日中戦争証言 万人求

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1998年---万人求

証言者

呂さん(80歳)

  私は農民です。日本語が多少できます。日本軍の三光政策の証人です。80歳です。万人求村は、昔、河北庄村とも言いました。ここは興隆県のダイスイゴウの下コウリョウ村の下の村です。今も万人求村ともいいます。この村は私の本籍地で、今も住んでいます。

  1933年頃から、日本軍は長城の遠征に入って来ました。長城以内は当時ゴウナイ(郷内)、長城以外はゴウガイ(郷外)と言いました。この村の近くに、長さ7.5キロ位 の細長い溝があります。9つの溝があり、山があって、どこにも人がいるのです。日本軍が入ってきたのは、1933年(中華民国22年)、私は12歳でした。日本軍は三光政策を実施していました。三光政策は略奪・放火・殺人です。1933年は中国のダイドウ元年で、その翌年にコウトク元年と変え、その時から満州国という名前を使うようになりました。日本国は中国を13年間侵略しました。

  この村で日本軍が焼き払った建物は32軒。この部落は当時南北80メートル、東西190メートル、面 積は12500平方メートル。日本軍が入ってきてから捜査して、また警備するのです。ゴウガイの村々は、分散して人が住んでいるので、1944年から人圏を作って、分散している家々を一カ所に集めることにしたのです。この村はもともと33戸の家がありましたが、人圏ができてからよその人も集められ650戸がこの一カ所に集められたのです。人口は4150人くらいでした。

  人圏の中で伝染病で死んだ人360人、下痢で死んだ人は250人、疱瘡で死んだ人は360人、餓死・凍死・病気で死んだ人、あわせて460人でした。日本軍に銃剣で射されたり、殴られたりして殺された人は360人でした。

 ある時、日本軍と傀儡中国の警察が一緒に来て、この村の人を360人くらい検挙されて、よそに連れていかれました。全部合わせて、1900人、この人圏の中で死にました。人圏に入ったのは、4150人です。それで計算すると、人圏の中で死んだ人は、46パーセントを占めました。この15000平方メートルで、1人当たりの面 積は、3平方メートルの面積しかなかったのです。この人圏の中では、人は家畜と一緒に住んでいたのです。人間の糞と動物の糞の区別 が付かないほどです。夜寝る時には、手は出せても足が出せないくらいで、頭を中に向けたり、足を中に向けたり、いろいろな方向に寝ました。本当に残酷な目に会いました。

  他にも証言者がいるので、このことについて他の人に話してもらいます。私は最後に皆さんにお話ししたいことがあります。解放されてから54年になります。新中国は1949年10月1日、毛沢東首席が天安門の城楼で中華人民共和国を成立させ、それ以来、中国は社会主義の道を歩んで発展してきました。また、世界のいろいろな国と友好関係を結びました。中国と日本も、国交正常化もしたし、友好的に付き合ってゆく方針です。過去において、確かに日本帝国主義・軍国主義が中国を侵略したことがあります。でも、それは日本旧政権が行ったことで、今の新政府は中国と国交正常化をしました。これからも中日両国が良い友達・良い隣国になり、また、中日両国人民の友情を一層深めることを期待しています。昔のことは過去のことにして二度と起こらないように願っております。 皆さんがはるばる私たちの万人求においでになったことを非常にうれしく心から歓迎します。

 

孟さん(68歳)

 王さん(68歳)

 王さんが耳が不自由で話せないので、私が話します。王さんは私の兄さんの奥さんです。王さんの鉄砲玉 の跡、耳の下に一カ所、全部で6カ所鉄砲で撃たれました。一番悪かったのは黒岩。黒岩部隊は熱河省の第一部隊です。五つの部隊がありました。

  張家口に駐屯していた。娘あるいは結婚した女性を、日本人の部隊あるいは中国人の部隊や警察の嫁にするのです。今のは全部黒岩の部隊がやったのです。当時72〜3人捕まえられ、彼女ともう1人の2人だけが逃げ出したのです。当時リュウタンズスンという山の麓に住んでいました。彼女と父と兄が一緒に捕まえられました。日本軍に包囲されて鉄砲で撃たれ、最初に彼女が弾にあたって倒れ、次にお父さんとお兄さんが鉄砲にあたって倒れた。父と兄は死んで、彼女だけが撃たれて倒れて、蘇った。発砲の翌日、日本軍が撤退したあとの村の人たちが見に来たら、70人は死んで彼女は生き残って泣いていた。当時、彼女は14歳だった。遺体を村まで運び、彼女を村に連れて帰った。1944年旧暦8月11日のことです。

  具体的な日にちは覚えていないが、河本という日本軍の警察署長が、1日に12人の中国人を殺した。当時、人圏を作る以前ですが、村に返すという言い方がありました。日本軍は、中国の人たちの村を減らすのです。村に行かないと殺したり焼き払ったりしました。

 16歳の正月、日本軍が来て3人を殺した。2番目の兄さんもその日に殺された。2番目の兄さんが殺されたあと、両親も自分の息子を偲んで病気になって死にました。時間があれば3〜4日でも一緒に話せるのですけれども、皆さんスケジュールがあってそれもかないません。

李さん(73歳)

  私は簡単に話します。今年73歳です。 だいたい10キロ程度先の人たちも、この人圏に集められたのです。さっき呂さんも話したように、真ん中に豚小屋、人と豚が一緒に住んでいたのです。1.5キロ以内は、作物を作ることが許されました。日本軍が立て札を立てて、それ以内の畑は作物を作ることができるのです。

  14歳の正月15日のこと、日本軍が来て一人ひとり呼び出された。呼び出された人は、全部紐で指を結んだ。左手の親指を結んだのです。そして、ショウアンファンまで連れていかれ、一晩閉じこめられた。翌日逃げ出して、村に戻った。左の親指、もう動かないです。任さんもひどい目にあったのです。

 

任さん(61歳)

  私はツウフォフゥの人です。もともと山の上に住んでいたのですが、黒岩の部隊が私の一家をここまで追い出したのです。私の父はリフォコウといいます。父、母、姉、2歳の弟、私は8歳、皆ここまで追い出されました。父母が先に捕まり家は焼き払われた。父は捕まってからずっと食べ物もなく、ひどい目にあった。母が2歳の弟を抱いてご飯を届けに行くのですが、母もそのまま帰らなくなった。一家5人(父・母・姉・弟・私)のうち私しか残っていない。1945年4月頃、日本軍に、家族4人が殺された。8歳の時に、両親を亡くした。弟は乳を飲んでいる時に、畑の中で機関銃で殺された。黒岩のことを信じなければ、その現場を見せます。弟がどこで殺されたかを・・・(証言者激しく泣く)

 

Nさん

 ごめんなさいね。みなさんのお気持ちは本当によくわかります。本当のことをおっしゃってくださると私たちは・・・。

 

通訳の徐さん

  今、トウさんがこの村の人たちに、皆さんが来た目的を説明しました。昔は確かに日本軍がここでいろいろ悪いことをしました。みんな怒っても理解できます。でも、今の日本人がしたわけではない。みなさんは当時のことを知って、もって日本人に伝えるのが目的なのです。もっと多くの人に、知ってもらう為にいらっしゃったのです。このことは、私たちが、お金を出して呼んでも来れないのです。特にN先生はじめみなさんが何度もこちらにいらっしゃって、状況を調査した本を書いて、もっと日本の人々に知ってもらおうとしているのです。

 

呂さん(80歳)

  楊さんの両親も黒岩の軍隊に殺されました。孟さんの曾祖父も部落で死んだ。7人が人圏で死にました。みなさんがいらっしゃったことを感謝します。