親鸞聖人のみあとを訪ねて

平成23129日 天気 
東京教区 千葉組 西方寺門徒 西久昭

10区レポート(箱根湯本から箱根駅伝ミュジアムまで)


10区のコースは、箱根登山鉄道箱根湯本駅を出発し、畑宿、笈の平、甘酒茶屋、萬福寺を経由して箱根駅伝ミュジアムまでの13.4Kmを旧街道利用による石畳の登り坂コースです。

西方寺住職を含め28人を二班に分けて、定刻の9時にスタート、早川に架る三枚橋を渡りコンビニでお茶等を仕入れて一路坂道を登り始める。早川のきれいな流れを眺めて皆様の顔もほころんで居ました。

途中、江戸幕府が江戸から京都まで一里ごとに旅人の目安として一里塚を建てた、日本橋から22番目の一里塚を発見、ホテルや温泉湯治用の宿屋の多さに流石は箱根と感心すると同時に、こんなに多くて経営が成り立つのかなと余計な心配でした。


葛原坂を上り、須雲川自然探勝歩道で小休止して、箱根大天狗神社なる大鳥居を見つつさしかかった坂道が、箱根の難所の一つであり、急な坂道が長く、馬に乗った婦人がこの付近で落馬して死んでしまった事から「女転し坂」と言われるようになったと看板にありました。

米国初代総領事のハリス、明治天皇にゆかりの畑宿を過ぎ、江戸幕府により1680年に街道に石が敷かれた石畳の坂道や階段の連続で「橿の木坂」「猿滑坂」「追込坂」と坂が続き、看板に「道中一番の難所でカシノキの坂をこゆれば

くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」とありました。我々は、涙はこぼれませんでしたが、背中は汗でびっしょり、皆様の顔は厳しく引き締まっている感じでしたが、親鸞聖人様が笈を下して門弟の性信房に「関東をまとめるべく留まるように」と諭された笈の平では、感慨深げに見ておられました。


~親鸞聖人のみあとを訪ねて~

 

手記と歩行者 塘 幸生

10区 23年1月29日()、天気 晴れ

箱根湯本から箱根駅伝ミュジアム(芦ノ湖湖畔)まで

 

この10区は当初、出発地点は小田原発となっていましたが、下見された方のご配慮により4.7キロ短縮して箱根湯本発の13.4キロのコ-スになりました。険しい難コ-スなので、短くなって大変たすかりました。

参加者29名(鎌倉組16名、千葉組5名、栃木北組3名、茨城東組3名、静岡組2名)と東京教務所の2人が、二班に分かれて、うれしい事にまたまた~

大好きな・のぼり旗・担当にさせていただき、9時に出発しました。

13分後には、コンビニで飲み物や弁当等を調達して、いよいよ待ちに待った箱根への登山です。

途中、一里塚『江戸幕府が1604年江戸→京都間に一里ごとに旅人の目印として街道の両側に盛土をし、その上に通常 (えのき)をうえた。この塚は日本橋より22番目にある。』一里(3.952)を通り、葛原坂をかけ上り、須雲川自然探勝歩道入口で小休止して、女転し坂~割石坂~箱根旧街道~旧茗荷屋庭園を通過し、11時に畑宿の茶屋で休憩しました。

17分休憩し、「石畳特別保存地区」の石畳の坂道を歩きました。

「これより1.2キロの間七曲り、のぼり勾配10.1%」の看板どおり、ショ-トカットしての急な階段を一歩ずつ上りましたが、かなりバテ・バテしました。

ただ、きつくとも念仏を称えながらの坂道は、ご恩報謝の坂でした。

 そして、「橿の木坂」・看板の「東海道名所日記」には、『険しきこと道中一番の難所なり、おとこ、かくぞよみける』「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と書かれている。よくぞここまで越えた。


 旧街道甘酒橋から猿滑坂~追込坂を経て12時に「親鸞聖人と笈の平」に到着・東国での教化を終えての岐路、四人の弟子と聖人が険しい箱根路を上ってこの地に来たとき聖人は弟子の性信房と連位房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御坊が立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられる。

 そして、1215分に昼食休憩所の「甘酒茶屋」に到着し、甘酒と餅を食べて、1315分集合し記念集合写真を撮って20分に出発した。

 雪の砂利道から石畳の箱根旧街道を進み、14時の権現坂で芦ノ湖が目前にひろがり箱根山に来たという旅の実感が身体に伝わってくるところです。

 杉並木歩道橋を渡って、旧東海道の杉並木街道を悠々と進み、賽ノ河原の脇を通り1440分に萬福寺(真宗大谷派)に到着、住職から40分ほど親鸞聖人と箱根について拝聴し、今日の終着地の箱根駅伝ミュジアムに1540分に無事ゴ-ルさせてもらいました。

 この夜は、箱根のペンションに宿泊し、西方寺の西さん、茨城東組のIさんYさんの4人で、門徒推進員としてのそれぞれの思いを話しました。

支えあう御同朋と過した夜は、心身ともに熱くなりました。

レポート 西原 祐治

親鸞聖人のみあとを訪ねてー茨城・稲田~京都・本願寺―も10回目となるという。昨日(23.1.29)、箱根湯本から芦ノ湖まで歩いてきました。12.3キロで実動4時間なので、険しい坂道の古道は息が上がったが、全体としては短い距離でした。

旅のレポートは一緒に行った当寺スタッフがしてくれるので、感じたことだけを書きます。

 強く感じたことは、上山開始より3時間、箱根旧街道の西海子坂、猿滑り坂という難所を越えたところに、笈(おい)の平という平坦な場所があります。ここが聖人と見送りをしてくれた性信房との別れの場所です。古くは大平と呼ばれていたようですが、聖人一行が、ここに背負っていた笈を下ろしたというので、笈の平の名がついています。

強く感じたのは、性信が、別れの場所である笈の平にさしかかる道行きを、どんな気持ちで上っていたかということです。もう少し行くと大平に着く。そこは聖人との別れの場所、いよいよ別れの時が近づいてきた。聖人にであってからのこと,念仏との出合い、さまざまなことがよぎります。おそらく、溢れるばかりの涙をこらえ、汗をぬぐうふりをして涙を拭いたに違いない。

その性信の心持ちが想像でき、その聖人と性信が歩いた同じ道を歩きながら、盛んに念仏を称え、目頭が熱くなりました。すこし、そのあたりを描写してみましょう。


おそらく親鸞聖人63歳の頃、小田原宿に一泊して、そして箱根を上ったのではないかと思われます。小田原から芦ノ湖箱根神社まで現在のルートで21キロ、5時間の行程です。
(小田原~箱根湯本間1時間、湯本~笈の平間3時間、笈の平~箱根神社1時間)

『御伝鈔』(後4段)に「ある日晩陰におよんで箱根の嶮阻(けんそ)かかりつつ、はるかに行客の蹤(あと)を送りて、やうやく人屋の枢(とぼそ・戸)にちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。」とあります。

伝承では8月16日のことあり、『御伝鈔』に芦ノ湖到着時「夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。」とあります。これはだいぶ大げさで、箱根の山道を夜歩くことは考えにくいことです。しかし夕方にはなっていただろうと想像します。湯本~笈の平間が、この度、一部古道を歩いて3時間の道のりが、峰と谷の往復の道のりで道も険しく8時間くらい要したのではないかと思われます。

おそらく湯本まで複数の門弟が見送りに来たのではないでしょうか。聖人は「これから険路に向かいます。見送りありがとう」と門弟を返したが、弟子の性信坊はとどまろうとしません。「お師匠様、私もご一緒することをお許しください」と強硬についていこうとします。

 『箱根神社大系』の中に「相州箱根山安置親鸞聖人木像略縁起」が収録されており、次の記述(一部)があります。
  「文暦元年八月十六目、相模の国・国府津の里を発せられ京師に おもむき、箱根の険阻にかかりた もう。遠近の道俗はせ集まり我も 我もと御名残を惜しみ、今世の拝 顔いまを限りと老若男女御衣の袖 にすがり、悲泣雨涙のありさま、 聖人も点山かたく思し召し、『恋し くば 南無阿弥陀仏ととなふべし 我も六字の道にこそすめ』と一首 の歌を詠じたまふとかや」とあります。


性信はさらに別れが辛く大平(笈の平)までと聖人を困らせます。大平はぎりぎり、日のある内に引き返せる場所です。「しかたない。大平平までですよ」と念を押されて険しい山道を行きます。
性信房は、大平が近づいてくる道すがら、別れの時は近いと涙があふれてきます。聖人との邂逅、念仏との出遇い、溢れる涙をいとわず険しい道を進みます。

大平につくと、聖人は「ここで一休みしましょう」と笈をおろして休みます。そして聖人は「性信坊どの、いろいろとありがとう」と別れを告げます。性信は感きわまって「聖人さまー。私は京のみやこまでお見送りしする」と、流れ続ける涙を流しながら訴え、引き返そうとしません。

聖人はさとすように『病む子をば 預けて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ』と詠み、性信に言葉をかけます。

「悩む子とは、この親鸞であり性信殿であり、一切のご同朋のことにございます。皆共に阿弥陀さまよりお預かりしているご門徒、別れは辛いことですが、どうぞ念仏を申して下さい。念仏申すところに、この親鸞はおります」

それでも性信は別れがたく、「きっと、きっと上洛して、ご目にかかりとうございます」といえば、聖人は頷きながら「さあ、山をお下りなさい。日がくれまする」という。性信は泣きながら念仏を称え、山を下ります。(以上)

そんなことを回想しながらの笈の平でした。