1項
1リットルの涙
映画「1リットルの涙」が劇場公開されます。この映画は、木藤亜也さんの物語です。彼女のことは、ご自身で書かれた「1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記」(木藤亜也著)で詳しく知ることができます。難病「脊髄小脳変性症」を患い、中学校三年の夏ごろから歩行障害があらわれ、十八才の年にはすでに他人の力を借りないと日常の生活が営めなくなる。『1リットルの涙』は、発病前の十四才の年から書き始め、筆が持てなくなった二十一才までの八年間、日記を綴り続け、五十冊におよぶ日記ノートの中から、彼女自身で編集し、存命中に出版したものです。母親、木藤潮香さんが娘さんを見つめ続けた記録を綴った『命のハードル』と共に映画の原作になっています。
十五才のときの日記には「体育の成績、中一=3・中二=2・中三=1・悔やしい、努力が足りないのか。夏休中サーキット・トレーニングでちょっとは体力が向上すると期待したのに、やっぱり駄目だった。-----」と、気づかないうちに病気が進行している状況が綴られています。そして高校進学。ますます悪化する病状と、養護学校への転校問題。悩み多き日々の気持が認められています。
「養護学校に行けば亜也ちゃんは特別でなくなる」そういう友達の言葉に「私は生れ変わりました。身障者であっても知能は健常者と同じであると思っていました。-----先生も友達もみな健康です。悲しいけどこの差はどうしようもありません。-----わたしは身障者という重い荷物を、ひとりでしょって生きていきます。こう決断を下すのに一リットルの涙が必要だったし、これからも、もっともっといると思います-----」。十六才の冬のことです。
手足のみならず、話すこともしだいに苦痛になってきます。十九才の日の「大丈夫、大丈夫、-----」と百回も、くりかえし書かれた文字の乱れから彼女の心境を知ることができます。そして二十一才の最後となった日の日記に「感謝の気持を、どんなふうに示せばいいのだろう----」と綴られています。
病気は徐々に悪化し「お母さんまだ生きたい…」と願った彼女は「ありがとう…」の言葉を残して二十五歳と十ヶ月の生涯を閉じました。
体力や動ける自由を失いながら、失うという体験を通して、その自分を支えてくれている人たちへの感謝の思いが広がっていきます。死の危機は、心のある部分を覚醒させていくようです。身体能力という可能性の断念を通して、深まっていく心。私たちは、身体に障害をもつ人や不治の病を抱えて生きている人たちから、病気の持っている意味や自分へのおごりなど、もっともっと学ぶ必要があるようです。この映画は十月より全国ロードショーだと報道されていました。
2項・3項
言葉の背後にある母の働きかけ
金子みすゞが育った先崎(山口県)の地は、世界最古の日曜学校といわれる「小児念仏会(こどもねんぶつえ)」があり、みすゞの時代も市内各寺院で盛んに行われていました。またみすゞの墓のある金子家の菩提寺は浄土真宗本願寺派遍照寺です。三歳のときに父を亡くした彼女は、自宅の仏壇で母と祖母が父に向かってあれやこれやの出来事を報告する姿や、毎朝お仏飯を供え、朝夕に灯明をともして手を合わせる姿を見て育ちました。彼女自身もよく手を合わせていたそうです。
彼女の小学生時分には、金子家の二階で西福寺(大津郡三隅町)の和田道実住職を中心に仙崎小学校の教員ら六名が集まって『歎異抄』を読んだり、法話を聞いたりする会がもたれており、彼女も祖母や母と共によくその会に顔を出していたと伝えられます。仙崎は"念仏繁盛"の地であったのです。金子みすゞ自身「報恩講」という歌を残しています。
その金子みすゞの年表(一九〇三〜一九三〇)には、「大正末期から昭和初期の童謡詩人。‥結婚運が悪く生活は不遇。一人娘(村ふさえ氏)をもうけたが一九三〇年(昭和五年)に離婚、病魔にも冒されており、直後の三月十日に自殺した。享年二十六歳」とあります。
病状が悪化する中、離婚した夫から三月十日に娘をひきとりに来るという手紙が届きます。その前日九日のことです。亀山八幡宮にお詣し、隣の三好写真館で最後の写真を撮り、ひとり娘ふさえをお風呂に入れながらたくさんの童謡を歌う。そして皆で桜餅を食べる。月がきれいなその晩、三通の遺書をしたため、カルモチンを飲み、自ら生命を絶ちました。
残された当時、三歳だった子どもには母の記憶はありません。娘はその後成長し十五歳になります。ある日、偶然にも仏壇の棚の箱にあった父宛の遺書を見けます。「ふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから母(祖母)に育ててほしい。あなたが与えられるのはお金であって、心の糧ではありません」。親権がどうのという時代ではありません。自分の命と引きかえに、別れた夫に自らの意思を伝えます。しかし、娘のふさえさんは、その遺書を見て、「やはりお母さんは、愛なくして結婚し、子どもを産み、そして私は捨てられたんだ」と思ったといいます。
数百編の詩が発見されて金子みすゞが爆発的に人気がでたのは一九八四年全集が刊行された後のことです。
その後、ふさえさんは転居を重ねる中、「母に捨てられた」という思いと共に、母のただ一つの形見の表題に「南京玉」と書かれたあずき色の小さな手帳を持ちつづけました。その手帳は、母である金子みすゞが亡くなるひと月前まで、娘のおしゃべりを書き取っていたものです。
ある年、母が書き留めた手帳の文字を、初めて声に出して読んでみた。「桃太郎」や「因幡の白兎(しろうさぎ)」。絵本の名や物語をたくさん口ずさむわが子の声を書き留めた手帳の文字、その行間から、その物語をわが子に読み聞かせる母の声が響いたといいます。
手帳には、ひとり子ふさえの片言のおしゃべりを、色とりどりの「南京玉」に例えて、大切に大切に書き留めています。
「なんきんだまは、七色だ。一つ一つが愛らしい、尊いものではないけれど、それを糸につなぐのが、私にはたのしい。この子の言葉もそのやうに、一つ一つが愛らしい。人にはなんでもないけれど、それを書いてゆくことは、私には、何ものにもかへがたい、たのしさだ」。みすゞは手帳の巻頭に、こう書いています。宝物のように番号を付けた言葉が、各ページにあふれています。幼児の口から漏れる言葉の背後には、母の思い入れと慈愛のまなざしがあります。
このことは「南無阿弥陀仏」のお念仏も同様です。母と呼ぶ声の背後に、そう呼ばせた母の存在があるように、「南無阿弥陀仏」と称える背後には、み仏の存在があります。
その心を、甲斐和利子さんは、【み仏のみ名を称うるわが声は わが声ながらとうとかりける】と詠んでいます。「南無阿弥陀仏」の念仏を通して、私を救うという阿弥陀如来の慈しみに出遇っていく。「南無阿弥陀仏」と称えることは、これから仏に出会っていくためのスタートではなく、阿弥陀仏の大悲が私の上に成就した満願成就のときなのです。これが他力回向の念仏です。
『報恩講』
金子みすゞ
お番」の晩は雪のころ、
雪はなくても暗のころ。
くらい夜みちをお寺へつけば、とても大きな蝋燭と、
とても大きなお火鉢で、
明るい、明るい、あたたかい。
大人はしっとりお話で、
子供はさわいぢゃ叱られる。
だけど、明るくにぎやかで、
友だちゃみんなよってゐて、
なにかしないぢゃゐられない。
更けてお家へかへっても、
なにかうれしい、ねられない。
「お番」の晩は夜なかでも、
からころ足駄の音がする。
4項
住職雑感
* 過日、築地で開催された「みのり会研修会」に参加しました。
ご講師の本多静芳さんが、「人は勝ち負けが原因で自殺する。動物の中で勝ち負けにとらわれているのは人間だけ」という話がありました。聞いてみればその通り。ライオンが戦いに負けて自殺したという話は聞きません。動物園で「世界一恐ろしい動物」と書いた立て札につられて覗(のぞ)いたら、自分すなわち「人間」が映し出されていた…という笑い話があります。人間が一番賢いとする思い上がりが、最も危険な考え方であると仏教では説いています。家庭に頭を下げる空間(お仏壇)があることは、それだけでも意味のあることだと思います。
*ペットのお墓というと、最近のように思われます。しかし動物の供養塚は、江戸時代より各地に見られます。
親鸞聖人『顕浄土真実教行証文類』には「諸天・人民・ケン飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん」と阿弥陀如来の大悲は動物や虫までもに及ぶとあります。
ふと子供が小さい頃のことを思い出しました。それは小学校1年の長女と幼稚園に通う次女との車の中での会話でした。私の町では一日二名死亡するという話しとなりました。私が次女に『死んだらどこへ行くんだっけ』と尋ねます。すると娘は『砂の下』と言います。私は思いがけない(?)答えに長女に同じ質問をしました。すると長女は『仏さんのところ』と答えました。そして私と長女はふたりで『砂の下だって』といって吹き出して笑ってしまいました。その笑いの中には一緒の所でよかったねという優越感があったためか
、次女はすねて怒り出してしまいました。
夜になって次女が私の所に来て『仏さまの所の砂の下だもん』といいます。私は『みんな一緒でよかったね』といいました。するとそこに座敷犬が歩いてきたので、傍らで聞いていた長女が、少し不安そうな顔をして『キャラ(犬の名)ちゃんは?』と私に尋ねます。私は『キャラちゃんも仏さまの所だよ』というと安心した様子で笑顔になってくれました。また私は『みんな一緒でよかったね』といったことです。
私の積んだ功徳で浄土へ行くのではありません。すべてを摂取するという阿弥陀仏の功徳によって浄土へ生まれていく教えです。それが浄土真宗というご法義です。