今年も8月(17〜25日)に興隆に18名行きました。「つくる会」の教科書問題と小泉総理の靖国参拝問題で暑い夏でした。そのため、狗背嶺(ゴウベイリン)の根拠地に入ることは、公安局から止められました。しかし古老の話は聞くことができましたし、狗背嶺の外側を車でまわることはできました。
8月18日、孟副県長から、現在の興隆県の概略を、劉教育局長から、興隆の中等教育の概要と問題点、特に進路の問題について。午後は、婦女連の侯主任、陸副主任から、興隆県の女性の生活について話を聞くことができました。結婚しても経済力をもって平等の社会を作っているたのもしい人たちです。日本軍に焼かれた山の植林も大部分が女性たちの労働によるものだという話は感動的でした。
通訳は、北京師範大の高さんと理事のMさんのお連れ合いのAさんに助けていただきました。高校1年生のMくんは、旅の間中、ビデオカメラをとりつづけてくれました。
学校建設資金贈呈
今年は高杖子小学校へ改築資金236万5千円(ボランティア貯金配分金)、西三岔口小学校に200万円(当会募金)を贈りました。
高杖子小では、旧校舎の取り壊し作業がまだ終わっていませんでした。昨日(11月19日)興隆から電話が入って、教育局の劉局長から、高杖子小の校舎落成の知らせが入りました。落成式には行けないから写真を送るように頼みました。西三岔口小は、8月行った時、すでに校舎はできていました。ここは取り壊しの必要がないので、6月末、当会募金で支援の知らせを聞いた後すぐ着工したのでした。内装はまだでした。
教材研究授業
高杖子小では、IさんとNさんが、算数セットを使った算数の授業、また鍵盤ハーモニカを使った音楽の授業はIさん。劉杖子小では、算数をSさん、音楽をOさん、西三岔口小では、音楽Mさんでした。あとの人たちはそれぞれ授業補佐にまわりました。人が変わっても5年の積み重ねの上に年々授業が冴えていくのを見るのは楽しいことです。
モクイは雨
モクイ中学の夜は雨でした。例年のキャンプファイアーを囲んでの交流はできませんでしたが、室内の交歓会に切り替えられました。
キーボードを1台寄贈しました。このキーボードは、5月の平和教育交流会議においでくださった徐さんのご寄付で購入したものです。Mさんの演奏でご披露しました。
白馬川中学校は、いまは、大水泉中学校の分校です。先生と生徒達と座談会を開きました。郷にひとつの中学校に統合されるといいながら、分校はやはり、そのままかと気になっていたのですが、上級生は、大水泉に行っているとのことです。生徒減が始まっているので、自然に本校に収容されるのを待っているというところでした。生徒達はいい目をして意欲的でした。
古老の話
高杖子には、日本の新兵訓練所がありました。はじめは、藁束で刺突の訓練をしていたのですが、次に死体、ついにはしばりつけられた「生きた人間」を刺突の対象にした話を聞きました。これは「中帰連」の方々の証言を裏付ける話です。口々に話すおじいさんたちは、少年の目に見た光景を忘れられないのでいます。
白馬川村では残忍な警察分駐所の所長劉を八路軍が捕らえ処刑した後、興隆県の警察署は、日本軍と一緒に村を包囲し、村人を集め、拷問の限りをつくし、殺した村人を供養と称して劉の祭壇に備えるのですが、一人の心臓を取り出して、衆人環境の中で食べた日本兵の話など聞いているのもつらい話がここにはたくさんあります。
朱家溝、トウ子峪は狗背嶺に近い無人区だったところです。
「人圏に入ることを拒否した朱家溝では、男たちが民兵となって戦いに出ていった後、乳飲み子を抱えて心細かったおばあさんは涙をぬぐった。出ない乳を求めて、あちこちの肌に吸いついてくる子どもを疎ましくさえ思い、それでも厳冬をのりきって1歳まで育てたものの結局死なせてしまい、2人目の子どもも8ヶ月で死んだという。我が身に置き換え胸がつまった。」(J)
「(日本鬼子}としてくくられる日本人の中にも人間の心をもって行動した人の名前をおぼえている老人がいた。トウ子峪の警察署長だったM氏は管轄地域の村人が捕らえられたとき、「この人たちは八路軍ではない」といって救出したという。権力構造に組み込まれてもほんの一瞬自分の責任で判断する機会を彼は活かしたということだろう。少し慰められる話だった。」(J)
ひとりひとりの命の尊さを
22日、長城を越えていきました。烈士陵園見学の後、夜、唐山市の党史研究室の方々と座談会を持ちました。元主任陳さんは「犠牲者○○万人というような数字で戦争を理解することはできない。われわれと同じ血が流れ肉をもって生きている人間ひとりひとりのできごととして理解しなければならない。」といわれました。
翌日、潘家戴庄に行きました。りっぱな記念館が建ってました。
1942年12月5日、この村で1280人が殺されました。男性は長い壕を掘らされ、そこに生き埋めにされ、火をかけられました。女性は集団強姦の後数珠つなぎにされ、四角に掘った穴にいれられ、火で焼かれました。子どもは石臼にたたきつけられて死にました。1280名の名が刻まれています。最近また近くの地中からたくさんの遺体が発見されたということです。1994年に会った周さんはすでに亡くなっていました。彼は火をかけられた壕から、脱出したただひとりの生き残りで、潘陽の軍事裁判で、Sを告発した人でした。
李さんに会う
北京で電話してみましたら、来てもいいよといわれましたから、24日みんなでお宅におしかけました。今年は中国共産党成立80周年なので、行事が多く、面会の日を前もって予約するのは無理でしたから、当日ご都合を聞くことにしてあったのです。歴史を正視することの必要を話されました。94歳の将軍はにこにこしてきびしい話をしてくださいました。それぞれ歴史教科書問題への各県の対応を率直にお話ししました。若いKさんは、冀東の戦いから考えてどんなこわい方かと思っていましたら、やさしい方なのでびっくりしましたとのべました。ご長寿を祈って1人ずつ握手をしてお別れしました。