1項 1秒の中に
1秒間に、何が起っているか。山本良一責任編集『1秒の世界』(952円 ダイヤモンド社)に、色々なデータが示されています。
飛びながら空中に停止することができる最も小さい鳥であるハチドリは、その速いはばたきは1秒間に55回にも達します。ミツバチが200回、蚊は600回もはばたいています。
地球が太陽の周囲をまわる速度は秒速29・8キロメートルで音速の88倍。1秒間にグリーンランドの氷が1620立方メートル溶け、毎秒710トンの酸素が減少している。1秒間に39万立方メートルの二酸化炭素が排出され、これは5万本の杉が1年かけて吸収できる量に匹敵するという。
1秒間に320万円の軍事費が使われ、4トンの文書用紙が消費される。1秒でビルゲインは6300万円稼いでいる。
1秒でチーターは28メートルも進み、マックには532人もの来客がある。1秒で炭酸飲料は16000缶消費され、反面1秒間に0.3人の人が餓死をしている。
では、私は1秒間に、何ができるのでしょうか。どう、走ったり、食べたり、まばたきや、手を打つなどの、数量の分野では驚くべき数字にであうことができません。
しかし、心の世界に照準を合わせるとその豊かさが実感できます。歩く中に、1秒あれば2足歩行という動物進化の営みを感じることができるし、1秒の笑顔の中に、平和や幸福を感じることもできます。1秒の呼吸の中に生きていることを感じ、1秒あれば30年前の自分の過去に思いを馳せることもできます。
1秒あればお産の時、生命の誕生を知ることができるし、1秒間に、20世紀から21世紀に移ることもありま。
たまこの1秒を通して、永遠に繰り返すことのできない瞬間である、永遠性に触れることもできます。同様に思いの中で「南無阿弥陀仏」と念仏をし、阿弥陀仏の功徳に触れることもできます。
私たちは、「1秒」という時間の中におきる、数の多さに興味を持つ傾向があります。数の分野には、想像したことのない驚きがあり、私を未知の分野へいざなってくれます。しかしここでは面白さは体験できるが、幸せや喜びは体験できません。数ではなく感じられる世界を豊かにする。これが幸福の秘訣です。
1秒あれば千年間闇であった空間に光が満ち、1秒あれば、百年の誤解も解くことができるのですから
目に見えない部分が見えてくるという事があります。私が阿弥陀仏に手を合わせ念仏を申す。そのあたりまえと思われる背後に躍動している仏の働き・願い・慈しみが見えてくる。その慈しみを喜んでいくのが浄土真宗という仏道です。
2項 がま仏
最近、私が有り難いと思った仏教説話があります。本来は「根本説一切有部毘奈耶薬事」第十一の話にある「蟇佛」(がまぶつ)という説話です。
その話を、花岡大学先生が、やさしく翻訳しているのですが、長い物語なので割愛して紹介します。
山がそびえていた。その山のふもとに草原があり、川が流れていた。草原は牧場になっていた。その草原の草かげに、いっぴきのでっかい蟇(がま)が、岩のようにうずくまっていた。
よく見ると、ぞっとするような、醜いからだつきをしている。からだ全体が、ぶ厚そうな、でこぼこの皮で覆われて、大きな口も、その上にギョロっと突き出た目、それにもまして、なんとも不気味なのは、背中一面に、灰色の小さなイボが、かさぶたのようについている事だ。
人間に見つかって、死にかかるほど、ひどい目にあわされることが、何べんかあった。とくに、蟇は牧場を歩き回っている、山賊のような牛飼いの男を、恐れ憎んでいた。
気が荒く、意地悪で、何をしでかすかわからない。人間の中でも、人間扱いを受けていないような、恐ろしい男らしい。その男に見つからないように、蟇は、できるだけ、しげった草のむら深くに身をひそめながら暮らしてい。
しかし今は、その男に対しても、少しも恨み心を抱いていなかった。草かげに身を隠し、お釈迦さまのお話を聞かせてもらったからだ。何べんも聞かせてもらっている内に、いつのまにかそうなったのである。そうなったことを蟇はなによりの幸せだと喜んでいた。
まぶたを閉じ、じっとうずくまっていた蟇は、まぶたを開けて、ぎろっと目を光らせると、短い前足をつっぱって、からだを起こし、ごそっごそっと、はいはじめた。いつもの時間に、なったからであった。
その時間になると、いつもお釈迦さまはアナンを連れて、川のほとりの道をお通りになるのだった。そして、これも決まったように、そこに、だれかがお釈迦さまの来るのを待ち受けていて、仏さまのお話をお願いするのだった。蟇は急いだ。
だが、ごそっごそっとした、のろまな足では、なかなか思うように進めなかった。ありったけの力を出して、蟇は一生懸命にはい続けた。
すでに、お釈迦さまは、アナンを連れて、いつもの所までお出でになっていた。そして、二人の男が、その足元にひざまずき、手を合わせている。お話をお願いしているのにちがいない。
蟇は、あわてて、お声の聞こえる所まで近づき、草かげに身をかくし耳を澄ませた。ちょうどよかった。そのとき、やさしい、お釈迦さまのお声が聞こえはじめた。
「ガンジス川の流れを、見てみてください。今、川の真中を、一本の丸太が、流れていくだろう。あの丸太は、こっちの岸にも、つきあたらず、人にも、とられず、渦巻きにも、巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに流されていくならば、やがて海にたどりついて
、そこで止まることになるだろうね」
「はい」
「修行をする者も、それと同じことだよ。あっちの岸、こっちの岸にも、つきあたらず、人にも、とられず、渦巻きにも巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに修行を続けていくならば、やがて仏さまにならせて頂けるのだよ」そこまで、お話を聞いたときだった。蟇は突然、背中を何かで、ぎゅっと押えられた。どうしたのかと思って、上をみあげた蟇は「あっ」と驚いて声をのんだ。
あのけだもののような牛飼いの男の杖が、のっかっていたからだ。もう、逃れる手立てなどない。「今度こそ、殺される」。そう思うと蟇の心はちぢにみだれ、とたんにお釈迦さまのお話が聞こえなくなってしまった。死にたくなかった。
しかし、よく見ると、どうも様子がおかしかった。背中を杖で押えてはいるが、牛飼いの男は、そこに蟇がいることに気がついていないらしい。どうやら、お釈迦さまのお話に耳を傾けているように見える。
そんなことってあるだろうか。へいぜい、お釈迦さまのことを、ばかにして、くそみそに罵っている、けだもののような男だ。間違っても、お釈迦さまのお話など、聞くはずはない。
それでも蟇はしばらく、注意深く男をみあげていて驚いた。間違いなく聞き入っている。
へいぜいが、へいぜいだけに、その顔つきは、真剣そのもので、遠くから、くい入るようにお釈迦さまのお顔をみつめ、ときどき頷きさえしていた。
こんな嬉しいことって、あるだろうか。今、けだもののように、気の荒いひとりの男が、救われようとしているのだ。
熱心に、聞き入っているせいで、思わず杖に力が入るのか、杖は強く蟇の背中を押えつけた。男は、蟇に、気がついていないのだから、ひょっとしたら逃げ出せるかもしれない。だが蟇は、今は逃れようとする気など、すっかりなくなっていた。
いま動けば、せっかく大切な話を聞いている、牛飼いの男の心をみだし、またとない機会を失ってしまうに違いないからだ。
その杖は、いよいよつよく、蟇の背中のイボのあるぶ厚い皮にくいこんだ。痛い。だが、ここで、からだを動かせば、もともこもない。蟇は、大きな口を、ゆがめるようにして我慢した。
そのとき、「ぷちっ」という、小さな音がした。それと一緒に、背中全体に、しびれるような痛さが走った。杖は皮を破って、肉の中へ突き刺ったのだ。
でっかいからだ全体が、食い込むたびに、ズキンズキンと痛んだ。気を失いそうに、ぼうっとなった。それでも蟇は動きもしなかった。
お前にできる、たった一つのことは、岩のように、じっとしていることだと、繰り返し、繰り返し、いい聞かせていた。まもなく、杖は、蟇のからだを、つらぬき、腹の下の土に、ぐさっと入った。
そして、蟇は、その醜いからだを、杖に支えられながら、それっきりびくとも動かなくなってしまった。背中の一面の、かさぶたのようなイボイボは、たちまち色が変わり、いっそうぶきみであった。
こんな尊い「死に方」が、どこにあるであろうか。
説話は以上です。がま仏とは、仏の功徳を象徴的に説話表現したものです<CODE NUM=00A1>私が有り難いと思うのは、私が阿弥陀仏のお話し聞く背後に、このような尊い仏さまの功徳、働き、思いやり、精進があったに違いないと思うからです。
浄土真宗は他力の教えです。私のあたりまえと思われる仏との交わりの中に、仏の働きや力を仰いでいく仏道です。
そうした仏の働きや力を仰いでいった仏弟子の情念から、こうしたがま仏のような説話が生まれたのだと思います。
4項
住職雑感
● 三月に台湾へ行ってきました。台湾にも浄土真宗のお寺がありますが、時間がなく寄れませんでした。
感じたことは、なんと迷信や俗信、占い等の多いことか。
寺に帰って思ったことは、日本には、親鸞さんや道元さんのように、仏教を自分の欲望を満たす手段としてではく、自分が明かになるという「覚」の体験を大切にして取り組まれた高僧たちが多くいたからだと思いました。
● 聖職者が逝去したり犯罪を犯したり、マスコミ報道で疑問に思ったのか、理容店のマスターから、牧師と神父の違いを尋ねられました。神父はカトリック教会で、司祭などに対して用いる尊称で、牧師は、プロテスタント教会の聖職者のことです。教会の礼拝・礼典を執行し、信徒の教育・指導、布教などにあたります。
なまんだんぶ
清風57号(05.5月号)