会報 ビーハラ 第25号

 浄土真宗東京ビハーラ刊

2001年11月1日号

第1項 仏教の叡智を縦軸とし カウンセリングを横軸として

   講師 大須賀発蔵先生を迎えて

原 稿

第5項 ビハーラに思う

      築地別院輪番 当会顧問

浄土真宗本願寺派がビハーラに取り組んで、15年(1987年発足)になろうとしています。
 ここ東京教区におかれましても、いち早く東京ビハーラを組織(1988年発足)し、活動を展開されていますことは築地別院としましても心強いものを感じております。
 特に「がん患者・家族語らいの集い」(1988年8月より開催)が、毎月欠かすことなく開催されておりますことは、ともすれば教義理解や言葉のやりとりのみに終始しがちな仏教界にとりまして大変意義のある実践活動であると応援しております。
 時代により国により文化の様相は違いますが、成熟した文化は弱者が存在の意味と価値を認められ、引け目なく生きられることだと思います。それは浄土真宗の本尊である阿弥陀如来の願いでもあります。築地でのがん患者を交えた集いが、強くて明く健康でという思い通りになることを唯一の幸福と考える現代にあって、より深い人として生きる指針を語り合う会として、患者や家族などの当事者を交えて実践されておりますことは、宗門の明日を思うとき、大切な意味を持っております。
 その大切な意味を列挙すれば、その第一は、苦悩する人々と共に歩むという実践活動、苦悩の現場に立った活動であるということ。二つには、特に語り合いの会において実践されている僧侶も健常者も患者も、評価することなく語り合うという形式は、全国の各寺院における話し合い活動にとっても、大切な指針となるものです。そして第三番目に、僧侶も、患者も、一般の方々も、同じ立場でボランテイアとして会を組織し活動を展開されていることは、今後の宗門の活動、また各地の寺院活動におきましても大変参考になる活動と拝察いたします。東京ビハーラのますますの充実発展をご期待申し上げます。


第7項 出会いの体験 「SK法」の学習を通して

 原 稿


第10項 ー研修会レポート 東京ビハーラ施設訪問部会ー

      新しい生き方のルールを見いだす

        ー講師に遠藤美恵子先生をお迎えしてー



老年期の精神的な成長(質的な転換)を考える


 東京ビハーラ施設訪問部会では、毎月数カ所の老人福祉施設を訪問しているが、標記のテーマで 10月4日(木)午後6時半研修会(築地別院にて)を行った。
講師に遠藤美恵子(北里大学看護学部教授)を迎え、老人施設でのビハーラ活動に、新しい示唆を与える研修会であった。

講師の遠藤美恵子先生は、マーガレット・ニューマン(USA・看護論教授)に師事し、日本におけるニューマンの考え方を継承する第一人者です。ニユーマンは、「看護とは、健康の状態にすることではなく、病気という事実を通して、その人間が成長することを援助することであり、高いレベルへの意識の拡張こそ重要である」と看護の新しい方向を見いだした方です。そのニユーマンの考えを踏襲し、実践の場で研究されている方が、この度の講師の遠藤美恵子先生です。この度その研究成果が出版され、その本をテキストとしての研修会が行われた。

「人は、苦しみの体験の中で、自分のあり様がつかめたとき、新しい生き方を見いだす。今までの自分の生き方のルールを捨て、現実の中で新しいルールを見いだす。それは人生の中で最も難しい仕事であり、それをやり遂げたときに、人はトランスフオーメ−ション(transforomation)とも呼ぶべき成長と成熟を遂げる。トランスフオーメ−ションとは、やなぎが蝶になるよな質的な転換です」(テキストより)と語るが、遠藤先生は、それを単なる理論ではなく、看護の実践の中で実証している方です。
 そのために何が必要か。先の本の中に、そのことが事例として、ふんだんに紹介されています。そうしたニユーマンの考えを取り入れ、浄土真宗の立場で、どう具体的にビハーラ実践の上で実証していくか。老人施設でのビハーラ活動に新しい方向を示唆する研修会でした。

テキスト紹介
「希望としてのがん看護」遠藤美恵子著(医学書院・価2.400円+税)
「看護論ー拡張する意識としての健康ー」
 マーガレット・ニューマン著
(医学書院・価2575


第11項 

「出合った一冊」

新装版

人は変われる

[大人のこころ]のターニングポイント

高橋和巳著

絶望することのできる人は、それを受け容れ、最後には乗り越える。

私たちは絶望を通り過ぎることによって、運命を知らなかったときよりも、ずっと主観的となる。

そして、自分を縛っていた古い客観性という解釈から解放され、自由に動きはじめる。私たちは自分を変え始める。

「あの人変わったわねぇ」「あの人は変わらないなぁ」――このような言葉を耳にするとき、私はふと疑問を出だす。「果たして、人は変わらなければいけない存在なのだろうか?」否、「変わってはいけないのであろうか?」と。

先だってのある日、友人が言った。「すごく面白い本だったわよ。読んでみない?」と。こうして手にした書のカバー・デザインの一部にあったのが、掲文である。

著者は精神科医。医師と言えばすぐれて科学者、科学者と言えばつまり物事を客観的・分析的に見ることを徹底的に訓練された存在と言えようか。しかし著者・高橋和巳氏は、我々が見失ってしまったところに焦点を当て、光を注いでいる。

現代社会はなべて、物事を客観的・科学的に思考することを善しとする風潮にある。いや、客観的・科学的でない思考は排除してあらゆることをデジタル化して視、さらには善悪・好嫌の二者択一で判断する傾向にある。しかし自然(じねん)は、人間は、それほどに客観的・科学的存在なのであろうか。思うに、人間はいわば主観的存在であるはずなのに、現代社会はそこを無視する風潮にある。ばかりか、殊更に客観的・科学的であらねばとする思考が社会を毒している気配さえある。あるいはそこが、現代人のこころをして病ませる方向に誘引しているのではないかとさえ思えてならない。

氏は、精神科臨床医としてカウンセリングに携わるなかで、こころを病んだ人々がある瞬間に大きく変化する、つまり、こころを大きく開放して安らぎを得、そして内に喜びを満たしゆく姿を目にして共に喜びながら、人間の「こころの内なる力」について考証している。

氏は言う。人には「心の内なる治癒力――変わっていくために備わっている能力」があると。深い絶望を味わったとき、こころは期せずして「変わっていくために備わっている三つの能力」を発揮し、その人をして大きく変わらしめるのだと言う。

されば三つの能力とは、

一.自分から離れることができる能力

二.絶望することができる能力

三.純粋性を感じることができる能力

 ――であると。

それにしても、人の心には絶望を癒す「内なる治癒力」が備わっているのみならず、「自分を高める力」をも持っているのだと説く高橋和巳氏の言葉には、いたく思いを致した。これは「悉有仏性(しつうぶっしょう)」そのことを言っているのであろう、と。

判 型 四六判・並製 240ページ

定 価 1200円

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会員 景方尚之


第12項 インフオメーション