1項 月のうさぎ
お釈迦様の過去の逸話を綴った物語をジャータカと言います。その中に、月のウサギの話しがあります。まずはご紹介します。
昔、ある森に一匹のウサギと、友達の猿と、ジャッカルとかわうその四匹が仲良く暮らしていた。四匹は共に賢く、夕暮れになるといつも集まっていた。
ある日ウサギは、みんなに「もし明日、乞食の人が来たら、ご自分が食べるものの中から何かを施して下さい」と言いました。三匹は、それぞれに食べ物を探してきました。しかしウサギには草しかありません。ウサギは考えました。「私のところにきた乞食の人に、草を施すわけにはいかない。ごまも、米も無い。乞食の人が来たならば、私はこの体の肉を施そう」。
このウサギの思いを知った天上の帝釈天は、ウサギを試そうとバラモン僧の姿になり、ウサギの所へと行きました。ウサギは喜んで迎え、「今日私は、これまでにしたことの無い施しをいたします。しかしあなた様は殺生はなさらないでしょうから薪を集め、火をおこして、私に知らせてください。私はその中に飛び込みます。私の体が焼けましたら、その肉を召し上がって、ご修行をお続けください」と言った。
これを聞いた帝釈天は、神通力で火を作るとウサギに知らせます。するとウサギは火の中に飛び込みました。しかし毛筋一本も焼けず、冷たいままです。驚くウサギに帝釈天は身分を明かし訳を話しました。
それを聞いたウサギは「たとえこの世の凡ての人が試そうとも、私に施しを惜しむ心はありません」と告げた。
帝釈天は、この賢いウサギの徳を永遠に残そうと、山を握りつぶした汁で、月の面にウサギの姿を描き、天に帰っていったという。
月にウサギらしき模様が見えるという一つの事実があります。その事実に対して、どれだけ豊かな思いを想像できるか。ここにその国の文化があります。その物語を心に宿している人は、月のウサギを見るたびに、その豊かな物語を思い浮かべることができます。
「無量寿経」というお経には、私がいま念仏を称えるという事実の背後にある、豊かな物語が説かれています。阿弥陀仏が称えられる「南無阿弥陀仏」というお念仏の仏に成ったという物語です。
法蔵菩薩という菩薩が、すべてのいのちあるものを救いたいと発願し、長い間思惟した。その結果、「頑張りなさい」「努力しなさい」「悔いなく生きなさい」……などと私に願いや理想を告げるのを止めたというのです。
私にあるべき理想を願うのを止め、その願いを自ら大悲の深さに向け、不完全は者を抱き取れる慈しみの仏に成ることを念じた。そして「南無阿弥陀仏」の如来と成ったという物語です。 念仏を喜ぶ者は「南無阿弥陀仏」と称える中に、阿弥陀仏の慈しみに出会っていきます。月のウサギを通して、豊かな物語を思い浮かべるように。
2項・3項
過日、ある団体が創作童話の募集をしていました。お得意の所と、いつもの話しを投稿しました。
題して「耳と鼻のひそひそ話し」です。
ある夜のことでした。耳さんがお鼻さんに言いました。「きみはいつもお顔の中心にいていばっているけど、それはずるいと思うよ。たまにはぼくと場所を交換してくれよ」。お鼻さんは驚いて耳さんに言いました。「ぼくはここで大切な仕事をしてるんだ」。耳さん「きみのお仕事は知っているよ。息を吸ったり、臭いをかいだりするんだろ。息を吸ったり、臭いをかぐくらいなら、ぼくの場所だってできるよ」。鼻さん「それもぼくの仕事だけれど、ぼくはねー、ここでお口に腐ったものや、変な臭いのするものが入らないように見張り番をしてるんだ。だからここでなきゃ駄目なんだ」。耳さん「なーんだ、きみはそんなお仕事もしていたのか」。
するとこんどは鼻さんが耳さんに言いました。「きみこそずるいよ。二つもあって。ぼくはここで大切な仕事をしているんだから、一つぼくに貸してよ」。耳さん「ぼくだって、ここで大切な仕事をしているから駄目だよ」。鼻さん「きみのお仕事は知っているよ。音を聞いたり、メガネのつるをかけたり、たまには宝石をぶら下げたりするんだろ。音は一つでも聞こえるし、メガネのつるだって、ひもで縛っておけば大丈夫だよ。宝石だって一つの方が安上がりだ。ねえ、いいだろう。一つぼくにゆずってよ」。耳さん「あのねー、ぼくはここでいつも寝ないで仕事をしているんだ。もしぼくが一つで、寝ている時に、その一つが枕でふさがっていたらどうなる。火事だーってサイレンが鳴っても聞こえないだろう。ぼくはいつでも、どこからでも音が聞こえるように、レーダーのような形をしてからだを守っているんだ」。鼻さん「きみはそんなお仕事をしていたのか」。
そこで耳さんと鼻さんは探検に行くことにしました。
「お口さん、きみはどんなお仕事をしているの」。「ぼくは、ご飯を歯でかんで柔らかくしたり、声を出したり、息を吸ったりしているんだ」。すると奥の方から声が聞こえてきます。「おいおい、ぼくだって、ここで大切な仕事をしてるぜ」。鼻さんが声が聞こえた奥の方をのぞきこむと、何かべろんとしたものがぶら下がっています。のどちんこさんです。鼻さんは声をかけました。「きみはいつも、ブランコみたいに上からぶら下がって、ぶらぶらぶらぶら、楽しそうだね」。のどちんこさんは少し怒って言いました。「ぼくはここで、ぶら下がって遊んでいるんじゃないんだ。ぼくはねー、ここで、ご飯がお腹に入るときは、肺といって空気を貯めている袋に、ご飯が入らないように、空気が通る穴をふさいぐこと。それがぼくの仕事さ」。「へー、きみもお仕事しているのか」。
「おーい、きみたち何をしているの」。目さんです。耳さん「うん、みんなのお仕事を聞いているんだ」。目さんは得意になって言いました。「このからだは、私がいないと生きていけないのよ。なんたって、食べものだって、私が見て、食べ物か食べ物でないか判断するし、道を歩けるのも、危険から身を守っているのも、私の仕事。私がいるからみんな安心して生活ができるのよ」。
それを聞いていた耳さんは目さんに言いました。「だけど目さん。きみは一日の半分ちかくお昼寝してるじゃないか。のんきなものだよ」。ムーとした目さんは負けじと言い返しました。
「あのねー、私は好きで昼寝しているんじゃないのよ。いつも起きていて、色々なものを見ていたいの。でもそうすると、頭の中の色々なことを考えることをお仕事にしている脳さんが、熱を出してグロッキーになっちゃうの。脳さんを休めるために、お休みしているのよ」。目さんは、ますます調子に持って、昨日見たこと、今日見たことを語りはじめました。
みんなはその目さんの自慢話をあきれて聞いていました。「ねえねえ、目さん。あなたは、何でも自分でやってるように思っているけど、それは少し甘いんじゃないの」。
口をはさんできたのは、まぶたさんです。「私があなたを危険から守ったり、車のワイパーのように、いつもあなたを磨いたり、水で湿らせたりしているのよ。まつ毛さんだって、光を和らげたり、汗やゴミからあなたを守ったりしているのよ」。目さんは少し調子に乗りすぎていたことに気がつきました。
そのようすを見ていたおでこさんはにっこりしながら言いました。「みんな大切なお仕事をしているんだね。ぼくだって、何にもしていないように見えるけど、脳さんが熱を出した時、汗を出して熱を下げたり、冷たいタオルをぼくの上に置いて脳さんを冷やすんだ。また脳さんの熱で、みんなが病気にならないように、ここでみんなを遠ざけてふんばっているんだよ。たまにでこピンをやられて痛い目にあうけど、それがぼくの仕事だと思って暮らしているのさ」。
おでこさんのでこピンの話しで、みんな笑い出しました。耳さんが見ると、みんなが輝いて見えました。
4項 住職雑感
● 十月に、大分県宇佐市にご門主の随行で伺いました。
朝食の折りの会話です。私は以前から感じていた疑問をお尋ねしました。
その疑問とは、本願寺派が用いている「食前の言葉」についてです。
「み佛と皆様のお陰により、この御馳走を恵まれました。深く御恩を喜び、有難く頂きます」と言います。
この「み仏のお陰により」は、魚の活け作りを前にしては、「み仏のお陰」とは言えません。仏の名において、殺生を肯定することになってしまうからです。
ご門主も、以前からこの食前の言葉については疑義を持っておられたご様子で、この言葉が生まれた背景を、推察され教えて下さいました。
「これはきっと、お寺で生活している人から生まれた言葉だと思います。お寺で生活している人は、み仏のお陰によって食事(衣食住)が恵まれる。自然と「み仏と…」となる。一般の人にはそぐわないのではないか」とのことでした。
● 本願寺派では、二十数年前は「斎食儀」を唱えていました。
われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、この美(うるわ)しき食(しょく)を饗(う)く。一同: つつしみて食の来由(らいゆ)を尋ねて味の膿淡(のうたん)を問わじ。つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。「戴きます」
● ちなみに浄土宗では、
われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みを思い、その労を謝し奉る。(または「みひかりのもと、今、この浄き食を受く。つつしみて、天地の恵みに感謝いたします」)南無阿弥陀仏(十念)いただきます。
● カトリックの食前の祈りは、
主、願わくはわれらを祝(しゅく)し、また主の御惠(おんめぐみ)によりてわれらの食せんとするこの賜物(たまもの)を祝したまえ。われらの主キリストによりて願い奉(たてまつ)る。 アーメン。 聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との御名(みな)によりて。 アーメン。
● 私の新案は「つつしんでこの恵みを喜び、尊いみ名を称えつつ感謝の内に励みます。南無阿弥陀仏」。
このくらいで良いのではないかと思っています。
*「食前の言葉」には、みな対句で「食後の言葉」があります。