清風 NO41平成13年5月1日発行
執筆者 西原祐治
清風は年4回発行しています。
(3月・5月・8月・11月発刊です)
1項 永遠のという質をもった命
一昨年、父が食道がんを患いました。当初、気になったのは、「何ヶ月の生命か」です。
しかし同時に、かけがえのない生命を何ヶ月という数量ではかる。それは大変に不遜なことだという思をもちました。生命を一ヶ月二ヶ月という数量にしたとたん、一ヶ月より二ヶ月、二ヶ月より三ヶ月の生命の方が価値ありという生命が物に転落してしまうからです。
私たちは一日より二日、二日より三日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど、一日の重みが増していきます。そして、その極みが「今のひと時」です。ここに立つとき、「今という時は二度と巡ってこない」という永遠に巡り会えないという質をもった生命であることに気づかされます。死を意識するとことは、長い生命のうえに幸福を感ずる価値観から、生命の短さの中に、永遠を感ずる考え方に回心する最良の時でもあるのです。
命は長い方がいいという考え方には、1つの闇があるようです。
もう一つ、常識の中にある闇の話です。
世の中では、たとえば車椅子の人より、悠々自適で人の手を借りる必要のない人の方が、幸せな人だと思われています。同様に目が不自由の人よりも、目が達者の人の方が幸せです。はたして本当でしょうか。
その人の心の充足感はどうでしょうか。
以下は仮説です。1つのことを成し遂げます。健常者は当然の成果です。ところが身体に不自由を抱える人は他者の手を借りました。一見、体の不自由な人は劣っているようですが、その人に、手を借り人へ感謝の思いがあったとすれば、身体の不自由を抱えた人の方が内面的には豊かではないでしょうか。
外見的には健常者の方が豊かです。しかし心の充足感という点から見れば、人の手を借り感謝を持った人の方が、豊かだと言えます。
何を物差しとしてその人を計るのかということです。目に見える姿や量から、他の恵みをどれだけ感じられるかといった内面の豊かさへとシフトする。そうすると、身体の不自由さは、違った意味を持ってくるのではないでしょうか。豊かさを外見から心の充足にチェンジすることが大切す。
2項3項
聞というは衆生、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞というなり。
(親鸞聖人・教行証文類)
阿弥陀如来の願いを聞くということは、その内容の如何を聞くのではなく、なぜそのような願いが起こったかという願いの起こった本源を聞くことなのですよ。その本源とは、願いを起こさせたあなたが存在(いた)と言うことです。
正月に車を走らせラジオを聴いていると、作家の対談が聞こえてきました。聞けばその主役は西村滋さん。再放送とのことでした。
西村滋さん、昭和六十年『母恋い放浪記』(主婦の友社刊)である文学賞を受賞し、その記念の文化講演会でご講演をお聞きし、それから親しくさせて頂いている方です。もちろん私は単なる読者で一方通行の親しさですが。
西村さんは、作家ですが小学校は四年までしか行かず、それから孤児として、色々な少年院等に収容され戦後を迎えた方です。それらの体験は様々の本として出版されています。
ラジオ放送を聴きながら、お彼岸の講演は西村先生をお願いしようと思い、早速お手紙を書きました。講題は「母恋い放浪記で」でと、厚かましいお願いをしました。しばらくして「お彼岸に母の話が出きることを有り難く思います」と快諾のご返事。そんな経過でお彼岸の文化講演となりました。
聞けばもう七十六歳、もう少しのところで聞き逃す(?)ところでした。講演は涙と笑いの内容でした。
以下はその中核となる、西村さんのお母さんの話です。
西村滋さんは名古屋のご出身。六歳の時お母さんと死別し、その時、涙を流さなかったと言います。それには訳がありました。四歳の頃のことです。
窓が高いところについている離れに、お母さんが一人で暮らしていた。幼稚園から帰ると母が恋しい。高い窓にリンゴ箱などを利用してよじ登り、母に甘えます。そんな時いつも険しい罵声の言葉や物が飛んできたそうです。いつも叱られるので、ある日、隣の方から箱入りお菓子をもらった。これを母にあげればと幼心に思い、窓によじ登り、叱られる前にとその箱を母に差し出した。するといつもより険しい罵声と物が飛んできた。飛んできた物が当たって雨上がりの水玉まりに落ち、お菓子の箱も破れ、中身が水浸しになってしまった。その時滋さんは「もうここには来るものか」と、母を見限ったと言います。
と言っても幼児です。それからも夜になると縁側に出て、ビイ玉を、高窓に投げ、母の気を引こうという行動が続いたそうです。講演では、その時のビイ玉を大切な宝物だと見せてくれました。
その後、母は死亡。お父さんは後妻の縁を得る。その継母から愛されることなく九歳の時、父も死亡。その後、継母とも決別して一人の生活が始まります。
色々な施設を回り、一三歳の時、知多半島の施設に入所していたそうです。その頃は、手の付けられない少年であったと言います。なぜ暴れるのか。それは母に愛されなかったという思いと、他の少年には、両親の面会がある。下着の換えや五目ご飯などの差し入れがある。自分には尋ねてくれる人がいない。そのストレスが爆発したのだそうです。
そんなある日、滋さんにも面会がありました。他人でしたがお母さんが病気で離れで暮らしているとき、家政婦をしていた方でした。
「滋ちゃん、大きくなったわね」とその時初めて、下着の替えとごちそうの差し入れを頂く。しかし、心はすれ、つっぱり少年です。「そんな物いらねえ」と横を向いていた。初めての面会者、また自分の小さい時のことを知っているおばさんです。つっぱっていても涙が頬を伝わって流れます。
その涙を見たその方は、「おばさん安心しました。施設の方からずいぶん悪い子であると聴き、目がくらむ思いでした。しかしまだ涙が出るんですね。涙の出る子は立ち直れると言います。安心しました。いまあなたにあげたお土産は、目に見えるお土産。これからあげる話は目に見えないお土産ですが、しっかり受け止め下さい」と、六歳のとき死んだ、母のことを話してくて下さったそうです。
「あなたのお母さんは結核でした。結核は感染する病気。子どもは尚更。本来なら病院へ入るところだが、お母さんはお父さんに頼まれました。病院に入れば生きて帰れないし、子どもの面会も受けられない。どうか子どもの声の聞こえるところに置いてほしいと、頭を畳みに付けてお願いされました。お父さんもお母さんお気持ちを察して、離れを建てられました。
滋ちゃん。覚えてる。あなたがいつも幼稚園から帰ると、私は縁側に連れて行きましたね。そして今日習った歌を歌ってとお願いしました。あれは離れのお母さんに聞こえるようにも思ってした私の思いでした。
おばさんはお母さんの気持ちがよく解らなくて、ある日、お母さんに言いました。『いくら何でもこれでは子どもがかわいそうです。あなたに会いに行くと叱られたり物を投げられ泣いて帰ってくる。これでは子どもがかわいそうです。だんだん子どもがあなたを憎んでいくように思います。あなたも実の子に憎まれなくてもいいではないか。いっそのこと病院へ入れば、子どももだんだんあきらめていきます。だから病院へ入ってください』と勧めました。
その時お母さんはこう仰いました。
「あのね。私はもっと憎まれようと思って頑張ってるんですよ。なぜならば私もあともって1年か2年。たとえ2年後まで生きても、私が死んだ時あの子は6歳。そんな幼子がお母さんに死なれたらどんなに悲しむことか。私はあの子になんにもしてやれないかわりに、何か1つだけしてやれることはないか考えました。そのとき、私が死んでも悲しくない状況を作ってあげようと思いました。優しいお母さんすてきなお母さんだから悲しいんでしょう。怖い恐ろしいお母さんだったら悲しくないでしょう。いやもっと大切なことは、私が死んだら新しいお母さんが来る。いつまでも私に思いを寄せている子どもはお継母さんになつかないでしょう。なつかない子は愛されないでしょう……」それがその時のお母さんの言葉でした。
長くなるので、滋さんとその方との会話は省きます。それから、西村さんは母に生かされたと言います。
「怖い母になろうと思った」その母の願いの背後には子どもの姿があります。6歳で死別するであろう子供の姿が、そうした母のお願いを起こさせたのです。つねに親の願いの背後には子どもの姿・可能性があるのです。
少し阿弥陀如来の話をします。阿弥陀如来という仏様は、「すべての人を無条件にすくい取る」とい願いを発動しましたと教典にあります。
その阿弥陀如来の願いに触れるというのは、阿弥陀如来の願いの内容を理解することではなく、阿弥陀如来の願いがなぜ起こったのかに触れることが重要です。
その阿弥陀如来の願いの背後には、そのような願いを起こさせた私の姿があるからです。阿弥陀如来の願いを通して、真実の私に触れていく。これが浄土真宗の要です。
4項 住職雑感
● 三月下旬、浄土真宗本願寺派の仕事で、大阪市此花区へ行きました。新大阪に西本願寺の女子事務員と合流し、ある記念法座で話しをし、午後八時過ぎ、帰路新大阪へとJRで向かいます。
そのJRの中で、その女子事務員が、私にお念仏の質問をします。電車は満員の車中の立ち話です。会話はお念仏や仏様の話です。周りの若者には、常識とかけ離れた宇宙の途方もない話と届いたのでしょう。盛んに会話を気にします。あまり周りが気にするので、それ以上、話が出来ませんでした。
その出来事で思われたことは、場所のもっている力、空間の果たす役割ということです。
亡き人への追慕を「お父さん、……」と電車の中で独り言を言っら、その存在自体が許容されません。これがお寺やお墓の前ならば当然です。これを当たり前と済ませると、大切なことを取り逃します。
お寺を初めてする宗教的な施設や空間の持っている力を認識する必要があります。その場所では、日常の自分を全く異なった自分の一面と出会う大切な場所となるからです。またその場所ではどんな自分が表現できるかという場所を育てるという視点も大切です。みなさんはどんな場所を、日常生活の中で持っていますか。その意味でも家庭に仏壇があるということは大切な意味を持っているようです。