1項 表紙

 2項ミニ説法


 大きな声では言えない話です。私は、今までに一度だけ自分を賢いと思ったことがあります。それは昭和60年春のことでした。  当時、私は築地本願寺に勤めており、盛岡の国鉄管理局からの依頼で社員の研修会に出向する事となりました。
 新幹線のチケット引換券が送られてきて、盛岡駅長以下幹部がホームに出迎えるのでとのことでした。上野駅窓口で指定された新幹線の号車をお願いすると、すでに指定席は満車。では自由席でと思い、地下ホームへ急ぎます。自由席の号車間満杯で、座れる見込みはありません。
 ふと隣の号車を見ると、そこは指定席の号車。列は3人が並んでいるだけです。その時、悪知恵が浮かんできました。
「そうか、指定席券を持っている振りをして、指定席の号車に並び、ドアが開いたら、通路を伝わって自由席に先回りすれば座れる」  私はその時、列に並びながら自分は賢いと思ったのです。ところがです。自分の思いつきに感心して並んでいると、ドアが開く時間となり、私の耳に飛び込んできた言葉は今まで聞いたことのない内容でした。
 それは場内アナウンスの声です。いわく「ただいまよりドアを開けます。つきましては、指定席券をお持ちでなく、指定席の号車より乗車し、通路の伝わって自由席に行く行為はご遠慮下さい」とのこと。なんと私のことを、放送で言っているのはありませんか。今まで賢いと思っていた私は、すでにあちら様に見抜かれていたのです。恥ずかしさのあまり、その列を離れ、結局は盛岡まで立って行きました。
 自分の行為ですから、今からする行為はすべて知っています。しかしその知り方は、自分中心という闇に包まれています。「ご遠慮下さい」というアナウンスによって、明らかになった世界とは違います。
 「愚禿親鸞」。親鸞聖人はご自身を愚か者と懺悔されました。自分の闇が明らかになる。闇を破る光を、仏教では智慧と言います。

3項上段  今月の詩

光る 光る すべては光る 光らないものは ひとつとしてない
みずから 光らないものは 他から 光を受けて 光る
                                坂村真民

この世に誕生することなく、命終わったお子さんに、法名を付けるご縁を頂きました。その時お伝えした思いです。
もしあなたが、亡き子を思うとしたら、あなたをしてそうした思いを思わせた存在として、いま共に居らっしょるのですよ。もしあたなが、その短い命から生まれ難き人間であることに心が開かれたとしたら、あなたをして、生まれ難き人間であるという思いを思わせた存在として、いま共にここにいらっしょるのですよ。もし亡き子をご縁として、仏縁を恵まれたことを喜ぶ思いが起きたとしたら、仏縁を喜ぶ思いを起こさせた存在として、いま共にここにいらっしゃるのですよ。
 物が見える背後には、常に光の存在があります。豊かな思いが起こった背後には、豊かな存在があるのです。亡き方を、豊かな存在とする秘訣は、仏の教えを聞くことです。


3項下段 仏事アラカルト 
ご門主(モンシュ)

Q 浄土真宗本願寺派には総長と門主とお二人おられますが、役割が異なるのですか。
A まず門主の言葉の意味からお話しします。
 本来、江戸時代の寺院格付けで、トップの格付けであったお寺を門跡寺院といいます。その門跡寺院の住職を門主といいます。仁和寺のご門主様などと使います。本来ご門主とは一般名詞なのですが、現在本願寺派においては宗主の固有名詞として、門主と言っています。宗派の法規に「門主は、法統を伝承し、この宗門を統一し、宗務を統裁する」と規定されております。

Q 一般の人でも門主となれるのですか。
A 他の寺院の門主にはなれますが、本願寺では、親鸞聖人よりの血脈で伝えており、一般の人ではなれません。
 現在のご門主は親鸞聖人より二十四代目で即如門主と言います。
 以前は、ご門主を「猊下」とも言っていました。これは、猊は獅子の一種で、猊座は獅子座ということであり、仏菩薩の座する座をいいます。転じて高僧を尊称するときに獅子座の下で禮するという意味で、門主を猊下と言いましたが、現在では使いません。

Q 総長は。
A 総長は行政職の長で選挙によって任命されます。
 本願寺派のご門主は、行政や人事については、言葉を挟むことができない規約になっています。ご門主は宗派の象徴的存在です。


4項上段 集い案内
4項下段 通信


● 大学入試試験小論文に、「なぜ人を殺してはならないのか」という問題が出たと新聞報道にありました。
 答え方は2つの方向があるように思います。
 1つは、単純にその理由を列記するものです。「命はかけがえがないから」「1度の人生だから」「自分がされたくないことは人にしない」等々です。この考え方は、理由さえあれば殺しても良いとなります。こうした理由でだめだという論法は、理由が殺してはならないという根拠となっているからです。
 実際、死刑もそうですが、広く言えば脳死も他殺と言うことになります。現在の社会は、理由があれば他殺も許される社会です。
 最近、ハワイ沖で、実習船が潜水艦にぶつけられて沈むという悲しい事件がありました。決して許されることではないので、当事者の艦長も誠意を尽くし謝罪と懺悔を繰り返します。
 これは実習船には全く落ち度がないからです。これが戦争となれば、殺人も英雄となります。
 同じ「死」でも、かたや許されない行為であり、かたや許される行為となります。
 問題は「死」を取り巻く、「理由付け」の方が、この社会では大切なようです。
 もう1つの考え方は、「人を殺す」という考え方があることを視野に入れて、考えるという方向です。今の社会は他殺が許される社会です。そうした社会の中で、戦争や死刑も含め、他殺が許されない社会とは、どんな価値観に基づく社会なのかを考えていくという方向です。

● 4月3日の法話会は、お釈迦様の誕生を祝って、「花御堂」を飾ります。どうぞお出かけ下さい。

● 4月から仏教セミナーが始まります。柏の駅前ですので、ショッピングをかねて、お出かけ下さい。

            合掌

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 いのちの学び寺報 「いのちの学び」は

  2月・4月6月7月9月10月12月発行です。
            執筆者は、西原祐治です

NO130 平成13年3月1日号