はこの八路軍に呼応して抗日にたちあがります。その内10万人は武器をとって立ち上がったのです。7月6日のことでした。労働者も、農民も、学校の先生も、警察も、国民党の軍隊もあらゆる階層の人々が参加しました。冀東暴動と言います。組織したのはRでした。その後、西からきた八路軍の指令Sが西撤を決定し、抗日連軍は壊滅に近い打撃を受けます。そこから、Rは、冀東の立て直しを始めたのでした。トウ子峪は、興隆県で一番早くできた根拠地狗背嶺根拠地の一角でもあります。

  8月19日、トウ子峪中学校を訪れ、理科棟の建設資金と、教材を寄贈し、中4の生物の授業(千葉のOさん)と、小3の音楽の授業(熊本のI・N・Oのトリオ)を行い、中国の先生やこどもたちと仲良しになりました。午後は古老の話を聞きました。

  小3の音楽は中学校の教室を借りて行いました。熊本の3人組みは、巧まずしてこどもの心を開かせ、こどもたちの表情がみるみるうちにかわっていくのはなんとも楽しいことでした。それは次のトウ家溝でも、王廠溝でもそうでした。授業は年ごとに洗練されていきます。

 「トウ子峪の中学では、不十分な授業にも関わらず、予想していたように生徒たちは私の説明の一言一言を食い入るように、熱い視線を向けてとても気分良く授業を進めることができました。今回は授業も大切な交流のひとつと考えて自己紹介もかなり重視しました。本命の「ウミホタル」の授業では、Rさんの名通訳のもとで、質問も入れ、一方的な授業にならないようにすすめましたが、時間が足りない面もあって、やや一方的でせっかちな授業になってしまいました。また授業を進めていくうちに、ウミホタルに魅せられたのでしょう。Rさんが情熱的に生徒たちを上手にリードして、どちらがこの授業の先生か分からないくらい一生懸命小生をサポートしてくださいました。実験レポートには、感想も書いてもらいました。その36人の感想文は次の日のバスの中でRさんに翻訳していただき、それに対するコメントを招待所の部屋の中で書きつづりました。そしてその翻訳をまたRさんにお願いしました。今漢字だらけの翻訳文を自筆で書いているところです。次に揚げるのは、情熱的なトウ子峪中学の理科の張先生に書きましたものの一説です。『私は地元で自然を守る運動をしています。戦争は平気で自然を破壊してしまいます。だから自然を愛し、守ることは戦争に反対し、平和を追及することだと考えています。今後も地元でささやかですが自然を守ることで、平和な社会を追及していきたいと思っています。』」(O)

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5.北京大学で

 Oさん一行は、ここから北京へ向かわれました。北京大学の図書館へ日本語の辞典を中心に二百数十冊の貴重な本を寄贈されました。その現物が着いたので、北京大学側のお礼の交流のあと、2日間、親しい学者のの方々と心おきないお話をかわされ、また若い人々と忌憚のない意見をかわされ、23日帰国されました。

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6.トウ家溝小学校に行く

 8月20日の予定は三転しました。最初は高杖子経由でモクイに行くはずでした。しかし洪水のため道路は普通の連絡を受け、1ヶ月待ちましたが、だめなので、洒河沿いに途中ルルチャオ(驢児叫)によって、古老の話を聞き、教材を贈呈し、先生や子どもたちと交流することにしました。興隆の教育委員会はすぐ現地に下見に行ってOKの返事がきましたが、わたしたちが興隆到着の前日の雨で道路が決壊し、行かれなくなったとのことでした。ルルチャオの位置は興隆県の真ん中で、戦争中この村は情報センターの役割を担い、八路軍に日本軍の動きを知らせ、八路軍の安全な移動を助けていました。

 私たちは大帽峪へ直行することにしました。ところが着いたところはトウ家溝でした。生徒減で、大帽峪小学校は、トウ家溝小学校と合併して、大帽峪村の子どもたちはみなトウ家溝村まで通っているのでした。

 ここで音楽(熊本トリオ)と算数(大分トリオ)の授業をして、先生や子どもたちと仲良しになり、大分県の先生たちの作った平和カレンダーを寄贈しました。この中に興隆県のことが入っているのです。S新聞の攻撃を受けながら、大分県の若い先生たちは、子どもたちにいろいろな角度から平和の意味を語り、平和はたたかってかちとるものであることを身をもって伝えています。編集委員のひとりKさんは興隆行メンバーですが、、彼女はふりかかる弾圧に屈しない勇気を興隆のおじいさんたちからもらったといいます。平和教育は、被害の歴史から、課外の歴史へさらに抵抗の歴史まで学ぶときにほんものになるのでしょう。そこではじめて国境を越えて手をつないで、人間をだめにするもろもろの勢力とたたかうことができるのでしょう。

 算数の授業を担当したSさんはこういいます。 「わたしがこの旅に行くと話した時、6年生の子どもたち数人は『先生いつ行くの?持っていってもらいたいものがあるんだけど。』といってきた。そして中国へ旅立つ前日、私の机の上に袋一杯に折り紙で作った箱がつめられ、その袋に手紙が添えられていた。『先生、かさばるけど、これ、中国に持っていってください。101個あります。』そのひとつひとつの箱の中には、折り紙で作った風船や、花などが入っていた。他の学年の子どもたちも、絵を描いたり、鉛筆などの文房具を託してくれたりした。 それらを中国の子どもたちに渡すとき、子どもたちの目が輝いた。折り紙の箱に入っている風船を一生懸命にふくらまそうとする子、その折り紙の箱を大事そうに持って手放さない子、私は私の子どもたちへの感謝の気持ちがいっそうふくらんだ。

 今私は職員室にいる。あのとき、折り紙を折ってくれたこどもたちが遊びに来た。『先生どうやった?』『うん、みんなのつくったのを喜んでくれたよ。こんな子もいたし、あんな子もいたし・・・』『わあ、よかった。うれしいよ。つくってよかった。』こどもたちの目はまた輝き返した。 今度はつくってくれたこどものお母さんがやってきた。『先生どうでしたか。〈先生、いつ帰ってくるんやろ。話が聞きたい。〉って、こどもが話していましたよ。中国の話をいっぱい聞かせてあげてくださいね。』 ほんとにささやかな取り組みしかできていない私だけど少しずつ中国が近くなっている。興隆の輪がひろがっている。そう感じる。いつかこどもたちの今のやりとりを紙芝居にできたらいいな。」

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7.モクイの午後と夜

 今年は日のあるうちにモクイに着くことができて、人圏の跡や、殺人坑を午後の光の中で見ることができました。こどもたちが花を摘んでくれました。モクイの指導者たちは変わっていました。郷長も書記も中学の校長も、小学校の校長も。しかし焚火のあかりのもとでの交流会は変わらず楽しくつづきました。これは1年1度の村のお祭りになってしまったようです。

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8.王廠溝

 王廠溝は興隆県の東の寛城県にあります。モクイから孫杖子に出て河をわたって東へ行けないかと三月下見に行った時、王宝石まで行ってみたのですが車の通れる道はそこまででした。李将軍たちは、王廠溝でなんども重要会議を開いています。当時彼らはこの連山をわが庭として自在に移動していたのでした。私たちは関門嶺を出て遷西に入り、北上して孟子嶺へ、さらに西に険しい山道を通って王廠溝につきます。西の峰々は五指山に連なります。日本軍はこんなところまでなんども討伐をしかけています。李司令員の住んでいた家があります。前に来た時は、前党史弁公室主任李氏が、西の山をさしてあの辺に新聞社、あの辺に衛生所、あの辺に兵器廠と教えてくださったのですが、今回は道路が決壊して家のあるところさえも行けませんでした。

 ここで日本の春田中隊(150人)は全滅しています。1943年5月のことです。八路軍の主力は長城を越えて出撃していました。残留部隊と村人が一緒になって戦ったのです。女も婦女救急隊を組織して戦いました。勇敢な話がたくさん残っていますが、こんな山中の村人を相手に戦って屍をさらさなければならなかった日本兵の無念を思い知らされ、若者を戦場に煽り立てた権力への怒りをかみしめたことでした。

 算数と音楽の授業を受けるこどもたちは大変素朴でした。

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9.湖底の長城

 帰りは喜峰口の今は、湖底に沈んだ長城を見に行きました。潘家口水庫は水位が下がって、長城は浮かび上がっていました。今回は羅文峪、喜峰口、冷口の1935年の熱河作戦の時の激戦地を見ました。

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10.西南の国境線の東半分

 22日は興隆に別れを告げ、遵化で北京からバスに乗り換え北戴河・山海関に向かいました。要人の避暑地北戴河はしゃれた町でした。レストランの料理もしゃれていました。午後あの天下第一関山海関に立ちました。幾多の攻防戦の展開したところです。長城が海に入る老竜頭も壮観でした。秦皇島市に泊まり、翌日は建昌堂、冷口を見学、党史弁公室の白さんに冷口の岡の上で説明を聞きました。その後、一路北京へ。

 24日の北京は自由行動で、盧溝橋の抗日記念館、周口店、市内見学の3つのグループに分かれてそれぞれ収穫を得ました。

 「抗日記念館の1室に田中角栄首相、園田直外務大臣と当時の中国指導者の間で1972年の日中国交回復、平和条約締結のパネルがありました。そのパネルの下には、日本国憲法第9条のパネルがありました。日中国交回復の要因に憲法第9条が大きな役割を果たしていたことが想定できます。いま「改憲」が論議されていますが、「9条」を「なし崩し」にしては、国際社会で日本が孤立することをこの記念館で学ぶことができました。(Y)

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11.ミュラー夫人Nさんのこと

 午後は早く帰れた人たちが集まってミュラー夫人(Nさん)の話を聞きました。ドイツ人ミュラーさんは、宋慶齢の呼びかけに応えてやってきた医師でした。Nさんは、満鉄の看護婦養成所の学生でしたが、敗戦後、少女たちは置き去りにされました。入ってきた八路軍にいっしょに行かないかと誘われ、野戦病院で働くようになるのです。それがなんと李将軍の部隊だったのです。戦場で幾度が会ううちにミュラーに求婚され、後に結婚したのでした。「まるで映画にでもなるような大変な半生をお聞きする中で、八路軍との信頼関係をあらわす具体的な場面(自分たちのことはさておき家や食料を快く提供し、負傷兵を担架で運んでくれる農民。家の周りを毎朝掃除したり、こわされた家をたてなおしに来てくれる八路軍)を見せていただいた。」(I)

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12.李将軍を訪ねる

 午後4時には国際友誼促進会の会議室で李将軍にお会いしました。王廠溝でのことなどお話いただきました。侵略の軍隊と、人民の軍隊との違いをいろんな場所で考えさせられたことでした。 「八路軍が拡大していった背景には、日本軍による虐殺・侵略を許さないという民衆の立ち上がりがあり、人民軍として拡大していったので、いわゆる軍隊ではないと述べられたことが心に残りました。」(Y)

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13.通訳Rさんの感想

 興隆の旅はすばらしかった!

    1. 興隆に行かなければ、私は一生「無人区」、「人圏」のこと、旧日本軍が中国で犯した罪の具体的な事実を自分の目で、自分の耳で知ることができなかっただろう。平和教育を行っている日本の先生たちは、興隆のような普通の中国人でさえも知らない辺鄙な村に足を運び、旧日本軍の暴行を受けた人々を訪れ、そこから得られたものを今後の平和教育の生きた素材としていることに、私は本当に感動した。このようなことは、中国の教師でさえもしていない。私は30年前、つまり政治と歴史教育を中心とする時期に小中学校の教育を受けたが、日本軍は中国で許されない罪を犯したということを教わったが、戦争を目撃し体験した人々の生々しい証言を聞くのがはじめてであった。中国の教師も日本の先生に習って、現地調査を行い、生きた素材でなければ、経済発展を強調する現在では、歴史教育の内容はますます説得力のないものになる恐れが大きくなるに違いない。日本の教師はまさに中国の教師の習うべきモデルである。
    2. 最も私の心を打ったのは、老人たちの生々しい証言というよりも、日本の先生たちの、中国の戦争被害者に対する心からの謝罪である。中国に危害を与えたことがない先生たちは、旧日本軍が犯した罪を背負って、中国人に心から深く謝罪した。日本では、過去の戦争の罪を認めたくない人もいるが、平和教育を行う先生たちのような戦争の罪を背負って、中国人に心から詫びながら、中国の教育をさまざまな形で援助している人もいる。それを多くの中国人に伝えたい。
    3. 興隆の旅に参加しなければ、すばらしい先生に出会うことができなかった。教職の辛さ、厳しさ、楽しさ、そして面白い余暇などを話し合うことができて、うれしかった。この一生忘れられない出会いを大切にしたい。
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14.関東大震災80周年がきます

 温州山地教育振興基金会を解散します 3月に温州山地教育振興基金会の執行委員会が、温州で開かれ、NとJが出席しました。前もって日本での理事会で、先方の意見も聞きながら討論し、最終的に現地の執行委員会で次の結論を出しました。

  1. 来年9月の関東大震災80周年を期して、温州山地教育振興基金会を解散する。 〈理由〉 ・関係者(主席、秘書長、執行委員、奨学金担当者等)がみんな高齢で退職した。にもかかわらず、今までかれらの奉仕でこの会は動いてきた。しかし、ボランティアということが分かりにくい中国でこれ以上つづけることは無理であること。 ・犠牲者の遺族の子どもたちも皆9年の義務教育を終え、さらに進学するものもでてきたこと。(一番犠牲者の多かった沢雅県はダムで水没し、就眠は離散した)
  2. 残りの基金は次のように使う。 ・青田県方山に小学校を建てる。 ・青田・甌海・瑞安三県に教材費(図書・体育用具)を分配する。 ・来年の80周年に向けて、記念誌を出版する。 ・80周年記念行事に使う。 日本側は陳主席、張副主席、黄秘書長が誠実に基金の運用に当たってくださったことに深く感謝しているのです。

宋慶齢さんは、救済と福祉を考えるとき、常に始めと方法と終わりを考えることが大切だといわれます。始めは常に問題を知った「いま」、いつまでにと「終わり」を見定めて「方法」を考えようというのです。 1993年この基金をスタートさせた時、十年という「時」を考えました。しかしそれは、十年で元金も使い切ってしまう配分方法でした。陳さんは1000万円の資金を大切にしてくださり、利子で奨学金・助成金が支給できるように計らってくださったので、前に述べた2の事業ができるのです。今は、中国も日本も同じ低利息で元金を食いつぶすほかないようです。

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15.関東大震災80周年の記念行事は次のように持ちます。

    1. 温州で。 現職の参加希望も考えて、夏休み中、8月の最終週にしてもらうよう折衝中です。一週間の旅程を考えています。決定しましたら早めにお知らせします。希望者は是非ご参加ください。
    2. 日本で。 9月2週目の土・日いずれか。会場の都合で決まります。温州と長春(王希天の遺族)からお客さんを招きます。是非ご参加ください。これも早めにご案内いたします。ご予定ください。
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16.本年度の会費とカンパをお願いします。

会 費:1口 3000円 団体3万円 目標200万円

カンパ:1口 5000円 団体5万円 目標200万円

  • いつものことですが、ご無理の無いようにご協力ください。お気持ちをいつもありがたく感謝しております。
  • カンパは温州5人、長春5人の東京滞在費5日分宿泊・食事・車代等です。
  • 国際旅費と5日以上の日本滞在費は自己負担してもらいます。

    しんどい日常ですが、以上よろしくお願いします。

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17.理事に関するお知らせ

  • Sさんが10月13日に召されました。日本の初代文部大臣森有艶のお孫さんでした。毅然と日本の平和運動の先頭に立たれました。清貧を貫かれ、心低くまわりのひとびとを顧みてくださいました。この会の会計監査、理事を務めてくださいました。
  • Mさんがご病気になられました。10月5日の当会理事の案内に、そのころアフガンに行っているから出席できない、ごめんなさいとはがきが来てまもなく、ガン発病のお知らせでした。他人の痛みを共有できるたぐいまれな品性が、Mさんの運動の中に輝きます。
  • 山住正己さんは当会理事長です。10月5日に入院されました。ただいま検査中。お連れ合いと、お嬢さまと、お医者様がふたりついていらっしゃいますから、少し安心です。
  • Oさんは、電話していかがですかとお尋ねしますと、順調にしびれは進行していますよと人事のようにおっしゃいます。歩けなくなる日を見越して、8月に中国に行くことを急がれました。英国紳士風に姿勢をただして、さっさとお歩きになるので、人は気づかないのですけれど。

命あるかぎりまわりを照らす方々を理事に持つ私どもはその幸せを大切に歩いてまいりましょう。 天候不順の折から本当に、みなさまご自愛ください。

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