前号

清風78号 (21.9.1発行)

1項 そのままこい

現在、官房長官のでる河村建夫議員の母親は、キリスト教から浄土真宗へと転宗した河村とし子さんという方で、僧侶であれば9割はしっているという方です。著書も多く、自分が念仏者となるキーワードの役を果たした義母の話がその中心です。

『み仏様との日暮らしを』(樹心社刊)の中に、河村建夫議員が高校生であった時、おばあちゃんとのやり取りが掲載されている。

 「こないだあなた、私は、これがおしまいじゃろという大病をいたしました。さいわいだんだん治りまして、家族の者も、つきっきりでなくてもいいようになりまして、或る日曜日であります。
とし子さんも定一も出払うて、高等学校にいっとりました、孫の建ちゃんちゅうのが、私の番かたがたでござんしたろう、おりました。日曜日であります。
 わたしゃ、かねて狙うておりましたので、今日一つやってやろうと思うて、
 『建ちゃんや、お婆ちゃんの言うこと間いてくれんか』
 『聞いてあげるよ、何するんかね』
 わたしは、お内仏の隣の部屋に休んでおりました。
 『建ちゃん、あのな、あんたが見えちゃいけんから、お内仏の前、間の襖(ふすま)、この襖を閉めて、お内仏の前に行ってなあ、お婆ちゃんの方に向いて座ってねえ。お婆ちゃんに聞こえるような、大きな声言うてもらいたい』
 『何ちゅうてな』
 『あのな。“フデや、そのまま来いよ、待っておるぞ、まちがわさんぞ”て、言うておくれえな』
高等学校の子供なんちゅうものは、そういうものは嫌いなもんでございますが、建ちゃん、
 『うん、言うたげるよ』
 ちゅうことです。こりゃ良かった、と思いました。それから襖を閉めて、向うに行きましたので、わたしゃ、布団の中で、手を合わせて、今か、今かと待っとりましたら、聞こえて来ました。
 それは建ちゃんの声ではありませんでした。
 フデや、そのまま来いよ、待っておるぞ、まちがわさんぞ。
 何という、ありかたい呼び声でありましょうか。私は涙を流して、いっとき布団の中で泣きました。私は、あれからありがとうなりました」(以上)

文中の建ちゃんが現河村建夫氏です。
 浄土真宗の念仏は、阿弥陀如来の「そのままこい」との呼び声です。 
 河村健夫氏は現職にもかかわらず、ひとりで築地本願寺へ参拝にこられるときがある。ここに祖母からのお育てがある。

2項 ぬくもりの中で

 「西原さん、このあいだ墓前読経へ出勤してびっくりした。墓碑に“パパ”と刻まれていた」。友人のKさんの話でした。墓地が先祖を偲ぶ場所から、亡き故人(個人)との交わりをもつ場となっています。これは、ここ15年ほどの間に急激に変化したことです。

 個人の感情や欲望を重視する傾向は、自己決定の尊重の流れだが、このことによって何が失われていくのかを考える時が来ているようです。

 自己決定の尊重は、その人の決定を大切にしていく考えで、「おれビール」「おれ焼酎」「わたしお酒」と、みんなバラバラになるという弊害があります。現在は、日本が今だかつて経験したことのない孤独を体験しているようです。
 自死や若者の暴発、たこの糸が切れたような不安定な世相と個人のバラバラ感からくる不安が生み出したもののようにも思われます。

ところが、お経(仏説無量寿経)の中に「独生・独去・独来」(ひとり生まれ、ひとり去り、ひとり来たる)とある。所詮、人は孤独だとあります。
 阿弥陀経にも「青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光」(浄土の池に咲く蓮花は、青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光が輝いている)とある。みんな違う輝きをもっていて、違うままに光っていこうとあります。
 社会を不安におとしいれる孤独感は、孤立感であり、仏教の語る独生は、ひとりにして尊しという価値観に裏打ちされた孤独です。その違いは、大きないのちとのつながりです。

 歌手の布施明さんの「この手のひらほどの倖せ」(文芸春秋刊)が話題となっています。
 本のおびふには「父母は亡く、たった一人の祖父にも先立たれた幼い兄弟がであったささやかな倖せ」とあります。
 東京オリンピックの数年前、集団就職も始まり、五輪景気の出稼ぎが盛んになり、六〇年安保から所得倍増計画に浮かれ、日本が高度経済成長を疑わなかった時代を何とか生き抜こうとした幼い兄弟の話と布施さんは記しています。
 弟は最後に兄を失い一人になる。でも時代のぬくもりや人のぬくもりがあるので一人になった弟に孤立感はありません。ぬくもりや優しさが空気のように 兄弟をとりまいています。
大きないのちの中にある私。これが仏教の語る「ひとりにして尊し」です。 


3項

この人
  藤倉真人―柏市中原在住―

 中原の木立に、涼風がそよぐ盛夏のある日、ご自宅を訪ねました。

 お生まれは富山市神通町、お父上の勤務で金沢で育ったそうです。金沢以後のことを語ってもらいました。

 金沢では市内に乗敬寺(大派)という寺があり、そのお寺のご子息が同じ高校の陸上部に籍を置く友人で、高校の3年間はそのお寺で寝起きして学校に通いました。法要があると休憩時間に、竹の棒の先にザルをつけたもので賽銭を集める、それが宿泊の宿賃の代わりでした。
 妻と結婚してからは、北海道、新潟、仙台と転勤して、柏市へは昭和三十九年、東京オリンピックの年に越してきました。
 西方寺さんとは、布教所の千代田町にある時からご縁を頂いています。昨年から、老化で危ないからと、家族に車の運転を止められて、お寺の法話会へは歩いて通っています。

 藤倉さんは、平成八年から門信徒会の世話人を、平成十六年度より総代を務めていただいています。
 ご趣味は短歌で、毎日、日記帳に数首したため、お訪ねした折、月刊「暦」(こよみ)三村純也選、七月号に特選で掲載された歌を見せていただきました。

竹皮を脱がざるままに天を突く

 歌は青年時代からたしなみ、本格的な師について学び始めたのは柏市に来てからだと言われます。娘さん家族との二世帯住宅に住み、最近は孫も大きくなって、一緒に過ごす時間が少なくなったと、奥さまがおっしゃっておられました。

4項

住職雑感

● 読売夕刊(八月七日)に伊藤忠商事会長である丹羽宇一郎さんの紹介記事が掲載されていた。「仏様が見てござる」というハガキより大きな拓本が目に飛び込んでくる体裁であった。
「正直は一生の宝」という見出しがついていて、正直な経営で救われたという内容であった。その記事によると【正直さにこだわるのは、祖父母と両親の影響だ。信仰にあつい祖父母の口癖は、「いつも仏様が見ている。ウソをついてはいけない」だった。】とある。

伊藤忠や丸紅の初代の創業者は、篤信の近江商人(近江の真宗門徒)であった伊藤忠兵衛さんです。
 以前、産経新聞に「われ官を恃まず」という連載で紹介されていた。伊藤忠兵衛氏は、米国向け直貿易のパイオニアで、常日頃語っていた言葉が新聞に掲載されていた。

「事業や財産の興廃存滅は意とするに足らぬ。理由のあることで仕事を潰しても文句は言わぬが、お前たちには信仰のある(中略)…他力安心の家庭に育っただけに、他の全てを失っても、本当の念仏の味、有り難さだけは忘れてくれるな。仕事も生活もそれに乗せてくれ」。商売は菩薩の行と事業を興したとあった。

 現台の企業経営では、創業者のスピリッツが社是として貫いている会社はなくなってきている。正直でも、手腕でも、手堅くでもよいのだが、その経営者の個人プレーで、その人が去れば、それまでといった社風のようです。