1項 表紙
2項 ミニ説法
9月は4日間、組巡教で西本願寺のご門主と富山県へ行きました。
私の仕事は、ご法話とご門主を囲む座談会で助言をすること。内容のない私ですから、私がお育てに預かる場のごとくです。
座談会は、地域の住職方とご門徒方との2種類の法座です。
ご門徒との座談会で興味のある発言を頂きました。それは「生かされている」という言葉です。「生かされている」とよく聞くが、そう思えないと言う発言でした。
まったく正直な面白い内容の発言です。「生かされている」という言葉は、語感が良いので一人歩きしているます。
「生かされている」という言葉は、良い言葉のように思われるかも知れませんが、生き物を殺傷しておいて懺悔を伴うことなく、さも宗教的な言葉として使われたとしたら、人間のおごりを象徴した言葉ともなってしまいます。
また実際、がん患者の方から、病気を体験したうえから「生かされている」という実感を伴った言葉として何度も聞いたことがあります。その場合は、尊いものが伝わってきます。その違いは何か。
「生かされている」と感じられる。これは当たり前のことが当たり前でなかったことへの感動です。
「地球にもどってきて、1枚の紙に重さがあることに、新鮮な驚きを感じました」。日本の女性で初めて宇宙飛行士となった向井千秋さんの言葉です。十四日間の宇宙飛行から帰ってきた印象を語った言葉です。無重力の体験がその驚きを可能とさせたのです。また、「その感動も地上の生活になれてしまうと薄らいでしまうでしょう。そのことが残念です」とも語っています。感動の薄らぎは、無重力体験の喪失でもあります。
当たり前のことに「生かされている」と思える。これは無重力の体験ならぬ、自分の無力さの体験から生まれます。「生かされている」ことと自分の無力さの体験は一体のものです。ところが「無力さの体験」の伴わない「生かされている」が一人歩きするところに、ややこしい問題が発生してしまうのです。
この「自分の無力さの体験」こそ、宗教的に重要であり、貴い体験なのです。
自我からどう解放されていくのか。「無力さの体験」こそ、自我からの解放そのものだといえます。
3項 今月の詩
形見とて何か残さん
春は花 山ほととぎす
秋はもみじ葉 良寛
この詩を味わっていると、良寛さんの、宇宙大の人格が響いてくる。どうも私を代表とする凡人は、形あるものを残したがります。ここまで書いて、ふとご門主の言葉を思い出しました。
それは平成2年朝の法座でのお言葉です。「蝉のことを考えながら思ったのですが、人間に宗教があるのは、果たして動物より高級であるからなのだろうか、反対の考え方もできるのではないかと思ったのです。動物には、人間にあるような宗教は必要のないようないのちが恵まれている。自然の摂理といいますか、天地自然の移り変わりというものと一体になったいのちが恵まれている、とも考えられるのではないでしょうか。
私は、宗教が人間にあるというのは、人間が高級だからあるのではなく、それだけ欲が深く、罪の深い動物であるから、おのずからそこにまた宗教という問題もある、という受けとり方が出来るのではないかとふと思ったのであります」。
天地一体の移り変わりと一体になったいのち、良寛さんと重なります。 願いや行為によって形が成就します。私たちはできあがった形にこだわります。じつは、形より、願いや行為自体が、かけがえのない私そのものだという思いを持ちます。
4項 上段 集い案内
4項 下段 通信
● 夕食の時のことです。子ども(中1・中3・高2)は、食事の時にペットボトルの一六茶を飲みます。食事をしていると、中3の子が、中1の妹に、「お茶を飲む」といって、コップとお茶を持ってきてくれました。お礼を言わないので、わたしが「ありがとう」はと言うと、「いっちゃんにだって、いつもお茶を持ってきてあげるけど、お礼を言ったことがない」といいます。ほとんど毎日、お茶を運ぶのは、中1の子なので、お礼を言われたことがない不満と、たまにはお茶を運んでもらって当然という思いにしたりたいようでした。
お礼を言うことは、人のためではなく、自分が豊になることなのに、どうも相手のために、相手への労働の報酬として「ありがとう」を言うことのように思っているようです。私は、子どもの横で「ありがとう」と、自分が豊になるチャンスをこの子は取り逃したなと、口元を揺るませました。
● 最近、自爆テロで、新聞テレビは盛りだくさんです。この出来事が、歴史を大きく変えるターニングポイントになることでしょう。そんな気がします。
東西冷戦がなくなり、南北対立・民族主義の台頭があり混沌としています。そしてこの出来事です。
どうなるかは分かりませんが、新しい秩序が進行しているようです。
2月・4月6月7月9月10月12月発行です。
執筆者は、西原祐治です