1項 表紙

 2項 ミニ説法

 「のみと学者」という話がある。ある学者が、のみはなぜ跳ねるかを研究していた。まず前足2本をとり、アッと驚かすとのみは跳ねる。跳ねることと前足は無関係との結論を得る。次に後ろ足を取りアッと驚かす。いっこうに跳ねる様子はない。学者は、ここで結論を得た。後ろ足を取るとのみは耳が聞こえなくなる。結論の意外さがおもしろい。
 次は今年の新年会で若手落語家が話していた話題。神社の鳥居はなぜ赤いか。……。きっと深いわけがあるに違いない。しかし落語家の答えは、「それは、赤いペンキで塗ったから」。これも答えの意外さがおもしろい。
 次は、送られてきた川柳の本にあった話し。日本では自転車泥棒が絶えない。罪悪感もなく、鍵をしない方が悪いと言った感じか。はたまた少し借りますと言った感じか、勝手に乗っていってしまう。事はアメリカでの自転車泥棒の話です。アメリカでは自転車を泥棒する者がいない。奇異なことに自転車を盗むのではなく、自転車のハンドルだけ盗んでいく。なぜか…。それはアメリカ特有の事情によります。アメリカでは、ハンドルを2つお店に持参していくと1ドルくれるのだそうです。半ドルと半ドルで1ドルです。これも人間の予定概念を外すおもしろさがあります。
 どうも人間というのは、計算通りに進むことを理想としているが、予定外の事柄の中に、感動やおもしろさ、悲しみや喜びを見いだす生き物のようです。
 ふと良寛さんの話を思い出しました。人が財布を拾って喜んでいる。財布を拾うことはそんな面白いことかと、自分お財布を道に落として拾ってみるがいっこうに喜びがない。はてはてと何度か試してみた。そのうちに本当に財布を見失い、あわてて草むらを探ることになる。やっと見つけて「ああよかった」と安堵の喜び。その喜びの中で、財布を拾った喜びはこの喜びかと合点したという話です。
 日常、計算通りの生活ではなく、進んで偶然性の中に身を置くことをお勧めします。ケガや偶然となり会った人。きっと新しい出会いや感動があるはずです。
 病気や不幸も計算外のこと。きっとそこに、計算外の出会いや気づきがあるはずです。

 3項 今月の詩

足の裏 洗えば白くなる 尾崎放哉

真実はすごくシンプルだ。ご飯がうまい。生きている。あーきれいは花 。放哉の詩も、実にシンプルだ。足を洗ったら足の白さが現れたという、ごくごく当たり前のことに感動した放哉の非凡さが、足の白さと共に伝わってくる。
 この詩を思い浮かべていると、なんでこんな事に感動が出来るのだろうという思いが沸いてきた。ここに平々凡々とした、俗塵にまみれた私が居る。この私もひとり。この私に思いを寄せていると、この私の存在をことのほか重大視された阿弥陀如来の慈しみふが私を包んでくれる。

 3項 仏事アラカルト

 呼称
Q お寺のお坊さんを何と呼びますか。
A 宗派や、地方により呼び名が異なります。共通しているのは「住職」です。住職は、そのお寺の代表者という意味で、僧侶がみな住職ではありません。
 その他に浄土真宗では、「ごいんげ」・これは江戸時代に格式のあるお寺を「院家衆」と言ったことに始まる呼称です。

Q お寺の奥さんは。
A 住職のパートナーを坊守(ボウモリ)といいます。
 江戸時代、御法度により僧侶は準公務員の扱いで、色々な規制がありました。住む場所や着る物、生活様式、そうした中で、僧侶一般は、妻帯が許されていませんでした。しかし浄土真宗だけは、親鸞聖人以来の宗風で、妻帯が許されていたのです。その妻帯の妻を坊守と言いました。
 坊守は、他宗の「大黒さん」「お裏さん」といった地域性のある言葉ではなく正式名称です。

*「考信録」に「法然上人玉日の御方を御覧じて存細なき坊守なりと仰せそめしより以来、一向真宗の一道場の家主をば、坊守と申伝えたり」とある。お寺を守り調える人という意味。宗法第26条4項に「住職の妻及び住職であった者の妻またはその生活配偶者で、坊守式を受け、宗務書備付台帳に登録された者を坊守という」とある。

Q お寺のお子さんの呼称は、
A 過日、あるお寺の住職が小さいとき「こぼんちゃん」と呼ばれていたといわれました。長男が「ぼんちゃん」で、次男が「なかぼんちゃん」、末が「こぼんちゃん」です。これは親しい間柄で用いる呼称です。
 一般には「しんぼち」といいます。これは新発意(シンボツイ)で、「維摩経」に「新発意の菩薩」とあるように、初めは大菩提心を発っした菩薩をいったが、転じて、浄土真宗で、法嗣を新発意とよ呼ぶようになったことに始まる呼称です。       

 4項 集い案内

 4項 通信

● 5月6日は、日帰り仏跡参拝。親鸞聖人が茨城県を中心に約20年滞在されていた、その仏跡の参拝です。
 3ヶ寺お訪ねし、ご住職方の、丁寧なご説明を受け、楽しく参拝が出来ました。参加者は21名でした。

● 茨城県の竜ヶ崎の近くに精神科病棟を主とする宮崎ホスピタルがある。7階建ての近代的病院ですが、毎月法話会があり、仏間も兼ね備えている。5月10日、その仏間にご本尊の「南無阿弥陀仏」が入仏された。本願寺即如ご門主のご真筆で、松戸家石材店の社長さんがご寄付下さったものです。
 この阿弥陀如来のご本尊が安置されているということは、単に、先祖供養のためではなく、この病院は。病気が治ることを唯一絶対の価値観とせず、私をあなたを評価することなく受け入れる慈しみを大切にする施設であることを標榜しています。

 病気は状況により、治る人もいれば治らない人もいる。治る人も治らない人も、人として欠陥のある人ではなく、共にかけがえのない人であることを見つめる場が仏間なのです。

● 家庭に仏間のないお宅が増えています。いや仏壇のある家庭はごくごくわずかだと言えます。仏壇があっても、先祖供養の場だと思っている人が多いのではないでしょうか。
 お仏壇は、阿弥陀如来の慈しみと出会う場であり、生の依るところ、死の帰するところ、自分をかくす必要のないところです。

● 6月の法話会は、京都龍谷大学の教授・深川宣暢先生のご来院をいただきます。7月は、お馴染みの藤岡道夫先生です。お楽しみにお出かけ下さい。初めての方もどうぞお気軽に。試験はありませんので。

            合掌

寺報 いのちの学び NO131号 (01.6.1発行)     NO130号

  いのちの学びは、2.4.6.7.10.12月発行です