清風56号(05.3月号)

55号
1項

白黒二匹の鼠の喩
住職 西原祐治

ロシアの文豪トルストイの年表に【幸福な結婚生活、小説家としての名声、莫大な収入を得ているにもかかわらず、五十歳の時それまでの作品を否定し、「懺悔」を書きはじめた。作品だけでなく、妻もたくさんの子供も、巨額の印税も伯爵の地位もすべて捨て去ろうとしたが、家族達の抵抗にあう。やっと八十二歳の時遂に実行する。小さな包み一つで汽車に乗り、しかし四日目に汽車の中で熱を出し、あとを追ってきた家族にみとられて肺炎で死亡】とあります。

 五十歳の時、彼に何が起こったのか。それまで彼の生活は【自分にとって唯一の真理はー自分と家族ができるだけ幸せになるように生きる】(懺悔)ことであったようです。

 「懺悔」には、そのときの心境を仏教経典の逸話を引いて語っています。

その逸話とは【ずーと昔東洋の寓話に、荒野の中で猛れ狂った野獣に襲われた旅人の話があった】という「白黒二鼠の譬え」(以下は経典から)の話です。

 茫々として、見渡す限り何一つない荒野を、疲れた空腹の旅人がさ迷い歩き続ける。すると突如どこから現れたか、群れをはなれ凶暴と化した巨像が、旅人を見つけ、襲いかかる。
 旅人は荒野を逃げに逃げ、足ももつれ根も果て、もはやこれまでと観念したとき、目の前に空井戸が穿かれているのに気づく。

 うまいことに藤蔓もたれ、それに捕まって井戸穴に下りれば、巨像も去って行くだろうと、先ずは安心して、井戸底へスルスルと降りると、妙な殺気を感じ、見れば今時遅しと、大口を空けた大蛇が待ち構えている。

 アッと進退窮まり、身を縮めて逃れ、いい塩梅で中間にぶら下がっていれば、ひと先ず安心と回りを見ると、逃げ込めそうな横穴が四つも穿いている。しめたと思い、身を揺すり、横穴に飛び込もうと勢いをつけたら、今まさに飛びかからんばかりに、四匹の毒蛇がシャーッと狙っている。

 しかしまだ藤蔓に捕まっているうちは安心と一息入れると、カリカリと上で音がする。見れば何と黒白二匹の鼠が藤蔓を噛んでいる。

 終に命は風前の灯火と、観念したとき、藤蔓に咲くきれいな花から、一滴の甘い露が滴り落ち、旅人の唇にポタリッと落ちた。

「何と甘い蜜だろう」 旅人は、巨像も大蛇も毒蛇も二匹の鼠の事も忘れ、甘い露の落ちるのを、待ち望んだ。という話です。
 荒野は、「人生の荒波」を、巨像は「不可抗力な自然の力」。迷える旅人は「人間」、井戸穴は「幸せな家庭生活」。藤蔓は「余命」、大蛇は「死の影」。四匹の毒蛇は「肉体の病苦」、白黒の鼠は「昼夜の時」。 甘い蜜の滴りが「欲望」です。

 そしてトルストイは、【私の支柱を噛む鼠を見るに及んでは、どんな蜜の甘さも私にとっては、甘くなくなってしまったのである】と語る。その後、虚しく終わらない自分を求めたのです。

 トルストイのように、今の生活を捨てることはできなくても、トルストイが五十歳を越えて求めた道を求めることはできます。その場がお寺であり、法話会の集いです。

2項  私の話し 仏の話し

ある朝<CODE NUM=00A4>ふと思ったことです。それは築地本願寺である講演会が開催される朝のことでした。

 当初、その講演会のゲスト講師は聖路加病院の井原泰男牧師を予定していました。井原牧師は聖路加国際病院付牧師をお勤めでした。その講演の一週間前に出講できない旨の連絡がありました。それには事情がありました。

 昨年十月二十五日、何人かの仲間で聖路加病院をお訪ねしました。井原牧師から、病院のチャペルでお話を伺い、緩和ケア病棟も見学しました。

 そのときは、既に井原牧師はすい臓癌で、少し身体もキツイご様子でした。来年(二〇〇五)の一月は、生存不明で無理かも知れない。もし行ける様だったらとの前提で講演を受けて頂いていたのです。そんな事情があっての出向不可でした。
 さて講演会の朝、ふと気づいたことでした。

 ということは、十月にお訪ねする一年半位前にも、聖路加を訪問し、色々なことをお聞きしました。その二回の面接を重ね合わせて考えると、井原牧師の態度、お話しすること、お人柄、仕事に対する思い等々は、まったくお変わりなく、すい臓癌を患ってお会いした折も、おかわりなく平生のご様子でした。

 これは私の深読みかも知れませんが、私がすごいと気づいたのは、昨年のすい臓癌後ではなく、一昨年の方です。
 すい臓癌を患い命の終わりを視野に入れて、いつものようにお仕事しておられた牧師は、おそらくすい臓癌になる前も、すい臓癌になって死が視野に入ってきた時と同じ質の高さで日常生活を行っていたのではないかということです。

 私がすごいと感心したのは、すい臓癌になってからもそうですが、それ以上に、すい臓癌になる前の井原牧師の生き方です。

 父往の時、ご紹介した話です。父が食道がんを患ったときのことです。食べ物が入らなくなってからの発見で、それまで不整脈や胆嚢の摘出、脳梗塞二回、肝炎などを体験しており、この食道がんは手術を出来ないとのことでした。

 当初、私が気になったのは、「父は後、何ヶ月の生命か」ということでした。しかししばらくして、かけがえのない生命を何ヶ月という数量ではかる。それは大変に不遜なことだという思をもちました。生命を一ヶ月二ヶ月という数量にしたとたん、一ヶ月より二ヶ月、二ヶ月より三ヶ月の生命の方が価値ありという生命が物に転落してしまうからです。

 私たちは一日より二日、二日より三日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど、一日の重みが増していきます。

 そして、その極みが「今のひと時」です。ここに立つとき、「今という時は二度と巡ってこない」という永遠に巡り会えないという質をもった生命であることに気づかされます。

 死を意識することは、長い生命のうえに幸福を感ずる価値観から、生命の短さの中に、永遠を感ずる考え方に回心する最良の時でもあります。そう考えた時、父との一日一日を大切にしていくしかないと腑に落ちました。

 命の終わりにあっても、平生であっても、同じ生活をしていくしかない。しかし、同じ生活であっても、命の終わりを視野に入れたところの同じ生活は、質がだいぶ深まった同じ生活なのだと思います。

 話を戻しますが、井原牧師に感じた、すごさは、そこです。終末期になっていつもの如く生きるすごさと、死期の分らない平生の時、終末期を視野に入れたが如く平生に生きる。これは同じことであり、井原牧師に感じたすごさです。

 芭蕉は、去来や支考から辞世を求められたとき「きのうの発句は今日の辞世、今日の発句はあすの辞世、我が生涯云い捨てし句句一句として辞世ならざるはなし、もし我辞世はいかにと問ふ人あらば、此年頃いひ捨て置きし句いずれなりとも辞世なりと申し給はれかし」(花屋日記)と語ったという。これも同じことです。

 さて、以上のことは、「生き方」の問題です。これは私の上の話しです。

 私の生き方も大切ですが、もっと大切なものがあります。それは仏さまの話しです<CODE NUM=00A1>
 親鸞聖人が明らかにして下さった浄土真宗では、生き方は語りません。私の上の話しではなく、阿弥陀様の話しです。
 生き方を語らないとは、どんな生き方でも良いのではなくて、人間のいよいよのところ(本質)は、生き方を語っても、どうにもならないものを抱えているということです。これは阿弥陀仏の人間理解です。

 頭では分っていても、事実としては、自分の意志では解決不可能な根性をもっている。そのまま救われていくしか、救われようのない存在。それが私の本質だというのです。

 「大無量寿経」には阿弥陀仏は【無蓋の大悲をもって】私を救うとあります。無蓋(むがい)の蓋は、フタのことです。フタは、常にフタをされる側の条件を規定します。大きなどんぶりに小さなフタでは役に立ちません。無蓋とは、条件なしということです。

 阿弥陀仏は、私に一つの生き方を示すことなく、無条件の慈しみを提示されたのです。

 その阿弥陀仏の教えを聞きつづけていると、なぜ阿弥陀仏が無蓋の大悲を提示されたのかという事がヒントとなって、私の本質が明らかになってきます。 虚しく終わっていく命の終わりにあって、虚しく終わっていく命ゆえに、生き方を示さず、無条件に救うという大悲を起こされたということが、虚しく終わっていくいのちに潤いを与えてくれます。

 浄土真宗は、私の話しではなく、阿弥陀様の話を聞く宗教です

4項

住職雑感

●【風が吹くと桶屋が儲かる】という物事の道理(?)を示した言葉があります。風が吹く→ホコリがたつ→目にホコリが入る→目が不自由は人が増える→三味線で弾き語りをして生計をたてる→三味線が売れる→三味線を作るために猫の革がいる→猫が捕られる→猫が少なくなる→ネズミが増える→餌が足りなくなる→桶までかじるようになる→桶に穴があく→桶が売れる→桶屋が儲かる。というものです。

 なぜこのことを紹介したかというと、私が書く文章に多く、この現象が見られるからです。どういうことかといえば、今、この住職雑感を書いています。

 まず【風が吹くと桶屋が儲かる】式に、たどり着いた文章への思考遍歴を書いて見ます。何を書こうか→新年会の折の余興、三味線を紹介してみよう→まてよ三味線の三味はザンマイと書く。これは仏教用語、三味線は何か仏教と関係あるのでは→三味線と仏教は直接的には関係ないことを知る→なぜ話がうまくいかなかったかというと三味線の三味の味と、仏教の三昧の昧は、字が相違していた事に気づく。大方、こんな具合で文章を書きながら、一つのコラムが出来上がっていきます。今回は「味」と「昧」を間違えたので、数行で終わってしまいました。が、数行で終わってしまったことから、この雑感が生まれています。やはり風が吹くと桶やが儲かるでまとまりました。

● 一月の新年会余興のゲストは栗原隆次でした。栗原さんは、プロの津軽三味線ソロ演奏家です。NHK紅白「望郷ぎょんがら」などにも出演された方です。さて明年のゲストは?