3 テンポについて

 この曲にはたった三つの速度記号しか書かれていない。

 四分音符 =60 & 68 & 52。リズムの単元でも触れたが、武満氏の作品には「素数」が多く使われている。四分音符の音の長さを比較してみると、その長さの比は 15:13:17 となる。13も17も「素数」である。実際の演奏でこれらのテンポの変化を正確に演奏しわけるのは不可能といえるだろう。実際の譜面にも(ca.)という表記が使われていることから察するに、このテンポでなければならないという性質のものではない(先ほども言ったが、それは不可能である)。しかし、演奏家にとってこれらのテンポ表記はこの音楽を解明するのに大きな手がかりになることは言うまでのないことである。まずは、四分音符 =60と四分音符 =68を比較してみよう。

 四分音符 =60の場合、三連符の中の一つの音符は、1/3秒、近似値で表すと、0.33333秒である。では五連符はどうだろう。0.2秒である。

 四分音符=68の場合は、四分音符=60/68秒、つまり、0.88235294118秒。最初に出てくる二拍三連音符は0.58823529412。 同様に三連符一つは0.29411764706、五連符一つは 0.1764705882。 ここで驚くべき事が見つかる。

 二拍三連音符2つ分の長さは、1.1764705882。この長さは、四分音符=60の時の四分音符(1秒)四分音符 =68の時の五連符一つに相当する。また、原譜1ページ5段目の四分音符 =68の中の八分音符3個の中の四連符一つの長さは、0.33088235294である。これは四分音符 =60の時の三連符の中の一つの音符にほぼ近い数字である。ただ単にやや速くとか、やや遅くとかいうようにテンポを設定しているのではないという事実が、この事からも推察される。

 では、テンポ四分音符 =52はどうだろうか?この部分には三連符や五連符は用いられていない。ということは四分音符 =1.1538461538、八分音符=0.57692307692である。四分音符1.1538461538は二拍三連音符2つ分の長さ1.1764705882に近似している。

 作品を聴いた印象では、細かな表情変化が聴こえるはずである。

 リズムについての項目で述べたことであるが、その原因は細かなリズムの記譜法と綿密なテンポ設定にあると言って良い。逆に考えると、この作品は特にテンポの変化に関係する記述がない場合(殆どの部分がそうである)インテンポで演奏されるべきなのである。

 しかし、そのインテンポは拍節感を感じさせるものであってはならない。この場合のインテンポとは、beatやpulseではなく、刻々と流れてゆく時間の経過である。そうした時間の流れの中で、完結することのない無限の変化をともなった「うた」が歌われる。*4) そうされてこそこの作品は、ヨーロッパにおける時間と空間の概念(時間と空間を二元的に扱う)に依るのではなく、時間と空間は互いに浸透し合い、共存するという日本ならではの独特な概念(美意識)によって成り立っていると言えるのである。

 「径」のテンポ設定は、武満氏の処女作「二つのレント」(失われたため、のちに「リタニ」と改名し、再作曲された)のテンポと酷似している。因みに1曲目四分音符=ca.54-63。2曲目四分音符=ca.60 である。

 もう一度引用しよう。

「この作品は、日本の回遊式庭園にヒントを得ています。小径に沿ってあちこちに立ち止まりながら歩いている内に、出発した場所に戻ってきます。しかし、そこは決して出発した場所と同じではないのです。」*3)

 ファンタズマ・カントスについて彼はそう述べている。そうだとしたら、武満はテンポ感において『小径に沿ってあちこちに立ち止まりながら歩いている内に、出発した場所に戻って』来たのではないか!?この「径」に現れる三つのテンポ感は武満氏の全生涯を通して、『出発した場所に戻ってきた』時間の感覚なのではあるまいか?

 再び引用する。

「トランペット独奏のための<径>は、〜[中略]〜ルトスワフスキの死を悼んでのファンファーレである。」*2)

 ルトスワフスキ氏の訃報に際して、武満自身が自分の彼岸の時期に関して思いを巡らせたであろう事は想像に難くない。武満はルトスワフスキだけでなく、自分のためにこの曲を書いたのではないか?

 音楽は四分音符=60と四分音符=68の間を何度も行ったり来たりした後、最後にq=52になる。回遊式庭園の中の小径を少し急いでみたり、普通に戻ったりしながら、歩いてきた自分の人生にもやがて終わりは確実にやってくるのだという想いが、この最後の部分の四分音符 =52というテンポに表されているとは言えないだろうか?四分音符 =52の部分では、作者は回遊式庭園を望めはするが、既に回遊式庭園から少し離れた場所にいる。もう、『出発した場所に戻って』はこない。自分の人生を振り返りながら、自分の歩いてきた「径」の終わりが近いことを感じている作曲家の姿が見て取れるのである。

 改めて書くが、この部分には三連符や五連符は用いられていない。単純化されたモティーフが静かに奏され、そして現代音楽では使い古されたとでも言うべき減五度の音程が繰り返し奏される。この部分だけ聴いたのでは陳腐と思われるこれらのフレーズが、ここまでの様々な変奏を経てきたことで、漂白される時間と空間を見事に表現していると言えるだろう。


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