清風(しょうふう)58号(05.8月号)
1項 ホンネと建前
【〇〇党は「もったいない」運動を推進します】。某新聞一面を使ったある日の公告です。この広告をどう読み取るか。それは読者の個々の判断です。私の心に浮かんだ違和感を表明してみましょう。
昭和50年を境として、マンガの題材が変わったといわれます。内容が、アタックナンバーワンや巨人の星に代表される根性ものから、東大一直線などのひょうきんものへと変わった。これは若者が建前よりも本音を楽しむ傾向へシフトしたと思います。
平成に入って、昭和33年創刊の「週間明星」という週刊誌が休刊になった。スターの話が、憧れからゴシップを喜ぶ傾向になり、ゴシップ雑誌が売れるようになったのです。これは国民みんながスターのように豊かになり、その豊かな者がコケル状況の中に味わえる優越感を楽しむ傾向へとシフトした。これも、きれい事が歓迎されなくなった現象だと思っています。
そして最近の大阪の〇興行に代表される漫才です。「ひろしです」「拙者ギター侍‥」など、すべてといっていいほどの漫才師が人の欠点や知られたくないことを暴いて笑いを誘います。
この一連の流れは、国民みんなが「いじめ」を楽しむ傾向になったと私は見ています。
その原因は、現代の日本社会が、本音がみえみえなのに、建前が大きな顔で闊歩しているからです。
さて〇党の広告です。この「もったいない」はケニアの副環境相マータイさんが、昨年のノーベル平和賞の受賞者として、各地の講演で「もったいない」の日本語を感動的にスピーチし、それをマスコミが取り上げ話題になっている言葉です。
そしてその言葉を〇党が広告として取り上げたものです。しかし現状の日本は「もったいない」という美しい言葉に酔いしれても、その現実は、温泉旅館の料理のように、食べ物は溢れ、全部食べていたら病気になるという飽和状態です。
〇党にしたって、「もったいない」という美しい言葉を利用して、国民の支持を得るという党のエゴがあります。
もういい加減、裏表なくシンプルに生きたい。そんな気運が、不登校をはじめ社会に起っている諸現象の根底にあるように思われます。
まずは現代人が、どうな病気にかかっているのかを知ることが先決です。
2項 あきらめ と 諦め
以前、ラジオ放送の文化講演会で、確か山田洋次監督であったと思いますが、「あきらめることの大切さ」を語っておられた。人が老化していく。男性だと顔が老化してもすぐあきらめがつく。しかし女性は化粧をするので、なかなかあきらめきれず、いつまでも心が落ち着かない。がん疾患でも、お金がない人は、治療方法がなくなれば、治療に対してあきらめがつく。 しかし資産家だと、いつまでも最先端の治療を求めて、あきらめきれずなかなか心が落ち着かない。そんな話でした。
仏教の真理は「諦らめる」です。これは「明らかに見極める」ことですが、「アキラメる」と「諦らめる」は通じるものがあります。
昨年の9月のことでした。益子のTさんから、「千葉で終末期にある女性が僧侶に会いたいと言っている。だれかいませんか」とのメールを頂いた。私が伺うこととなり、担当である訪問ホスピス医のI医師と連絡を取り、患者さんであるKさんとお会いすることになりました。
Kさんは昭和4年生まれで胃癌術後再発で治療を断念して訪問ケアを受けておられました。I医師の電話では、かなり深刻で、在宅ホスピスで看護師が訪問すると毎回2〜3時間悩みを聞いているとのことでした。
早速Kさんと連絡を取りご自宅へ伺いました。以下はその日の夜、I医師に報告したメールの内容です。
「子どものときからのことを、取りとめもなく語るKさんは、今の惨めな現実の原因はどこにあるのかといった、回想のようでした。家庭や人間関係の中に生じている不幸の原因が、自分にあったことへの後悔、ではその自分がどうしたら、素直な自分になれるのか。
あきらめきれない悔しさ、やり直せたらやり直したいという思い。この現実をどう考えたらよいのか受け入れきれない今。こんな思いや後悔を持ちながら死んでいかなければならない不安、などなど。どうしたらいいのかという回答を求めるといった具合でした。
会話の中で、不満とやり残し、どうにかしたいという思い。何故私がこんなに苦しむのか。と投げかけられたので、私はそれは欲が深いからです≠ニ本当のこと(?)をいいました。それから10分くらい会話をしていたら、ご自身で自分は何故こんなに欲が深いのか≠ニため息をつかれました。成果といえば、そこだけといった傾聴と会話で始終しました。
僧侶と会っても欲しいものが手にはいらなかった≠ニいう印象だったので、その後ろめたさと、私の存在が圧力にならないようにと思い私のほうからは電話をしませんが、お話しをしたい(聞きたい)時はお電話を下さい。と言って別れました」。
Kさんとの面談はそれ一回のみでした。その後、11月になりI医師からメールが届きました。メールの内容に手を加えずそのままご紹介します。
「ご家族に看取られて亡くなりました。心の葛藤は最後まで続いていましたが、次第に険しさ、厳しさは和らいでいきました。特に西原様のお話の中で安心する部分があり、過日もご連絡したように以後明らかにある種の変化が感じられました。厳しい状況の中最後まで自宅での療養を継続できたのは、患者さん/ご家族/そしてわれわれを支援してくださる西原様をはじめとする皆様のおかげと感謝申し上げます」
私の報告メールを少し補います。
Kさんとの面談は2時間45分くらいでした。2時間ほど、どこにそれほどのエネルギーがあるのだろうと思うほど、どうにもならない、抱え込んでいる苦悩を吐露されました。今思うとエネルギーの源泉は怒りであったと思います。そして、どうにかして欲しいと仰ぎ見るような眼差しで私を見て言われたのが「なぜ私がこんなに苦しむのか」という言葉でした。私の心中は逃げ場のない状況で、本当のことを言うしかありませんでした。それが欲が深いからです。という言葉でした。問われたKさんも真剣な形相でしたし、答えた私も相手の目を見て真剣に答えました。Iさんは一瞬、予想外の言葉であったのか、思考停止したような間が生じました。そして思考を取り戻して、また同様に怒りの言葉を口にされました。それから10分ほどして、大きなため息と共に「自分は何故こんなに欲が深いのか」といわれたのです。
私はその10分の間に、少し変化があったのだと思います。その変化とは「アキラメ」か「諦らめ」かわかりませんが、その「あきらめ」に少し近づいたという変化だと思います。苦しみの正体を見た≠ニいう割り切ったものではないでしょうが、それに近いものだったのでしょう。
「あきらめ」が「諦め」になる時、苦しみが明らかになる℃桙フようです。浄土真宗の救いは、「救われなければならない存在」であることが明らかになるこことです。
それは、苦しみを背負ったまま生きなければならないことでもあります。
4項
住職雑感
● ペットのお墓は、「どうぶつ苑」といいます。墓石のデザインは私が考えましたが「仏」の文字をデザイン化したものです。墓石に刻んである仏さまは左記の文字です。「なんまんだぶつ」と私の口に現れてくださる声の仏さまを文字にしたものです。
● 某新聞コラムに、【「障害者」という言葉はイメージが悪いからと、言い換えを図る動きがじわじわ広がっている。「障がい者」と交ぜ書きにするのだ。いまも福岡市議会に障害者と名のつく施設や制度の名称を改める条例案】が提出されていて議決される見通しとありました。
臭いものには蓋で、障害者問題の本質は、障害者にあるのではなく、障害者を差別する側にあります。障害の言葉を隠してしまっては、問題が見えなくなってしまいます。
「老人」という言葉が忌み嫌われるので、年配者をさす言葉として「老」の字を用いない市町村があるとも聞きました。これも同じです。表記を変えても、本質的なことが解決されていないと同じことが起きます。何か、建前だけを大切にする社会が気になります。