清風 NO40 平成13年3月1日発行
執筆者 西原祐治
清風は年4回発行しています。
1項
正月にデジタルカメラを購入しました。当初は、いつも持ち歩いてパチパチ。子どもの頃、買ってもらった玩具のような楽しみでした。
ふと、お念仏を称えはじめて頃のことが思い出されました。
二年ほど前、産経のコラムに「禁煙」という題でその頃のことを書いたことがあります。まずは紹介します。
私は念仏によってタバコを止めたという経験があります。それは学生の頃、ある本を読んでいた時に起こりました。
「隠れ念仏」という史実をご存じでしょうか。鹿児島を中心とする旧薩摩藩では、慶長二年(1598)以来、明治九年(1876)に至るまで、浄土真宗の念仏を禁止するという宗教統制が行われたのです。禁を犯す者は、斬首、はりつけ・火あぶり等の極刑に処せられ、あるいは逆さずりや、石責めなどの過酷な拷問にかけられたと伝えられています。
天保年間の弾圧だけでも藩内十四万人が検挙され、難を逃れ藩外に逃れた者は一夜でけでも2804人に及ぶと史禄にあります。
そうした暗黒の弾圧を繰り返される中、真宗門徒は、洞窟に潜み、あるいは様々なからくりを用い、地下組織の講をつくり念仏を相続しました。
現在でも鹿児島地方には「隠れ念仏洞」の跡が点在し、お年寄りの口からは、実際の体験者から聞いた逸話を聞くことが出来ます。
さて、ある本とはその隠れ念仏の史実をまとめた書物でした。その本には、拷問による死の間際、許され念仏を称えて死んで逝った人。海に舟を出し、荒波の中で念仏した逸話。また禁制の中、決死の覚悟で布教伝道した僧の史実などが綴られていました。念仏を申すことが許されない状況の中で念仏を称え続けた人たちの記録です。
その史実に接していたら、自由に念仏を称えることの出来る有り難さがこみ上げてきました。浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。その念仏を称えることを禁じられたのです。念仏を申せずに必死に耐え忍んだ人たちの苦渋は想像を絶します。
その途端ふと、タバコの煙を出すことを我慢する事のたわいのなさ思われました。それから1,2ヶ月は、タバコのことが思いにかかると、念仏を申すことの喜びを噛みしめて過ごしました。そしたらいつの間には禁煙という思いのないまま、タバコから解放されていたのです
「なんまんだぶ」「なんまんだぶ」。お念仏の一声一声が、楽しく新鮮で、なににもました喜びでした。
以来二〇数年、今でもお念仏は、私の口から離れることなく、「ここに阿弥陀がいるよ」とご一緒して下さっています。
2項
浄土の真実信心の人は。この身こそ浅ましき不浄造悪の身なれども、
心はすでに如来に等しければ「如来に等し」と申すことあるべし
(親鸞聖人ご消息)
(阿弥陀如来の願いによって、無量のいのちの世界に意識が開かれている人は、
現実のこの身は、悪業を重ねる身であっても、心は阿弥陀如来に解放されている
のだから、阿弥陀如来と等しい存在なのですよ)
「日本の昔話が消えていく」。昨年の暮れ、「現代」十二月号に童話作家の吉田浩さんが興味ある記事を書いておられた。
内容は、日本の五大昔話し「桃太郎」「花咲か爺さん」「猿蟹合戦」「かちかち山」「舌切り雀」を引いて、その物語が、近年になって、内容が改編されているという指摘でした。
どう変わってきているのかといえば、残酷さや死を避け、復しゅうや汚いものをなくすといった、坊ちゃん嬢ちゃんに好ましくないと思われる描写をさけ、「めでたし、めでたし」で終わるようになっているのだそうです。
その記事から「桃太郎」の物語だけをピックアップしてご紹介してみましょう。
桃太郎といえば鬼退治。鬼は悪の権化。しかし鬼塚さんや鬼頭さんに気の毒だと、「鬼がやってきて悪さをしている」といい変え、「家来」は身分制度を助長すると「おとも」や「なかま」となった。これは理解できることです。問題は最後の結末です。
本来の物語は、鬼を殺し、その首と引き替えにお姫様を助けるという筋書きであったそうです。ところが「どうか おゆるしを。ぬすんだたからは ぜんぶ おかえしします」「よし、にどと わるいことを するなよ」(「ももたろう」講談社)という形で終わっているとのことです。
他の昔話も似たように改編されていると、物語を引いて紹介されていました。記事では、改編することによってもたらされる悪影響までは言及されていませんでしたが、考えさせられる記事でした。
好ましくない描写をさけ、円満に終わらせる。この物語によって、子どもの心になにが育っていくのでしょうか。
私は、大人のこざかしい配慮は、むしろ逆効果でないかと思います。これでは善悪という人間特有の概念が子供の心に根付きません。悪を許すという博愛の精神も大切です。しかしこの博愛も懺悔や後悔が機能していないと、たんなる「何でもあり」でわがままを許すだけです。懺悔や後悔は、悪の自覚そのものです。悪は、罰を受け身を斬られるといった痛みを伴うものとして身にすりこまれていきます。血を流し、首を切られるという描写は、大切な役割を果たしているのです。
また子どもには、行為の上に善悪をみる力が充分育っていません。身を切られ、死んでいくという状況の上に、登場人物が犯した罪の大きさを語っていきます。ストーリーの良し悪しはありますが、結果によって、その原因であった行為の意味を知るのです。だからむかし話では、斬られたり死んだりが重要なのです。
私たちは、今を明らかにする場合、結果を持ち出すことがよくあります。食事で好き嫌いをいう子に対して「そんなことでは大きくならないよ」と結果を示します。結果を示す方が、より効果的に現状を認識できるということがあるのです。
私はこの記事を読みながら、釈尊もこの手をお使いになったと思われました。地獄や極楽がそれです。
「地獄の堕ちる」という表現があります。これは未来に地獄という場所に行くというよりも、いま現実に存在している自身の罪悪性を洞察した言葉なのです。極楽も同様です。
親鸞聖人の「地獄一定」というお言葉もそうです。ご自身の救われようのない罪の深さを地獄という言葉で表現しているのです。
その親鸞聖人は、「大無量寿経」によって、すべての人が、無条件に浄土に生まれると説きました。これが阿弥陀如来の願いだというのです。またその阿弥陀如来の願いは願いにとどまらず、お経の言葉となり、念仏となって、私の上に届けられていると教えて下さいました。
「すべての人が無条件に阿弥陀如来の浄土に生まれる」。
こう結果が示されたのです。その結果によって明らかになることは、どのような生き方であっても、浄土に生まれていくほどに価値と意味を持ったいのちであるということです。
人間社会の尺度では、どうしようもない存在であったとしても、尊い阿弥陀如来の浄土に摂め取られていくいのちであるという私の存在の大きさを言い当てた言葉なのです。
「浄土に生まれる」という説法の主眼は、未来に起こる事柄を示したものではなく、今の私の値打ちを明らかにしようとした言葉なのです。
親鸞聖人は、それを見事に現実生活の上で、浄土に往生することを疑わない人は「如来と等し」と示されました。真実を見るまなざしを持たない私が、阿弥陀如来の智慧と慈悲の中に「如来と等し」と潤されていく。浄土に生まれるとは、未来の出来事ではないのです。
新幹線の中で「桃太郎」の昔話を思いながら、阿弥陀如来を味わったことです。
3項 集い・仏教講演会・仏教セミナーの案内
4項
住職雑感
● 二,三年前、寺報に身内に対しては「亡くなった」ではなく「死んだ」という表現がよいという文章を紹介したことがあります。
過日、「日本語練習帳」(大野晋著・岩波新書)を読んでいたら、その理由が出ていました。
「亡くなる」「お召しになる」「ご覧になる」などの「なる」という言葉が尊敬語なのだそうです。「なる」は、「寒くなる」「木の実がなる」などと使うように、自然的成立を意味する言葉。古代の人は「自然のこと→遠いことと扱う→自分は立ち入らない→手を加えていない」とするのが、最高の敬意を表明した言葉となったのだそうです。
●車のラジオから、鴨川市で取り組まれている稲のオーナー制度の話が流れてきました。内容はと言えば、uいくらで、田んぼのオーナーになっていただく。その田んぼの田植えや刈り取りに実際に参加して、家族で田植えを体験し、かつ収穫の米も手には入る。そんな町おこしを始めたのだそうです。
子供たちへの効果を尋ねられた、あるひとりのオーナーは、「田植え、稲刈りを始めたから、ご飯を粗末にしなくなった」とのこと。そんな人ともいた程度で、過大評価もあろうが、大切な視点を語っているように思われました。
それは現代は科学万能です。「科」は分けること。分断していくことです。すべてを全体と切り離して分断化していく。その分断化した「ある物」を克明に調べていく。ここに科学があります。
しかし幸せという感覚は、分断化して、他と比べて勝っていることの中にも、幸せを感じますが、そうした比較対象化した喜びは同時に不幸の種でもあります。そうした比較した喜びではなく、他との関連やつながりの中にある自分を発見するということがあります。
自然の恵みの中にある自分を感じる。日本文化の中に育まれた自分を感じる。両親の愛情の中にある自分を感じる。この全体との関連の中にある自分を知ることは、比較の喜びにない安堵感があります。
1粒の米に宿る自然の恵みを感じながらご飯を食べる。地下水を井戸で汲み上げ水を飲む。爺ちゃんが植えた柿の木の実を食べる。昔は全体とのつながりがふんだんにありました。それに反し今は、物は物。自然は自然。彼は彼。自分は自分。
現代への批判ではなく、意識的にご先祖や自然、文化という自分を越えた大きな働きと接することが大切です。
他に 西方寺地図