1項 表紙

2項 ミニ説法

最近、続けて野口雨情作詞の「しゃぼん玉」の歌についての、お話を聞きました。有名は話だそうです。

しゃぼん玉とんだ
屋根までとんだ
屋根までとんで
こわれて消えた
大正11年、大日本仏教子供会誌「金の塔」に発表されたと聞きます。
 2歳になったばかりの次女との死別。愛しい子を失った有情の思いからこの童謡が生まれました。
 大正9年、有情は作曲家の中山晋平、歌手の佐藤千夜子らと共に、童謡の全国キャンペーンを実施していました。場所は四国徳島。そこへ故郷の茨城から知らせが入ります。「2歳になった娘が疫痢で急死」。
 はかなく消えるしゃぼん玉と、娘の死がだぶります。有情の子を思う愛しさ切なさは、第2節から伝わってきます。
しょぼん玉消えた
とばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた
風、風吹くな、
しょぼん玉とばそ
「消えた」「消えた」「消えた」と、三度「消えた」を用いた有情は、「風、風吹くな、しゃぼん玉とばそ」と、いのちを存続させるためへの深い祈りを持ちます。その祈りは、失った子へのやるせない思いであると共に、「生きている」ことの不思議さを感ずる心でもあります。
 生命軽視の風潮が、さまざまな事件を生み出していきます。社会の表面から死を隠して作り上げた文化のしっぺ返しのようでもあります。ある火葬場では「四」番という炉だけがなく、1,2,3,5と続きます。こっけいです。人は死を見つめたとき、初めて、生きているのこと不思議さに出会うのです。
 無常を感ずる心は、永遠に巡り会うことのない「今」を感ずる心でもあります。しょぼん玉の上に、人の命を重ね合わせてみた日本人の感性を取り戻したいものです。

 3項上段  今月の詩

よくても わるくても
この残りの生を このままいただく
                            榎本栄一

 年輩者が「年を取ったら終わりだ」という。若者は、その言葉から「年を取ることは不幸なことだ」と思うに違いない。それに反し、標記の詩からは、年を取り枯れていくことの、美徳が伝わってくる。
 失って、失って、からっぽになる。そして月が自らの光ではなく、太陽の光を反射し周りを照らすように、周りの人や物を照らしていけたら……。
 からっぽになることを理想として歩む。これが仏道です。浄土真宗は、「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫」と、からっぽになっていく教えです。


3項下段 仏事アラカルト 
    
   坊守(ぼうもり)

Q お寺の住職の奥さんを何と呼びますか。

A 宗派によって、その呼び名は異なりますが、正式に呼称が決まっているのは浄土真宗だけです。
 それは、浄土真宗は「肉食妻帯」(肉を食し妻を持つ)といって、江戸時代(一六六六年、四代将軍の頃)に、寺院法度(寺院に関する法律)が、制定されます。その法度において、浄土真宗は、その風宗から、妻を持つことが許されていました。だから正式に「坊守」という呼称で伝統されてきました。
 ところが他宗は、お忍びで妻を持っていたので、正式な呼称がないのです。「大黒さん」とか「奥方さん」とか呼んでいます。


Q 坊守の由来は。
A「考信録」という江戸時代の書物に「法然上人玉日の御方を御覧じて存細なき坊守なりと仰せそめしより以来、一向真宗の一道場の家主をば、坊守と申伝えたり」とあります。法然上人が、親鸞聖人の奥さんに対して、お寺を守り調える人という意味で「坊守」と呼んだのが初まりだとされています。
 浄土真宗本願寺派の宗法第26条4項に「住職の妻及び住職であった者の妻またはその生活配偶者で、坊守式を受け、宗務書備付台帳に登録された者を坊守という」とあります。
 浄土真宗のお寺の奥さんを「坊守さん」と呼んで下さい。

4項上段 集い案内
4項下段 通信


● ラジオ放送の子ども質問コーナーで、おもしろい質問がありました。「明日って、あるのですか」。子どもの質問の意図は分かるません。
 私も頭をひねりました。明日が別のどこかにあると考える人はありません。明日とは、昨日考えていた今のことであり、今日が昨日になった昨日になった今のことです。
 お浄土も同じことのようです。明日のように、今と別の場所に空間的にあるのではありません。小さな命から解放された、その時の今のことです。
 明日は今においては、ないのですが経験によって疑いません。重傷を負ったときなど、その経験から明日はないという思いも持つこともあります。
 お浄土は、私の経験によっては信ずることは出来ません。浄土は仏様か経験された世界だからです。
 その仏さまのが、ことごとく私の真実の世界を言い当て、「誠のその通り」と頭が上がらなくなると、仏様の経験において知ることの出来る浄土を、そのまま疑わない状況が私の上に開かれていきます。明日のあることを疑わないようにです。

● 年賀状から。
父(松戸・天真寺前住職)からの賀状に

めでたきは 常行大悲のお念仏
喚ばれつ喚びつ 浄土への道

とありました。元旦の日、「今年の正月を一緒に迎えられるとは思わなかった」と、一緒にお屠蘇を頂きました。

山崎龍明先生の賀状に

若者の非行というけれど、大人の非行が問題です。それが社会全体を悪くしています。そのことを私たちは忘れています。
 新世紀という言葉に浮かれることなく、着実に現実を見つめ、問題克服をめざしたいと思います。
とありました。
            合掌


 いのちの学び寺報 「いのちの学び」は

  2月・4月6月7月9月10月12月発行です。
            執筆者は、西原祐治です

NO129 平成13年2月1日号

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