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国連初代大使 黄さんの話を聞く

2000年8月23日 於 北京 宋慶齢故居

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Nさん (訪中団団長)

 大勢で押しかけました。どうしても先生のお話をお聞きしたいと思いまして。

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J(司会)さん

 始めに、自己紹介をします。

(自己紹介。 途中、大分県から来たという紹介に黄さんは「一村一品の大分県に行ったことがあります。出身の村山元首相は中国を訪問されまして、日本の歴代首相のうち初めて北京の廬溝橋にあります中国人民抗日記念館を見ています。村山先生とお会いしました時に私の方から、今回自らこの抗日記念館をご覧になりましたその一つの行ないで中日両国の隔たりを一気に短縮出来ましたと言いました。一部の日本の高官、政府の首脳ですらこのような敏感な問題に触れたがらないという状況の中では、村山元首相の訪問は大変意義深いものだと痛感しております。そしてその後の村山首相の後任の歴代首相に大きな難問を残しております、行くか行かないか大変迷っていますので。」と言葉を挟んだ。)

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Nさん(団長)

 今回私たちは興隆県に行ってまいりました。興隆県を団で訪問するのは4回目です。今回は、あそこの無人区の状況と八路軍の関係をわかりたいと思いまして、興隆県から遵化へ抜けまして帰ってきたところです。
 そして、今自己紹介しましたように小、中、高の教師たちですから、興隆から帰りましたら、その興隆の状況を授業の中でちゃんと子どもたちに伝えている先生たちです。戦争の歴史をきちんと教えて、そして、どういうふうに中国の方たちと手をつないでいくかという友好の道が歩けるような子どもたちを育てたいと願って実践をしている人たちです。
 以前にお話したかと思いますが、その実践を毎年5月に持ち寄って「平和教育研究交流会議」というのを開いて、お互いの交流をし、さらにその平和教育を広めていくという役割を担っている人たちです。そういう方たちに黄さんが会っていただけることをとても嬉しく思います。ですから、そういう人たちにKさんの期待する言葉というか、こうあって欲しい、これもやれ、あれもやれということをお話しいただけたらありがたいと思います。

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黄 さん

 本日大変貴重なチャンスを得まして、N 先生を始めとする、日本の教育の第一線で大活躍しておられる皆様の、中国教育を支援する意向で、興隆県を始め、河北省の戦争の遺跡を巡る教育の訪中団を迎えまして、とりわけ、皆様は、子どもの平和教育につきまして、重大な責任感を持って中国の実地視察をなさいました。
 大変喜ばしい、貴重な精神に対しまして、崇高なる敬意を表したいと思います。教育というもの、とりわけ、子どもの教育に携わることは、大変神聖な仕事の1つです。なぜかと言いますと、未来を切り開く重大な仕事の1つだと私は考えております。

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黄さん

 宋慶齢女史は、一生涯を中国の教育事業に捧げまして、中国の少年・児童の心身共健全な成長のために、自分の一生を捧げました。宋慶齢女史の教育思想を一冊のパンフレット(語録、言論集)にまとめております。当書物は中国の上海婦人幼児会の編集で出版されています。
 私は中国の教育担当責任者(日本の文部省に当たるもの)と高官たちに繰り返し次のような話をしています。宋慶齢女史の教育思想が、大変前向きなもので、今日の教育事情に対しても、深い示唆を与えられ、大変意義深いものだと言っています。
 ト小平先生の、大変著名で、深い示唆を与えられる有名な言葉があります。「すべては子どもから」という言葉です。この言葉を言っていた場所なんですけれども、かつて、ト小平先生が、上海視察中、上海の中国福利会少年の家を視察中、コンピュータ教育室を見ていて、すべては子どもから着手しなければならないという指示を出しているわけです。この言葉は、当時は、コンピュータ教育の中国の普及について具体的に指示を出しましたけれども、しかし、この言葉の言外の意味ははるかにコンピュータ教育を越えるものだと私たちは考えています。
 本日この場は、大変貴重な、1つの教育の場だと私は思います。皆様は、長年来第一線で日本の子どもの教育に従事してこられました。とりわけ「中国山地教育支援会」の皆さんが、中国の教育事情に深い関心と支持を寄せられていることは大変意義深く、私たちは、一つの共通の理想、理念をもって共に頑張っていると、私は大変心強く感じております。本日は大変有意義な教育共通交流の場だと私は思っています。1998年に東京に行った時には、N 先生始め日本教育界の皆様、とりわけ山地教育支援会の小、中、高校の教員の皆様と楽しい晩餐会を一緒にいたしまして、楽しくて楽しくてたまりませんでした。本日、引き続いてまた皆さんと楽しい再会ができまして、この上ない喜びで私の胸は一杯でございます。

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Nさん (団長)

 ちょっと説明します。K さんは日本の政府の招待でいらっしゃったのですが山地教育の理事のメンバーに直接会いたいと政府側に申し入れしてくださって、時間を取って私どもと夕食を一緒にしてくださったのです。だからO先生とかS先生とかI先生とか、そしてここにいる若手の理事とかみんな一緒に参加して、晩餐会をして、とても楽しい時間を過ごしました。
 先生はちょっと見にはいかつい顔をしていらっしゃいますけど、Tさんが写した写真はみんなにこにこ顔でした。上海の基金会の皆さんもびっくりするくらいにこにこでした。政府の関係者と会っていると笑えないんだけれど、本当に心開いた時間を持ってくださって、そして、楽しかった楽しかったと今もおっしゃっておられます。どうぞ。

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黄さん

 興隆での現地視察はいかがだったでしょうか?

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J さん

 子供たちとの交流も楽しく出来ましたし、抗日根拠地の現地に立つことが出来て大変有意義でした。

Mさん

 私は河南大峪の小学校で音楽の授業をしました。鍵盤ハーモニカを使った授業をしまして、今回が3回目です。
 それで今までの経験を生かして教材を選んだり、子どもたちにどういうふうにお話をしたら伝わるかというのが少しは進歩したかなと思っています。

N さん

 大いに進歩してますよ。

黄 夫人Kさん

 何の歌ですか?

Nさん

 ちょっと歌ってみてください。

Mさん

 シャーユィ(小雨) シャーユィ  シャシャシャ シャシャシャ・・・(歌)
 子どもたちが生き生きと活動してくれて、日本の子どもたちがなくした部分がたくさんあるので大変感動しました。また機会があったら、ぜひ子どもたちと一緒に音楽をやりたいなと思っています。

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N さん(団長)

 どなたか、おじいさんたちの話の感想を一言おっしゃってください。

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kuさん

 かつて日本軍が痛ましい戦争をした時代の現地に行きまして、おじいさんたちに当時の話を聞いて、心が大変痛くなりました。
 今回私が特に心を打たれたのは、潘家峪でのお話で、その時の生存者の方の証言が、顔の表情から、それから現地を見てから、聞いていて胸が熱くなりました。知識では知っていても、やはり現地へ行って、現地を見てさらに現地の人の話を聞くということが何よりも心を動かすのだなあとつくづく思いまして、大変有意義な旅になりました。
 この会の旅で聞いた話を大分県の仲間でお話にしまして、それを子どもたちに紙芝居のような形で、中国であった事実を事実として教えていく平和教育を進めています。今回もまた、聞いた話をもとに何か一つでも二つでもそういうお話を作って、子どもたちに正しい歴史を教えていきたいと思っています。N さん あそこで作った紙芝居が、小学生が使える一つの教材として他の県にも広まっているんです。

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黄さんの話

 中日両国は歴史を遡って申し上げますと、数千年の長い友好の歴史を持っています。中日関係は端的に申しますと長期的に相互交流、相互理解の深い時点での周辺関係を樹立したものとしては大変著名で、文化的、礼儀的、並びに政治経済など、広い分野にわたっております。大変豊かな両国関係史の材料を残しております。
 日本は明治維新以来、大変凄まじい勢いの発展を遂げました。それに対しまして中国は、相対的により立ち遅れる立場に陥っておりました。長期的な封建主義的な勢いが、結局専制的に走り込んで、専制絶対王家の下では社会がより一層衰退し没落して、困難な状態がずっと続いてきました。そして、民衆の不満が勃発しまして、搾取と政治的圧迫に反抗しまして戦争が頻発するという状態がずっと続きました。
 日本の明治維新の前にも、中国では太平天国という大規模な一揆がありまして、清朝の支配体制に反抗しましたけれども、結局、中国の社会が進歩的な一途をたどり着くことができなかったのです。
 孫文先生が率先して立ち上がり、清朝の反動的支配体制を崩しましたけれども、共和国が建立したにもかかわらず、中国における社会と民衆の政治権利が回復できないで、まだ中国は改革も革命も無いままに軍閥支配が生まれたのです。軍閥体制下での列強による中国分割の状態が大変進行しまして、租界地を始めとする外国の勢力が中国で大いに暗黒の時代を引き起こしたのです。
 ロシアの10月革命が勃発しまして、マルクス主義、社会主義思想、それから共産主義の思想がやっと中国に伝わってきて、五四運動を始めとするニューカルチャーのイベントが中国で出来て、これも一つは反封建主義、一つは反帝国主義の運動でありました。
 中国革命を前の方へ推し進めるためには、1924年、国民党の第1回全国代表大会で綱領が出来て、国共連携による国民党の再編、それから新政府による綱領が出来て、要するにロシアと連携、共産党と連携、そして平等に中国を扱う諸国家と手を結んで、中国国内における労働者階級と農民階級を扶助するその力を伸ばすという大方針のもとで中国の革命はいっそう前へ進んで、北伐を代表とするニュータイプの戦争が勃発しました。
 北伐戦争は大変勝利のうちに上海に至るまで広まってまいりましたけれども、国民党のトップクラスの首脳部が反共産党のクーデターを起こし、共産党員の大虐殺に続いて、労働者運動の弾圧、最後に武漢のもう1つの政権汪精衛の反共運動が勃発しまして、国共が分裂しました。
 中国共産党が1927年8月1日に江西省の南昌市で武装蜂起を起こし、国民党と共産党の有名人が多数参加していました。この武装革命の運動は、共産党が初めて自分なりの武力を持ち、中国革命の新しい1ページを開くことになった運動です。
 中国には数多くの根拠地が相次いで出来まして、江西省には毛沢東と朱徳の大きな強力な根拠地が出来ております。揚子江以北、つまり河南省、安徽省、湖北省の根拠地も出来で、陜西省の北部にも根拠地が出来ております。その他、甘粛、寧夏、それから広西の武装蜂起も大変著名な事件で、ト小平は広西省の武装蜂起のリーダーの1人です。全国の情勢は、つまり中国の当時には民衆的な革命が許されなかったということがやむをえないところがあります。と言いますのは、封建主義に反対するだけではなくて、帝国主義にも反対しなければならず、封建と帝国主義と中国の大ブルジョアジーとはグルになって、中国では民衆的な革命の道を歩むことが許されなかったと言わざるをえません。
 9月18日事件以降には、中国の社会的内部的には、全国規模の国民党の反民主主義、反共産党の政策と方針にも反対しなければならず、赤軍が出来て、民衆の不満が国民党に向け、当時の帝国主義と封建主義に向けて、一層広がってきました。
 抗日戦争勃発以来、後方には共産党によるゲリラ戦、大都市の交通線の破壊、そして中国の広い領土を有する農村部では山地を始め、共産党の軍隊が基本的に占領しておりました。1937年から38年にかけまして一応後方の共産党の100師団による交通線破壊、日本軍の占領した都市部の武装放棄の戦争など大きな戦いがありました。
 1938年以降になりますと、戦場は大きな変化を見せまして、作戦の主戦場が国民党に対するのではなくて、日本軍は、後方根拠地の八路軍、新四軍による共産党の根拠地に対する討伐、戦いに転じました。抗日戦争の全期間中におきまして、八路軍、新四軍の共産党が占領した根拠地に対する戦争が、正面戦場より、もっと戦争の規模が大きく、波及の面積も大きかったと言えます。抗日戦争の勝利につれて、毛沢東が自ら重慶に赴き、蒋介石との会合による平和実現、連合政府樹立という目標は協議上は成立したにもかかわらず、蒋介石は間もなくこれを裏切って、内戦が全面的に勃発しました。そして、46年から47年にかけて内戦は全面的に勃発しました。
 最初の予測、蒋介石打倒、中国を占領するという情勢への見通しは、実際よりは大変長いですけれども、本当の情勢の発展は予測より早かったんです。早くも共産党の勢力は充分に伸びていますので、ほぼ勝利の土台を固めたのが48年頃。49年になりますと既に大陸は解放し、蒋介石の失敗した兵隊が台湾に亡命している、ということになりました。解放軍はその前に数個の師団で遼寧と瀋陽全域、それから北京と天津、また淮河全域を経て、揚子江のあたり全域を通じまして、結局全国をあっという間に占領したわけです。
 中日関係が、新中国成立後、大変速いテンポで発展し続け、とりわけニクソンの日本頭越し訪中の後に続きまして田中元首相が訪中され、国交正常化がやっとついに出来ました。
 6年後の78年になりますと中日平和友好条約が締結され、中日関係が大変新しい段階に入りました。78年の末ぐらいに、ト小平先生について私も訪日しまして、中日平和友好条約の締結書を交換しました。時の日本首相は福田赳夫さんでした。その調印式は北京でありましたが、私は中国の外交部長として福田内閣の園田外相が日本側の代表で、一緒に調印しました。
 2000年来の中日両国の交流史の中には大変不幸な歴史がありましたけれども、この戦争が中日両国の国民に大きな傷害、傷をつけて、両国においては大きな悲劇と心痛める記憶を残しております。日本軍の兵隊さんの受ける教育は特殊な教育とは言え、ファシズム的で、「中華民国、中国人は劣等民族である」と。ナチスに似通う発想だと私は思います。つい最近出版されました野田さんの「戦争と罪責」という本に書いてあるように、日本の侵略軍の兵隊さん、1人は大変典型的なケースなんですけれども、軍医さんの父親に続きまして本人もお医者さんになりまして、従軍医ですから課せられる任務は日本の兵隊さんを怪我したら治しまして、治りましたら再び戦線に送りますけども、治らない場合はもうそのまま放っとくというような大変残虐過ぎるような戦争教育を、このお医者さんがインタビューで言っております。

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N さん (団長)

 ちょっといいかしら。その野田さんは、野田正彰さん。岩波から出版された「侵略の証言」をもとにして野田さんが撫順の戦犯の方たちを訪問してまとめられた本の話をしておられるのです。その本は私がお送りしたのです。

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黄さん

 一般戦争のごく普通のやり方なんですけれども、捕虜に対して武装解除すれば殺さないというのが常識なんですけれども、しかし日本軍の中国の捕虜に対する虐殺は普通のヒューマニズムも全然念頭にない。典型的なケースは南京大虐殺です。
 南京大虐殺を申し上げますと、皆さんよくご存知のように、1937年12月13日から虐殺が、その前にも始まりましたけれども、その時点になりまして中国軍はもう既に逃げまして、一部分は捕虜となって捕まえられました。しかし、南京に入場しました日本軍が命令を受けまして、虐殺を徹底的に開始したのです。野田正彰先生が書いた本の中には、インタビューを受けた1人の証言によれば、1人で130人位を殺したということです。
 皆さんは昨日まで興隆と河北省の東部への現地視察を通して、もう既に自分の目で確認されましたように、日本の侵略の事実は、この野田先生の本によるインタビューを通じまして、侵略の事実を自分の経験から証言するということが、皆さんの興隆と河北省の東部での中国人に対する調査の1つの実証ではないかと、裏付けの1つではないかと思います。遠い昔の話ではないですから、中国人の心の底には今でもあの戦争の時受けたトラウマと精神的な深い傷が大変深いので、数多くの中国の家庭はもちろん虐殺された自分の親類とか親とか、それは軍人でなくて、ごく平凡な普通の市民でしたからこの戦争によるトラウマがもっと心を痛めるのです。
 日本政府、とりわけ自民党並びにその他のごく一部の右翼勢力が相当大きな程度に侵略戦争を回避し、それを隠そうとしております。その態度がはなはだしきに至っては、明らかな事実ですら公開的に否認し、中国の事実摘発に対して、反発反応を公開的に行っています、という事実は大変理解出来ない。事実に対する捏造です。
 したがって、一番重要なのは、私たち中日両国の教育者は共通の責任を負わなければなりません。思想的、感情上におきまして、中日の世々代々に至るまでの友好関係を、仲良く付き合っていくことを、感情的に思想的に解決しなければならないと私は思います。ここで強調しておきたいのは、思想上と感情上の両方です。
 教科書を巡る長期的な訴訟とか闘争につきましては、私は98年に東京に行った時には、中日平和友好条約を記念する20周年の演説会がありました。その席上数十人の日本の聴衆の中から、一人の先生が立ち上がりまして、自己紹介によれば日本教職員組合の方らしいのですが、彼の発言によれば日本の中学生が改正されました教科書を見て、中日、特に戦争の実情は分からないとはっきり説明していました。
 中国の首脳、例えば毛沢東主席が抗日戦争中既に明言されましたように、政策決定の権力者と一般の日本国民を区別しなければならないとはっきり言っています。いかに日本と国交正常化を進めるかにつきましては、新中国成立時代の、とりわけ50年代、60年代にかけて、数多くの民間ベースでの交流が大変開花しました。とりわけ日本社会党、公明党、自民党の中の数多くの友好人士が両国の国交正常化のために尽力し、友好の輪を広げてくれました。
 また、中国の残留孤児に対しまして、中国政府は新中国成立後の大変貧しい時には、多くの物の寄付は出来ないですけれども、残留孤児の日常生活になくてはならない布、並びに一部の生活必要品を寄付して配布しました。まだ南満鉄道をはじめ、中国の鉄道会社の仕事に携わっていました日本の残留孤児、日本の方は、日本への帰国の前に、中国政府は彼らを中国の各地の観光と見学に案内してあげました。
 魯迅先生は、かつて、1932年1月28日の上海事変の後、日本の友人への長いメッセージの中に大変著名な詩を残してくれました。つまり「長い戦禍を経まして、兄弟の再会の時には、お互いに笑いを送れば恨みは一掃出来たのではないか。恨みは解消してしまっているじゃないですか」というように書いています。
 戦争の犯罪人(戦犯)と一般の日本軍の兵隊とははっきり区別しなければならない。1つのケースを申し上げます。私の古くからの友達のIさんは、侵略戦争の時には一番階級の低い二等兵でした。I二等兵が夜勤、夜の仕事なんですけれども、持っていた煙草と、中国の担ぎやさんの子どもが持っていた焼き芋を交換した。もし昼間だったら人に見られたら大変でしたが、自分は大変運がよくて、夜勤ですから、持っていた煙草で焼き芋をもらって大変おいしかったと。Iさんの戦争中のエピソードです。私とIさんは大変仲がいいです。
 Iさんの入院中、私はちょうど東京に出張中で、Iさんに連絡しましたら、彼は大変重い病気でありながら退院して姪ごさんと一緒に食事をしました。大平さんの再選失敗後Iさんが推薦されましたが、首相への競争に出馬しましょうと薦められましたが、Iさんは断念しました。Iさんは自民党の偉い政治家ではありますけれども、その他の政治家と違いまして自分なりのやり方でやっております。何回も日本訪中団の引率者として訪中されました。大平元首相もその他の人と比べて、大変ユニークなタイプです。とりわけ、戦後日本のODA,特に中国に対するODAが大平首相からスタートしたのです。大平元首相が選挙中に急逝した後、奥様が再び訪中されまして、北京で教えていただいたのは大平元首相の自分の家を在日留学生のために使わせてくれているということでした。
 皆さんと同じように日中友好のために尽力しておられる日本の方々が数多くおられ、いちいち説明出来ないくらいです。例えばU先生をはじめとする日本宋慶齢基金会の方々から、長い間いろいろ尽力していただきました。ほとんど大学の教授それから民間人です。資産家、実業家ではありません。お金はないですけれども、いろいろと尽力していただいて感激しています。
 つい最近、U会長が亡くなられましたけれども、事務局長とか理事長はじめほとんどが年配の方ばかりでありますので、一応、宋慶齢基金会の仕事を今年11月をもって幕を閉じるという話はしております。しかし、引き続きまして1つの日中共同プロジェクト委員会という形でやっていくという方針については私は聞いております。
 東京ライオンズクラブ並びに日比谷公園の中のフランス料理屋松本楼の社長のK先生及び奥様などたくさんの友人が中国の貧困地域の教育支援のために長年来大変有意義なご支援、ご支持をしてくれております。

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N さん(団長)

 日比谷公園の中に松本楼というのがありますが、そこの奥さんが梅屋庄吉の孫にあたります。梅屋庄吉というのは孫文と宋慶齢が結婚した時の立会人なんです。孫文が日本に亡命している時に彼をずっと庇ってきた人なんです。また、日活を作った人です。映画人なんです。お金持ちなんだけど少し変わり者で、ほとんど孫文の資金援助をしている。だから今松本楼には孫文の書いたものとか、その関係の資料がたくさん残っています。その宋慶齢日本基金会やライオンズクラブなどが支援している地域が寧夏なんです。

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黄さん

 私の心の中には、長年来わからない、なかなか自己で解釈が出来ないで首をかしげて考えている問題があります。ドイツも敗戦国の1つでヨーロッパの広範な地域にナチズムによる戦争犯罪がありましたが、日本も同じく敗戦国なんですけれども、中国、朝鮮半島それからインドネシア、マレーシア、シンガポール、インドなどアジアの国々に同じ戦争犯罪を犯しましたが、ドイツと日本の戦争に対する対処の姿勢が、戦後処理に至るまで、首脳部の差があまりにも大きい。戦争に対する態度の対比が鮮明にあまりにも違うと言わざるをえない。その原因は、いったいどこにあるのか。私が再三再四考えている1つの問題です。
 この鮮明な対比の1つのケースを申し上げますと、戦後、ヒットラーナチスの戦争犯罪の具体的な懺悔と、謝罪の行ないとして、ドイツ社民党のブラントがポーランド、ユダヤ人に武装蜂起、弾圧記念碑の前で、何周年かちょっと忘れましたけれども、演説をして涙を流し、泣き崩しているうちに、土下座してポーランドの戦没者に対して懺悔の意を表するとともに、全世界的にドイツ民族としての謝罪を公然と行ないました。
 この1つの例をもちまして、ヒットラーだけではなくて、ドイツ民族ですら戦争責任があるとブラントが明言しております。つまりドイツ民族一人一人としても戦争責任を負わなければならないと彼ははっきり言っています。
 つい最近のケースなんですけれども、ドイツ政府は戦中、ドイツ及びその占領地域で強制連行の労働者に対して、ユダヤ人の労働者に対して、戦争賠償を行うというふうに言っています。ドイツの大統領、首相はじめ重要な人たちが、各地の大変重要な記念地に巡回しまして花束贈呈をはじめ戦争犯罪懺悔の式など、はっきり態度を表明しております。侵略した諸国に対して政府の文書による公開的なメッセージなどの謝罪を今行なっています。為すべき賠償もちゃんと賠償して償っています。
 日本と比較して申し上げますと、その落差はあまりにも大きい。日本の一部の右翼勢力と日本政府の一部の高官の行ないは、ドイツ政府とドイツ民族の前でまるで比べものにならない。
 中日両国各自には、責任をもってこの戦争責任とか戦後の処理の問題について解決しなければいけないと思います。毛沢東主席の生前におきまして、日本の軍国主義の戦争責任者と一般の日本の兵隊さんと日本国民とはっきり区別しなければならないという方針を引き続いてやらなければならないし、お互いによりよくこの戦争認識、歴史認識の問題を解明しなければなりません。
 まさに魯迅先生の著名な詩句を踏まえて申し上げましたように、「一連の戦禍を経て、ようやく兄弟が再会しましたが、お互いに不愉快な過去があったにもかかわらず、微笑みをお互いに送れば、その歴史の恨みはもう解消出来たのではないですか」というように共に頑張りましょう。
 今現在の中日友好をより一歩前に推し進めるためには、より幅広い民間ベースの相互理解、それから真の友好を繰り広げなければならないし、真の友好のためにもっと頑張らなければならないと私は痛感しています。
 当宋慶齢基金会は小さな財団でありますし、微力ながらここ数年来中日双方の子どもからの友好教育を続けて参りました。例えば、10年前から年年歳歳、交流教育といたしまして、サマーキャンプ、内モンゴル大草原での探検隊、それはサマーキャンプという形でやって参りました。人数的にもそんな大規模なものではないのですけれども、子どもから友好教育を始めようという意味上では大変意義深いもので、子どもから真の友好、相互理解、それから、幼い時から友人が出来たら一生続けるでしょうと私は信じて疑いません。
 まあ、お願い出来れば中国山地教育支援会の皆様と出来る限りの連携、それから、サマーキャンプの形ではなくても何らかの形で一緒にやっていきたいと、私は心から願ってやまないところです。
 日本の右翼勢力に断固として対決しましょう。日本の右翼勢力の真意は歴史を歪曲し戦争への道を切り開く企みです。それから、アメリカの軍事力を利用して中国の平和勢力を圧制し、また戦争までも惜しまないという企みに対して、共にこれを阻止しましょう。阻まなければならないと私は思っています。
 つい数年前の日米新安保、ニューガイドライン、とりわけ1999年成立しました五つの関連法案、法律などは明らかに日米は手を組んで中国に対して共同作戦まで押し進もうという動きではないかと、日中両国民は警戒心を共にしてそれを阻止しなければならないと私は大いに呼びかけようと思います。
 歴史の真実を歪曲し、日本の国民を誤る道へ導こうとしているのではないかと私は認識しています。この一連の問題を巡りまして、日中双方の良識のある方々にかけられる任務はたくさんあります。
 大変残念なことなんですけれども、日本の最近の政治情勢につきましては、大変うれうべき現象が1つ大変顕著に深刻になってきています。1996年、社民党の軌道変更による、社民党の平和を支える力の衰退、それから政治立場のあいまいによる平和勢力の衰退に対しては、私たちは大変うれうべきだと思います。
 今後につきましては、日本の平和勢力の軒昂たる力が、いよいよ日本政府に対して大きな役割を果たしてもらいたいです。21世紀に向けての私たちの双肩にかける重荷は、20世紀の誤りを再び起こさないようにしなけばならないということです。
 以上私は特に最近よく考えている、独り合点かもしれないですけど、あくまでも自分なりの考え方ですが、皆様とは考え方が違うかもしれませんが、それは気にしないで交流を通じまして、胸襟を開いて話し合いをしましょう。
 ドイツの元首相シュミットは、私の古くからの友達で、1995年頃、訪日中に東京で演説をしました。ちょうど95年は第二次世界大戦終戦50周年に当たりまして、日本の国会におきましては一つの平和決議案を出しては、というちょうどその頃の話でした。
 その時は1つの、日本とドイツ並びにその他の先進諸国の政府、元首脳部の偉い方による、全政府の高官レベルの団体の会議でした。福田赳夫元首相とシュミットが発起人として働いていました。私もその団体に参加してほしいと誘われていましたので、その団体の政策委員会に入りました。常設委員会ですから私もそれ以来常に参加していました。その総会の席上でシュミットから「最後になりますが一言付け加えたい」と発言がありました。
 シュミットの話では、戦後50周年にあたりまして日本の国会と高官たちが何らかの形で文章とか法律案を出したいと今やっている最中ですけれども、結果や中身は別なんですけど、ドイツの元首相として個人的な意見を述べたいということで、日本の国会に一言提言をしたいと彼は言いました。ドイツ人の1人として、同じ敗戦国の1人として同じ立場ですから一言付け加える資格はあるのではないですか」と彼は冒頭に言いました。「日本は既に経済大国として政治大国を目指している現在におきましては、周辺諸国の支持と理解がなければ政治大国にはなれないですよ。つきまして朝鮮半島を始め、中国の旧満州、それから中国大陸、インドネシア、南部のシンガポール、マレーシア、インドなどの諸国に大きな戦争犯罪を行なっていたので、その諸国にいちいち謝罪し、賠償しなければならない。その周辺諸国に歴史上残した日本国家のイメージを変えましょう。この一連の行動を以って、周辺諸国の信頼とよしみをもらいましょう」という彼の提言でした。。シュミットさんが私との話の場であげていたケースは枚挙にいとまがない。例えば朝鮮半島とかへの犯罪、それから中国大陸、東南アジア諸国などへのいろいろな話を詳細に話しましたけれども、結論的には以上私が申し上げた数点でした。
 私を大変驚かしたことは、彼の発言の後でありました。というのは、当時の首相、宮沢喜一と海部さんが一言も言わなかったということです。そのまま黙っていました。大変驚くべきことと私は思いました。シュミットの話を聞いて、全然反応がなかったのです。
 もちろん明言はしていないですけれども、拒絶とか、賛成はしかねるような表情でした。その時シュミットは何回も繰り返して「私は全然誘われてもないし、発言して下さいと呼ばれてもいませんが、私はこの場で大胆に日本の政府に提言します。」と言いました。けれども1人の日本の首相、元首相には何の反応も無かったというのです。
 中日両国の関係の発展に、当事国の2国間には当然関心を寄せておりますけれども、1人の外国人、第三者、ドイツの元首相、大変著名な政治家のシュミットさんですら、この敏感な問題にははっきり自分の意見を述べていたのに、残念なことに当事国は全然反応はしなかったのです。
 喜ばしいこともありますけれども、95年以来中日両国の貿易、それから直接投資、間接投資の伸びも大変顕著になってきています。しかしまだ一方では、中日両国の政治的には遠ざかり続けています。つまり、ある程度の敵意を両国相互に対して持っています。私たちは警戒すべきです。
 私たちは再び20世紀のかつての戦争のようには2度とならないように、中日両国民があの残虐すぎる戦争に巻き込まれないように努力しなければならないと思います。
 民主とかヒューマニズムにせよ、人権にせよ、戦争の前では全然泡のように失ってしまいます。この一連の大変きれいな言葉づかいをいくら標榜しても全然意味が無い。中国で言えば、歴史の認識問題を、髪を掴んで責任追及ばかりしていて日本国民をうんざりさせる、ということは、そんなつもりはありません、中国には。ただ、今後の歩むべき道を、いかに正しい道を歩まなければならないかとか、この問題と深く関わっていますので、歴史認識をはっきりしなければならないというわけです。
 中国国民と同じように戦時中の日本国民も大きな被害者です。戦後の日本の世代は戦争に対しては全然責任がありません。にもかかわらず、戦後世代でも、自分の愛する日本の今後の国家像、国家の方向付け、それから、民族の歩むべき道を責任をもって明確にしなければならないと思います。それは両国にとりましては使命ですから、回避したくても避けられない問題です。
 本当に私のへたな長談義を長い間ご静聴いただきまして、心から感謝いたします。お詫び申し上げます。皆さんの貴重な時間を割いていただきまして、私は大変光栄に思います。大変得難いチャンスを私はちゃんと掴んでいますので、本当に心から感謝します。ご静聴ありがとうございました。

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N さん(団長)

 それではちょっとご紹介したいのですけれども、側においでの奥様のK先生のお父様は東大の出身です。お母様は東京女高師の出身です。そして延安時代にお2人はご一緒になられるんですけれども、日本軍が捕まって捕虜になりますね、八路軍の捕虜になった方たちの教育を担当したのです。それで撫順の戦犯の方たちはなぜ許されたのか、私たちはほんとにびっくりしますけれども、そういう許しの精神とか許しの教育というのは延安時代からあって、そこでそういう捕まった日本の捕虜たちが教育されていく、ということなんですね。
 黄 さんは前に申し上げたように、スノーについて延安まで案内する方なんですが、「中国の赤い星」が書かれる裏側にはKさんがいらっしゃったということなんです。だから歴史をよくご存知なので、ほんとに私たちは得難いお話が聞けてありがたく思っています。

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J さん (司会)

 それでは質問したいこともあると思いますけれども、だいぶ時間をとっていただきましたので、Toさんの方からお礼を言っていただきます。

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Toさん

 今日はこの懐かしいこの宋慶齢故居で黄さんご夫妻にお会い出来て本当に嬉しいです。N さんからしょっちゅう「黄さん、黄さん」とお聞きしてきましたし、スノーの「中国の赤い星」の本の中からお若い頃の黄さんのお姿を想像してきました。
 今日ここでご本人に直に具体的なお話を伺うことが出来て、中国の大変な歴史の中で頑張っていらして、それからずうっと今も中国の発展のために中心になって活躍なさっている方のかもしだす独特のお力、ものごとを率直に見られるお力とその底の温かさというものが伝わってきて心が引き締まりました。
 宋慶齢さんがお亡くなりになりました時、日本から全国高校女子教育問題研究会の名前で「お心を引き継いで、日本の地に広めてまいります」と弔電を打ちました。宋慶齢選集の言葉に「その人の傍らに居るようにものを見よう、考えよう」とありますが、これからも、お会いした中国の方々から教えていただきましたことをもとに日本でも頑張っていかなければと、今日ここでまた思いを新たにしました。ありがとうございました。

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N さん(団長)

 何か特別お伺いしたいことありますか。国際舞台で活躍していらっしゃる方の直接のお話で、ニュースでは絶対聞けないお話を今日聞いてしまったわけです。何かおっしゃりたいことあれば・・・Taさん、いかがですか?

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Taさん

 私もずうっと日本人の戦争責任の問題について考え続けてきました。今日偶然先生からそのお話をいただいて思いを新たにしています。国レベルでの賠償問題とか、その他中国の非常に大きな心で一定の方向での合意が行なわれてきました。しかしながら今回の旅でお会いした多くの老人の皆さんの証言を聞きまして、その人たちの心の中にずっと刻まれた悲惨な歴史、過去の歴史というものについての思いが非常に強いということを再認識いたしまして、私たち1人の国民としていったい何が出来るのだろうという重い課題を背負わされました。
 私も、歴史認識を歪め、それから戦争責任について非常にあいまいな発言をしている最近の一部右翼勢力とか、高官の発言には非常に心を痛めております。私たちがこれからやらなくてはいけないことは、戦争責任というものを明確にしながら21世紀を生きる日本の姿勢をはっきりさせること、先生がお話しされたことをもっともっと私たちが自覚しなければいけないと思います。過去の事実をしっかりと捉えながら、私たちもそのことを若い世代に引き継いでいきたいと、その責任も改めて心に誓いました。
 私は1人の民間人として、1970年代から民間の交流について多少関わってまいりまして、矢尾板正先生の日中農業農民交流協会では相互の交流などのお手伝いなどをしてまいりました。それから、中国人の留学生の皆さん10人ほどを私も引き受けまして、夫婦で保証人になりましてお世話をさせていただいてきました。今日は午後その1人とお会いします。小さな運動ですけれども、中国と日本の民間の人たちが相互に信頼と理解を深めて、友好を少しでも前進させていけるようにこれからも努めていきたいと思います。

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黄さん

 大変大事な種まきです。種子をまいたら、必ず開花して実りが出来るでしょう。(Fさんの版画、OさんとSさんの本、民芸品などを差し上げる)

黄 さん

 本当にありがとうございました。これから皆様が北京までおいでになる時には、ぜひ宋慶齢基金会までお越しください。なにかご意見とか必要点とかの交流の場を作りますのでよろしくお願いします。今日私の話の前に、劉啓林副主席から宋慶齢基金会について説明してもらいましたけれども、今後とも山地教育支援会と当基金会の間での今後のプランとか、何か計画がありましたら、ぜひ一緒にやりましょう。土台作りとか皆さんの日頃行っていらっしゃる草の根と言える仕事と大いなる尽力に対しまして、再び感謝の意を表したいと思います。皆さんのような素晴らしい友人が出来まして、宋慶齢女史も天国で喜んで見ていることでしょう。2回も3回もまたぜひお越しになって下さい。

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N さん(団長)

 ここにいる人たちがそれぞれの県の仲間を連れて来ると思います。そうなったらよろしくお願いいたします。

黄 さん

 大歓迎します。北京の地元の団体といたしまして、地主(地元のホスト)のよしみを尽くします。