私は農民です。日本語が多少できます。日本軍の三光政策の証人です。80歳です。万人求村は、昔、河北庄村とも言いました。ここは興隆県のダイスイゴウの下コウリョウ村の下の村です。今も万人求村ともいいます。この村は私の本籍地で、今も住んでいます。
1933年頃から、日本軍は長城の遠征に入って来ました。長城以内は当時ゴウナイ(郷内)、長城以外はゴウガイ(郷外)と言いました。この村の近くに、長さ7.5キロ位
の細長い溝があります。9つの溝があり、山があって、どこにも人がいるのです。日本軍が入ってきたのは、1933年(中華民国22年)、私は12歳でした。日本軍は三光政策を実施していました。三光政策は略奪・放火・殺人です。1933年は中国のダイドウ元年で、その翌年にコウトク元年と変え、その時から満州国という名前を使うようになりました。日本国は中国を13年間侵略しました。
この村で日本軍が焼き払った建物は32軒。この部落は当時南北80メートル、東西190メートル、面 積は12500平方メートル。日本軍が入ってきてから捜査して、また警備するのです。ゴウガイの村々は、分散して人が住んでいるので、1944年から人圏を作って、分散している家々を一カ所に集めることにしたのです。この村はもともと33戸の家がありましたが、人圏ができてからよその人も集められ650戸がこの一カ所に集められたのです。人口は4150人くらいでした。
人圏の中で伝染病で死んだ人360人、下痢で死んだ人は250人、疱瘡で死んだ人は360人、餓死・凍死・病気で死んだ人、あわせて460人でした。日本軍に銃剣で射されたり、殴られたりして殺された人は360人でした。
ある時、日本軍と傀儡中国の警察が一緒に来て、この村の人を360人くらい検挙されて、よそに連れていかれました。全部合わせて、1900人、この人圏の中で死にました。人圏に入ったのは、4150人です。それで計算すると、人圏の中で死んだ人は、46パーセントを占めました。この15000平方メートルで、1人当たりの面
積は、3平方メートルの面積しかなかったのです。この人圏の中では、人は家畜と一緒に住んでいたのです。人間の糞と動物の糞の区別 が付かないほどです。夜寝る時には、手は出せても足が出せないくらいで、頭を中に向けたり、足を中に向けたり、いろいろな方向に寝ました。本当に残酷な目に会いました。
他にも証言者がいるので、このことについて他の人に話してもらいます。私は最後に皆さんにお話ししたいことがあります。解放されてから54年になります。新中国は1949年10月1日、毛沢東首席が天安門の城楼で中華人民共和国を成立させ、それ以来、中国は社会主義の道を歩んで発展してきました。また、世界のいろいろな国と友好関係を結びました。中国と日本も、国交正常化もしたし、友好的に付き合ってゆく方針です。過去において、確かに日本帝国主義・軍国主義が中国を侵略したことがあります。でも、それは日本旧政権が行ったことで、今の新政府は中国と国交正常化をしました。これからも中日両国が良い友達・良い隣国になり、また、中日両国人民の友情を一層深めることを期待しています。昔のことは過去のことにして二度と起こらないように願っております。
皆さんがはるばる私たちの万人求においでになったことを非常にうれしく心から歓迎します。