1項  今が1番

 私は学生時代を京都で過ごしました。毎月2回、京都清水寺の大西良慶貫首のご法話を楽しみに聞きに行っていました。師は満107歳までご存命でしたが、当時は100歳を越えた頃で、ユーモアのあるお話しや、時には乃木大将のお葬式の話などを、あの独特の良慶節に聴衆は魅了されました。

 その良慶師を、ノーベル賞作家で、人類愛を説く平和運動家であったパールバック女史が訪ねています。良慶師92歳の時のことです。会話の中で、パール・バック女史は、一生を振り返られて、いつの頃が一番よかったでしょうかと質問されたそうです。すると良慶師は、「そやなあ、今が一番ええなあ」と即座にお答えになった。さらに、「体は思うように動かんし、耳もよう聞こえない。目は白内障でよう見えません」と愚痴ではなく、ありのままのご自身を吐露されたといいます。

 パールバック女史の代表作は「大地」という本です。爆発的なベスト・セラーとなり、世界30ヵ国語以上に翻訳されました。

 その女史は「母よ嘆くなかれ」という本も残しています。この本には1921年に中国で生まれた深刻な知的障害をもつ一人の娘とともに歩んだご自身の母親としての心の記録がしるされています。

 人間の弱さをありのままに受け入れていく愛を生涯のテーマとして歩んでこられた女史には、良慶貫首の「今が1番」は、嬉しい言葉であったに違いありません。

 あなたを・私を評価することなく受け入れていく。それが愛であり慈しみの実践だからです。
 親鸞聖人が開かれた浄土真宗という仏教は、阿弥陀如来の無条件の救いを拠り所とする仏道です。無条件の救いとは、人間の多様性を、評価することなく認めていくということです。

 だれしも良慶師に習って「今が一番」と答えたいものです。でも実際は不平不満、不完全きわまりない毎日です。その不完全な私を評価することなく受け入れて下さる仏様がいらっしゃる。そう聞かせて頂くと、不完全な私でもかけがえのない私であると頷いていけます。


2項 

悲しみは錬金術ににたところがある。

悲しみが智慧にかえられるときさえあるのです。

              パール・バック


 過日「100万回生きたねこ」(佐野洋子作・絵・講談社刊)を読みました。この本は子ども用の絵本ですが、1977年10月刊行後、第70刷とあります。

 まず1項に

100万人の 人が、このねこを かわいがり、100万人の 人が、そのねこが 死んだとき なきました。ねこは、一回も なきませんでした

と始まります。

あるとき、ねこは 大さまの ねこでした。ねこは 大さまなんか きらいでした。(戦争に連れて行き飛んできた矢に当たって猫は死ね)…大さまは、たたかいの まっさいちゅうに、ねこを だいて なきました。…。

と言った具合に、次から次に生まれ変わり、「きらいでした。…なきました」が繰り返されます。
 そして最後に、白い猫を出会います。白猫と、たくさんの子猫と暮らし、子猫は巣立ちます。白猫はおばあさんになり、主人公の猫は、何時までも一緒に生きていたいと思います。白猫は何時しか静かに動かなくなります。
 ねこは初めて泣きます。夜も朝も、また夜も朝も、そして白猫の隣で静かに動かなくなります。

ねこは もう けっして 生きかえりませんでした

と絵本は終わります。

面白い本でした。人の死を悲しめる。それは悲しめる関係があったと言うことであり、別れを悲しめない100万回の生より、死別を悲しんだ1回の生の方が実りある生であったようにも思われます。

悲しみは、ついマイナス的な行為なので否定しがちですが、別れの悲しみは、悲しみ自体は決して否定されるべきものではなく、悲しく感じられる関係があった事の証であるということ。「悲しめてよかったですね」という表現はへんですが、悲しみが、一つの恵みのあることを、この本から学んだような気がします。

 ふと以前この寺報(二八号)で紹介したことのある故花山勝友先生の話を思い出しました。
先生には六人のお子さんがおられました。ところが四歳の誕生日の直前になる次女が、わずか一日の出来事で他界しています。かわいいさかりです。大勢の方が弔問に見える中、奥様はポツリと「子供を失ったことのない人には会いたくない」ともらさたそうです。

 父である師も、同様な気持ちを持ったと言います。
そのご夫婦が救われたのは訪ねて下さった方からの言葉だそうです。
「あなたは、大事なお子さんを亡くして、さぞおつらくて悲しいことでしょう。しかし、その悲しみさえも、私のように、欲しくて子どもができなかった人間から見ると、大変うらやましいことなのですよ。あなたには、少なくとも四年間の思い出が残っていますが、私たち夫婦には、その思いですらないのです」

 その言葉に「こんな辛いことはない」と、自分が世界一不幸な人間のような顔をしていた自分は、なんと増上慢であったことかと思ったと示されてありました。

 師のある種の気づきは、悲しみに対して違った意味づけを持つことができたということでしょう。
 死別の悲しみが救われるのは、その悲しみが否定されないこと。また悲しみを通して新しい出会いや気づきがあったときその悲しみが意味をもつのだと思います。

 パール・バックの「母よ嘆くなかれ」の中に次のような言葉があります。
「悲しみは錬金術に似たところがある。つまり悲しみが智慧にかえられるときさえあるのです。悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その智慧は幸福をもたらすことが出来るのです」

 私たち浄土真宗の者は、自身の存在の悲しみを通して、その私故に大悲してやまない阿弥陀如来の慈悲に出遇っていきます
人間の悲しみは、大きな意味を持っているように感じられます。


3項 京都ミミ旅行

   千本釈迦堂

 京都市の北、大徳寺から少し下がったところに千本釈迦堂・大報恩寺がある。こじんまりとした敷地ですが国宝4、重文21を所蔵する京洛最古の国宝建造物でもあります。
 このお寺は「おかめ塚」でも有名です。おかめ塚は本堂の塀際に目立つように建造されています。由来は次の通りです。
 当寺は鎌倉初期に建造された。本堂造営の際、頭領が誤って中央の4本柱の1本を寸足らずで切り落としてしまった。頭領が心を痛めているのを見た妻「おかめ」は「升ぐみをほどこせば」とアドバイス。この着想により4本とも短く切り落とし結果として成功を収めた。
 妻おかめは上棟式を待たずして、「アドバイスが世間に漏れては」と自害した。
 そのおかめさんの塚が、境内にあり、そうした由来から室町時代からのおかめの面が多数、本堂廊下に陳列されています。
 このおかめの逸話とは別に、仏教では「五徳の美人」としておかめが伝承されています。五徳の美人とは、五つの心の美しさという意味です。
 一つは、一重瞼の目、あれは半眼といい、仏様の目と同じです。半分は自身の内を見つめる内省の深さを表現しています。 二つは豊かな耳、耳は福耳といい、耳編に呈するで、「聖」と読みます。他者の苦しみに耳を傾ける姿です。
 三つ目は、低い鼻、「あの人は鼻が高い」。驕慢でないこと。 四つは、小さな口、慎みをあらわします。
 五つつに、温和な顔、穏やかな心を示しています。これが仏教で語るおかめの話です。
しかし千本釈迦堂の圧巻は、重文の仏像群です。特に釈迦十大弟子は、近くで(宝物館)見られるのでリアリテイーに富んでいます。
私も数年前訪れたとき、十大弟子一体一体と「あなたが舎利弗尊者ですか。長年、釈尊につきそい、色々な教典を残され、また大無量寿経、阿弥陀経では、いつも親しく口にかけております」と対話をしたことがあります。十大弟子についての知識のある人は、豊穣な時間を過ごすことができるお寺です。

3項下段 インフオメーション

4項 住職雑感

● インターネットのホームページで、つれづれ日記を書いているので、「清風」の記事は、大方そこで執筆したものとなりました。
 
● 過日、お葬儀のご縁を頂き、その通夜に行きました。二〇代での交通事故、即死、ご遺族の悲しみの中、読経のお勤めをしながら、お経を終えてから、ご法話をしなければならない。その辛さを感じました。
1時間に及ぶ読経を終え、振り向くと、葬儀社の方も私が話すことを期待しており、マイクのセットと共に、焼香を止める掲示が出されています。
 五分間ご法話をした後、最後に、「故人が残してくれたものは、二〇数年の生だけではなく、突然の死、このことも故人が残してくれた最も大きなものです。繰り返すことの出来ないいのちを生きていること。いのちには終わりのある。そのことを故人の突然の死から、残された私たちは、受け取っていかなければならない。その死を無駄にしないことが最大の供養です」というようなことを話しました。自分でもそこまで話すとは思っていなかったのですが、つぎの日ご遺族がどう受け取られたか非常に気になりました。
 なぜなら「あってはならない突然の死」が、故人が私たちに残してくれた一番大きな恵みでもあるという矛盾する話だからです。
 
● 過日、福井県に行きました。飛行機の中で「県民性の日本地図」(光武誠著・文芸春秋刊)を読みながら行きました。これから行く福井県の方々はどんな方々かと言った想像をふくらませました。

 福井県民は才覚があり粘り強くよく働く。人口10万に当たり社長数が最も多い県であり、他人の下で働くより一国一城の主になることを好む。要領はよいが、統率力に欠ける面を持っているので福井の企業は大企業に成長しにくい。越前の中産階級は自分の才覚に自信をもち、自主的な生き方をとる姿勢が強かったので、朝倉家も松平家も、国政を動かす大勢力になり得なかった。

とありました。
 この本を読み、5歳まで島根県、十八歳まで松戸市、岐阜に一年いて京都に二十四歳まで、三十一歳まで築地本願寺で、以後は現在の柏市。私はどこの県民性に分類されるのか。ふとそんなことを考えました。
 学風、社風、風土など地域社会や団体が見えないある種の力を持っています。宗教団体も宗風というものがあります。
 浄土真宗本願寺派の宗風は「迷信やまじないに頼らない」ということです。知っていましたか。

清風 NO42平成13年8月1日発行
             
         執筆者 西原祐治

清風は年4回発行しています。


 (3月・5月・8月・11月発刊です)

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写真・おかめ塚