CONTENTS

 雨が多く、寒い日が続きましたが、やっと秋晴れになったのでしょうか。お変わりございませんか。 この会をお支えくださる方々の中にはご高齢の方も多いので、お大事にお過ごしくださいますよういつも願っております。

  1. アフガンの人々と共に
  2. あの時もおなじように
  3. 第5回興隆行
  4. なんと傲慢であったことか
  5. 大田さんの夢「こどもとしょかん」の建設
  6. 会計について
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1.アフガンの人々と共に

 9月11日以来、油断のできない毎日がつづいています。アフガンの戦局はタリバンのカブール撤退を報じますが、真実の状況は分かりません。日本人として考えるべきことは、アメリカとともにあることではなく、アフガンの人々とともにあることでしょう。この冬、あの土地の人々の飢餓や、凍死が起こらないよう、こころから願って、同じ思いを持つ世界の人々とともに行動することでしょう。たとえシャツ1枚でも、シャツ1枚のカンパでも、集まれば、大きなものになります。本当は自衛隊の派遣に使う費用が、全部そちらに回るべきなのですが。品物にも、お金にも、人にも「ジャパン」の標識はいりません。「ひと」が、「ひと」のことを案じてその人に必要なものを早急にとどけることが、いま、必要だと思われます。

 雑誌「世界」12月号は、2001年10月4日、イギリス政府による報告「9・11 米国中枢テロとオサマ・ビンラディン氏を結びつける証拠とは?」の翻訳をのせていますが、その文面からは、証拠となるものは、なにも見つかりません。
 報道される情報が、どこから出たものであるかを冷静に見る目を持たないととんでもないことの片棒をかつがされます。
 連日の空爆で廃墟と化した町に人影はみえません。テロを裁くのは法廷であって、国が国に報復を加える理由はありません。ブッシュに連動する世界の首脳陣は、自らが手をかけた、あるいは手を貸した空爆による民衆殺戮を恥じる日がいつかくるかもしれません。

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2.あの時もおなじように

 今のアフガンの状況は、私たちの支援している興隆県や南の唐山に無人区がつくられたころ(1942年前後)の状況になんと似ていることでしょうか。
 長城に北が興隆県、南はいわゆる冀東平野、北は満州国で関東軍、南は中国で北支那方面軍の管轄下にありました。日本の占領下の冀東にあって、抗日戦争を続けたのが李運昌です。冀とは河北省を意味します。冀東は古北口−北京−天津を結ぶ線の東をいいます。ここで戦った人々は、霧霊山の子弟兵、あるいは冀熱遼の子弟兵といわれるように、土地の人でした。故郷を守るために、家族を守るために立ち上がって民兵になり、八路軍に入っていったひとびとです。インテリや労働者もいますが、大部分は農民です。 日本は、冀東防共政府をつくって、この地を第2の満州国にしようとしました。
 1941年9月、李運昌の部隊は長城を越えて、熱河に入りました。7月の掃討で犠牲が大きかったから、部隊を休養させる必要もありましたし、旋回できる大きな根拠地を作る必要がありました。冀東の根拠地は東から、腰帯山、魯家峪、盤山とできていましたが、一時ここを立ち退いて北へ向かったのです。日本軍は李運昌の率いる八路軍はいなくなったと安心しました。41年秋以後、日本軍は治安軍を編成して討伐に当たらせました。中国人に中国人を討たせるということです。
 そのころ李運昌の首には、10万元の賞金がかけられていました。日本軍は母親を捕らえて城門にさらし、孝行息子李運昌を捕らえようとしましたが、果たせず、釈放しました。また郷里楽亭の人々を買収して、李運昌の存在を確かめようとしましたが、これも成功しませんでした。冀東のすべての町や村に八路軍の動静についての一日一報を義務づけますが、これもうまくいきません。

無人区のこと---興隆の場合

 2001年秋、アメリカは空爆で、アフガンの町や村を無人にしました。42年秋、日本軍は、長城の南4キロメートル、北の興隆県の場合南北30キロメートルにわたって無人区にしました。東の義院口から西は独石口まで500余キロメートルの広大なものです。南の場合は20日の余裕がありましたが、北の興隆県の場合は通告から、立ち退きまで3日しかありませんでした。3日たつと、日満の警察や兵隊が来て、はしから家に火をつけて焼き払いました。それは家のみでなく、山を焼き払うことになったのです。八路軍と民衆の間に絶縁体をつくることが目的でした。大黄崖川、小黄崖川に沿う村が焼かれたとき、昼も夜も、ことに夜は火の柱となって、山が燃えつづけたことを山の古老は語ってくれました。ここは霧霊山根拠地の入り口でした。人々は人圏に追いたてられ、囲いの中の生活を強いられました。それがいやな人は山に逃げて暮らしました。見つかったら殺されるのですが、野草を食べながら、男性は民兵になっていきました。1942年には霧霊山、五指山、都山をつなぐ広大な根拠地ができていました。

無人区と遮断壕---冀東の場合

 第27師団原田熊吉師団長と、鈴木啓久歩兵団長は、42年9月、無人区を作る命令を出して20日たってから、飛行機に乗って、空から長城を視察しました。赤黒く長城の南は焼けただれていました。一筋の煙でも見つけたら、地図に記入して再度剔抉(てっけつ)を命じました。長城沿いの南の無人区はこうして完成しました。
 冀東ではその年9月から12月まで毎日5〜6万人、実施60万人、のべ600万人を動員して、遮断壕を掘らせ、4キロメートル間隔で望楼を築かせました。全長290キロメートルと百数十の望楼は12月中旬に完成しました。冀東の惨案は42年に集中しています。
 李運昌はいいます。「千里の無人区はその時間の長さにおいて、範囲のひろさにおいて、規模の大きさにおいて、さらに残虐無道の大虐殺において、南京大虐殺事件をはるかにしのぐ」

軍隊の行方

 第27師団は1943年7月錦西へ移駐し関東軍のもとに入り、さらに44年3月京漢作戦のため、中国中部の戦場に移動させられます。机上のプランでは兵はどのようにでも使えたのでしょう。 西南防衛司令部から興隆討伐に派遣されたいくつかの大隊はその後、南方戦線に送られて全滅しています。興隆に最後までいた第420連隊第1大隊は興隆の在留邦人をまもって、徒歩で北京は脱出し帰国しています。他の大隊はシベリア送りになりました。
 長城の南北に根拠地を拡大した李運昌の部隊は、1945年8月10日、日本投降のニュースが入るとすぐ、延安の指令で東北への進発を命じられ、東北の治安を守る役割を担いました。抗日戦争中最後に出来た根拠地は、新中国建設の最前線基地となったのです。

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3.第5回興隆行

 今年も8月(17〜25日)に興隆に18名行きました。「つくる会」の教科書問題と小泉総理の靖国参拝問題で暑い夏でした。そのため、狗背嶺(ゴウベイリン)の根拠地に入ることは、公安局から止められました。しかし古老の話は聞くことができましたし、狗背嶺の外側を車でまわることはできました。
 8月18日、孟副県長から、現在の興隆県の概略を、劉教育局長から、興隆の中等教育の概要と問題点、特に進路の問題について。午後は、婦女連の侯主任、陸副主任から、興隆県の女性の生活について話を聞くことができました。結婚しても経済力をもって平等の社会を作っているたのもしい人たちです。日本軍に焼かれた山の植林も大部分が女性たちの労働によるものだという話は感動的でした。
 通訳は、北京師範大の高さんと理事のMさんのお連れ合いのAさんに助けていただきました。高校1年生のMくんは、旅の間中、ビデオカメラをとりつづけてくれました。

学校建設資金贈呈

 今年は高杖子小学校へ改築資金236万5千円(ボランティア貯金配分金)、西三岔口小学校に200万円(当会募金)を贈りました。
 高杖子小では、旧校舎の取り壊し作業がまだ終わっていませんでした。昨日(11月19日)興隆から電話が入って、教育局の劉局長から、高杖子小の校舎落成の知らせが入りました。落成式には行けないから写真を送るように頼みました。西三岔口小は、8月行った時、すでに校舎はできていました。ここは取り壊しの必要がないので、6月末、当会募金で支援の知らせを聞いた後すぐ着工したのでした。内装はまだでした。

教材研究授業

 高杖子小では、IさんとNさんが、算数セットを使った算数の授業、また鍵盤ハーモニカを使った音楽の授業はIさん。劉杖子小では、算数をSさん、音楽をOさん、西三岔口小では、音楽Mさんでした。あとの人たちはそれぞれ授業補佐にまわりました。人が変わっても5年の積み重ねの上に年々授業が冴えていくのを見るのは楽しいことです。

モクイは雨

 モクイ中学の夜は雨でした。例年のキャンプファイアーを囲んでの交流はできませんでしたが、室内の交歓会に切り替えられました。
 キーボードを1台寄贈しました。このキーボードは、5月の平和教育交流会議においでくださった徐さんのご寄付で購入したものです。Mさんの演奏でご披露しました。
 白馬川中学校は、いまは、大水泉中学校の分校です。先生と生徒達と座談会を開きました。郷にひとつの中学校に統合されるといいながら、分校はやはり、そのままかと気になっていたのですが、上級生は、大水泉に行っているとのことです。生徒減が始まっているので、自然に本校に収容されるのを待っているというところでした。生徒達はいい目をして意欲的でした。

古老の話

 高杖子には、日本の新兵訓練所がありました。はじめは、藁束で刺突の訓練をしていたのですが、次に死体、ついにはしばりつけられた「生きた人間」を刺突の対象にした話を聞きました。これは「中帰連」の方々の証言を裏付ける話です。口々に話すおじいさんたちは、少年の目に見た光景を忘れられないのでいます。
 白馬川村では残忍な警察分駐所の所長劉を八路軍が捕らえ処刑した後、興隆県の警察署は、日本軍と一緒に村を包囲し、村人を集め、拷問の限りをつくし、殺した村人を供養と称して劉の祭壇に備えるのですが、一人の心臓を取り出して、衆人環境の中で食べた日本兵の話など聞いているのもつらい話がここにはたくさんあります。
 朱家溝、トウ子峪は狗背嶺に近い無人区だったところです。
 「人圏に入ることを拒否した朱家溝では、男たちが民兵となって戦いに出ていった後、乳飲み子を抱えて心細かったおばあさんは涙をぬぐった。出ない乳を求めて、あちこちの肌に吸いついてくる子どもを疎ましくさえ思い、それでも厳冬をのりきって1歳まで育てたものの結局死なせてしまい、2人目の子どもも8ヶ月で死んだという。我が身に置き換え胸がつまった。」(J)
 「(日本鬼子}としてくくられる日本人の中にも人間の心をもって行動した人の名前をおぼえている老人がいた。トウ子峪の警察署長だったM氏は管轄地域の村人が捕らえられたとき、「この人たちは八路軍ではない」といって救出したという。権力構造に組み込まれてもほんの一瞬自分の責任で判断する機会を彼は活かしたということだろう。少し慰められる話だった。」(J)

ひとりひとりの命の尊さを

 22日、長城を越えていきました。烈士陵園見学の後、夜、唐山市の党史研究室の方々と座談会を持ちました。元主任陳さんは「犠牲者○○万人というような数字で戦争を理解することはできない。われわれと同じ血が流れ肉をもって生きている人間ひとりひとりのできごととして理解しなければならない。」といわれました。
 翌日、潘家戴庄に行きました。りっぱな記念館が建ってました。
 1942年12月5日、この村で1280人が殺されました。男性は長い壕を掘らされ、そこに生き埋めにされ、火をかけられました。女性は集団強姦の後数珠つなぎにされ、四角に掘った穴にいれられ、火で焼かれました。子どもは石臼にたたきつけられて死にました。1280名の名が刻まれています。最近また近くの地中からたくさんの遺体が発見されたということです。1994年に会った周さんはすでに亡くなっていました。彼は火をかけられた壕から、脱出したただひとりの生き残りで、潘陽の軍事裁判で、Sを告発した人でした。

李さんに会う

 北京で電話してみましたら、来てもいいよといわれましたから、24日みんなでお宅におしかけました。今年は中国共産党成立80周年なので、行事が多く、面会の日を前もって予約するのは無理でしたから、当日ご都合を聞くことにしてあったのです。歴史を正視することの必要を話されました。94歳の将軍はにこにこしてきびしい話をしてくださいました。それぞれ歴史教科書問題への各県の対応を率直にお話ししました。若いKさんは、冀東の戦いから考えてどんなこわい方かと思っていましたら、やさしい方なのでびっくりしましたとのべました。ご長寿を祈って1人ずつ握手をしてお別れしました。

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4.なんと傲慢であったことか

 「この会で出会った多くの中国の方々と接する中で、いかに自分が傲慢な人間であったかを思い知り、恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。中国の方をはじめて、中国人ひとくくりにしてとらえるのではなく、ひとりの人として感じることができたことは私にとって大きなプラスになりました。
 この旅で心に残ったことは、証言者の方の話、そして陳先生の話でした。特に陳先生のお話の中で、戦争で亡くなった人の数を20万、30万と一口に言うが、ひとりひとりみな血が流れ、肉がある1人の人間なのだといわれたことばに深い感動を覚えました。今まで、私は、平和教育をする中で、亡くなられた人の数を、これまでに何百回と子どもたちに語ってきました。しかしその言葉はいかに中身のないものであったことか、なんと思いのこもっていない授業であったことか。私自身の感性の乏しさを思い知らされることばでした。また歴史の事実をどう見るかが大切なのだということばも心をつきました。
 今回の旅で私は、目で耳で体全体で、見るもの聞くものすべてを受け止め、感じてこようと思っていました。人として、教師として、これからの私を形作る上で重要なのものを私は確かにこの10日間でいただいたと思います。
 中国の方に味わわせた悲しみ、苦しみ、怒り、さまざまなつらい思いを決してむだにしてはいけない。二度と再び教え子を戦場に送ってはならない。子どもたちが二度と他国の人を傷つけるようなことがあってはならない。そう強く思いました。
 私に何ができるだろう。私は何をしなければならないのか。先ず私自身が真実を見抜く目を養い、それを受け止める完成を研かなければならないと思います。そして子どもたちに教え子たちにこの思いを伝えなければならない。働く仲間に、保護者に伝えていかなければならないと思いました。
 平和カレンダーに対する攻撃がまたあったと中国から帰って聞きました。私たちの戦いはこれからますます厳しくなるでしょう。しかし決して屈してはいけない。この思いの原動力となるのは、この会で出会った中国の方々です。この人たちに恥ずかしくない行動をとりたいと思います。」(S)

5.大田さんの夢「こどもとしょかん」の建設

 9月大田さんのお伴をしてもう一度興隆に行って来ました。
 体が動く間にもう一度行きたいとおっしゃっていましたから。本当はご病気で、足がしびれていらっしゃるのです。
 用事は3つありました。1つは北京の教育科学院主催で、中日教育学者が集まる、日本の「新編歴史教科書」問題に関する座談会に出席すること、これは70余名の中国の教育学者が来られました。病院からかけつけたという方も居られました。大田さんの報告は、日本の事情を語りながら、教育の本質を解かれたもので、中国の方々は大変感動され、その後、教育テレビでも放映されました。
 2つ目は北京大学の図書館にご自分の蔵書の中から、教育関係、日本語関係の図書を寄贈されることでした。
 3つ目は興隆に、「こどもとしょかん」をつくることです。そのための場所の選定や、図書館の形態、利用のしかたなど、関係者と打ち合わせをして、興隆の町の第一小学校の敷地内に作ることになりました。単独の土地の確保は無理でした。就学前のこどもも自由に来られる図書館にするわけです。読書の習慣は幼児の頃からつけなければならないからです。建築資金の300万円を贈呈されました。
 実は大田さんは今春ご自分の故郷広島県本郷町に「こどもとしょかん」をお建てになりました。ログハウスのすてきな図書館です。図書の管理や本の読み聞かせなど、お母さんたちの自主的なボランティア運営です。この「こどもとしょかん」のビデオを持って行って興隆県の関係者に見てもらいました。具体的な設計までもう少し、時間はかかりそうです。
 「いなかだけれど、あそこに行くと中国で出ている良い本はみんな読むことができるよ、というふうにしてあげたいね」と大田さんの夢は広がります。その後、上海の児童時代社と少年児童出版社の社長に興隆の「こどもとしょかん」への児童書の寄贈を頼みに行って来ました。
 みなさまも応援してください。良い知恵をお貸しください。

大田さん、84歳。東京大学名誉教授、北京大学名誉教授、元日本教育学会会長。元日本こどもをまもる会会長。文革後の日中教育交流に力をつくされました。当会理事。

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6.会計について

 今年の会費・カンパの収入は例年より少なく、繰越金を使ってしまいました。温州からの教育視察団のために用意したお金を100万円繰り越してきました。現地の都合で来られなくなったのでしたが、関東大震災の80周年も2年後にくるので、繰り越しておきたいと思っています。西三岔小の建築資金300万円は1ヶ月弱の期間でしたから156万円しか集まりませんでした。それで200万円にして送ったということです。不足分は、県と郷が補填しました。事務局は、お志のままという姿勢でずっとやってきましたが、つごうのつく方は思い出してどうぞご支援ください。お願いいたします。また知人をお誘いください。転居の場合はお知らせください。

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