いのちの学び171号 07.7月号

170号

1項 今月の言葉



 弥陀の本願には、老少・善悪のひとを
  えらばれず、ただ信心を要とすとしる
  べし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾
  盛の衆生をたすけんがための願にまし
  ます。(歎異抄)

 意訳(西原)
  仏さまの願いから生まれる働きは、人
  の善悪、老いや若さといった人間の性
  に左右されず、欲と怒りと愚痴に閉ざ
  されている人を照らし、闇に沈むいの
  ちを見いだし、そのいのちに尊厳を見
  いだす力があります。

2項・3項

いじめで“きたない”と疎外されたとよく聞きます。汚いきれいの概念が主観的であいまいなので、言われた人が受けるダメージは大きいようです。

 また現代は、汚いきれい、賢い愚か、美醜、常に物事を単純に二分割して、白黒を常にはっきりさせる傾向があります。何がきれいで、何が汚いのか。自分の頭で考えを深めていく、そこに人間の進歩があるのですが。

 源信僧都の少年の頃の逸話があります。九歳のころ、近くの小川で鉢を洗う旅の僧を見て、「お坊さま、むこうの川の方がきれいですよ」と教えた。僧は少しひねくれて「すべてものものは浄穢不二じゃ。きれい・汚いは凡夫の心の迷いじゃ。このままでよい、よい」というと、「それじゃ、どうして鉢を洗うの」と切り替えしたといいます。偉い坊さんが言うからと随順しない心が、後の学問を培ったのだと思います。

 穢不二(じょうえふに)といえば鉄舟に次のような逸話があります。

『全生庵記録抜萃』によると、鉄舟が無刀流を開創したのが明治十三年三月三十日だったので、それ以来、毎年、その日を、稽古始めを兼ねた記念祝日として、門人一同に牛飲馬食の無礼講を許した。ある年のその日に、禅の弟子で内田宗太郎という人が偶然その宴会に出席した。

 そこへしたたかに酔った一門人がやってきて、鉄舟の前に両手をつき何かを言おうとして、うつむいたとたん、思わず吐いてしまった。鉄舟はすうと立つと、その門人を押しのけ、アッという間にその吐瀉物を食べつくしてしまった。内田宗太郎が驚いて、「先生、何をされるのですか」というと、「ウン、ちょっと浄穢不二の修行をした」と平然としていた。「しかし、あんなものを召し上がっては、毒でございます」「身体のことなんか考えていては、ろくなことはできん。いまどきの修行者をごらん。剣道でも禅でも、みんな畳の上の水練だから役に立たんじゃないか」。

さすがに鉄舟です。ここまで極めるのは凡人では不可能に近い行為ですが、汚いきれいだけに縛られるのもどうかと思います。

 『心に残るとっておきの話 第5集』に「病院の待合室で」という題で山本博美さんが文を寄せています。そのまま紹介してみましょう。

 私は、岡山で小さな病院の受付事務をしています。内科、小児科が専門ですが、これは、十年前のある夕暮れ時、病院の待合室で起こった出来事です。

狭い待合室に、患者さんが三人いました。
 その中に、学校の先生が二人おられたのです。一人は五十半ばの女の先生、そしてもう一人は三十過ぎの男の先生です。そこへ顔色の悪い女の子を連れたお父さんが入ってきました。どうやら、こちらは初めての患者さんのようです。

 私は、受付のガラス窓から、保険証を受け取りカルテを作っていました。ところが、しばらくたった頃、「ウえ―っ」という声がしたのです。急いで顔を上げると、先ほどの女の子が食べていたものを全部吐き出し、それをちょうど真向かいに座っていた男の先生が、自分の両手で受け止めていたのです。他人の嘔吐物を、父親でなくて、見ず知らずの他人が、素手で受け止めていたのです。私は、驚いて声も出ませんでした。そして、世の中にはこのような人もいるのかという衝撃で体中に熱いものが走りました。それは、勇気などというものではなく、とっさの場合に出た自然の行為で、平素から子供に対して深い愛情を注いでいるに違いないこの先生の豊かな人間性に他ならないと思ったからです。

 私がもし、隣に座っていたら、どうなっていたでしょうか。おそらく、嘔吐物の激しい臭いに、自分までが「ウえーっ」と吐き出しそうになったかもしれません。それとも「ウワーッ、きたない」と思って、体をそむけたでしょうか。どちらにしても、考えただけではずかしくなりそうです。……」

 いい話です。きれい、汚いを絶対的なものとして処してしまうところに、心の汚さがあります。それが私の偽らざる心でもあります。その私を阿弥陀如来は、そのままいつでもどこでも、受け入れて下さるというのですから、清らかさもここに窮まります。だから浄土というのでしょう。

3項下段

 南無阿弥陀仏はインドの言葉

毎日新聞の余禄に「▲日本が今夏打ち上げる月周回衛星の愛称は「かぐや」に決まった。宇宙航空研究開発機構の一般公募に1万件以上の応募があり、1位の「かぐや」と2位の「かぐやひめ」で全体の2割強を占めた。3位は「うさぎ」、4位は「げっこう」、5位が「つくよみ」と続く▲「アメリカのアポロ計画とは違う、日本としての持ち味を出したい」「月の人(かぐや姫の一族)は不老長寿といわれているので、衛星が故障もなく順調に活躍してほしい」。応募者はさまざまな思いを愛称に込める」とありました。
名前にはそれぞれ願いを託します。ではアミダとは?
 ナモは、インドで日常挨拶に用いる「ナマステ」と同義語です。信頼しますという意味です。アミダは、無量の光、無量の寿という意味で、ブツはブッタで目覚めたる者のことです。なもあみだぶつで、無量の光・無量の寿の覚体(世界・人)に信順しますという意味となります

4項
住職雑感

○ よく日本語の語彙の多様性が話題になります。「あなた」は英語で「ユー」ですが、君、貴殿、お前、おぬし、貴様など限りがありません。これが時代が下ると、また同様に語彙が広がります。そこもと、主殿(ぬしどの)、和殿(わどの)、そなた、そちなど等です。

○ 「死」も昔は(今も?)、身分によって表現が違いました。
崩御(ほうぎょ)とは、天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語であり、薨去(こうきょ)といえば、一ランクしたといえば失礼ですが、皇族または三位(さんみ)以上の貴人の死去することです。卒去(そっきょ)は、高貴な人が死ぬことで、律令制では、四位・五位および王・女王の死去をいいました。逝去は、人を敬ってその死をいう語です。

 死をいわずに表現する言葉も多くあります。事切れる。瞑目、他界、不帰の客となる、息を引き取るなど限りがありません。表現の多様さは、心の豊かさのようにも思われます。 
 では仏教の言葉としては、往生(浄土に生まれること)、寂滅(ぼんのうをすべて打ち消し、真理の智慧を完成させた状態)、入滅(仏 寂滅にはいること。特に、僧が死ぬこと。入滅)、遷化(高僧や隠者などが死ぬこと)など、これまた使い分けがあるようです。

 では「おしゃか」は?本来はお釈迦様から来た言葉ですが、きっと物がだめになることを指すから死を指す言葉ではないかと辞書を引けばさにあらず。「阿弥陀像を鋳るはずが、誤って釈迦像を鋳てしまったことから出た語とされ、鋳物・製鉄工場などで使われ始めたという。」とあります。この言葉が生まれた当時の常識は、お釈迦さまより阿弥陀さまのほうが、ランクが上という考え方があったようです。