清風(しょうふう)64号(07.3月号)
63号
1項 だるまさんころんだ

我、私、吾、自分を表現する文字は色々あります。「我」はテ編に戈(ほこ)で、刀で自分を守るという文字です。「私」は、作物をあらわすノギ編に、ムは抱え込むで、自分だけのものと作物を抱え込むという意味があります。私の反対語は公です。「ハ」は、抱え込んだものを手を開いて放すことです。

 「私が‥私が‥」と賢そうに言っても、所詮は凡夫だということでしょう。地方行政長の汚職が絶えません。「私が‥私が‥」と言うこと自体がマヤカシのように思われます。 「私が‥私が‥」ではなく、無私の精神こそ公に通ずる心なのでしょう。

 江戸八代将軍・徳川吉宗の孫に松平定信という白河(福島県)の藩主がいました。後に将軍を補佐する老中となり、江戸城の門前に目安箱を設置します。たくさんの投書が集まりましたが、そのほとんどが江戸奉行の汚職に関することでした。

 ある日、江戸町奉行を呼び「おまえたちは、裁判のとき一番大切にしていることは何だと思っているか」と聞きます。町奉行は「正しい道理にもとづいて裁判することです」と答えます。そして傍らにあったダルマを手にとって畳の上に転がしました。何度転がってもダルマは起き上がります。

 「ご覧下さい。正しい道理をつらぬいていたら、ときには転ぶことがあっても、ダルマのように立ち上がることができます」と奉行は得意満面に言いました。

 すると定信はニコリとすると、懐中から小判を取り出してダルマの頭にくくりつけ、ダルマを転がしました。ダルマは倒れっぱなしで起き上がりません。そこで定信は言います。

 「ダルマも、小判を頭に結びつければ立ちあがれぬなー」
 町奉行は定信の意図を知り、返す言葉もなく、顔を赤めて退席した。それから町奉行の汚職がなくなったということです。

 私の本当の姿が明らかになったところに道が開けるのです。

 では、この無私の世界にどのようにして到達するのか。その方程式が示されているのが経典です。「仏説無量寿経」には、阿弥陀如来は私のために「無蓋(がい)の大悲」を起こしたとあります。無蓋とは無条件ということです。賢くあれ、精進しろ、他人のために尽くせといった条件をつけたのでは、救われ様のない存在。それがこの私だというのです。救われ様のないものを抱えて生きている自分自身の本当の姿が明らかになる。「私は凡夫である」と頭が下がったところに、自分への囚われから開放されていく世界がある。それが浄土真宗という仏道です。
 
2.3項 
 フランスのバロンコーエンは、子どもの心の発達を年齢別に研究された学者です。
 赤ちゃんが誕生する。そして対人関係は微笑の交換から始まる。赤ちゃんがニヤッとするあれです。そして心の発達は、四.五ヶ月になると、親が赤ちゃんの側にいることを要求します。親が幼児からは離れるとぐずります。五〜六ヶ月になると、今度は抱っこやお乳など、何かしてして欲しいと要求します。何かをしてもらうことの中に、幼児は安心を見出していくのです。六〜七ヶ月になると、何かしてあげるだけでは不満で、親がそのことを喜んでしてくれることを要求します。気持ちが外を向いていて形だけあやしても、喜ばないのです。

 葬儀のときによく経験することですが、幼児を抱っこしている親族が、会葬者に目礼をしながら幼児をあやしていても、幼児はぐずるばかりで式中、泣いていることがあります。親の気持ちが幼児を離れているので、幼児は安心できないのです。

 このようにして幼児は、この人が自分の親であることを刷り込んでいくのです。子が親を親と認識するその背後に、親の努力があったのです。

 「お母さん」と当たり前のように私の口に出るのには、その背後に母の努力があった。これは仏様についても同じことです。 私が「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来の名を口にする。その背後に、広大な阿弥陀如来の努力があったと教えて下さったのが親鸞聖人です。

 昨年『浄土真宗の常識』を出版しましたが、後半部分に数人の念仏者の言葉を掲載しています。その中に、本願寺立の現京都女子大の創立者である甲斐和里子さんの歌を多数紹介しています。その甲斐さんにまつわる話です。

 それは昭和十四年のことです。当時京都女子大は京都女子高等専門学校と呼ばれていました。女子教育界で大変高名であった女史の人徳を慕って、全国から優秀なお嬢さん方が受験に来られた。

 入学試験は、まず筆記試験がありその試験に合格した人たちに、甲斐校長ご自身が一人一人と面接する。
 先生の口頭試問は、いつも決まって訊ねたことがあったと言います。それはあなたは昔から現在までの世界中の女の人の中で、誰を尊敬しますか。その方の名前を言ってごらんなさい≠ニのことでした。

 それが毎年繰り返されるので、試験を受けに集まってくるお嬢さんたちは、あらかじめ先輩からそのことを聞いており、先生から聞かれたらこう答えようと用意して面接に来たといいます。

 さてその年も沢山のお嬢さん方が全国から試験を受けに集まってきました。筆記試験に合格した人は、一人ずつ校長室に入って面接を受けます。

 一人のお嬢さんが校長室のドアを開けて入ってきました。そのお嬢さんは、一目見てずいぶん貧しい家庭のお嬢さんだなということが分かった。

 他のお嬢さんは、自分を少しでも立派に見せようと、今日のために仕立てた上等の着物を着ていたが、そのお嬢さんは、ずいぶん着古した着物を着ているばかりか、着物のあちこちに繕いをした後があった。しかし校長先生の質問には、今までの誰よりもはきはきと立派な答えをしたといいます。先生も心の中で、ずいぶんしっかりしたお嬢さんだなあと感心しておられた。
 いよいよ最後に校長先生が「あなたは世界中の女の人の中でいったい誰を一番尊敬しますか」とお訊ねになりました。

 すると今まで立派にはきはきと返事のできていたお嬢さんが、どうしたことかうつむいてしまった。校長先生は答えを考えているんだろうとしばらく待っていましたが、一向に顔を上げる様子がない。そこで先生はやさしい言葉で「もし尊敬する人がなかったならば無理にお答えしなくていいですよ」と言われた。

 その甲斐先生の声でやっとのことで顔を上げたが、両目に涙が浮かんでいる。不審に思われながら甲斐校長はもう一度「あなたは誰を尊敬しますか」と、同じお訊ねをなさいました。
 すると目には一杯涙を溜めているけども、お嬢さはしっかりした声で「先生、私は世界中で私のお母さんを誰よりも一番尊敬しています」と答えたのです。

 これには校長先生も驚いて、「あなたのお母さんは、そんなに有名な方なのですか。一体何をなさっているのですか」と聞かれました。するとそのお嬢さんは言われたそうです。

 「いいえ先生、私の母は、世間に名前が知られているような有名な人でもなんでもないのです。片田舎で農業を営んでいる一人の平凡な女に過ぎません。しかし私はこの母を世界中の誰よりも尊敬しています。
 と申しますのは、私の母は、私を小さい時分から女手一つで育て上げてくれました。私が生まれるとすぐ父が死んでしまったのです。それからというもの母は男にも負けない働きをしました。朝早くから夜遅くまで、それこそ汗と泥にまみれて真っ黒になって働きつづけてくれました。私は小さい時分から、そうした母の苦労という苦労を見て育ちました。そうした大変な暮らしの中から、母は私を女学校まであげてくれたのです。私は学校を卒業したら母に代わって働いて、母を一日でも早く楽にさせ幸せになってもらいたいということを一日として思わなかったことはございません。

 ところが女学校も卒業が近づいてまいりましたある日、学校から帰ると、母がそこに座ってちょうだいと改まって言うのです。いまはお母さんの言うことを何も言わずに素直に聞いてちょうだい。お母さんはね、先生にお聞かせいただいたんだけど、お前は成績も飛び抜けていいということで、本当に嬉しいよ。ところでお母さんは前々から思いつづけていたんだけど、お前が学校を卒業したならば、お前にもう一つ上の専門学校まで進んでもらいたい。お前も知っての通り、京都女子高等専門学校には甲斐和里子先生という立派な先生がいらっしゃる。お母さんね、ぜひともお前に甲斐先生の学校に進んでもらいたい。これがお母さんのお願いだから、どうか何も言わずに聞いてちょうだい≠ニ言われました。そんな母を私は誰よりも尊敬しています。

 娘の心に「母を一番尊敬している」という思いが沸き起こった。その背後に母の子に対する願いや働き、努力があったのです。

 凡夫の私の上に「南無阿弥陀仏」と念仏を称え、仏に頭を垂れるという所作があったとしたら、その背後に如来の願いと働きがあるのです。念仏を称えながら、ここに阿弥陀如来がましますと仏を実感して仏と共に生きていく仏道、それが浄土真宗です。

集い案内

4項 住職雑感

● 成田山の節分は「鬼は…」はなく、「福は内、福は内」だけ、それは「山内には鬼はいない」という。
 豆まきの豆は、魔目、魔滅に通じ、豆をうって魔の目をつぶし魔を滅すると言われているので、鬼がいないのであれば豆をうつ必要はない。お楽しみのイベントなのでしょう。

 節分の鬼は隠れるという「穏」(おん)がなまったものとされます。鬼はいないと否定せず、心の奥にある鬼を自覚して生きていく。

 花嫁がかぶる「角隠し」を広辞苑で引くと「浄土真宗の門徒の女性が、寺参りのときにかぶった被り物」とあります。私には角がある。自分には恐ろしい心があると目覚めて歩む。ここに仏さまに照らされた念仏者の生活がありす。

甲斐和里子紹介

甲斐和里子(かいわりこ)明治21年〜1962
1868(
明治元)年、広島県神辺町の勝願寺に足利義山を父として生まれる。同志社女学校卒業後、明治32年、京都市下京区花屋町上ルに仏教精神に根ざした「顕道女学院」を設立する。1910年から27年まで教と高等女学校の教諭を努める。後に本願寺の助力を得て1910(明治43)年に京都高等女学校へ発展する。その後、退職する1927年まで一人の女学校教師として学生の指導に当たる。

   岩もあり木の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる

    ともしびをたかくかかげてわがまえを ゆく人のありさ夜なかの道

    手に合わない厄介な我の心を如来の大きな御手にお渡しする

   み仏のみ名なを称えるわが声はわが声ながら尊かりけり

  み仏をよぶわが声はみ仏のわれをよびますみ声なりけり

   ともすれば人のうへいうこの舌(した)も 仏の御名(みな)を呼ぶときもあり

   よしあしのいづれを多くかたりしか老いたるおのが舌にたづぬる

    人しれず人らしきわざせしあとの おのが心の奥のあかるさ

* 御仏の 御名となえつつ あらたまの 今年も清く 日々を送らむ

    みひかりのうちに住む身の嬉しさを今年はたれに先ずわかたまし

     足ることを 知れるひとつは 天地の 何にもかへぬ わがたからなり