清風(せいふう)65号07.5月号

前号

1項

わかっちゃいるけど 住職 西原祐治

植木等さんが逝去されました。その日の午前中、ある雑誌に連載されているー植木等伝―わかっちゃいるけどやまられないーを読んでいました。

 浄土真宗の寺の住職を父に持つ植木等は、音楽の歌い手になる決意を父に伝えます。「坊主は死んだら人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。僕は生きた人間を楽しませたいから芸能界へ入る」。それを聞いた父親から「生意気なこと言うな、馬鹿野郎」とげんこつをもらったという。そんな記事を読んだ夕方の報道でした。

植木等の父徹誠のことは「夢を食いつづけた男」(朝日文庫)に植木等自身が書いています。
 歌手となって「スーダラ節」の楽譜を渡された時に「こんなくだらない歌はイヤだ。これを歌うと人生が変わってしまう」と悩んだとき、父親に相談すると「わかっちゃいるけどやめられない」の歌詞は親鸞聖人の精神に通じると諭され、歌うことを決意したという話は有名です。

 親鸞聖人は「わかっちゃいるけどやめられない」という凡夫の心を、“「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、”と述懐されています。

 ある日、父親から「おい等、ちょっと本堂に来い」と本堂へ連れて行かれ、物差しで木造の本尊をコツコツとたたいて「これは木を彫刻して金粉を振りかけてあるだけ物や、本来、こうした物を拝むのは偶像崇拝といって好ましいことではないが、何かを祈り、念じる時には、目の前に対象物がないと頼りないものだから、便宜上、ここにこうした物が置いてある」と言われたという。この話は、講演会で直接聞きました。

 さて「わかっちゃいるけどやめられない」だけでは仏教になりません。何が足りないのかといえば痛みや懺悔です。痛みや懺悔がないということは、自己を超えたものとの出会いがないということです。真宗的に言えば救われねばならない存在として阿弥陀如来と共に生きるという視座がないのです。自身の愚かさが明らかになると、自然と頭が下がります。これが合掌の心であり、合掌の心のない「わかっちゃいるけどやめられない」は驕慢なだけです。

 植木等さん「無責任男」として有名になりました。「無責任」といえば、ふと思い出しましたが棟方志功も「自分の絵に責任をもたない」と語っています。これは自分の計らいを超えた大いなるものに揺り動かされて、一刀一刀を刻んだという自覚の言葉です。ここにも彫刻は大自然からの頂きものであるという頭の下がった姿があります。
 「わかっちゃいるけど」と阿弥陀如来と共に生きていくのが浄土真宗です。

2項
国会で語られた仏教の話

西方寺発行の法話CD第二集に住職の聞真会での法話が収録されている。聞真会とは、本願寺のご門主や本願寺派に所属する国会議員の集う定例会での法話です。

 この聞真会を組織する発起人となった人が、佐賀の故保利茂さんという衆議議員議長された方です。目のご不自由な祖父をお寺の法話会へ案内していたことが縁となって門徒の自覚を持った方です。茂氏亡き後、定期的に開催される聞真会へは、ご子息であられる保利 耕輔氏もご家族で参拝されています。

 昭和五十四年三月十六日の国会本会議で保利茂逝去に伴い農民運動家で共に国会運営に副議長として汗を流した三宅正一氏が追悼演説をしています。以下は国会議事録からの抜粋です。
議長(灘尾弘吉君) 御報告いたすことがあります。

 議員保利茂君は、去る四日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る九日贈呈いたしました。これを朗読いたします。

〔総員起立〕
議長(灘尾弘吉君) この際、弔意を表するため、三宅正一君から発言を求められております。これを許します。三宅正一君。
○三宅正一君 私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、故本院議員、前議長保利茂君に対し、謹んで哀悼の言葉を申し述べます。(拍手)

保利君は、本月四日、入院先の慈恵医大病院において、心不全のため逝去されました。(略)
  保利君は、死の二、三日前、周辺に、長くて険しい道だった、目的地に近づいてきたようだと語られたと伝えられます。本当にひたすらに生きた人、一生懸命の人であったことが思われます。「百術は一誠に如かず」また「至誠天に通ず」という言葉をしばしば色紙等にも書いておられたと聞きますが、私は、子供のときから身体にしみ込んだ保利君の仏心が、年をとり、風雪を経て顕揚されてきたものと思うのであります。

 保利君の生家は熱心な仏教徒で、君がまだ小学校へも上がらない幼少のころ、おじいさんが失明し、目の見えなくなったおじいさんは、朝夕のお勤めとお寺参りだけが唯一の楽しみでした。お寺でお説教があるとき、その祖父の手を引いていくのが幼い君の役目でした。

 「行きかえり、祖父が、聞えるか聞えないかの声で、しきりにお念仏を唱えていたのを忘れることができません。思えば祖父は、失明という身の不幸にあいながら、お念仏を唱えるという御報謝の生活には少しも不自由を感じなかったのでしょう。いや祖父は、肉体の眼が見えなくなったからこそ、かえって心の眼がひらけたのかもしれません。」と保利君は書いておられます。

 さらにまた、君は、子供心に「ほとけさまはいつも「見てござる」「知ってござる」悪いことをして、人の目には見つからなくても、ほとけさまだけは見てござるぞ」ということを自分の戒めとして生きてきたと、子供たちに贈る言葉の中で書き記しておられます。

 保利君は、東京築地本願寺の聞真会という門徒出身の国会議員の会合に熱心に出席されておられたそうでありますが、その聞真会で「子供たちの明日のために」という本が出されており、その中に「築地聞真会の朝」という一編を寄稿しておられます。

 ある日、聞真会の早朝の集まりに向かうその朝、車のフロントガラスいっぱいに光が差し込んでいるのに気づき、車をとめて外に出て、空を見上げると、いつも郷里の空を覆っているあの青空が広がっているではありませんか。全く澄明な朝の光です。私は、その感動に打たれたまま朝の法座にお参りし、「正信偶」の「煩悩に眼障えぎられて見ずと雖も、大悲は倦むことなく常に我を照らしたまう」の一言を見て、さらに新たな感動に身をふるわせました。

 東京の空にいま薄暗く漂っているスモッグは、近代都市の煩悩そのものではないでしょうか。その煩悩の雲に妨げられて、太陽の光を直接浴びることができなくても、太陽はうむことなくわれわれの頭上を照らし続けてくれていたのです。

 大悲とは、御仏のお働きです。大慈悲です。慈しみの心です。君の座右に置かれた「百術は一誠に如かず」の信念は、まさにここに発しているのです。

 そして、さらに、そういう誠という信念も、まだ本当の悟りではなく、正信偈に接して、「一つの思い上りであることに気づかせていただいたのでした」と述べ、「偉大なる宇宙に対して生きとし生きる人間の小ささに対する自覚が足りなかったのではないか、という思いです」と、自己の内奥を披瀝しているのであります。
 政治家保利茂もりっぱだったが、それにも増して、終生、内省と精進を怠ることのなかった人間保利茂の純粋さと大きさとを、私は諸君とともに認識し、追慕の念を深くしたいと存じます。(拍手)(以下略)

【誠であろうとする心に一つの思い上がりがあったことに気づいた】。誠であるという思いは、時として人を切り裂くこともあります。誠であることよりも、誠でない自分に開かれていることのほうが、凡夫の生き方には即しています。それを可能とさせるのが、凡夫であることに修正を加えず、正しさを求めず、そのまま摂め取ると願われた阿弥陀如来の慈しみとの出遇いです。

人は悲しみと苦しみの体験を通して、その心の底に流れている濁流のようなどうにもならない人としての真実に触れるとき、阿弥陀如来がなぜ、私に誠になれと願わず、そのまま救うという如来となったのかという仏の誠が、私にありのままを受け入れる智慧を与えたくれるようです。

保利 茂(ほり しげる)1901〜1979年、昭和時代の日本の政治家、第59代衆議院議長。佐賀県東松浦郡鬼塚村(現唐津市)出身。生家は零細農家で、苦学して中央大学経済学部経済学科を卒業。佐藤派の大番頭と呼ばれ、佐藤内閣においては、田中角栄・福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を勤めた。その後衆議院議長に就任し、名議長と謳われた。昭和54年(1979年)3月4日、東京都港区西新橋の東京慈恵会医大付属病院で死去。享年77。墓は佐賀県唐津市山本の万徳寺にある。法名正覚院釈祥瑞。

4項

住職雑感

● なぜ4月1日生まれは前年生まれと同学年?朝日朝刊(3/30)にこんな記事がありました。
 4月1日生まれの人は、3月生まれに人と同じ学年になる。何故か、「年齢計算に関する法律」や民法の規定をもとに「年齢は、誕生日前日の深夜12時の時点で加算される」と解釈されている。それで、4月1日生まれの人は、3月31日に満6歳となっており、4月2日生まれの人よりも1年早く入学することになるとのこと。

● 誕生日といえば^t4月8日はお釈迦様のお生まれになった日で花祭りでした。その日、早朝のラジオ放送で“今日の誕生日の花は、れんげ草…花言葉は、苦しみを和らげる”とアナウンサーが語っていました。蓮華は仏教の花、だかられんげ草なのかも知れません。そしてアナウンサーは今日の一句として滝野瓢水(ひょうすい)の句「手にとらでやはり野におけれんげ草」(手に取るな場合あり)を紹介してくれました。瓢水がれんげ草を見て少し迷った「手にとらでやはり野に」という迷いを迷いのまま表現したところが、「野におけれんげ草」と重なって味わいを深めてくれます。

 瓢水は江戸時代、明石の廻船問屋の家に生まれ、親から受け継いだ財産をすべて歌道楽で失います。そのとき“倉売って日あたりのよき牡丹かな”と詠んでいます。この歌も失って見えてきたものをしっかりと見つめています。その瓢水の名を慕って禅僧が訪ねてきたが瓢水は薬を買いに行って留守であった。死ぬのか怖いやつはだめだときびすを返した僧に、「浜までは海女も蓑着る時雨中かな」と詠んだという逸話は有名です。この歌もその時々を生きるという仏教の考え方に沿っています。