清風61号(06.5月号)
相手の身になる
童歌「ずいずいずっころばし」。この歌には、色々な説がありますが、お茶壺行列のことを歌っていると言われています。
子どもが道で遊んでいたら、「下―に、下ーに」と聞こえてきた。将軍様に献上する"茶壷道中が来たのです。驚いた子どもは、急いで家の奥へ隠れます。そしてごま味噌をなめてじっとしている。静まりかえった家の納屋の方では、ネズミが米俵を食べる音。井戸端ではあわてて茶わんを欠く音などが聞こえてくる。やがて茶壷道中は去って大騒ぎといったところです。
今から約400年前、江戸時代の初期、幕府は将軍家が飲むお茶を京都の宇治から取り寄せていました。将軍家が飲むお茶ですから最高級品です。霜害を恐れた宇治の栽培家たちは、よしずをして覆いを掛け、霜よけをしたところ、直接日光を当てなかったことが幸いして、タンニン分が少ない上質な茶葉ができ上がった。
幕府はこのお茶を、湿気に強い信楽焼きの茶壺に入れて江戸に運んだのです。
一行は、4月下旬から5月上旬、多いときは1000人を超える人々が行列をなし東海道を練り歩いて行ったようです。茶壺の数も多いときで100個を超えるときもあったといいます。この行列が「お茶壺道中」です。
この大名行列さながらのお茶壺道中が沿道を通過して行くときが大変です。将軍家御用達の品、相手が茶であっても不敬は許されません。お茶壺が通る沿道は、前もって入念な道普請(みちぶしん)が命ぜられ、農家にとって忙しい時期であるにもかかわらず田植えは禁止。子どもの戸口の出入りや、たこ揚げ、屋根の置き石も禁じられ、煮炊きの煙も上げることはならず、葬送さえ禁じられたのです。
そこで、お茶壷様が通りぬけたら、「どんどこしょ」となるのです。
子どもを茶壷行列の災難から守るために、子どもに親しく保ちやすい歌として与えたのです。子どもの身の丈にしつらえて、子どもに与える。ここに大人の優しさがあります。大人とは成人した人ではなく、相手の身になって考えられる人のことです。
法華経の「三車火宅の譬(たとえ)」にも同様な話があります。家が火事なのに、遊びに夢中になって子どもは気づかない。そこで子どもが欲しがっていた羊車・鹿車・牛車を用意し、火宅から救い出すという話です。家宅とは、煩悩に燃え盛る私のことで、車は、教えと行です。
浄土真宗の阿弥陀さまも、この手を使ったようです。「南無阿弥陀仏」の名号は、怒ったときも悲しいときも、身に添えることができます。阿弥陀如来の存在を私に知らしめるために、私に称えられる姿となって私のいのちの上に至り届いてくださったのです。弱いものの立場に合わせてすくい取る。これが慈しみです。
童謡
「ずいずい ずっころばし」
ずいずい ずっころばし
ごまみそ ずい
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
たわらの ねずみが
米くって チュー
チュー チュー チュー
おとさんが 呼んでも
おかさんが 呼んでも
いきっこなしよ
井戸のまわりで
お茶碗かいたの だあれ
涙にやどる仏あり
学生の頃、大学の校舎が京都の伏見区深草にありました。その為、京都で初めて住んだ場所が竹田の鳥羽という場所です。その竹田が赤い鳥が歌った「竹田の子守唄」の竹田だと知ったのは、ずーと後のことでした。
守りも いやがる
盆から 先にゃ
雪もちらつくし
子も泣くし
盆がきたとて
なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く
守りをばいじる
守りも一日
やせるやら
はよもゆきたや
この在所こえて
むこうに見えるは
親のうち
むこうに見えるは
親のうち
この歌は、一時期、色々な人が歌い百万枚のレコードを売り上げました。しかし今はラジオやテレビで流されることはありません。発売禁止ではないが、この歌に触れようとしない社会があるということです。
その一部始終は、藤田正著「竹田の子守唄」―名曲に隠された真実―に詳しく説かれています。
なぜ、放送しないのか。マスコミの関係者は竹田地区は差別を受けた人たちの在所であり、「この在所こえて」とは、まさにその場所を語っていると知っているからです。
この歌は、差別を受けた人たちの間で歌い継がれてきた子守唄であり、その悲哀さを歌った曲でもあります。
悲哀さと言えば五木の子守唄も通じるものがあります。
おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんど
盆が早よ来りゃ
早よもどる
おどまかんじんかんじん
あん人達ゃよか衆
よか衆ゃよか帯よか着物
五木の、貧しい山間の村に生まれた娘が、口減らしのために子守娘として奉公へ行った先で、わが身の不遇を嘆いて歌った唄です。「おどま」は「私たち」のこと。「かんじん」は「非人」と書きます。激しい身分制度の中で自身のことを卑下した言葉です。
元来、人吉・球磨は、豊かに土地ですが、五木三十三人衆と呼ばれる地頭たちが五木地方一帯を支配していました。この三十三人が、村内の大部分の土地を所有し、そのもとに多くの小作百姓がナゴ(名子)として隷属させられていたといいます。そうした貧しい家の娘たちが、子守や下女として奉公に出されたのです。
子供たちは7、8歳になると、食い扶ち減らしのために八代や人吉方面に奉公に出されたようです。奉公とは名ばかりで、「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という約束だったとも聞きます。
身体的にも精神的にも、虐げられた涙するしかない幼い娘たちが、心のなかで涙しながら歌ったのです。 木村無相(1904〜 1984)さんの詩に
涙には
涙にやどる
ほとけあり
そのみほとけを
法蔵という
とあります。
法蔵とは、阿弥陀如来が仏となる前のお姿のことです。阿弥陀如来は、無数のいのちあるものが流した涙の中から生まれ出たというのです。涙し泣きぬれるしかない不遇の中で、その存在に理想を求めず、その人の身に、「南無阿弥陀仏」と寄り添い、如来の存在を私に告げて下さった。それが阿弥陀如来です。涙を通して見えてくるもの、それは涙する自分を受け入れてくれる言葉です。
阿弥陀さまは、涙する私が目当てだというのです。
念仏は、私の行う行ではなく、阿弥陀如来が私の上に至り届いてくださった仏さまの存在の証しです。そう教えてくださったのが親鸞聖人です。これを他力念仏といいます。
仏事アラカルト
Q 浄土真宗ではなぜ「般若心経」を読まないのですか。
A 「般若心経」は、わずか266文字の経典。でも短さからいえば、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」は6文字です。この6文字に阿弥陀仏のすべての願い、働き、功徳が凝縮しています。でも般若心経を読まないのは数だけの問題だけではありません。
お経には二つの系統があります。一つは聖道門といわれる仏の理想と、その理想を実現するための手段が説かれているお経です。そのお経に示されているように私が努力精進していく自力の教えです。
もう一つが浄土教といわれる阿弥陀仏の慈しみや豊かさ働きが説かれ、その慈しみの中に自分を発見していく他力の教えです。
「般若心経」は前者の経典であり、お経の内容は、観音菩薩が、宇宙の本質は『空(くう)』であることを見抜き、すべての苦しみから解放された。その真理を舎利子(しゃりし)に説法され、みんなで一緒に努力して無上の目覚めに到達しましょうというものです。
ところが親鸞聖人は、自分の日常生活は、無上の目覚めどころか、欲やねたみ、腹立ちが渦巻き、自分へのこだわりから一歩も離れることができない凡夫であり、その凡夫が救われていく道は、凡夫の存在の上に仏と等し
い尊厳を見出してくださる如来の智慧と慈悲によることを明らかにしてくださいました。
だから浄土真宗では、その阿弥陀仏の功徳や願い、働きを讃えたお経が日常勤行として用いられるのです。
住職雑感
● 霊長類学者である杉山幸丸博士の「進化しすぎた日本人」は現代の日本人を考えるうえで大切な指摘を多く含んでいます。「こころはコミュニケーションによって育まれる」。コミュニケーションは相手を理解することによって育まれ、兄弟姉妹を稽古場として培われてきた。少子化は心の崩壊を生み出すといった具合です。
生き物の進化は、億単位の時間を必要としているが、退化は生き物の進化の単位から言えば一瞬です。
進化といえば、メキシコ湾とカリブ海が交わるホルボッシュ島の鍾乳洞内に目が退化した珍しい魚がいます。洞窟内が真っ暗なため、何万年という長いあいだ生活しているうちに目の働きが必要なくなり退化したのです。
魚だけでなく、まったく光のない世界に棲む虫たちには目が退化している生き物が多くいます。
真っ暗な闇の中で生活する生き物は外敵に襲われることは少ないという利点がありますが、代わりに暗闇に適応して目がなくなったのです。
通常、光のある世界では、目が見えない劣性遺伝は、存続が難しく子孫が繁栄しません。しかし、暗闇では目が見えないという劣化遺伝子の存続を許し、遺伝子レベルで次世代に引き継がれて行くのだそうです。
目が見えることは、目自身が勝ち取ってきた成果ではなく、光によって育まれてきた結果です。こころの目を開くということがあります。心の目も、やはり、こころ自身の力ではなく、他に心の目を開く作用があったに違いないと考えたのが仏教の歴史でもあります。
● 本願寺の新門主(門主後継者)がご結婚された。
週刊誌に地味婚として掲載されていました。
現ご門主の折は、京都、東京で7回披露宴を行ったとあります。このたびは、阿弥陀堂での参拝は招待客以外を任意とし、披露宴に代わるお披露目には、宗門の幹部や宗派の代表者280名が国宝の鴻ノ間に招待され、高級弁当での宴席であったとあります。
こうした地位にある人は、多くの人を招くか、地味婚にするかの二者選一になるのだと思います。