1面 思いを育てる
夏を「告げる鳥」と書いて、「時鳥」(ほととぎす)といいます。和名は、その鳴き声からで、「テッペンカケタカ」というそうです。「東京特許許可局」とも聞こえると言います。ホートットキーと鳴くのでほととぎすと名が付いたという説もあります。
このほととぎす、酒飲みが聞くと「一杯つけたか」となり、主婦が聞くと「大根漬けたか」となり、学生が聞くと「満点取れたか」となり、髪の薄い人が聞くと「てっぺん禿げたか」と聞こえるとも言われます。
そんな事を思いながらインターネットで遊んでいると、同様なことについての民話を見つけました。
「いもくび食ったか」という民話です。
むかし、大野村に兄さんと弟が二人で住んでおりました。兄さんはまったく目が見えませんでした。そんな兄さんのために、弟は朝早くから夜おそくまで一生懸命に働きました。そして兄さんがよろこぶことなら、どんなことでもしてあげました。それは弟にとっても、一番うれしいことでした。
川に行けば川の魚の一番おいしいところを、山に行けば山でとれる一番おいしいものを兄さんに食べてもらうのが、なによりの楽しみでした。その中でも兄さんの好物は山芋でした。弟は兄さんにいつも山いものおいしいところを食べさせ、弟は山いものくぴのまずいところばかりを食べていました。
兄さんはこう思いました。自分はいつもおいしいものばかりを食べているが、目の見える弟はきっと自分よりもっとおいしいものを食べているにちがいないと。うたがいは日に日に強くなり、ある日とうとう弟を殺して腹の中をしらべてみたのでした。
いいものばかりを食べていると思っていた弟の腹の中には、山いものくびのまずいところばかりしかありませんでした。兄さんはそのことをはじめて知って、弟のやさしさがわかり、とりかえしのつかないことをしてしまったと、弟を泣き泣き川のそばにうめてやりました。
それから毎年、ほととぎすがなくと「いもくびくったか」と聞こえてきて泣いてくらしたという話しです。
同じことを聞き、同じことを見ても受け取り方は千差万別です。その思いを育てていくところに一つの道があります。これが人格の成長ということです。「南無阿弥陀仏」と聞いて、どんなことが思いが浮かびますか。その思いが育てられて行く場がお寺です。
2面 手まりをする良寛さん
良寛(一七五七―一八三一)さんはまりつきには、そうとうの自信があったらしい。
てまりについての良寛さんの歌です。
袖裏繍毬直千金
(袖の中の手まりは
私のたからもの)
謂言好手無等匹
(私より上手なものも
見当たらない)
箇中意旨若相問
(どうしてそんなふうに
つけるのか)
一二三四五六七
(すなおに
いちにさんしごろくしち)
てまりの極意は、こころを静めて無心に一二三四五六七とつくという。おそらく良寛さんが書を書くときも同じような作為のない境地であったのだろう。
良寛さんは、なぜ手まりに興じたのか。ここにただ事でない良寛さんの思いがあったようです。
良寛は越後出雲崎の人です。生涯托鉢の雲水として越後の農民のなかで乞食(こつじき)して暮らし、子どもたちと、手まりをつき、はじきをし、若菜を摘み、阿弥陀仏に関わる歌をいくつも残しています。
江戸時代、信濃川は、平均すれば三年に一度の割合で氾濫していていました。良寛が生きていた時代、越後平野はほとんど毎年のように洪水が起きていたのです。その結果、村民は子どもを売るしか手だてがなかったのです。
「蒲原口説き」という、洪水被害者の哀しい唄があります。
蒲原口説き
雨が三年旱(ひで)りが四年
出入り七年困窮となりて
新発田様へは御上納ができぬ
田地売ろうか子供を売ろか
田地や小作で手がつけられぬ
姉はじゃんかで金にはならぬ
妹売ろうと相談きまる
さらばさらばよお父っちゃんさらば
さらばさらばよおっかさんさらば
まだもさらばよみなさんさらば
新潟女衒(ぜげん)にお手々を引かれ
三国峠のあの山の中
雨はしょぼしょぼ雉ン鳥は鳴くし
やっと着いたは木崎の宿よ
木崎宿にてその名も高き
青木女郎屋というその家で
五年五ヶ月五五二十五両で
長の年季を一枚紙に
封じられたは悔しゅうもないが
知らぬ他国のペイペイ野郎に
二朱や五百で抱き寝をされて
美濃や尾張のいも掘るように
五尺からだの真ン中ほどに
鍬も持たずに掘られたが悔しいなあ
年貢を取りたてる代官や名主は、子どもを売るぐらいしか工面の方法がないことを知りながら、水牢などの拷問を用いたといいます。
洪水に苦しむ村民たちの貧困を痛いほど知りつつも、何もできない良寛は、売られていであろう里の少女たちに、かける言葉もなく、ただ一緒に手まりを突いて時を過ごしたのです。
霞たつながき春日を
こどもらと
手まりつきつつ
この日暮らしつ
この里に手まり
つきつつ子どもらと
遊ぶ春日は
暮れずともよし
と詠んだ良寛さん。袖の裏にいつも手毬を忍ばせて托鉢し、里のこどもに会えば一緒に遊んだ。
上州木崎、今の群馬県新田町木崎は江戸時代、日光へ続く街道の宿場町として栄えた。その木崎に、良寛が住んでいた越後国地蔵堂(現・新潟県分水町)や寺泊出身の女性の墓が多いことに、群馬県高崎市の郷土史家・永岡利一さんが十数年前に気づき、その事実を発表しています。年代も文化・文政など良寛と重なっているという。
墓を建てた人は、その多くが地元の飯売り旅篭(はたご)の経営者(売春宿)で、同種の墓が木崎に約三十基、県全体で約八十基見つかっているという。また何人かの少女たちの身売り証文も地元に残っているそうです。全国に間引きが蔓延しいた時代です。
売られた少女たちには、過酷な生活が待っています。越後出身の「はつ」という娘が木崎の役人に助けを求めた手紙には、性病に苦しみ、仕事を休もうとすると主人に暴行される毎日が綴られているといいます。一度は逃亡したが連れ戻され、激しく折檻されたとも書いてあるそうです。そんな日々の末、ほとんどの少女が二十代前半で死んだそうです。
子どもたちの行く末知っている良寛さんは、同情しても何も出来ない状況下で、手まりをついたのです。せめて、今のこの日を「暮れずともよし」と歌う以外なかったのでしょう。
まりをつく良寛さんの心情は、この少女も私も共に阿弥陀仏に救われていかなければならない存在として念仏していたに違いない。この少女もこの良寛も、共に阿弥陀仏に救われていくしか救われようのない現実。その現実の中で、少女と共にひとときを楽しんだのであろう。
良寛さんの阿弥陀仏の歌
おろかなる身こそ
なかなかうれしけれ
弥陀の誓いにあふと思えば
草の庵に
寝ても醒めても申すこと
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
良寛に
辞世あるかと人問はば 南無 阿弥陀仏といふと答へよ
4面
住職雑感
● 春風亭柳昇さんが逝去された。「大きいことをいうようですが、いまや春風亭柳昇といえば、わが国では私一人でありまして…」の言葉は、ユーモアに溢れた名言です。
● 闇を知る人は光に対して敏感です。
瞬きの詩人と言われた人がいました。キリスト教詩人水野源三(一九三七−一九八四)さんです。長野県坂城に生まれ、九歳の時赤痢にかかり、高熱が続いて生死の狭間を四年間さまよった末、後遺症のため体と言葉の自由を奪われました。以来四十七歳で逝去されるまで生涯のほとんどを六畳間だけで過ごされた方です。
意思表示の手段としては、瞬きをするしかなくなった源三さんに、お母さんは「あいうえお」の五十音図を壁にかけ、その字を順次指差して、彼の望む字のところで目で合図させる方法をとり、一字一字を拾って文章を綴る方法を考案され、その方法によって詩を詠んだのです。だから瞬きの詩人です。源三さんの詩歌には愚痴や恨みの言葉を一言も見出すことはできません。
《生 き る》
神様の 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は 蛍草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鴫き
神様の 大きな御手の中で
私は 私らしく生きる
障害を持つとその障害を受け入れるために、人は心が豊かになっていくようです。障害が重ければ重いほど、心は深くなっていくように思われます。
《はっきり見えてきた》
自分の力ではうごけない生きられないと
気づいた瞬間に
私をしっかりささえていてくださった
キリストの愛の御腕が
はっきり見えて来た
源三さんの才能を引き出したのはお母さんの愛に満ちた工夫によります。彼女は、ある日、源三さんがまばたきで自分の意志を伝えていることに気づき目配せによって文字を書く方法を考案したのだそうです。水野さんの詩は文字どおり母との共同作業によって生まれていきました。
「自分の力ではうごけない生きられないと気づいた瞬間」に、「はっきりとみえて来た」ものがあると語ります。私たちはどうも、思い通りになる、動ける、出来る、頑張れるという形ある有限なものにこだわりすぎているようです。その私のこだわりを抜けたところに、一つの道があるようです。その道の上に立つと、一つ一つの存在が意味を持ち、比べようのない存在の輝きが明らかになっていきます。そのような全ての存在のいのちの微笑みを与えてくれるものが真実の宗教なのです。