[かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた]。
ご存じの窪田聡氏作詞の「かあさんの歌」です。「NHKふるさとの歌百選」に収録されているこの歌は、森進一の「おふくろさん」と共に、母さんを讃える歌・母さんに感謝する歌として、広く皆に親しまれています。結婚式の最後を飾るフィナーレでご両親への花束贈呈の際のバックミュージックによく使わるとも聞きます。
窪田聡さんは、高校時代に太宰治に心酔し、デカダン(享楽的)な生き方に憧れ、授業をさぼって 映画・煙草・酒、の日々を送っていたそうです。そんな中、雑誌「高校文学」全国小説コンクールで最終選考に残り、文学で生きようと家出を目論みます。尋常小学校しか出ていない両親の気持ちを踏みにじり、大学入学金・授業料を元手に家出、都内に隠れ住み、就職。同時に中央合唱団研究生になります。
給料の半分は下宿代、苦しい生活を送る彼の目には、明るくロシア民謡を歌う人々は光り輝くように映り、とうとう文学を捨て共産党に入党。そんなある時、次兄が彼の下宿を探し出し、母より小包が届き始めるのです。「体を壊すな」の手紙つきで、好物・手編みのセーター・ビタミン剤…母の優しさを身にしみて感じたことでしょう。
その後「働く者の音楽」というジャンルで作詞・作曲を開始し、ある時「うたごえ新聞」に発表。それが反抗心で一度も「かあさん」と呼ばなかった窪田さんの歌です。
この歌は、その父母への思いと、一年間疎開で身を寄せた信州新町(当時の上水内郡津和村)の叔父の家で暮らした印象が重なってできた歌だそうです。疎開先であった信州新町にある「奈津女橋ミニ公園」に、この歌の歌碑が建っています。
どんな時でもお母さんが暖かく見守ってくれていた。「子育てを一つの事業と考えたとき、産み、育て、躾ける、きちっとこの事業を成し遂げたのは、この母たちの時代までだったのではないか」と窪田さんは語ります。
阿弥陀仏の慈しみは母の愛の例えられることがよくあります。阿弥陀仏の願いは、私を念仏申す身に仕上げるというものです。なぜ念仏申すことを、そのように重要視されたのか。それは、念仏が仏に近づく行為ではなく、私をそのまま救うという如来の存在の証だからです。
「かあさんの歌」
かあさんは 夜なべをして
手ぶくろ 編んでくれた
こがらし吹いちゃ
つめたかろうて
せっせと編んだだよ
故郷のたよりはとどく
いろりのにおいがした
かあさんは 麻糸つむぐ
一日 つむぐ
おとうは土間で藁打ち仕事
おまえもがんばれよ
故郷の冬はさみしい
せめて ラジオ聞かせたい
……
……
2項・3項
くじらの愛
クジラ漁を生業としていた各地にクジラ供養塚があります。金子みすずの故郷、仙崎(山口県)もその一つです。みすゞの詩の中に《鯨捕り》や《鯨法会》という詩があります。
「鯨法会」
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
濱のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁夫が羽織着て、
濱のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こひし、
こひしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、
ひびくやら。
金子家は浄土真宗遍照寺の門徒で、みすゞ自身同寺に埋葬されています。 捕鯨船がクジラを獲るとき、クジラの親子がいれば、子クジラを最初に追うといいます。そうすれば、親鯨は絶対に逃げず、必死になって子鯨を守ろうとして、親鯨も子鯨も両方とも捕まえられるのです。
クジラは子を宿してからお腹の中にいる期間は,ほとんどのヒゲクジラが約11ヶ月。一番長いマッコウクジラで約十六ヶ月ほどだそうです。お乳を飲む期間の、ほとんどが人間と同じ、中には十六ヶ月というデータもあるようです。授乳はといえば,赤ちゃんクジラは水中に長く潜っていられません。短い時間でたくさんのお乳を飲むことができるようにするために、お母さんクジラのおなかの溝から,細長い乳首がとびだして,赤ちゃんクジラにお乳を注ぎ込んであげる仕組みになっています。ある水族館で観測されたバンドウイルカの赤ちゃんが1回にお乳を吸う時間は,わずか数秒間だったと聞きます。
クジラは夫婦・親子の情が厚く、それを利用して捕鯨をしていたのです。母クジラは子クジラが捕えられると、自らは一旦逃げることができても、子を心配する余り再び漁場に戻ってきたりして、子クジラを探し回っているうちに捕獲されてしまうのです。捕鯨を生業とする海の男たちも、さすがに同情の念を持ち、せめて供養だけはしっかりしようという気持ちになったようです。
鯨供養の発端は、宝暦のはじめ頃(一七五二年頃)のある年の元旦、一人の羽差(はざし・鯨頭に銛を刺す役目、重要な仕事であるため、地位も高い。)が夢を見た。 ある親子連れのクジラが「弁天様にお参りに行く途中なので(おなかの子どもを出産するまでは…という説もある。)、お参りが済むまでは見逃してほしい。」とお願いをするもので、羽差は目が覚めてから漁をやめさせようとしましたが、親子鯨はすでに捕獲された後でした。悔やんで家に帰ったところ、梁の上にしっかりとしまっていたはずの銛が娘の胸に突き刺さっており、すでに娘は息絶えていました。その羽差は落胆のあまり、その亡骸を抱いて町中をさまよい歩き、とうとう発狂して自殺してしまったと伝えられています。
この悲劇的な伝説を契機に宝暦五年(一七五五年)、クジラ一頭分の代価でクジラの霊を供養するため呼子町に石上山龍昌院が建立されたといわれています。この境内には今も二基の供養塔があります。
クジラは哺乳動物です。動物を仏教では畜生と言います。畜生は、見てくれや姿・形を示した言葉ではありません。「恥じらいのない者を畜生という」と【涅槃経】にあります。自分だけのエゴに閉じこもり、自分や他人を傷つけている存在を畜生と言うのです。
愛情の深いクジラは、どうも畜生に分類されないようです。仏教では姿ではなく、心のあり方によっていのちある存在を分類します。それが地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界の思想です。
では私はどこに分類されるか。親鸞聖人は「地獄一定」と自らの存在を洞察されました。自分は地獄に行く行為しかしていないというのです。だからこそ、ご自身の中に、もし念仏や仏を礼拝するといった仏の香りものがあるとすれば、それはひとえに仏の働きの仕業と仏力を仰いでいかれたのです。木の葉がゆれる背後に風の働きがあるように、仏のと交わりはすべて如来の働きであると。
4項 住職雑感
● 父は昨年逝去しました。晩年三回目の脳梗塞になりました三回目の折り、言葉は勿論、無反応状態になったことがあります。脳の機能は、失われた部分を他の部位が補い回復してくると言いますが、言葉は回復しませんでした。しかし、次第次第に、月単位で周りに居る者が、誰なのかが判るようになりました。
まだ無反応状態の時、私はベットに寝ている父を見舞いました。母は留守で、父と二人っきりの空間でした。少し時間が経過したとき、私はその場所に長く居づらい落ち着かなさを感じたのです。反応が返ってこない故にの戸惑いでした。それは父とコミニケーションが持てないことからきていました。
私はその戸惑いの中で「させて頂く」ということを学んだように思います。病床にある人に何かをさせて頂く。それは強い者が弱い者の為にする菩薩的な行為ではありません。何も出来ない状況の中で、私が患者(父)とコミニケーションが取れない中で、安心し患者の側に居ることができる行為なのです。爪を切るとか、ヒゲを剃るとか、何かをさせて頂くことによって、安心して私がその場に居ることがでます。それほどに私という存在は「無力」の場に身を置くことは不得手なのです。「させて頂く」とは、私の利益に関わる行為だということです。
● 二月八日の仏教壮年会主催「仏事教室」(?)は、盛況でした。第一回目は仏壇について学びました。四月の第二回目は「お経を読む」ことを学びます。どなたでも参加になれます。
● お彼岸は住職が法話をします。あまり期待せずご参詣下さい。