清風80号(21.11.1日号)

  前号

1項 こころは変わる

ひと月ほど前、女優のSさんが覚醒剤使用についての謝罪会見を行った。
 その会見の最後に、「この罪の償いを今後どのようにして償っていくか。自分の罪を悔い改め、2度とこのような事件に手を染めることのないよう、一生の誓いとして固く心に誓います。」と述べた。

私は「固く心に誓います」という言葉が気になりメモを取りました。なぜ気になったかといえば、誓いというものは、自分以外の大いなる存在に誓ってこそ、誓いとしての意味をもつからだ。

 この「心に誓う」という言い回しはSさんに限ったことではない。自分に誓うことが、ほぼ常識になっている日本社会では、心に誓うといっても疑問に思う人はいない。
 しかし青年時代に、自分の心と格闘した人は、どれだけ自分の心があてにならないかに気付いていると思う。

 まずは禁煙”です、「正月からタバコをやめる」と決める。それが日とともに変わりゆくのがわがこころです。ダイエットだって自分に誓って達成できるのであれば楽なものです。
 A・Aという禁酒運動の団体がある。その団体ではアルコール依存症の治療のためのプログラムがあり、そのプログラムは十二のステップから成っている。そのステップに沿って、アルコールに依存しない自分になるというものです。
 その最初のステップは「自分はアルコールに対して無力であることを認める」とあります。
 「アルコールに対して無力である」の言葉のなかには、何度も何度も禁酒を誓いそれを実行しようとして、そのたびにわが心に裏切られてきた人の体験が語られています。「無力」とは、アルコールをやめたいという私の思いや決意ではだめだ。この心に頼っていてはいつまでたってもやめられるものではない、という実感があります。

 思いを貫く為には、自分の思いは環境により、身体の状態により変わる。この心は動かない強いものであるという思いを改めて、「こころは変わるものである」との事実を受け入れることが肝要です。その上で何ができるかです。
 仏道はまず仏に誓いを立てることから始まります。ところが浄土真宗では私の誓いを問題としません。私の誓いではなく阿弥陀如来の誓いを大切にします。

 私の願いや行動の一切を採用しないというのが、阿弥陀如来の人間の理解なのです。 それは不確かな心の私をも認めていこうとする考え方に立っているのです。その愚かな凡夫の私をかけがえのない存在であると慈しんで下さる阿弥陀如来こそ私の拠り所となるものです。

2項

いざ鎌倉へ
 門信徒会
  旅行記


 十月六日午前八時、昨夜から降り続く雨の中、食糧(おつまみ)、飲み物を積み込んで、いざ鎌倉へ。総勢三十二名、西方寺御一行様の出発です。
 十一時半、旧鎌倉街道沿いに建つ成福寺着、会館でご住職からお寺の縁起や鎌倉市の浄土真宗寺院の動向をお聞きした。

 鎌倉期には鎌倉の中に多くの真宗寺院があったが、戦国期に小田原の北条氏が領内の真宗寺院を禁制したため、改宗させられるか、追放され他の地へ移らざるをえず、旧鎌倉の中心地に多くあった真宗寺院は現在この成福寺だけとなったそうです。この成福寺は、親鸞聖人が鎌倉に逗留された折、開基である三代執権北条泰時の子で天台僧であった成仏が聖人の弟子となったそうです。
 成福寺の茅葺きの山門を入って、左側奥に俳優であった笠智衆さんのお墓がありました。

 昼食は鎌倉大仏前の蕎麦屋で、そばと五色豆ご飯を頂戴しました。
鎌倉大仏は、小中学生や外国の方が多く、しっとりと雨に濡れた大仏さまを礼拝して後ろ姿をパチリ(写真)。
 続いて寄った大磯の善福寺へ。文化財の阿弥陀如来像と上野の国立博物館で開催された西本願寺展にも出品された「木造伝了源坐像」(重要文化財)をまじかに拝見し、観光化されていない真宗寺院の良さを堪能しました。
 四時半、今夜の宿“箱根湯元ホテル”へ到着。入ったロビーが五階になるという、山深い箱根の渓谷に建つホテルは本館と新館の二層に分かれ、その両館の間を箱根古道(写真)が走り、親鸞聖人もこの道を通られたのかと、鎌倉の昔に思いを馳せました。

 夜の宴会は、会者のカラオケと私(住職)の即興によるサックス、西門信徒会長の住職伝授のバイオリン演奏の披露がありました。各部屋で夜遅くまで尽きぬ会話が続いたようです。
 翌朝、八時半ホテルを出発。温泉に都合四回入浴した人が一人、3回の三人。あまり皆さん温泉へ入らないというよりも、おしゃべりに夢中になって、入る暇がなかったようです。

 この日は、親鸞聖人が箱根で弟子とお別れになったご旧跡や大涌谷、ガラスの森美術館を見学し、一路柏へ、途中アルコールが利尿作用を促して臨時のトイレタイムを取りながらの帰院でした。箱根の山々の奥の深さと、その山々の峰にそって通る箱根古道が印象的でした。世話人の方々、ご苦労さまでした。(住職記)


3項 

笠智衆さんの人柄

 鎌倉にはお寺が沢山ある。しかし私が所属する浄土真数のお寺は成福寺一ヶ寺です。
 その成福寺の茅葺きの山門を入って左側奥に俳優であった笠智衆さんのお墓があります。
 山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズの御前様でも知られている。また浄土真宗本願寺派のお寺に生まれた方でもあります。
 以前読んだ本に緒形拳が晩年理想としたのが笠智衆さんで、自分が演技でなく自然に存在することで演じるということを理想としていたとあった。
 その緒形拳さんが急に笠智衆さんの家を訪ねて行く逸話がある。

オレ、10年くらい前だけれど・・生意気だったんだよな。
ライバルはどなたですか?と聞かれたことがあった。
オレは「笠智衆です」と答えた。
その後あんなことしたことないのに、オレは大船の笠さんの家を訪ねた。
 「こんにちは」
 「誰?」 娘さんが出てらした。
 「あの、笠さんにお目にかかりたいんですけれど」
 「おじいちゃん、誰か来たわよ。あなた、誰?」
 「あの、緒形拳です」
すると奥から笠さんが出て来られて『なんでしょうか?』
オレは色紙を持って「ここに何か書いてください」
笠さんは「まあ、お上がりなさい」
 「笠さん、書いてください」笠さんはすぐ書いてくれた。
それで「ハンコは」と聞かれるから「はい、出来れば押してください」
笠さんは「銀行印でもいいですか?」と言われたんだ。
その字はなんのてらいもないいい字だった。」
 (雑誌「Switch」1月号1992年)
 その色紙には「緒形さんへ 山川草木 俳優 笠智衆」とあったという。
 笠智衆さんの著書には『あるがままに』という書物があるが、ご自身の中に山川草木と同じ大自然を感じ、たんたんと生きていかれた方のようです。

4項 
この人

  端 武義さん
ー柏市増尾在住ー

端さんは、昭和8年9月3日福井県坂井市(旧春江町)に稲作を主とする農村地帯に誕生されました。そうした環境もあって東京農大で酪農を学ばれ、卒業後、同大学、また長野県にある八ヶ岳中央実践大学校で十五年教鞭をとられ、今でも八ヶ岳中央実践大学校のOB会の会長を務められているそうです。
 千鳥ヶ淵法要の合間にお聞きしました。

 私の生家の仏壇には、五百数十年前に執筆された蓮如上人の名号が安置されています。他にも一幅の蓮如上人のご真筆名号があり、五十年ごとに京都で表装し直しています。
 大学を離れてからは、JAに勤務して神戸、鹿児島、佐賀、東京都と転勤し、昭和五十二年より現在の地に定住しました。定年になってからも七十六歳になる最近まで農業関係の仕事のお手伝いをしていました。しかし最近は特に書道に打ち込んでいます。今度の柏市の展覧会では書いたものを表装して数点展示します。また親鸞聖人の関東のご旧跡めぐりや、築地本願寺の仏教壮年会の活動など実り多い毎日を送っています。

 端さんは当寺門信徒会の世話人を設立当時から務めて頂いていますが、築地本願寺の仏壮でも副会長(二期目)としてご活躍です。長年実施されてきた親鸞聖人ご旧跡めぐりでは、こと細かく立案してお世話を頂いてきました。バスから見える農業地帯の風景にたいして、含蓄のある知識を楽しくご披露いただいたことも、話をお聞きして、この方面の専門家だからさもありなんとお思ったことです。
 ご趣味は、子どものころから親しんでいる俳句と
ゴルフ、書道、ご旧跡めぐりなど、ご多繁な日々を過ごしておられる。