2013年まで

がん患者・家族語らいの会 通信 編集後記 (2014年~)

2015.10月

お釈迦さまの逸話に『四門出遊』があります。お釈迦が太子の時、王城の東西南北の四つの門から 郊外に出掛け、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、人生に憂い、出家を決意したという説話です。『四門出遊』では、お釈迦さまの老病死の憂いが語られることがほとんどです。過日ふと、“お釈迦さまの憂いも大事だが、その憂いを引き出した、聖なる側の働きも重要だ”という思いを持ちました。

●『ブッダチャリタ』は、馬鳴の著作とされ、釈迦の生涯に題材を採った、28編の韻文から成るサンスクリットの仏教叙事詩です。最も古い釈尊伝のようです。その『ブッダチャリタ』(杉浦儀朗訳)に四門出遊の説話は次のようにあります
ある時、御子(お釈迦さま)は、花咲き鳥うたい、楽しき歌声のだまし、女たちのこよなくめでたる森のうわさを耳にします。御子の思いを知った父王は最高の車を用意し、御幸の道筋をから老人や病人、卑しき者を排除し、美しく整えます。そして「然るにシュダーディヴァーサの神々は、歓喜に湧き返りたる都大路の様子を見て、御子の出家を促さんと一人の老人を創り出しけり。人々のわきたつさまと異なる老人を見出し、御子は驚きあきれ、喜びはたちまちに冷め、目を見据えしまま御者にただしけり」。その後、病人、死者、修行者との出会いへと続きます。清浄なる神々が老人、病人、死者、出家者を作り出したというのです。お釈迦さまの“憂い”は、若さという驕りへの内省であり、凡夫の性あらわになったことです。それを促したのが、神々、つまり聖なるものです。平たく言うと、老人との出会いによる憂いは、清浄なる神々の働きによる。その憂いそのものが、聖の側の働き、作用だということです。

●これは何を意味しているのか。私たちの苦悩そのものが、聖(如来)なるものの働きによるという理解に通じているともいえます。人間の抱える苦悩、苦悩そのものは、当事者にとっては歓迎されないものですが、その苦悩は、聖(如来)なるものの誘(いざな)いである。であるならば苦悩を聴かせていただくこと、そのものがすでに仏道の営みであると言えそうです。「がん患者・家族語らいの会」そのものが如来に出遇う場だということになります。西原)



2015.9月

「がん患者・家族語らいの会」創立メンバーである木県西明寺(真言宗豊山派)のご住職、元がんセンター中央病院医師の、田中雅博師の講話が、築地本願寺(27.8.20)がありました。昨年10月、ご自身の診療所で、すい臓がんが見つかり、検査したらステージ4b(遠隔転移がある)で、その辺りの話もしてくださりました。「あと4か月くらいか」とご自身の話。終末期を生きることは、「生き方を獲得するチャンスでもある」とおっしゃっていました。田中師は、常々、「科学は、(命を超えた)価値の有無に言及しない。科学ではなく価値のある生き方を持つけることが大事」(意趣)を語っておられます。がん患者への偏見は、大分薄まりましたが、病状が終末期となると、誰しも至る過程でありながら、かけること言葉を持ちえないという社会があります。

●話は少し角度が変わりますが、読売新聞に『障害者殺しの思想』(横田弘著)の書評(評・渡辺一史)が掲載されていました。障がい者団体「青い芝の会」の活動メンバーを中心とした内容の本です。この本は“優しさの中にある暴力”を書いた本だとも言えます。●
1970年、横浜市で2人の障がい児を育てていた母親が、下の娘をエプロンのひもで絞め殺すという事件が起こった。事件後、親を殺害に追い込んだのは、何より日本の福祉政策の貧困であり、母親もまた被害者であると、加害者である母親の「減刑」を喚願する運動が開始された。こうした動きに異を唱えたのが、著者らを中心とする「青い芝の会」です。殺した母親がかわいそうというなら、殺された子はどうなるのか。減刑は、障がい者の「生存権」の否定であると。親の抱いている「役に立たない人間は存在する価値がない」という思い、わが子を愛しながらも障がい児であることを恥じ、やがて自分自身の手で殺そうとする「親の愛」に異をとなえたのです。『親』によって私たち『障がい者』はどれ程の抑圧、差別を受けているかと。

●親を含め社会の優しさという偏見が、異なる存在を排除し窮地に追い込んでいく。この構図は、終末期のがん患者の上にも言えます。田中雅博師の折々を生きる姿そのものが、今現在説法の姿のように思われます。
西原)



2015.8月

●早朝ウオーキング、ラジオから「今日の誕生花《 617日 》タイサンボク(泰山木・モクレン科)、花言葉は「威厳をつける・自然の愛情」とアナウンサーの言葉。それから3分後、公園のわきを通ると、老夫婦が歩いており、ご婦人の声が聴こえてきました。「ねー、これがタイサンボクよ。すごく大きな木になるの。花言葉は、威厳、自然の愛情。さっきラジオで言っていたわ」。タイサンボクを知らなかった私ですが、よく見ると2本植えてあり、共に純白の大きな花をつけていました。このご婦人の言葉がなければ、ラジオの誕生花の話も、タイサンボクそのものも、意識から消えていったことでしょう。

●生活の中で、見聞することのほとんどは、時の流れと共に、記憶から消えていきます。その中で、何かの理由で、朝のご婦人の言葉によってタイサンボクを記憶にとどめたように、記憶に留まるということがあります。 記憶にとどめる。それを偶然ではなく、確固たる思いで認識する。それが凡人と識者の違いなのかも知れません。

●アフリカの言語研究の先駆者で、文化人類学者の西江雅之氏の死(6.14)が報道されていました。顔を洗わず、歯を磨かず、着替えも持たないという型破りな生活スタイルを貫いたと紹介にあります。この方は、人並み外れた好奇心で人類を観察した人です。「タイやアフリカの広い地域では、子どもの頭をなでてはいけない。頭をなでるのは自分の奴隷にしたというか、支配下に置いたという意味になってしまう。」などなど。貴重な体験談は豊富です。人類には、さまざまな生活のバリエーションがあります。それは私個人の人生の上においても言えることです。それをそのままかけがえのない私として見る。西江雅之氏の教えていることなのでしょう。

●「普通の大学へ行って、普通に就職して、普通に人と結婚して、普通の家庭を持って、普通に老いて、普通に死んで逝く」。普通ということも、それに囚われると“普通という暴力”となります。「大学へ行かなくても、結婚できなくても、変な死にかたでも、普通の自分でいられる」ことが重要です。



2015.7月

「読売新聞」(27.6.6)の投書欄に「子どもを静かに待たせる技」が掲載されていました。

●“近くのスーパーへ買い物に行ったときのこと。混雑する店内で、小さな男の子が走り回り、その後をママが追っている。よく見ると、そのママは3人の子どもを連れて買い物に来ていて、動き回る下の男の子2人を静かにさせようと必死になっていた。レジを待つ間、ママは一番下の男の子のポケットに鍵を入れながら、「家の鍵だから絶対になくさないでね」と言っている。続いて、お兄ちゃんのズボンの後ろポケットにも何かを入れた。「ママの携帯電話、持っていてね」と話しかけている。大丈夫かなと思ったが、なんとその途端に2人は静かになった。時々ポケットを気にしながら、神妙な顔で順番待ちを始めたのだ。”(以下省略)とありました。●以前、子どもをじっとさせるために「動かないで」という否定的は指示ではなく、「地蔵さんのまねをして」と能動的な指示が有効だ。ということを何かで読みましたが、道理は一緒です。“能動的な静”ということでしょう。●「がん患者・家族語らいの会」も、この“能動的な静”を大切にしています。
19828月初回開催より今日まで、「がん患者・家族語らいの会」で始終一貫していることは「苦しみに寄り添う」ということです。まずは評価することなく相対し、参加者の苦しみを聴かせていただきます。悪く言えば “何もしない”ということになります。“何もしない”ことの中には積極的な意味があります。一つは、苦しみを語る当事者は苦しみと混乱のなかで新しい秩序を見出していく、という苦しみに対する理解です。それと〝あなたはあなたのままで大切〟という、何もして差し上げられない人であっても、“敬意をもって敬う”ことの大事さです。三つ目は、相手をあるべき方向にコントロールすることを放棄するということです。その三つのことは、“苦しみが成長のとびら”になるための努力だともいえます。苦しみを通して、苦しみの原因である“我”の何ものかが明らかになっていくことが重要です。

西原)



2015.6月

田植えされた苗は、成長とともに1本の苗が根元から分かれて、増えていきます。これを「分けつ」と言います。これはイネ科植物の子孫を繁栄させるための戦略だと本で読みました。通常、植物の成長点は、茎の先端にあり、細胞分裂した新しい細胞を上へ上へと積み上げていきます。しかし、それでは草食動物に茎の先端を食べられてしまうと、成長が止まってしまいます。そこでイネ科植物は、まったく逆の発想で成長する仕組みつくりました。それは成長点を下に配置するという戦略です。成長点が株元にあるため、葉の先端をいくら食べられても成長を続けることができます。それと同時にイネ科植物は成長点を次々に増やしていくことを考え、押し上げる葉の数を増やしていったのです。

●成長点が先端ではなく底辺にある。その点は、阿弥陀さまと私の接点が“底下の凡夫”であることを説く浄土真宗と似ていて、本を読みながら親しく感じました。

●成長点が下にあるという特質は、作物でも言えるようです。ラジオ放送で、「熟成ジャガイモ」を紹介していました。「熟成ジャガイモ」は、糖度が強く美味しいとのことでした。

●食べ物が、腐ならいためには“甘さ、辛さ、塩辛く”を加味させることが必要です。ジャガイモを低温で長く保存させておくと、自らが腐らないために、でんぷんを糖分に換え保全をはかるのだそうです。それが熟成ジャガイモです。その熟成によって、ジャガイモの糖度は18度に達するとのことでした。糖度を増す成長点が“腐る”という歓迎しない状況下にある。これは人間についても言えるようです。

●人間の成長点は、人よりも抜きんでている点ばかりではなく、苦しみや思いのままにならないといったマイナスの状況の中にもあるということです。「がん患者・家族語らいの会」は、苦しみを語り合う場です。苦悩はマイナスばかりではなく人間の成長点ともなるという思いからです。そのためには、「評価しない」「共感」「信頼する」ことを大事にしています。集いの場は、それぞれの人が苦しみに向き合う場であり、苦しみが表面化していない人も、成長への信頼を共有できる場ともあります。ビハーラを応援してくださっている方、今年度もよろしくお願いします。(
西原)



2015.5月

●昨年1210日築地本願寺が重要文化財の指定を受けました。その記念イベントで314日、プロジェクトマッピングという築地本願寺伽藍全体を映像で包むイベントが行われました。多くの人と「ごえん」を繋ぐための試みだそうです。

●こうしたイベントでも言えることですが、真宗寺院の教化活動と収入のねじれ現象があります。新宗教においては、活動イコール収入増という構図です。ところが寺院ではイベント等の活動をすればするほど支出増になってしまいます。築地本願寺のプロジェクトマッピングも、経費は別にしても、イベントの間は通夜を断る状況になります。それは、収入活動のほとんどが法事・葬儀によっているためです。一般寺院においても、門信徒と共に開催する、旅行や教化活動は支出増、法事・葬儀は収入
増とねじれ現象にあります。本来は、寺院活動をすればするほどお寺が財政的に潤っていくということがベストです。

●ビハーラは、苦しみに寄り添い歩むこの中に、共に安心できる教えや考え方を共有していこうとする活動です。東京ビハーラの場合は、その活動資源は会費と寄付等に支えられています。活動そのものが収入源となっています。東京ビハーラの活動は、小さな活動ですがお寺があるべき姿を示唆しているともいます。一般寺院においても、教化活動と収入がイコールになっている法人もあることでしょう。それは寺院本来の姿であり、これからの寺院の目指すべきあり方のように思われます。

●このねじれ現象は、活動についても言えます。最近マスコミで、僧侶の社会活動が取り上げられます。活動内容は、教化活動ではなく、民衆に寄り添う民衆のニーズに応えるというものです。しかし本来は、民衆のニーズに応えることではなく、仏道を伝えることをもって、民衆が最高の利益を受けるという構図であるべきです。

●なぜこうしたねじれ現象が起こるのかと言えば、民衆の苦しみに立脚した活動でないからだと思われます。“民衆の苦しみを解決する”という最も本来的な視点に立って、それぞれの宗派が具体的な活動理念と活動プランを実行することが望まれます。これは自分自身の課題でもあります。(西原)


2015年4月

【編集後記】●人の苦しみ(苦悩)は、自分が今、握りしめているものによって生じる。財産、健康、名誉、生など、握りしめているものが失われる時、握りしめているものから苦しみがうまれます。逆に握りしめているものが失われた時、存在していたことの意味や値打ちに気づくことになります。

●東日本大震災4年目を迎えましたが、震災当時
4ヶ月ほど「生きているだけで良かった」という言葉を、よく聞きました。どうして「生きているだけで良かった」と思えたかと言えば、失うという体験があったからです。では、なぜ失ったときに「生きているだけで良かった」と思えるのかと言えば、失うことを通して、“あって当たり前”という私の思いが壊されるからでしょう。失ったときに、あることの値打ちに気づく。それは、がんを疾患し、死が告げられたときも同じで、死と向き合い、その煩悶の中で、眼差しの転換が起こって「生きているだけでありがたい」という心境に達することがあります。ただ健康を回復してしまうと、眼差しの転換は消滅するようです。

●仏教のスタンダードの考え方は、であるならば“失う”という経験を経ずに、人為的に“あって当たり前”という囚われを壊そうとします。そのための手段が行(修行)です。ところが浄土真宗は、“あって当たり前”をいう思いを壊そうとする方向ではなく、認めていく方向にあります。構造的に壊れようのない存在であると認めていくのです。ただの追認ではなく、阿弥陀仏の本願によって、煩悩具足という洞察と、如来と等しい存在であるという肯定感に開かれるのです。阿弥陀仏の慈悲の深さとして、闇の深さが洞察されていくということです。

●この阿弥陀仏の本願によって開かれていく質的な転換は、苦しみの体験・未体験、失う・失わないに関わらず、出遇うことができるので、万人に開かれた機会であるとも言えます。

●浄土真宗のビハーラは、この阿弥陀仏の本願の教えをより処として、苦しみのもっている意味を理解して、苦しみの中にある人と共に歩む活動だと言えます。そして、共に歩むことを通して阿弥陀仏の本願の確かさに触れていく。こうした理念の構築は、まだまだ不十分ですが、実践を通して、研ぎ澄まされていくのだと考えています。(西原)



2015年3月

【編集後記】『サピオ』(2015.2月号)に、五木寛之氏が“82歳の僕が、いま最も必要だと考える「余命の思想とは」”という性分を寄せていました。世界の歴史でいまだ体験したことのない老齢社会に「余命の思想」を構築して望むべきだという趣旨で、“僕はその意味で日本は、「余命の思想」とでも言うべき価値観を構築するべきときにきている、と考えてきました。余命というと医師が患者に宣告するような非常に暗く つらいイメージがあります。けれども、いまこそ発想の転換を試み、そのイメージを一新していく必要があるのではないか」と。「余命の思想」の内実は示されていませんが、その必要性を語りかけておられます。

20年前のことですが、ある老人施設の職員研修会に呼ばれ、講義したことがあります。その時、“老人という環境は、職を失い、人間関係を失い、何でもできるという自由を失う。それはまさに出家者の環境でもある。出家は社会との交流を絶ち、孤独の中で、自分に規制を加えて、精神的な自由を求める。その意味で言えば、老人という環境は、最高の環境でもある”、といった啓発の内容でした。

●出家者の求めるものは、自己中心的な我執からの自由です。余命の思想の方向性も、我執からの自由ということでしょう。違った言葉で表現すれば、“思い通りになったことへの喜び”から“思い通りになる・ならないという自分への執着から解放される喜び”です。もっとシンプルに言えば、掛け値なく、今生きていることに感謝できるということでしょう。

●絶対的な依存状態にある幼児に、心身の成長という希望が期待されるように、老人にも、ある種の成長という希望が期待できる。その成長をもっと日常的な言葉で明らかにしていき必要があります。そうなれば老いることは、ダメになることではなく、ある種の成長を手に入れる時節となります。

●終末期も、同じことです。終末期という生のプロセスは、自分が培ってきた経験や価値観から解放されて、最もシンプルな「恵まれている生いきる」ときでもあります。そのためには握りしめているものから解放される必要があります。その解放の契機となるのが、苦悩の中で洞察されていく自己の愚かさです。「余命の思想」の実践がビハーラ活動です。

2015年2月

【編集後記】『新潮45』(2015.1月号)に特集“ふたたび 日本政治への正しい絶望法”が組まれていて、タイトルが面白いので、購入して読みました。“ふたたび”とあるのは、2013.1月号で、この特集を組んだことがあるからです。「正しい絶望法」のタイトル自体は『日本農業への正しい絶望法』(神門善久・明治学院大学経済学部教授– 2012/9)が初見のようです。

●メインの原稿は佐伯啓思氏の“「グローバル競争と成長追求」を根底から見直せ”で、“
グローバル競争と成長追求という強迫観念などからそろそろ醒めてもよいのではないでしょうか。…いまいいたいことは、思考の転換なのです。価値の転換です。「グローバル競争に勝たなければ成長できない」そして「成長しなければ幸せになれない」という思い込みからわれわれ自身を解放することです。”と思考の転換を提言で、興味深い内容でした。

●論説の内容はともかく、タイトルの“
正しい絶望法”が、おもしろいと思ったのは、絶望とは通常、否定的な意味で用います。それを“正しい”をつけて肯定的な言葉としている点です。新しいものが生まれるときには、常に古いものの死〈否定〉があります。明治の始まりは江戸の終わりを意味し、幼児で言えば、胎盤の死によって子どもが誕生します。資本主義の誕生は、資本主義と異なっていたものの敗退によります。

●浄土真宗で言えば、阿弥陀さまの願いに開かれるとは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」という私への正しい絶望によって可能となるということでしょう。万人をして、どう正しい絶望に導くか。その働きこそが阿弥陀如来の本願の核心なのでしょう。ビハーラ活動は、その阿弥陀如来の願いを敷衍する活動です。「私への正しい絶望」を視野に入れ、終末期の人と共に歩む。これは「正しい私への絶望」という浄土真宗の教えを敷衍するためだけではなく、死ぬ苦しみからの解放は、「私への正しい絶望」によっておとずれるという確信があるからです。このビハーラ活動は、現在、湧水程度の様相ですが、その湧水がせせらぎとし、大きな川となるよう努力したい。

(西原)



2015年1月

【編集後記】●ナラティヴとは、「語り、物語」のことで、辞書的意味は、「(出来事、経験などにもとづく)話、物語、談話」であり、その動詞形は「出来事、経験などを(順序立てて)述べる、物語る、・……の話をする」(ジーニアス英和辞典)です。

●ナラティヴの言葉自体は、
1990年に、アメリカのマイケルホワイトと、エプストンとの共著『物語としての家族』)が刊行されたことに始まるとも言われています。日本で正式に研究の場で取上がられたのは、2002420.21日、福岡市婦人センターで開催された第九回日本語臨床研究会『語り・物語・精神療法』です。

●『ナラティヴの臨床社会学』(野口裕二)に「物語には二つの作用がある」と説かれています。ひとつは、現実理解に一定のまとまりをもたせてくれる「現実組織化作用」、もうひとつは、現実理解を方向付け制約する「現実制約作用」と説かれ、次のようにあります。

●“これまでに自分か経験したさまざまな出来事、さまざまな思い、それらは語られることによって整理され、関連づけられ、意味付けられる。ある出来事と他の出来事、ある出来事とある思い、ある思いと他の思いが重なりあい、織りあわされるとき、ひとつの物語ができあがる。あるいは、物語の一節ができあがる。… このとき重要なのは、物語としての一貫性は、「現在」が物語の結末となるように組織化されることで得られるという点である。現在、自分がしていること、現在、自分が置かれた境遇、現在の自分の苦しみや悩み、それらが物語の結末とならざるをえない。逆にいえば、この「現在」を説明するようなかたちで、「過去」が配列される。”

●人は常に現在を生きてきて、過ぎ去った現在が過去となります。その過ぎ去った現在は、新たに縁をよって現在化された今によって意味づけられていきます。ところが終末期の現在は、過ぎ去って過去になるということがありません。だから終末期の現在は、現在の時点で、確かものとして意味づけられていかなければならないのです。

●浄土真宗の念仏者は、阿弥陀さまの智慧と慈悲によって意味づけられていくナラティヴを生きてきました。その考え方を、終末期にある人と共に共有する。それがビハーラの実践活動の主眼です(西原)



2014年12月

【編集後記】少し古い本ですが精神医学者でウイニッコットの研究者でもある牛島定信氏の『心の健康を求めてー現代家庭の病理ー』((1998・慶応義塾大学出版)と読みました。その中に“ターミナル患者の心性”と題して、興味深いことが書かれていました。「死の心理をめぐる2つの症例」として、一人のがん患者は、家の中で荒れ放題、病院でも婦長と口論となり問題を起こす。主治医がただすと「どうせ、私は死ぬんだから」と激しく泣いた。もう1つの症例は、人を食ったような傲慢さ、何としても相手をしたがわせようとする態度、病棟規則を平気で破る。著者は、2つの症例を挙げ「これが<死を前にして生じた抗うつ>を防衛するものであることは間違いない。この防衛がもっとも繁用されるのが離乳期と思春期であることを考え併せたとき、…死の過程でみられる特有の攻撃性の意味が分かったような気がした。つまりD・W・ウイニコットの「対象の破壊と再創造」という概念が攻撃性を躁的防衛と結びつけてくれるように感じたのである。対象の破壊と創造というのは、乳児期の母子分離の過程で、幼児は母親(内的な対象)を破壊しては新しい母親像を形成し直すことを繰り返し、自己を母子関係以外の世界に投企していく、 …つまり幼児は母親を破壊しては創造し直しながら、現実世界に自らの身を定着していくという発達過程をたどるわけであるが、死の過程になると、定着させていた自らの身を現実世界から引っ込めて、かつて親しんだ家庭内の、母子間の関係へ回帰していく過程とみることはできないかというのが、先の二症例から得た私の結論である。(以上)

●興味深い意見です。幼児は母親との軋轢を通して現実に適応する自我を構築していき、死を前にして同様な軋轢を通して自我を手放していく。そう考えると、患者さんの怒りや乱暴な行為も意味のある行動だとなります。

キューブラー・ロスは、死にゆく患者の心理を研究した本「 死ぬ瞬間」で、死に行く過程を「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5段階に分類しましたが、これは自我から解放されるためのプロセスともいえます。

●怒りの感情にも意味がある。苦しみに向き合うことは、
自我から解放されるプロセスに向き合うことでもあります。(西原)

【編集後記】ラジオ放送で「双子の専門研究機関がある大阪大学で2日、最新の研究成果の発表会」というニュースが流れていました。内容は“大阪大学の「ツインリサーチセンター」では双子の健康状態や運動能力などを分析し、遺伝や生活環境の影響を研究」というものです。その大阪大学で双子研究をしている早川和生教授によると、「私たちは特に一卵性の双子を中心に研究しています。同じ遺伝子を持った2人が、子供のときはそっくりなんですが、年をとったらかなり差が出るんですよ。極端な場合は、顔も赤の他人みたいに変わってくる。『本当に双子ですか?』って訊きたくなるくらい違う人もいます。大人になってから、違う仕事をして、違う物を食べていくと、ものすごく差が出るんですね。特に男性の双子は差が出ます。女性の場合は、自分の好きな物を作って食べられる環境にいるのに対し、男性は職業が違うことが多いからでしょう。一卵性でも、1人は認知症になっているのに、1人はバリバリ働いているという例もある。寿命で20年の差がつくこともあります。ひとつおもしろいのは、『配偶者』が寿命に影響していると思われること。配偶者って最大の環境因子なんですよね。若い時、どんな人と結婚したかによって、寿命が変わってくる可能性があるんです。おそらくストレスが関係しているのでしょう」(以上)とのことです。     「http://www.suku-noppo.jp/pro/38/より転載」“配偶者が最大の環境因子”という点がおもしろく興味深い。

●浄土真宗は、環境因子を最大限に重要視する宗旨です。“阿弥陀如来の働きが環境因子となって私を念仏申す身となさしめる”ということです。東京ビハーラは「死ぬ苦しみからの解放」を視野に入れて活動しています。「死ぬ苦しみからの解放」の環境因子は、その人が苦しみに向き合うことと、それを可能にする人間関係、そしてそのための場所です。東京ビハーラでは過去
3度、ビハーラ施設を建てようという動きがありました。そのつど団体の未熟さゆえに断念してきました。しかし今年になって新しく北村会長を迎え、ビハーラ施設を建てようという会議を重ねています。ビハーラ施設の建設は、浄土真宗の考え方を、現代に開示する運動の一環でもあります。(西原)



2014年11月

【編集後記】●『在家仏教』(2014.11号)に、同朋大学の田代俊孝氏が「慈悲のかわりめ」と題して、歎異抄の「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の「かわりめ」とは、聖道浄土という2つの慈悲があってその違いという廃立ではなく、“回心”で「聖道の慈悲によって、自己の思いが破れたときに、浄土の慈悲、他力の慈悲、大慈悲心に気づいていけるんです」とあり、それが「かわりめ」であると指摘されておられました。

●雑誌を読みながら
10月号の後記で紹介したウイニコットの「対象の破壊と再創造」を思い出しました。“幼児期、誕生後の幼児は母親に絶対依存の関係にある。母親との軋轢(混乱・苦しみ)を通して現実に適応する自我を構築していく。死を前にして同様な軋轢(混乱・苦しみ)を通して自我を手放していく。キューブラー・ロスの、死に行く過程での「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5段階は、自我から解放されるためのプロセスともいえます。”といった内容でした。

キューブラー・ロスが、死に行く過程で指摘されたように、すべての人ではないにしろ死の受容に向かう過程で、否認、怒り、取引といった苦しみ・混乱に身を置きます。興味深いことは、自我を手放すかことを自主的に行うのが仏道修行でも、自我を手放す過程で苦しみ・混乱の中に身を置くということです。たとえば布施の行。私のような凡人が、布施の行を行うことは、苦しみ・混乱の中に身を置くことになります。その行の苦しみ・混乱の中で、如来の働きによって「自己の思いが破れたとき」浄土の慈悲へと回心する。それが田代氏のいう「かわりめ」です。

●この「かわりめ」は、
キューブラー・ロスの、死に行く過程でも同じことが言えるのではないかということです。死に近づくという苦しみ・混乱に身を置く中で、死という大きな場の力が「かわりめ」の働きとなって「死の受容」に至る。これは仮説です。

木村 無相(きむら むそう)さんの言葉に「自力の念仏そのまんま他力とわかる時がくる」とあります。「他力とわかる時」、それは自らの凡夫性が明らかになった時でしょう。上記の「かわりめ」も、自らの凡夫性が明らかになるとき、そのことが実現するのだと思います。愚案です。(西原)



2014年10月

【編集後記】最近、「苦」について思うことがあります。それは緩和ケアなどで語られる“苦しみ”(身体的苦痛 、精神的苦痛、社会的苦痛、スピリチュアルな苦痛)の理解は、苦しみを否定的にみますが、仏教は“一切皆苦”などと、苦を否定的に見ていないということです。仏教の学びで最初に習うのは「四諦八聖道」(したいはっしょうどう)です。四諦とは四つの真理で、苦諦,集諦(じつたい),滅諦,道諦で、「苦」とは人間の生が苦しみであること,「集」とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと,「滅」とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること,「道」とはそのために八正道に励むべきであることをいう真理です。

私たちは、苦しみということぐらい知っていると思っていますが、苦が洞察(本質を直視する)される、それが真理の発見だというのです。この場合の苦しみは、楽しみと比較した苦しみではなく、「一切が苦しみ」だという理解です。

●仏教における苦の言語は「
duhkha」で、通常は“思い通りにならない”と訳されます。「du」は「無価値、たいしたことがない、悪い」という意味だそうです。「kha」は「虚空」という意味です。「一切は苦である」とは、「すべてのものは執着すべき価値がない」ということです。“苦しみ”イコール“思い通りにならない”イコール“すべては思い通りのならないものとして存在している”ということでもあります。

●「苦諦」とは、苦は否定すべきものではなく、「明らかに見極める」ものであり、「苦しみが明らかになる」、それは「執着すべきものではないことが明らかになる」ことであり、執着している私が洞察されていくことです。浄土真宗に親しい言葉で言えば、執着すべきものでないものに執着して止まない凡夫の私が明らかになることです。その場合、重要な役割を果たすのが、“阿弥陀如来の無条件の救い”という経説です。自己の愚かさは、ただただ阿弥陀如来のお慈悲の深さとして認識されていくからです。阿弥陀如来の無条件お救いによって、無条件でなければ救われない私の闇が洞察されていく。苦しみの解決は、苦しみを直視することによって、その苦しみをもたらしている“愚者”という私の本質が明らかになることによってもたらされる。愚案です。
(西原)



2014年9月

【編集後記】以前「一人でいられる能力」を提唱したウィニコット(1896-1971)を紹介しました。イギリスの精神分析家で40年以上にわたる小児科医として6万例の臨床経験を基盤に,独自の視点から母子の対象関係論を発展させた方です。ウィニコットが言う赤ちゃんと母親の関係は、阿弥陀如来の私の関係を彷彿させるものがあります。たとえば「抱かれている赤ん坊が母親を見ているとき、その赤ん坊は母親を見ているだけではなく、母親の目に写っている自分自身を見ているのだ」そうです。浄土真宗の信心が「阿弥陀如来のまなざしの中にある私が明らかになること」(西原)と似ています。またウィニコットは、赤ん坊が抱く万能感について説いています。生まれたばかりの幼児は何がよくて、何か危険なのかさえ分からない状態であるが故に、母親に絶対的に依存している。自らが依存していることさえも知らない。母親が幼児のニーズに100パーセント応えていると、幼児はやがて対象は自分のもの、自分で創ったものと錯覚するようになる。これが幼児の抱く万能感です。そして幼児は、思い通りにならない体験を通して、絶対的な依存的母子関係が相対的依存の関係へと移り、内奥の本当の自己、過渡的領域で体験される自己、そして外界と接する自己の三層構造が形成されることになるという。

●成長と共に本当の自己を手放していくという話は、20年近く前、当時、国立がんセンター医師のT先生から伺った、アーサーヤングの説に通ずるものがあります。アーサーヤングは、人は多くの自由をもってこの世に生まれる。ところが教育を受けて成長し、知識を得て、財産を得て、名誉を得ていく間に、そのプロセスの中でひとは、自由を失っていく。そしてどうにもならない苦しみに遭遇する。そこから逆に、今まで獲得してきた財産や名誉などを捨てていくというプロセスの中で、失った自由を獲得していく。生命は本来的に、高いレベルの意識に向かって進化していくというものです。

●このアーサーヤングの考え方は、浄土真宗の信心が、罪悪深重という信心の体験を通して、自己へのこだわりから解放されていく構図に似ています。苦しみの体験を通して高いレベルの意識に向かっていく。浄土真宗的に言えば、阿弥陀さまの真実に開かれていくということでしょうか。そしてそにに絶対的な依存関係が成立して、自分の生を丸ごと肯定できる万能感を手中にする。いかがでしょうか。(西原)



2014年8月

【編集後記】ケニス・ドゥカが、「公認されない悲嘆」(1989年)を説いています。死別の悲しみが認められない在り様のことです。1つは関係性が認めてもらえないとからくる悲嘆です。秘密的な関係にある愛人や不倫、同性愛者などの人です。2つ目は、喪失を認めてもらえない中絶、死産などです。3つ目が、悼む人であることを認めてもらえない人で、知的障害者、幼い子供、超高齢者、ホームレスなどです。4つ目が、悼むことを公に認めてもらえない死で、犯罪者の処刑、自殺などです。

●この「公認されない悲嘆」を読みながら、ふとひと月前読んだ、大先輩の渡邉普相の記録『教誨師』に書かれている大久保清の死刑のことを思い出しました。

●大久保清
(当時36歳)は、19713月から5月にかけて、群馬県下で画家を装い、若い女性に近づき言葉巧みに愛車に乗せ、人気のない場所で強姦、殺害し遺体は山中に埋めた。この手口で同年に2ヶ月足らずの内に8人を殺害76年死刑執行されています。●その部分だけ転載します。大久保には両親と兄姉がいた。兄とは事件の前から犬猿の仲で完全に縁が切れていたが、姉は最後まで大久保に手紙や下着を送ったりして弟との連絡を絶やさなかった。死刑が執行されて数力月してから、大久保の遺骨を預かっていた渡邉の三田の寺に、その姉がやってきた。「弟が大変お世話になりました。遺骨までお預けしてしまい申し訳ありません。今日は遺骨を引き取りに来るつもりだったのですが、実は困ったことになっているのです」…大久保への死刑が執行されたという情報がどこかから漏れ、そのニュースが新聞の一面を飾ると、地元の人たちは「大久保の骨を町に戻してなるものか」と、一夜にして大久保家の墓を暴いてしまった。墓石は根こそぎ倒されて滅茶苦茶に壊され、先祖代々の遺骨や骨壷もすべて掘り出され、あたりに投げ出されたという。…「清の遺骨も、高齢の両親が亡くなっても、もう骨を納める場所もないのです」骨が透けて見えるほどに痩せこけた姉はそう言って涙を流した。(以上)

●苦しみも悲しみも常識という枠の中で営まれています。ビハーラでは、その常識に囚われることなく、苦しみ悲しみを大切にしたいと考えています。
西原)



2014年7月

【編集後記】『仏説無量寿経』に「人、愛欲の中にありて独 (ひと)り生まれ独り死し、独り去り独り来 (きた)る」とあります。お経の言葉は、「ひとり」という孤独な人生の事実を伝えたものです。イギリスの小児科医で児童分析家のウィニコット(Winnicott)が「一人でいられる能力」(*1958年論文『独りでいられる能力』について提唱しています。この考え方は、一人で生き一人で死んで行けることの中にある恵みを伝えていて面白い。

●「一人でいられる能力」は、乳幼児期に開発されるものだそうです。常に親が自分のことを守ってくれているということを体験として理解した乳幼児は、物理的に親がそばにいなくても、いつしか善意にあふれた心地よい環境に深く安心し、ひとり遊びが出来るようになる。この安心感を伴ったひとり遊びは、悲観的な孤独体験とは全く正反対で、安心して自ら未知の世界へと向かって行くことのできる孤独だという。この能力によって、
人は他者といることで、ひとりでいられるようになり、ひとりでいられることによって、他者と一緒にいられるようになるのだそうです。

●浄土真宗のお説教では、「一人ではない」と如来と共なる生を告げることが多いですが、「一人でいることができる」という方向も、単独世帯化した現代では重要でしょう。「一人でいられる能力」とは、“一人でいても一人でない”といった感性のことであり、浄土真宗において「一人でいられる能力」は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」(歎異抄)と示されるように、宇宙全体の生命の中に自己を見出すというほどに力強いものがあります。そう思うと、「一人でいられる能力」が恵まれる浄土真宗こそ、今が出番といった思いを強くします。

●「ビハーラ」とは、安住・安心という意味があります。その安住・安心は、「一人でいられる能力」によって、支えられるものなのでしょう。病気の中で、悲しみの中で、怒りの中で、喜びの中で、私自身でいられる。これって、すごくシンプルなことですが、すごく大きなことでもあります。「がん患者・家族語らいの会」の語り合いは、この「一人でいられる能力」と出遇う場だともいえそうです。(
西原)



2014年6月

【編集後記】『在家仏教』(2014.5月号)に、新田智通さんが『宗教と心理学―心をめぐる異なる立場』という題で執筆されていました。


(心理学では)スピリチュアルーケアの文脈においては、ありのままの自分を肯定すべきことが強調されるのに対し、伝統的な諸宗教においては、むしろ自己否定か教義の核心に必須の要件として据えられているという点にある。(中略)、やはり宗教と心理学の間には、決して表面的な次元に留まらない隔たりが存在するように思われる。(中略)心理学的セラピーによって、人々が目の前の具体的な心の悩みから「癒され」得ることは確かであろうし、そうしたセラピーに宗教的修行法の知見が役立ち得ることも否定はできない。しかし、もしいま、宗教そのものが「心理学化」され、心理学と等値されるような事態へと進んでいるとするならば、それは果たして、宗教の時代に則した建設的な展開であるのか、それとも宗教の本義の喪失につながる事柄なのか、慎重に検討する必要があるのではないだろうか。(以上)

 記事を読みながら、心理学の限界と、宗教の限界を想いました。宗教の限界の一つに、一宗教が公けな場所で不特定多数の人に対して、その宗教の教えを用いて関わることができないことが挙げられます。かつて私は「構造的な部分に介入して苦しみを解決する方法は、仏教や浄土真宗の分野です。この構造的問題解決を言葉にすれば、終末期に生ずる苦しみを通して、自己の不完全さや煩悩の渦の中にある私が明らかになり、自分に見切りをつけるというものです。終末期への仏教者の関わりは、この構造的な問題解決への関心です。構造的な部分へ関心をもつのは、仏教者だからではなく、スピリチャアル・ペインは、対処療法では解決できないという思いがあるからです。 浄土真宗のビハーラが取り組む方向は、この苦しみの構造的な部分の解決への取り組みです。」と書いたことがあります。浄土真宗という考え方は、一宗派の考えではなく、人類にとって「苦しみからの解放」という普遍的な存在価値があると考えています。この“普遍的な存在価値”に見合った表現方法があるのだと思われますが、それが現実の社会の中で、はたして可能なのか。悩むところです。(西原)



204年5月

【編集後記】人間が生まれることを誕生といいます。他の生物は誕生ではなく、「生まれる」です。誕生の誕は「言」編がついているので、人間だけが言葉の世界へ生まれるのでしょう。

日本新聞協会は、春の新聞週間を前に、読んで幸せな気分になった新聞記事へハッピーニュース賞として表彰しています。
2013入賞作品に「ぼくの言葉 届いた」という新聞記事があります。北日本新聞 2013/3/17の記事です。

●中島さんは、北海道大の2年生であった11年前、サッカーサークルの練習中に心臓発作を起こし、心肺停止状態となった。一命をとりとめたが脳は大きなダメージを受け「遷延性意識障害」という回復不能といわれていたまったく意思疎通ができない重度の意識障害となります。
 医師から回復の見込みはないと告げられても、決して希望をあきらめなかった両親が、国学院大の柴田保之教授(障害児教育学)と出会い、様々な手法をつかって重度障碍児の言葉を引き出してきた教授を自宅に招いた。新聞から引用してみましょう。

●ことし1月、中島さんの元を訪れた柴田教授は、筋肉のわずかな動きを拾う特殊な器具を取り出した。
50音を読み上げる音声を聴かせ、思いえがいた文字のところで反応する中島さんの力を感じ取る。パソコンの画面には、中島さんが選んだ文字が次々に表示されていった。「どうしてわかるんですか ゆめのようです なつかしいです はなせたころのことが」

●両親や友人の介助があれば、ペンで文字を書くことができることも分かった。
11年もの間、閉ざされていた中島さんの言葉が、一気にあふれだした。「かあさん こばなれさせずにごめんね」。
●「これまで何を考えてきたの」と両親が耳もとで話しかけると、●つらかった でも ぜつぼうではなかった いつか だれかがきづいてくれるとしんじていたから●そして最後に中島さんの言葉です。●ぼくのようなじょうたいでも いきるいみがある いのちをたいせつさをうったえることが ぼくのしめいです(以上)

“こんなことってあるんだ”と記事を読みました。まさに言葉のない世界から、言葉の世界へ。苦しみや悲しみが言葉となる。当会は、苦しみや悲しみが言葉になることを大切にして集いを開催しています。(西原)




2014年4月
【編集後記】『読売新聞』(26.3.5)に『ダウン症に理解を深めて』という記事で、“321日は国連が定めた「世界ダウン症の日」、そして3月は(財)日本ダウン症協会:JDSが定めた「ダウン症啓発月間」です”という記事がりました。その記事の中に、「大村さんは、07年8月に生まれた第3子(6)がダウン症と診断された。当初は事実を受け入れられなかったが、アメリカの母親が書いた“天国特別な子ども”という詩に出会った。子どもの生涯が幸せなものとなるよう、神様がすばらしい両親を探すという内容に、前向きな気持ちに変わっていったという」という内容がありました。この記事は、「マザーリングラボ」のホームページに紹介されている文章で、そのホームページの中のパンフレットに、上記の“天国特別な子ども”が掲載されています。そのパンフレットからの転載です。

●「天国の特別な子ども」会議が開かれました。地球からはるか遠くで。
/「また次の赤ちゃん誕生の時間ですよ」天においでになる神様に向かって天使たちはいいました。/「この子は特別な赤ちゃんで、たくさんの愛情が必要でしょう。/この子の成長はとてもゆっくりにみえるかもしれません。もしかして、一人前になれないかもしれません。/だから、この子は下界で出会う人々に特に気をつけてもらわなければならないのです。/この子の生涯が幸せなものとなるように、どうぞ神様この子のためにすばらしい両親をさがしてあげてください。/神様のための特別な任務を引き受けてくれるような両親を。/その二人はすぐには気がつかないかもしれません。彼らの二人が自分たちに求められている特別な役割を。/けれども、天から授けられたこの子によってますます強い信仰と豊かな愛を抱くようになることでしょう。/やがて、二人は自分たちに与えられた特別の神の思し召しをさとるようになるでしょう。/神からおくられたこの子を育てることによって。/柔和でおだやかなこの尊い授かりものこそ天から授かった特別な子どもなのです」Edna Massimilla作大江裕子訳

●この詩に勇気づけられた多くの人たちのことが思われます。私は今、詩の中の“この子”を“苦悩”と読み替えたいと思います。「生みの苦しみ」という言葉がありますが、苦悩によって開かれていく世界がある。ビハーラは、そのための場所と人間関係と考えた方を大切にします。


2014年3月

【編集後記】錬金術(れんきんじゅつ)。最も狭義には、化学的手段を用いて碑金属を貴金属に精錬しようとする試みのことです。これは西洋の話かと思っていましたが、親鸞聖人も『 唯信鈔文意』に、“「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかはらといふ。「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」は。「瓦」はかはらといふ。「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり”とあり、錬金(変成金について述懐されておられます。

●ユングも錬金術に触れています。放送大学でユングの心理学を聴きながら心理学も捨てたものではないと思いました。以前から私は、“苦しみを減らすという考えは、何を苦しみとするかという私の価値観の変容はないので、深みがない”と思っていました。放送大学で大山泰宏氏(人格心理学)の、ユングの錬金術の話を聴きながら、同感するところがありました。いわく、「異質なモノとの出会いと言うものが変容へと導くというテーマは、……自分自身のとって異質なものを排除したり克服したりするとき、自分自身のあり方は基本的には変わりません。元の自分と言うものがますます強固となっていくだけのことです。どうしても意味づけられないものを排除したり克服したりできず壊れてこそ新しい変容への可能性というものが開けてくるのです。」とのことです。異質的なもの(苦しみなど)によって、新しい自己変容をもたらされるという考えに共感します。

●改めて
親鸞聖人の言葉を見ると「つぶてをこがねにかへなさしめん」とあり、阿弥陀如来によって、そうなさしめられるという言葉づかいです。浄土真宗では「変成金」は、“念仏を称えん者になさしめられる”ということでしょう。念仏を称えることが如来の願いと働きであると受け入れることは、同時に“わが身は、仏とは無縁の存在であるという”自己存在の闇への洞察がともなっています。この他力念仏によってもたらされる洞察を、ビハーラケアの中で、どう展開されていくのか。これが私にとって、ビハーラのこれからの課題です。

(西原)



2014年2月

【編集後記】
●村田久行著(京都ノートルダム女学院特任教授)『援助者の援助―支持的スパービジョンの理論と実際』に“キュア(cure)とケア(care) 一対人援助への2つのアプローチ”について、次のようにありました。

●「このように、苦しみというものがそのひとの投げ込まれた客観的な状況況と、その想い・願い・価値観との「ズレ」から生み出されているのであるなら、「援助」とは、この「ズレ」を小さくすることではないだろうか、そしてそれには苦しみの構造の解明から、キュア(治療)とケアという2つの援助へのアプローチが存在することに気がつくのである。それは①患者の客観的な状況を変化させ、それを主観的な想い・願い・価値観に合致させる「キュア(治療)」という援助と、②もはや客観的状況を好転させることが不可能な場合、キュアとは逆に、患者自身の主観的な想い・願い・価値観がその客観的状況に沿うように変わるのを支える「ケア」という援助である。(以上)

●苦しみを“客観的な状況と、“その想い・願い・価値観との「ズレ」”とすることは、理療を目的とする医療者としては当然だと思われます。しかし仏教では苦しみを主観と客観との差ではなく「渇愛(かつあい)」であると説かれています。

●「
渇愛から憂いが生まれ/渇愛から恐れが生まれる/渇愛から離れた人には憂いがない /どうして恐れがあろうか」(ダンマパダ 216)

●渇愛が苦しみの元凶であるとすれば、「楽」も苦しみの範疇のもで、『涅槃経』では大楽を「断諸楽」とし、苦楽を超えたところの平安を見ています。

●苦しみを“その想い・願い・価値観との「ズレ」”によるとするか“渇愛”とするかの二者の相違は、ケアの内容も違ってくるのだと思われます。前者目指すべきものは“想い・願い・価値観の変容”であり、後者は苦しみの元凶である自己の愚かさが明らかになることです。愚が明らかになり愚に徹することは、それはそのまま、あるがままの世界にゆだねることでもあります。

●ビハーラとは、苦しみを縁として“愚”という自己の闇が明らかになっていくことを大切にしていく活動だとすると、まさに浄土真宗そのものの活動です。

(西原)