がん患者・家族語らいの会 通信 編集後記


08(20)年

2010.12


【編集後記】●読売朝刊(11.6)「くらし・家庭」欄に興味のある記事が出ていました。タイトルは、“親の自己肯定感取り戻すー「怒り」の裏 「悲しみ」気づくー」とあります。大阪市に住む女性(28)は、母親に「産まなければよかった」「消えてしまえ」と言われて育った。16歳で家出し、22歳で結婚、出産。夫は育児を手伝わず、職を転々とした。女性は夜、居酒屋などで働いた。寝不足が続き、長男が「抱っこ」とまとわりつくと、カツとなってどなり、たたき虐待が多くなる。長男が2歳の時に離婚。その後も手を上げた。自己嫌悪と体調不良が続き、昨年、乳がんが見つかり、長男は児童養護施設に預けた。そして相談所から、虐待をやめ、心の回復を図るプログラムを受けるよう勧められる。そして民間団体の講習会を受講した。その講習会で女性は、自分の子どもの頃までさかのぼって話をした。黙って聞いてもらうのは初めての経験だったそうです。そのうち、母親に抱いていた怒りの裏側に、「私のことを大切って言って」と叫んでいる自分がいると気づくのです。「凝り固まった気持ちが、涙とともに解きほぐされていく気がした」とありました。

● “母親に抱いていた怒りの裏側に、「私のことを大切って言って」と叫んでいる自分がいると気づく”。苦悩の解決には、“克服”と“解放”があるようです。

●克服とは、異分子(マイナス)を克服しなくすことです。怒りであれば怒りを鎮めることです。解放とは、異分子というレッテルを取りさってより広い次元に心を解き放つことです。怒りを克服して平安になるのではなく、怒りのただ中で、その感情の裏側にある本当の気持ちに思いが至る。そのとき怒りの感情から解放されるようです。

●老齢者のケアも同じです。お年寄りの「生きていてもしょうがない」という叫びは「生きがいを見つけたい」という願いであり、「もうなんの役にも立たなくなった」という愚痴は「価値ある存在と認められたい」という思いであり、「死後への不安」は、「展望をもちたい・依りどこらがほしい」という気持ちの表現であるとテキストにありました。自分でも気づかない心の声に耳を傾けていく。そのためには、ありのままの自分を受け入れてくれる場所や考え方が不可欠です。ビハーラの目指す方向は“解放”です。
(西原)



2010.10

民主党の代表選が終わった。一部報道に、民主党は「目に見えにくく評価されにくい構造的な問題への取り組みが弱い」とあった。話しは政治とは無関係だが、がん疾患による終末期の苦しみへの対応、特にスピリチャアル・ペイン(実存的苦しみ)に対しても、対処療法と構造的な問題の解決との2面がある。いま医療界で実施されているのは、対処療法的な取り組みです。簡単な言葉でいえば「痛みを和らげる」となります。この痛みを和らげるという考え方は、これが苦しみという主観や苦しみの根本的な原因はそのままにして、苦しみが起きている、その起きている目に見える痛みのレベルを下げていく考え方です。 構造的な問題解決とは、苦しみを和らげるのではなく、これが苦しみであるとする、主観そのものに手を加えて苦しみを解決することです。

●スピリチャアル・ペインの対処療法の代表格が、村田理論です。村田理論とは、対人援助論を研究する村田久行さん(京都ノートルダム女子大学教授)が提示した理論で、3つの柱(時間、関係、自律)が安定しているとき、その人の存在(心)も安定するというものです。 3つの柱(時間、関係、自律)とは、将来の希望、自分を支えてくれる大切な関係、自分の自己決定できる自由があるとき、人の存在は安定しているというもので、終末期に至って3つの支えのうちの不足している部分を補ったり、3つの中の他の部分を、大きくしたりして苦しみを和らげるという考え方です。

構造的な部分に介入して苦しみを解決する方法は、仏教や浄土真宗の分野なのですが、実践的には、たまたまそうなる程度で、体系的、法則的な実践体系までは成熟していません。この構造的問題解決を言葉にすれば、終末期に生ずる苦しみを通して、自己の不完全さや煩悩の渦の中にある私が明らかになり、自分への固執に見切りをつけるというものです。 終末期への仏教者の関わりは、この構造的な問題解決への関心です。構造的な部分へ関心をもつのは、仏教者だからではなく、スピリチャアル・ペインは、対処療法では解決できないという思いがあるからです。
浄土真宗のビハーラが取り組む方向は、この苦しみの構造的な部分の解決への取り組みです。 まさに仏教の王道、これからの浄土真宗の実践の課題です。(西原)



2010.8

地下鉄のつり革広告に若い美人と思われる2人の女性がアップで載っていた。雑誌の広告なのか、化粧品の広告なのかは不明でした。その現代を代表すると思われる女性の顔を見ながら「ほおー、おかめと真反対だなー」という思いがよぎった。おかめの顔は五つの精神美(五徳の美人)をあらわしていると、よく法話でお伝えすることがある。一つは、一重瞼の目、あれは半眼といい、仏様の目と同じです。半分は自身の内を見つめる内省の深さを表現しています。 二つは豊かな耳、耳は福耳といい、耳編に呈するで、「聖」と読みます。他者の苦しみに耳を傾ける姿です。三つ目は、低い鼻、「あの人は鼻が高い」。驕慢でないこと。 四つは、小さな口、慎みをあらわします。 五つに、温和な顔、穏やかな心を示しています。これが仏教で語るおかめの話です。広告に載っている写真は、二人とも目がぱっちり、鼻が高く、口は少し大きめ、耳はこじんまりのイヤリングをすると似合いそうな耳、そしてキリリとした顔だちです。

●これが現代人の美人顔だとすると、現代人の精神美の感覚は、大きな目で人の欠点を見抜き、高い鼻はしっかりとした自己主張、大きめな口で弁舌さわやかに討論に打ち勝ち、無駄のない耳で、人の話をしっかりと評価して聴き分け、相手にすきを見せることなく行動するといったところでしょうか。その5つをまとめると“自分を高く評価してもらう”といったところです。現代人の自己主張の強さは社会や他者から認めてほしいという欲望であり、この欲望は同時に“死を受け入れる”ことを難しくさせます。

●逆にいえば死について考えることは、現代の先の美人顔に象徴される精神美の物差し、すなわち世間の評価という物差しだけでいいのかを考えることでもあるようです。
(西原)



2010.6

●病気になって健康の有難さを知るということがあります。しかし健康を回復して普段の生活に戻ると、その有難いと思った感情は元の木阿弥です。その気づきが、なぜ一過性の終わってしまうのかといえば、仏教でいうところの智慧のまなざしまで到達していないからだと思います。同様に貧しさを体験的に知っている人は、あることの有難さを知ることは容易です。“ない”ことが“ある”ことを際立たせるからです。しかし豊かさの中に生まれ、豊かさのなかで過ごしている人が、恵まれていること、豊かさであることを有難いと知ることは容易ではありません。それは豊かさを有難いことであると知る精神性が問われるからです。農村地帯で暮している人は、精神的にも物質的にも先祖のお陰にどっぷりつかって生活しています。そうした状況下では先祖のお陰に感謝することは容易です。ところが現代のように、家庭生活の中で、物質的に先祖の痕跡を見出すことすら難しい状況にあると、先祖のお陰を仰ぐには、物質的なお陰に対する感謝ではなくて、先の“健康の有難さ”や“恵まれていることの有難さ”同様に深い精神性が求められます。その精神性とは、“感謝できる”そのこと自体が勝たれた心であるという考え方や価値観に開かれていることです。

●ひるがえって現代は、
「安くて便利で快適」を是とする社会です。そうした社会では、便利さのために感動を失い、手間暇に対する感謝を失い、なによりも“あって当たり前”の中に“有難い”と思う心が失われていきます。しかしそうした今だからこそ、仏教の智慧に裏打ちされた、有難いという思い、そのものが尊いものであるという考え方が輝きを増していくように思われます。この仏さまの智慧に連なった有難いと思える心が、病気のままで安心できる心境を開いてくれるのだと思います。そんな思いをもちつつビハーラ活動を続けています。当会総会も終え、いよいよ新しい年度がスタートしました。こうした紙面を通してビハーラに関わって下さっている方々によって支えられています。 (西原)




2010.4

●私事ですが1986(昭和61)年に都市開教専従員として、首都圏開教に出た。よく87年から仏教ホスピスの会を組織してがんに関わる活動を始め、その翌888月から、現在のがん患者・家族語らいの会がスタートした。牛歩のごとき活動でしたが、ちょうど10年前くらいに、浄土真宗の門信徒以外の人への新しい伝道ソフトはビハーラが大切にしている考え方だと明確に思うようになった。その考え方とは、苦しみの中でその人が質的転換を成就していき、悲しみの体験の中で、その悲しみの底に大河のごとく流れている阿弥陀仏の大悲に開かれていくというものです。そしてその頃、“ビハーラを建てよう”と呼びかけ、毎月会合を重ねた。しかしその願いも2年くらいでとん挫した。今から思うと、とん挫した一番の理由は、建設したものを継続していく情熱、またその情熱を支える考え方が明確ではなかったことだろう。それから年に一度のビハーラ講座は、ビハーラの理念をもっと明確にしようという方向で開催され、私自身のその方向で、この編集後記を書いてきた。

博報堂生活総合研究所 未来年表というものがある。各分野の情報をまとめた未来の予想年表です。その表を見ると、日本の将来が数字で示されている。2030年の人口に関するものを一部拾ってみると◎山口県の人口1207000人になる(2000年より32万人減)◎北海道の人口464万人に減少(2000年の104万人減)し、3人に1人が65歳以上になる◎九州の人口が減少率8.9%(全国平均の4倍の速度)で減少し、2005年比で約100万人すくない1223万人になる◎近畿の24県に福井県を加えた関西地域の人口1883万人(2005年比で減少率13.2%)になる◎香川県の人口87万人規模になる(2005年の国勢調査は1012400人)◎一人暮らし世帯の全世帯に占める割合が37.4%に拡大する◎東京都の45.5%が一人暮らし世帯(単独世帯)になる。という数字が並んでいる。その未来予想から見えてくるものは、日本の農村を主たる活動エリアとする真宗寺院の壊滅状態の将来だ。

●そのために為すべきことは、人口移動に伴う寺院の建設も重要だが、それ以上に現代のあるいは人間の苦しみに対応する伝道ソフトを構築し、寺院の伽藍中心の活動から人から人へという関係性の中で、ご縁を結んでいく活動だろう。私はそんな思いをもちながらビハーラに携わっています。
(西原)



2010.2月号

【編集後記】●近年テレビ番組ではクイズ番組やトーク番組がやたら多い。ある夜、トーク番組で、女性のダイエットが紹介されていた。87キロからりんごダイエットによって44キロへ、90キロが55キロへ、124キロからキロなど、面白かった。興味を引いたのは、肥満体を嫌だ(苦しみ)と思うことになったその構図です。「バイトの面接に行ったら不潔だと言われた」「病院で生理不順の原因が肥満だと言われた」など苦しみでなかった肥満が、外部の人の指摘によって苦しみとなる。苦しみは、歓迎しない状態との遭遇によって生じる場合と、すでに内包する事実に対して考え方が変わって現実が苦しみとなる場合がある。ともあれ思い通りにならないという自分の物差しが苦しみを作っていることには変わりありません。

●興味があるのは、真宗のように説教で仏さまの領域の話が持ち出される。そして今まで自己中心の生き方に疑問をもっていなかった人が、自己中心の閉ざされた価値観が嫌になる。すなわち外部からの指摘によって現実が苦しみとなるのです。その場合の
思い通りにならないことは、仏さまの香りを帯びています。すると思い通りにしたいという情念自体に、クオリテイー(質)があることになります。

●アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を
5段階の階層で理論化しています。(マズローの欲求段階説)
1.
生理的欲求生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求。2. 安全の欲求衣類・住居など、安定・安全な状態を得ようとする欲求。3. 所属と愛の欲求集団に属したい、誰かに愛されたいといった欲求。4. 承認の欲求自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める欲求。5. 自己実現の欲求自分の能力・可能性を発揮し、創作的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求。

●私はマズローの賛同者ではない。が人間の欲求はいろいろだがどのような欲求でも、その欲求の主体である私が問題となる時、そこに仏道の歩みが始まります。生に対する自分の立ち位置の揺らぎ、それはすでに仏さまの智慧が発動しているのだと思います。
(西原)


09.12

【編集後記】●当会の副会長である北村さんのお寺で、新たにご本尊をお迎えして入仏法要が勤まった。京都本願寺からご本尊がご遷座してきたと聞き、法要に先立ち仲間と拝見に行った。本願寺における本尊は本願寺のご門主からお預かりするという形式をとる。そのしるしとして絵像であれば、掛け軸の裏側に門主の裏書きがある。今回、初めて知ったことですが、仏像だと蓮台に本尊を安置する差し込みの木目の部分に「即如」という捺印があった。これはこの度、お訪ねしなければ知り得なかったことだ。

●北村副会長のお寺は都市開教寺院です。私の思いの中では、都市開教寺院にとってご本尊をお迎えする以上の慶事はない。本堂の落成慶讃法要の方が規模は大きな行事だが、本尊をお迎えすることは意味合いが違うと思う。それは首都圏における都市開教とは、混迷の現代において本尊をあきらにしていく活動だという思いがあるからだ。混迷の世とは、本尊、すなわち本当に尊いことが明らかになっていない世相です。以前、会報に掲載したことのある故川上清吉師(島根大学教授)の言葉です。
友人からの「よく金ぴかの木像など、拝めるね」という問いに対して、「うそでは、拝めない。だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。」】(以上)礼拝の対象である阿弥陀如来という本尊は同時に、私をして阿弥陀如来を礼拝させる働きそのものだということです。だから混迷の世の中で本尊が明らかになっていくことは、本尊が明らかになっていくことそのものが阿弥陀如来のはたらきでもあります。

●ビハーラもまた本尊が明らかになっていく活動であると自負している。もとより象徴としての本尊は礼拝の対象としてしかるべき場所に安置するが、病の中にあっても、死の淵にあっても、どこで何をしようと、その場所でその人の上に闇が破られ本当に尊いものが明らかになっていくということがあったとすれば、そこに礼拝するべき本尊はある。その象徴としての本堂のご本尊です。そのご本尊をお迎えするというのだから、これほどの慶事はない。
(西原)



09.10

【編集後記】●大病をして弱さを体験する。その体験を通して弱さが身についていく。大病弱さの体験やさしくなる。この構図は非常に重要な人生哲学を含んでいる。大病をして弱さを受け入れていくことは、同時にやさしさに開かれていくことでもあるということです。●拙著『光 風のごとく』から例話です。

●もう少しいっしょにいたい
/やさしいお父さん/ケロイドだらけの体をいつもさすってくれて/ありがとう。/本当に痛いんだよ。だから、/長い人生は欲しくない。/でも、/もう少しいっしょにいたい。/今が一番、幸せだから。[樺島富貴恵](四十三歳)。

お小さい時か、少女の折かに、身体中にケロイドができるほどの火傷を負われたのでしょう。それ以来、夏の半袖姿、プールに入る時、修学旅行のお風呂、いや普段の日常生活の一コマ一コマの中でケロイドは心の負担になり、人の目を気にし、冬の寒さの中、ケロイドのうずきが、その存在を常に心に焼き付けたことでしょう。自分の存在を恨み、これさえなければと思い、こんな不幸な人生は、長くは生きたくないと、なんども、なんども枕を濡らしたにちがいありません。そのケロイドがうずく時、傷を気づかう娘の姿から、お父さんが、「どれ、私がさすってあげよう」と、心の痛みを感じながらさすってくれる。「あなたの悲しみが私の悲しみ」という親の慈しみの眼差しは、「かわいそうに、かわいそうに
……」と心は涙に濡れているにちがいありません。その親の慈しみの深さが、作者に安らぎと、「今が一番、幸せ」という頷きと、「ありがとう」という感謝の言葉をもたらせたようです。

●悲しみの中で、父親のやさしさにふれ、今が一番幸せと思う。人は悲しみや苦しみの中で、ありのままの現実を肯定してくれるやさしさに触れることによって、現実を受け入れる人生観に開かれていきます。都合の悪い弱さを否定するか、ありのままの弱さを受け入れるか、その分かれ道が、ありのままの現実を肯定してくれるやさしさ出会うか否かによります。先に言う人生哲学とは、ありのままの現実を肯定してくれる優しさに出会うことによって、すべての人が、現実を受け入れる精神の領域に達することができる。これは浄土真宗の眼目でもあります。(西原)

09.8

渋谷のザミュージアムで開催されている「奇想の王国だまし絵展」が人気を博している。だまし絵とは、角度を変えて見ると絵が変化したり、見た瞬間、そこに本物があるかのように見える静物画などさまざまです。

だまし絵の代表に「老婆と貴婦人」がある。老婆だと思ってみると老婆に、貴婦人だと思って見ると貴婦人に見える絵です。だまし絵は絵の中の表の部分と影の部分がチェンジして、全く違った絵に見えることですが、私たちの生についても同じことが言えます。

●まずは
例話です。たくわん漬けは、沢庵和尚が発明したもの。このたくわんで説明すると、なぜ、沢庵和尚の手柄になったかというと、沢庵和尚が出るまでは、糠(ぬか)は漬物に使えなかった。江戸時代以前は、ご飯は玄米を食べていたので、糠は、女性のおしろいとして用いていた。それが江戸時代となり、世のなかが平和になり、中国から殻臼(からうす)が入り普及して、白米を食べるようになる。白米を食べるので糠が豊富になった三代将軍の頃、沢庵和尚が糠に大根を漬けて、それが普及したとのこと。かくて、沢庵和尚は、沢庵漬けの創始者のごとく漬物の世界で有名となるに至った。

●国民が白米を食べ糠が豊富になる。その国には漬物の歴史があり、おのずから、糠に大根を漬け、大根漬けが生まれる。これは歴史の必然です。これが影の部分です。ところが、丁度その頃、生まれ合わせ、漬物に興味がった男が、糠に大根を入れてみたら、うまい漬物ができた。これは偶然でこれが表です。

この世のなかは、必然(影)と偶然(表)の織りなす絵巻物なのだが、人は影の部分には無頓着で、偶然のできごとを自分の手柄とします。●ところがある時、老婆と見えていたものが貴婦人に見えるように、影と表の部分がチェンジすることがあります。これは表だと思っていた私の意識の部分が病気や死といった、どうにもならない現実の中で否定されたとき、容易に私の上でおこるようです。ある種の心の転換であり、大きないのちへと私が解放されることです。これを成長という言葉で言うとしたら、ビハーラは苦しみの中で成長に関心を持ちつつ共に歩む活動だと言えます。

(西原)

 




09.6

仏教で仏の教えを受ける者を「機」(き)という。機械は操作する人によって操作の通り動く。同様に仏さまの教えによって仏へと成る可能性があるからです。この機をつかった真宗学用語に「捨機即託法(しゃきそくたくほう)」とある。私を捨てることが、すなわち仏の法の働きに乗託することであり、わが身を捨てることイコール、阿弥陀如来の救われることだというのです。この考え方の基本にある破壊イコール創造の図式は真宗に限ったことではない。つねに新しいものが誕生するときは、古いものが消滅するときでもあります。この考え方のパターンは、終末期にあっては重要な意味をもっています。健康な時のわたしを支えた多くもののが失われていく。それは同時に全くそれまでと異なった質の世界に開かれていくことでもあるからです。

柳澤桂子さんは『意識の進化とDNA』(集英社文庫)などを書かれた生命科学者であり、ご自身の言葉で般若心経をかかれ話題となった方です。この柳澤桂子さんの言葉に「無限小は無限大なり」とあります。生命科学者として活躍していた柳澤さんが、難病を発病後、研究者としての再起不能となり車椅子での生活を送る。それ以来、研究者時代には無かった、見知らぬ人から声をかけられたり、親切な扱いを受けたりした。その病気の中で【ほんとに不思議なんですね。私は、その時に、「無限小は無限大なり」と思ったんです。ほんとに行き着くところまで行くと、何か大きな力が働いて、パッと無限大に開けるんですね。】(平成17130日のNHK教育テレビの「こころの時代」)と語っています。

●この
「無限小は無限大なり」と「捨機即託法(しゃきそくたくほう)」は同類のものです。浄土真宗として伝わってきた考え方は、もっともっと普遍性がある。そのことを研究する学問があってもいいと思う。そのことを実践しようとしているのがビハーラ活動です。

●4月から新しい年度となりましたが、ビハーラ活動も先細りの感があります。しかし活動の中で問題としていることは、浄土真宗の未来を切り開いていくほどの重要な問題だと理解しています。これもひとえに賛助会員等のご支援があればこその活動です。引き続きご支援をお願い申しあげます。(西原)



09.4

【編集後記】昔、こんな学習実験報告を目にしたことがあります。ネズミが台から白と黒の二枚のカードに向かってジャンプする。白いカードに向かってジャンブすると、ネズミは地に落ちる。だがもう一枚の黒いカードに向かってジャンプするとカードが倒れ、実験者がカードの後ろに置いた食べ物を得る。そうしてネズミは簡単にカードを識別することを学ぶ。カードの位置をどこに変えても、常に黒いカードに向かってジャンプすることを学習するのです。しかし問題はこれからです。第二段階として、はっきり識別できる白と黒のカードを、徐々に中間色のグレーに近づいていきます。ある時点までくると、二枚のグレーのカードは、カードの違いを識別できないほど似てきます。ネズミはどちらがどれか解らなくなるのです。この曖昧な状況のもとでは、ネズミはジャンプすることを拒み、一種の麻蜂状況、緊張した神経症的状態に陥とありました。立ち返ってもしネズミが黒いカードと白いカードを識別してジャンプするという学習をしていなかったとしたら緊張した神経症的状態という苦しみも起こらなかったはずです。

●このネズミの苦しみは学習のよって生起したといえます。ネズミ同様、このわたしたちの苦しみも多くは学習によって生起するのなのだと思います。その場合、学習したものを初期化する。苦しみの原因である自分をまっさらになることによって回避されます。これが修行にとって空を実現させようとする仏道のカテゴリーです。とこらが浄土真宗は初期化ではなく、問題としている苦しみが後天的なものではなく、生まれる前から身につけているという考え方に立ちます。その場合は苦しみの回避は、初期化ではなく、「………」によって解決されるのです。この「………」を現場においてわたしの言葉で明らかにする。これがわたしのビハーラに関して興味のある問題です。
(西原)


09・2月
【編集後記】● 茨城県南部地域にあるみやざきホスピタルでビハーラを実践されている宮崎幸枝さんが、ご著書『お浄土があってよかったねー医者は坊主でもあれー』(樹心社)を出版された。さっそく読ませていただいたが、その中に次のような文があった。【数年前のこと、[私たちもビハーラ活動をしたいと思っている]と言われて、若い僧侶三人が当法人の「ビハーラの会」を見にこられた。…三人の僧侶はそれ(法話)を聴聞され、その後の仏間での座談会にも参加された。その席では患者さん方が口々にご法話で安心させてもらっている悦びを述べておられた。阿弥陀如来が「私はどんな者をも必ずお浄土に救いとるから、安心して『お母さん』と子供が親の名を呼ぶように『なもあみだぶつ』とお念仏を称えながら生きていきなさい」と言ってくださっているという安心。この僧侶三人が最後に残された言葉は今もって忘れられない。「私たちの教義(聖道門)では、必ずお浄土に救われるから安心して生きていきなさい、とは言えません」とはっきり言われ、真宗のビハーラを羨ましそうにされたことである。まことに正直で率直な言葉に、私はよくぞおっしゃったとそのことに頭が下がった】

●私もすべての人と安心を共有できるビハーラは、浄土真宗しか実践できないと思っている。同時に浄土真宗という仏道を浄土真宗という教団の専有物にしてはならないという思いもある。社会では死に直面してもたらされる自分の不完全さや無力さには意味がないと思われている。ところが浄土真宗ではその不完全さや無力さこそ、私に大転換を呼び起こすターニングポイントであると説く。それは細胞のすみずみまでゆきわたっている自我の体質との決別の時であり、阿弥陀如来の無量のいのちに帰する時であるという。

阿弥陀如来のまなざしは、その人が、私がどのような状態であっても意味のない生はないと見てくださる。阿弥陀如来は、その願いと働きを人々の上にどう実現させるのか。その応答のパターンを苦しみ聞く現場で理解して共に歩む。ビハーラとは、阿弥陀如来の願いを苦しみの現場で聞き開いていく活動であると思っている。その活動に参加される人が少ないのは、活動者である私たちの無力に帰する。しかしここに浄土真宗の未来があると確信している。ご一緒にビハーラを考えていきませんか。(西原)