いのちの学び169号(07.2月発行)
168号
1項 表紙 

帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。
           (善導大師・定善義)
   
 その時が着きたら、秋の落ち葉が風にさそわれて、樹木から離れるように、時の流れに身をまかせて、そっと目を閉じればよいのですよ。この世では枯葉が嵐の中に舞うように、あなたはあなたのこころに翻弄され生きてきました。楽しみもひと時の幻のように終わり、歓びの涙も真夏の朝顔の滴のように、今はその痕跡もありません。でもあなたは仏さまの慈しみに触れることができました。目を閉じた先も、仏さまの慈しみのいのちの通った世界です。安心して目を閉じたらよいのですよ。
          (現代語・西原訳)

2項
ミニ説法

 縁起を担ぐコツは、縁起担ぎを楽しむ程度で済ますことです。
 昔から伝承されている迷信好きな男の話があります。記憶の中にある話なので内容は定かではありませんが、こんな話だったと思います。

 「ある日、迷信好きな男が、大根の種を撒こうと畑に向かっていた。向こうから知り合いの村人が来て通りすがりに「どちらへ」と聞いた。村人は「歯を虫にくわれて歯医者まで」と言う。それを聞いた迷信好きな男は「葉を虫にくわれてはたまらん」と家に引き返した。次の日、人と会うことのない様に早朝より畑に向かった。途中、知り合いの者が歩いてきたので隠れていたが見つかり「こんな朝早くから何ですか」と聞いてきた。「畑まで」と返答すると、「朝早くから憚(はばか)り様でございます」と言う。迷信好きな男は「大根が葉ばかり」になっては大変と家に引き返した。また次の日、畑に向かうと今度は村長にあった。立ち話で昨日、一昨日のことを話すと村長いわく「そんな根も葉もないことを信じて…」。男はその場にへたり込み「根も葉もないとは殺生な」とふさぎ込んだ。

 語呂合わせもマイナスのことに語呂合わせするか、プラスの方向へ語呂合わせするか、その人の感性によります。どうせ語呂合わせをするのならば、どこまで良い出来事、希望を育む事柄へ語呂合わせ出来るかがコツです。
 
 しかし縁起とは本来、無数の関わりあいによって今があるということです。己の中に、万物の息吹を感じ、大自然の中に我を解放していく考え方です。仏教では人のことを衆生といい、衆多の縁によって存在する者のことを言います。

 日本には、自分を示す文字は、我、私、吾、自分など色々あります。我はテ編に戈(ほこ)で、刀で自分を守るといった文字です。私は、作物をあらわすノギ編に、ムは抱え込むで、自分だけのものと作物を抱え込むという意味があります。私に対する反対語は公です。「ハ」は、抱え込んだものを手を開いてて開放する姿です。
 「私は‥私は‥」と賢そうに言っていますが、作物を独り占めする者という意味なのですから、所詮は凡夫であるということでしょう。

3項

 【分別書法】

 下の写真は、親鸞聖人の真筆による『唯信抄』です。法然門下で兄弟子であった聖覚法印の書をご自身が書き写したものです。

ある書物を読んでいたら次の文章(吉沢則義『国語国文の研究』)がありました。

 【国語運動という立場から注意しなければならないのは、親鸞がおそらく日本において、最初の分別書法を試みた人であるということである。
徳川時代の韻鏡学者の釈文雄が、宝暦四年に発刊した『和字大観抄』にそれを主張しているが実行しなかった。明治六年に発行された『まいにちひらがなしんぶん』なる新聞が、はじめてこれを実行した。それは欧文に倣って、単語を一団づつまとめて書いたものであった。

 ところが、七百年前親鸞はその方法を案出して使用せられたのである。‥その用例は、本派本願寺蔵の『唯信抄』である。極楽世界ヲ・建立シ・タマエリ・‥

 文法などまだ存在せず、むろん単語の観念の明らかな時代ではないから、完全なものではないけれど、ゴトシ・タマエリ等の助動詞などは単語として扱ってあるのは興味深いことである。 これは一般に教養の程度の低い民衆に伝えるには、誤りがあってはならぬという配慮から、かかることを工夫しだされたものであろう】

 さすがに親鸞聖人です。



4項 集い案内

住職雑感

● 毎年、その一年をあらわす四字熟語をある生命保険会社が募集し発表しています。昨年は、

「全国青覇」(ぜんこくせいは)―甲子園での斎藤君の青いハンカチも全国を制覇。
「住人怒色」(じゅうにんどいろ)―耐震強度を偽装した建物とは知らずに買った住人、怒りの色は隠せない。「除冥処分」(じょめいしょぶん)―冥王星が惑星から除外された。最も関心を集めたテーマは「社会」で全作品中の4割を超え、それだけ関心をひく問題や事件、事故が多かった年であったそうです。6月に始まった民間駐車監視員による駐車違反の取り締まりは、「駐違一秒」(ちゅういいちびょう)と強化され、「飲果応報」(いんがおうほう)"飲んだら乗るな、と規制が強化された。などなど。

●宗派の冊子に京都女子大の徳永一道教授の文がありました。【あるとき、宗祖の「信心」は弥陀の大悲に自らのすべてを「ゆだねる」だと話したら、ドイツの女性から「なぜ信ずることがゆだねることなのか?」と訊かれたことがある。答えにつまった私は、彼女が抱いているマリアという赤ちゃんがスヤスヤと眠っていることに気づいて、何気なく「マリアに訊いてみたら?」と言ったら、彼女はそのしぐさと表情で、私が言ったことを十分に理解したことを示した。マリアが何の心配もなく眠っていられたのは、母親である彼女の胸に抱かれていたからである】。信とはゆだねることです。

●阿弥陀仏に私のすべてをゆだねるとは、わが身の上にこれから起こるであろう無限の可能性を受け入れていくことであり、私が、その瞬間、瞬間を十分に経験することでもあります。