04.3.26
昨日は、久しぶりにビハーラ実践者研究会で大須賀発蔵先生と対話の機会を持ちました。大須賀先生は現在81歳ですが、ずーっと以前、茨城県の県の教育委員長をお勤めでしたので、話しが教育の話題となりました。
その当時、ドイツの農村部の○○氏から「日本は、相対評価をしているそうだが、それでは学校で取得する最も大切なものを失ってしまう」と指摘されたそうです。
戦後の教育では、学習の評価を教師の主観性を排して客観的に行うため小・中学校の指導要録において、戦前の絶対評価(目標に準拠した評価)に代わって相対評価(集団に準拠した評価)が用いられた。しかも、当初は正規分布を前提にして五段落の評定も機械的に割り当てられた。しかし、やがてその割り当てを機械的にしないことになり、絶対評価を加味した相対評価といわれるようになった。さらに、昭和五十五年の指導要録の改訂から「観点別学習状況」の評価が絶対評価で行われることになり、平成十三年の今回の改訂では、次の理由から観点別学習状況の評価だけでなく「評定」も絶対評価で行われることになった。これは学校教育における大きな変化であり、教師にとっては新しい課題となった。」
04.3.25
昨日の「香をなぜ頂かないのか」のみ記入しておきます。あくまでの私の味わいですが。
前略 お焼香の件、面白い質問です。質問した人を誉めてあげて下さい。
お焼香は頂きませんが、経本や袈裟類を着用する場合は、頂く場合があります。ところがお焼香や花、仏飯類は頂かずに供えます。他宗が香を頂くのは、心をもめることです。浄土真宗は、心は汚染されているので、心を込めると言うことをしません。だから頂きません。
袈裟や経本は、仏の側に所属する類のものです。だから頂きます。本尊を奉るとき、仏をいただいて奉ります。これは心を込めるのではなく、尊敬の念から頂くのでしょう。
04.3.24
昨夜、Oさんからの質問でした。「極楽はあるのですか」。丁度、前日、四季社からの原稿依頼の中で、子供からの質問「死んだらどこへ行くの」を書いていたので、このホームページに掲載しておくと約束しました。
四季社の原稿も25本頼まれて、大方先が見えてきました。通常はやっつけ仕事でしたが、「死んだらどこへ行くの」は、書いていて、すごく楽しかったものです。書きながら、自分が納得していくという部分があったからだと思います。
質問されると、時間のあるときは、その質問を通して、自分の知らない事柄に触れることが出来るので、大歓迎です。最近の質問では「お焼香の時に、浄土真宗はなぜ頂かないのか」が、面白い質問でした。答えは、明日にでも掲載します。とりあえず、「死んだらー」。
Q人が死んだらどこへ行くのですか
A 以前、夏休みのラジオ「子供電話相談室」を聞いていたら、次のような子どもさんからの質問がありました。
「明日ってどこになるの?」。どう思いますか。明日ってどこにあるんだろう。月の裏側かなー、それとも想像も付かないところにあるのかなー。
私は、こう思うよ。明日ってねー、きっと駅に電車があったり、家に車があったり、宇宙に星があったりするような、どこかに目に見える、触ることのできる物としてあるのではないと思う。時間の流れを一本のひもに例えると
、昨日があって今があるような、今があって明日がある。まだ迎えていない、明日の今のこと。時間が経つと見えてくる今のことだと思うよ。だから明日って、雲のようにどこかにある物ではなく、時間の流れの中でいう、まだ迎えていない今のこと。
なんか難しくなったねー。どう思う。少し分かったかな。「ある」と言うから、何か物のように、どこかの場所にあるように思いこんでしまうんだね。
浄土真宗では、死んだらお浄土、阿弥陀仏のおられる世界に行くとお釈迦様が教えてくれている。じゃー、お浄土ってどこにあると思う。……
そう、お浄土があるかないかは、明日があるかないかと同じことなんだね。想像できる人もあるし想像できない人もある。じゃー想像するだけの世界なんだろうか。そう、想像するだけの世界だと思うよ。じゃー、お浄土って本当はないのかと言えば、明日と同じだね。明日って想像するしかないんだけど、じゃあ明日はないのかといえば、きっと来るもの(来ないときもあるけど)だと思う。今豊かな生活をしている人は、豊かな明日を実感できるし、今日貧しい生活をしている人は、あまり豊かな明日を実感できないよね。お浄土も、仏様のお話を聞いている人には、実感できる世界だと思うよ。
今のは場所のことだけど、今度は、まだ来ていない明日を想像するように、お浄土ってどんなところかと言うことについて話そう。
話しは少し変わるけど、やっぱり以前、ラジオで次のような会話を聞きました。それは英語のレッスンのラジオ番組で、外国の方が先生でした。その先生が、本国の両親にプレゼントとして、徳利とおちょこを送ったんだって。徳利って、お酒を入れる焼き物のビンのこと。おちょこっていうのは、日本風グラス、小さなお酒を飲む湯飲みにたいなものだ。その徳利とおちょこを送ってから、しばらくして礼状が来たんだって。
その礼状には、「とっても素敵な花瓶と卵立て、どうも有り難う」って書いてあったんだって。そうあの徳利は、知らない人が見たら一輪挿しの花瓶のようだね。またおちょこだって、卵を載せるのに、いい器だね。日本酒を飲んだことのない人が見たら、おれは一輪挿しの花瓶に見えるし、あちょこも卵立てに見えるよ。
さて、この話しから知って欲しいのは、人は同じ物を見ても、経験や今まで体験した知識や心で物を見てしまうってこと。これは理解してくれるかな。これが理解できれば、私が50年の経験を通して見ている世界と、君が見ている世界では、感じ方や見え方が違っているのだと思うよ。さて本題に入るけど、お悟りを開いたお釈迦様見ている世界を、浄土って言うんだよ。私や君が見ている世界を穢土っていいます。だから浄土って、あるか、ないかではなく、お釈迦様が見ている世界だから、見えている人から、どのように見えているかを聞くしかないんだ。だからお浄土は聞かせて頂く世界って言ってもいいんだ。
「人が死んだらどこへ行くのですか」という質問だったね。ぼくたちの経験から思えることは、死んだら終わりだと思うよ。でもお浄土として見ている仏さまから見ると、あらゆる存在は、そのまま浄土に生まれていくと教えてくれています。なぜすべての人がお浄土に生まれることができるのかと言えば、お浄土は、すべての人を生まれさせたいという阿弥陀仏の願いから生まれた世界だからです。
ここは難しいところだから、たとえ話でお話しします。君のなぜ、自分のお母さんのことを、「この人は自分のお母さん」だと思うようになったのかな。生まれてきて、その瞬間お母さんお顔を見て、「この人がお母さんか」と知ったのではないね。自分が気づかないときから、君のことを我が子として育ててくれた、その日常生活の中で、疑うことのできない事実としてお母さんのことをお母さんと実感できるようになったんだろうね。
阿弥陀さまも同じで、私は今、阿弥陀さまがいらっしゃると実感できます。それはいつか気づいてみたら、自分が「南無阿弥陀仏」と仏さまの名を称え、頭を垂れ、仏の教えに耳を傾けていた。そうした事実を通して、そうした事実は、親鸞さまが、「それは阿弥陀さまの仕業だ(働き・パワー)」と教えて下さったので、阿弥陀さまのことを実感できるようになったんだ。
その阿弥陀さまが、「浄土に生まれていくいのちだと思ってくれよ」と仰るので、たとえどんなところに生まれてとしても、そこは阿弥陀さまの光の届いている世界だと安心できるんだ。
話しを元に戻すね。「人が死んだらどこへ行くのですか」と言うことだけど、どこに行っても阿弥陀さまの居ないところはないので、何も心配していないんだ。
君も「南無阿弥陀仏」と称えてごらん。「ここに阿弥陀がいるよ」って聞こえてこないかい。念仏は称える姿となって私の命の上に至り届いて下さっている阿弥陀さまの存在の証なんだよ。「南無阿弥陀仏」と称えながら、阿弥陀さまを実感していく。親を親として実感した時、親が「自分の財産は将来全てお前のものだ」と言ったとき、財産の全容は知り得なくても、安心できるように、阿弥陀さまが「浄土に生まれるいのちである」と仰るので、浄土の全容は知れ得なくても安心していられるんだ。
04.3.15
お寺で隔月で、「仏事教室」を開催しています。その資料をアップします。2月は「仏壇について」でした。
04.3.14
寺報「いのちの学び149」をアップします。
先月、山口県に行った折り、2日間、若婦人会の集いで山口別院へ各400名集まるというので、久しぶりに「ありのままの自分を生きる」を売るかと、徳間書店に配送を頼んだところ、完売で、店頭にある物だけだとのこと。
八千刷ったので、二千くらい倉庫にうずくまっているだろうと思ったラサに在らず。ないと知ると、寺にある在庫本が、今までは邪魔者扱いでしたが、存在感を持ってきました。
「脱常識のすすめ」も、探求社に聞くと、あと百冊在庫があるだけだとのこと。この本は、小回りのきく書店なので、再販がすぐ出来るので安心しています。
心の中では、創作「戯曲 親鸞物語」を大手の出版社からだそうと思い、ホームページ上から削除しました。これを集中して書こうと思っているのですが、何しろ忙しい(酒を飲むのに忙しいのですが)。
アルバイトの原稿執筆が「しきたり全集第2集」の監修を頼まれてから、テーマ別に三千字原稿を20本くらい書くので、時間を取られています。