いのちの学び170号 19.6月号

169号

1項 表紙

下段 

2項.3項

佐賀県の本願寺派僧侶 調 寛雅さんが一月三十日八十六歳でご往生された。師はタイやミャンマーで、約2万5千柱の旧日本兵の遺骨を収集した人でした。

調寛雅さんがタイ北部のチェンマイを訪れたのは、1989年のこと。敬虔な仏教の国、タイ。ムーンサーン寺の老僧カナービバーンさんが調さんに「お前は日本人か」と言葉をかけてきた。カナービバーンさんは「タイ北部にはまだ多くの日本兵が埋められたままになっている。日本人の観光客はたくさん訪れるが、誰一人としてこれを顧みない。人間とてどうか」と厳しく叱責したのだった。調さんは学徒出陣で出兵し、多くの戦友や部下をなくす経験をしていただけに、老僧の言葉に強く胸を打たれた。それから調さんは毎年、タイ北部ミャンマー国境地帯に出かけ、遺骨の発掘を行うようになったのだそうです。
 タイ北部ミャンマー国境地帯は独自の言語と文化をもつ山岳民族が暮らしている。日本兵はミャンマー(旧ビルマ)方面での戦闘に敗れ、タイへと逃れたのだった。調さんは日本兵と交流のあった老人の案内で、埋められている場所を特定し発掘を進めた。そして調さんは土地の人々と交流するうちに、山岳民族の子供たちの悲しい現実を知るようになった。彼らは家族の生活を助けるために人身売買同然で劣悪な仕事に身を投じていて、教育を受ける機会などないのだ。調さんは、子供たちを支援する里親制度をつくり支援を始め、そしてその支援の集大成として、子供に寮生活をさせながら学べる人材育成センター「慧燈(えとう)学園」を創設された。

その調さんは終戦後、実家である佐賀県の寺に戻り「洗心寮」という施設を建て、親を戦争でなくした子供たちを引き取り共に生活をした体験をもたれている。

昭和二十四年五月二十四日、戦争被災児救護教養所因通寺洗心寮へ行幸になられた時、天皇陛下はひとりひとりにお声をかけられたといいます。「おいくつ」「七つです」「五つです」「満州から帰りました」「北朝鮮から帰りました」「立派にね、元気にね」緊張したお子たちの顔は、陛下の親しさ一杯のお顔に次々となごみ、慕わしさであたりがいっぱいになっていったといいます。その中で、二つの位牌をじっと胸に抱いて立っていた女の子がおり、陛下は「お父さん、お母さん」とお顔をぐっと近付けられて、お尋ねになられたといいます。女の子は「はい。これは父と母の位牌です」と返事をしました。「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げの途中、病のために亡くなりました」女の子はよどむことなく答えたといいます。「お淋しい」陛下は悲しそうな顔でその子を眺められたといいます。けれど、その子は首を横に振り「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子供です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にまいったら、きっともう一度会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私はみ仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやって来て私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません」

陛下は静かに女の子を見つめられ、女の子の頭をお撫でになり「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され、お涙を流され、畳の上に数滴が落ちたといいます。まわりの新聞記者たちも静まり泣いたといいます。帰路、子供たちは陛下を囲み、なかにはお洋服の端をしっかり握って離さず「また来てね」と言う子もいるほどであったか。宮中にお帰りになられた陛下は

「みほとけの 教へまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」

と御製をお詠みになられたといいます。