1項 質的な転換

 「当院の最も大切な場所は仏間(本尊を安置してある部屋)だと思っています。見学者が次々と見えて、仏間に感心され、その都度仏法のお話しをさせて頂いております。今まで関心のない方でも心のどこかで引っかかっているのが生死の問題だということが、お話ししてみて初めて分かります。皆さまが病院には特に大切なところという認識をされて帰られます。…ご門主様にお目にかかられたらよろしく申し上げて下さい」
 宮崎ホスピタルのM副医院長からの手紙です。一昨年、この病院は、地上七階地下二階の近代的な病院に生まれ変わり、その一角に仏間があります。
仏間の存在は、病気の中、安心して生き安心して死んでいけるバックボーンを大切にする病院であることを示しています。
 この仏間のご本尊が手紙の中にあった西本願寺・即如上人のご真筆の名号なのです。この仏間に安置するために書いて頂き拝領したものです。
去る三月十四日、京都で、ご門主と会食の機会があり、その折り、病院と仏間の写真をお見せし、M医師の伝言をお伝えしたことです。
 病気や苦しみは、心の成長にとっては最も適した環境だと言えます。その時、大切なのが、苦しみや悩みに心を寄せてくれる人があり、場所があると言うことです。
 看護論の研究者である遠藤美恵子(北里大学看護学部教授)氏は、その著書で語っています。
「人は、苦しみの体験の中で、自分のあり様がつかめたとき、新しい生き方を見いだす。今までの自分の生き方のルールを捨て、現実の中で新しいルールを見いだす。それは人生の中で最も難しい仕事であり、それをやり遂げたときに、人はトランスフオーメ−ション(transforomation)とも呼ぶべき成長と成熟を遂げる。トランスフオーメ−ションとは、さなぎが蝶になるよな質的な転換です」
 人は、病気や苦しみの中でトランスフオーメ−ション・質的な転換を持つ。病気を煩ったことが不幸なのではなく、病気になって、そこから何も生まれなかったということこそ不幸なのでしょう。
宮崎ホスピタルの仏間は、人間の成長と成熟を期待する場所であり、我が家の仏間も同様です。

2項

悲願は…なおし磁石のごとし

親鸞聖人


(阿弥陀如来の大悲は、磁石が鉄を己に吸いつけるように、一切の人々を阿弥陀如来のお慈悲を悦ぶ人となさしめて浄土に摂取される)

 京都・西本願寺に「唐門」(からもん)という国宝の建築物がある。キリンビールの商標である「キリン」が透かし彫りしてある門でもあります。
 この唐門は、桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構です。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから”日暮らし門”とも呼ばれています。
 私が京都に居るころ、風評で、「この門は左甚五郎作で、彫刻物が生きているので鳩が止まらない」と言う話を聞いたことがあります。実際に鳩は止まりません。
 しかし左甚五郎には諸説がありますが、いずれも江戸初期の活躍で、唐門は桃山時代なので時代のずれがあります。
「鳩が止まらない」という甚五郎の話題の出所は、日光東照宮の「眠り猫」です。
 三代将軍家光の代に、家康公の廟所を日光東照宮に造ろうとしたとき、ネズミが沢山出て困るので、甚五郎にネコの彫刻を頼んだ。
 甚五郎は承諾したものの酒ばかり飲んでなかなか仕事に入らない。期限の前日、一人で小屋にこもると、一心にノミをふるった。次の日、役人が彫刻を見ると、木彫りのネコは目を閉じて眠っている。これではネズミよけにならないと家光公に報告する。家光は、甚五郎のことだからと、そのまま門に飾るように命じた。役人は首を傾げながらそのまま門に飾ると、それからネズミが潮を引くようにいなくなった。
 役人が甚五郎のネコをよく見ると、眠っているよう見えるが、その耳はピンと立ち、足もネズミが出たらいつでも飛びかかれるように構えていたという逸話です。
 こうした甚五郎伝説はいたるところにあります。流山市の東福寺に伝わる「目つぶしの鴨」の伝説もその一つです。
 あるとき村の田の稲を食い荒らすものがいた。怒った村人たちが見張っていると、沢山の鴨がやってきて稲を食い荒らしていた。追い払って逃げる鴨の後をつけていくと、東福寺の中に逃げこんだ。調べてみると門柱に泥が付いていて、その門の鴨居の上には甚五郎が彫った鴨があった。和尚に子細を話すと、和尚は詫びて鴨の目にくぎを打った。それから鴨が田を荒らすことがなくなったという。
(「日本名匠列伝」(学研文庫)に左甚五郎の伝説が多々紹介されている)
おそらく優れた彫刻作品が登場すると、「左甚五郎の作のようだ」と誉め、そこから左甚五郎の作となり、さまざまな伝説が生まれていったのだと思われます。そしていつしか左甚五郎が逸品の代名詞となったのでしょう。
 この固有名詞を持って一つの代名詞とするという言葉の使い方は、阿弥陀如来の場合も同様です。
 阿弥陀如来という仏さまは、他の多くの諸仏と別の他なる仏ではなく、諸仏に共通する大悲、慈しみの極まりを阿弥陀如来というのです。ですから阿弥陀如来に帰依するというのは、すべての諸仏の大悲に帰依することでもあるのです。
その大悲の阿弥陀如来は、私をどのように救って下さるのかが示されたのが標記の文です。
「悲願はなおし磁石のごとし」。磁石は鉄を吸い上げる時、鉄を磁石の磁気で満たし、鉄を磁石と同質の存在として吸い取ります。阿弥陀如来もまた磁石のように、仏に無縁の私を、阿弥陀如来に頭を下げ、その教えを聞き、お慈悲を悦ぶ人となさしめて、阿弥陀如来の浄土に摂め取るというのです。
 私が「南無阿弥陀仏」と称え、阿弥陀如来のお慈悲を悦ぶそのままが、阿弥陀如来の大悲摂化の働きの賜であり、阿弥陀如来の存在のあかしなのです。
 その教えを浄土真宗と言い、その本山が京都の西本願寺です。

3項 行事案内

4項 住職雑感

● 送られてきた雑誌にあった話です。
【 私の家の前には大きな樫の木がある。ある時台風が来て吹き荒れた後、ふと見るとやや太めの枝が一本折れて垂れ下がっていた。やがて秋になり冬にあると、その枝の葉っぱは落ちるわけでもなく茶色に枯れたまま、ぶら下がっていた。
 次の年の春も終わりの頃になると、樫の木には新芽が出てきて、古い葉っぱはパラパラと落ちて新陳代謝をする。ところが台風で折れた枝と葉は、茶色に枯れたまま落ちる様子はない。
 その時初めて気づいた。樫の木は折れると落葉しないということを。落葉ということは死ぬことではなく生きることであるということを】。
 落葉に人の生死を見た感性の豊かさは見事です。枯れた時は、枯れたことに執着せずに落葉することが肝心です。

● ご縁のある方から、仏壇を小さくしたからと、古いご本尊のお焚き上げを頼まれました。
 本尊の裏書きを見ると、「釋法如」と本願寺宗主の名と花押が記されています。
 法如上人は本願寺十七代の宗主(一七〇七〜一七八〇)で、現在の京都・西本願寺阿弥陀堂を建立(1760)されたご門主です。
 お焚き上げに持参された方は、北海道出身の方です。北海道の前、ご先祖は北陸であったと言われます。するとこのご本尊は、遠い先祖が、北陸で生計を営み、その後、北海道に渡り、そしてこの関東へおともをされてきたことになります。二五〇年、七代か八代のご先祖が、苦渋を共にされたご本尊だったのです。開拓で北海道に渡り、極寒の中、このご本尊に支えられ耐えた日も多くあったことでしょう。
 結局、お焚き上げを止め、本尊絵像と裏書きを掛け軸から外して、緞子(どんす)で回りを表装し、額に入れて家宝にすることとなりました。
*本願寺からお受けするご本尊にはすべてにご門主の裏書きがあります。 

● 前記の通り、西本願寺阿弥陀堂は約二四〇年前の建築ですが、その右側にある御影堂(親鸞聖人像安置・現在修復中)は、それより約一三〇前の建設です。共に重要文化財です。
 西本願寺は平成六年、ユネスコの世界文化財に登録され、建造物としては、書院・黒書院・北能舞台・唐門・飛雲閣などが国宝に指定されています。

● 今月号は、はからずも京都の西本願寺の特集号のようになりました。

清風 NO45 平成14年5月1日発行
             

         執筆者 西原祐治

清風は年4回発行しています。

清風44号