2004年4月1日号
1項 表紙
1項下段
見えないところで
つながりあって
生きているのは
竹だけではない
東井 義雄/教育者
柏樹社『仏の声を聞く』より
この歌を、心の中で口ずさんでいると、地の下を見ず、上ばかりを見て、自分の都合の良い方向ばかりに願いを掛けている自分が思われてくる。
自分が損をしたとき、得をした人のことを喜べたら、どんなに豊だろう。
自分が悲しいとき、この悲しみの体験を、多く人たちが体験していたことに、心を振り向けられたら、どんなにか、豊だろう
すべてがつながっていることに、気づかない親玉を「私」というのかも知れません。
2項
ミニ説法
世界には多種多様な挨拶があります。握手や抱擁やキス、あるいはニュージーランドのマオリ族は、鼻をこすりあわせます。日本人のするようなおじぎ、インドのヒンドゥー教徒や東南アジアや日本の仏教徒がする合掌、あるいはマオリ族は、舌を出して挨拶します。西洋人も国王に拝謁する際には,男は頭を下げ,女は片足を引いてひざを軽く折って挨拶するのが作法です。
初めて異文化に接し、その国の思いがけない挨拶に出会うと、何人も驚きます。一八六〇年、日米通商条約が結ばれます。その折り副使で派遣された村垣淡路守が日記を書きそれが出版されています。
万延元年(一八六〇)使節一行は九ヶ月かけて地球一周し帰国します。アメリカで閏三月二十八日、ホワイトハウスで大統領ブキャナンに謁見し、日米修好通商条約批准書を渡しています。作家司馬遼太郎は『明治という国家』で、遣米使節一行七十七人と咸臨丸の一行九十九人合わせて一七六人がアメリカの最新の文化を見ていながら、ほとんどの者が帰国後にそれを積極的に語ることなく口を閉ざしていた中で、小栗上野介、福沢諭吉、勝海舟の三人が後の日本の近代化に生かす仕事を残したと書いています。
その村垣淡路守の書いた「遺米使節日記」は、日本の最高のインテリが初めてアメリカ文化に接し、それをどう受け止めたかが詳細に書かれています。
ワシントンのホワイトハウスに大統領を訪ね、その日帰ってその印象を憤慨して記録します。「アメリカという国は大変野蛮な国である。一国の主であるものが日の本の国の大使に会うに、かみしもも付けづ刀も差さず、そして筒袖の着物に車引きがはくような股引をはいて出てきた。そしてお供も付けず一人で出てきた。実に野蛮な国である」と言った具合です。会議を見ては「一国の政治をする正式な場所であるのに、そこに来ている人は車引きがはくようなももしきをはいてでてきた。しかも互いに向き合ってわめきあい罵りあっている。日本で言えば青物競り市をやっているようである。野蛮なことである」。ホワイトハウスで歴代の大統領の胸像を見ては「わが国の処刑場の如し」といった具合です。また「アメリカの食物は何を食べても牛の乳の臭いがして、実に野蛮である」ともあります。そこにはハワイでキスを初めて見た時のことが書かれています。「犬のようになめ合って」と笑いの対象として書かれています。
何をもって滑稽とするか。これは笑い事ではなく、私たちも自分の経験を唯一絶対のものとして、自他を裁くという、いがいと遺米使節団員のような過ちをしているのではないでしょうか。
3項 法要豆知識QアンドA
Q 月忌(がっき)とは。
A 月忌とは毎月の死亡した日と同じ日、即ち月の命日を月忌といいます。
Q 逮夜(たいや)参りとは。
A 「逮夜」の(逮)は明日に逮(およ)ぶの意で、逮夜とは翌日の火葬につながる夜、つまり火葬の前夜をいう。転じて、年忌(ねんき)や月忌などの忌日の前夜をさすようになった。(『岩波仏教辞典』)とあります。関西地区では逮夜参りと言って、月忌の前日に法事を営む風習があります。臨終から6日目の晩(関西では死亡の前日から数える場合が多い)が逮夜で、宗派によっては逮夜法要を重くみます。逮夜とは、忌み日の前日という意味で、故人を偲んで一晩中語り明かした風習から起こったようです。
Q 祥月(しょうつき)命日とは。
A 祥月とは、故人が亡くなった月をいい、中国では、喪は凶に通じ、喪が開けることはめでたい、幸せなこと(祥)とされてきました。そこで忌明けのめでたい月を祥月といったのです。命日は、亡くなった日で、死亡した同じ月日を祥月命日といいます。
Q 年回の数字に何か意味があるのですか。
A「初七日」から「四十九日」までの七回の仏事はインドに起源がもとめられます。それに中国で「百か日」、「一周忌」、「三回忌」が付け加えられ十仏事が成立したそうです。
Q 百ヵ日とは
A 百ヵ日は、儒教の卒哭(そっこく)に準じていると言われます。卒哭とは、死者に対して喪服、通哭する期間のことです。
Q 一周忌と三回忌は。
A 儒教の小祥、大祥に準じていると言われます。同様に喪が明けるという行事の一貫です。
Q 七回忌は。
A 年回法要の教え方ですが、 一周忌ー満一年目、三回忌ー満二年目、七回忌ー満六年目となります。七回忌や十三回忌、三十三回忌は、わが国において十六世紀頃までに定着した習慣だそうです。七回忌は、定説はありませんが、十二支の半分とも、七という数に重きを置いた回忌という説もあります。
Q 十三回忌は
A 十二支の次の年、元の干支にかえって勤めるというのが定説です。
二十五回忌も同様に干支の二順目の初めの年で勤めます。
*本願寺では、二十三回忌・二十七回忌の代わりに二十五回忌を勤めます。
4項 住職雑感
● 九條武子(歌人)さんが、どこかで書いていたことです。父である明如(本願寺二十二代門主)宗主は、なぜ自分の名前に「武」という勇ましい文字を付けたのだろうかと長く考えていたそうです。ある日、この武は、戈(ほこ)を止めるという文字で、平和を表す文字であることを知ったとのことでした。
本当の勇ましさは、「戈を止めるという勇気である」と言うことでしょうか。
● 三日の法話会講師、成 照星師から、築地で定期的に真宗学を教えて頂いております。二月の学習会の折、坊守さんから「なぜ仏さまに供えるお花を、仏さまに向かってではなく、私向きに供えるのか」と聞かれたそうです。
この問いには色々な答えがあるのですが、成さんの答えが面白かった。いわく「南無阿弥陀仏の仏さまに供えるから」と言ったのだそうです。
阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」の称えられる仏になると言う本願です。私が口にする「南無阿弥陀仏」こそ仏そのものです。その私の口に届いている「南無阿弥陀仏」の仏さまに供えるのだから、花を私向きに供えるという理解です。
● 当寺責任役員(門徒総代)でありました林 正三さんが二月二十七日往生しました。九十七歳でした。生前のご功績に対し、本願寺派総長から弔慰状が届き、葬儀の折に伝達しました。
この紙面を借り、改めて御礼を申し上げます。