いのちの学び168(06.12月号)
167号
1項 表紙 および 年回表

2項

 ミニ説法

現在、文章の横書きと言えば、左から右へと文字を連ねます。英語の文字の運びと同様です。しかし明治以前の額などの書は、右から左へと文字を連ね、左側の文字の切れたところ署名を縦に書きました。

 法話会へご講師で来られる藤岡道夫先生との会話で、昔の右から左への書の話となりました。いわく「あれは横書きか縦書きか」。私は一般常識で「あれは昔の横書き」と答えます。先生いわく「あれは横に書いてあるように見えるが縦書きです。一行一文字で次の行に移り、また一文字、また次の行に移り一文字。その証拠に署名が縦に書いてある」とのことでした。なるほどと思った次第です。右から左へという横書きのスタイルがあったとしたら、最後の署名も右から左へと横書きで書くはずです。

 昔は横書きという概念そのものがなかったのです。しかし現在は横書きという考え方があるので、「昔の横書き」などと言います。意外と自分の思い込みで推し量るということが多くあります。
 
 先日のことでした。いつも買っている和菓子店へ法要で配る餅を注文に行きました。いつもはバラの餅を頼むのですが、今年は箱に入れた餅を注文すべく「餅を箱に入れて百箱お願いします」とお願いしました。あいにく適当な箱がなく、饅頭を入れる箱がありました。これしかないと言うので「ではこれでいいです」とリクエストを入れました。法要当日、出来上がっているはずの餅を取りに行き、寺へ帰って開封すると箱の中には饅頭が入っているではないですか。すぐ店へ電話を入れると「これでいい」と言ったというのです。饅頭の箱には饅頭しか入れたことのない和菓子店としては、「これでいい」と言えば、饅頭を入れるのに決まっているのです。私は、餅を注文して、箱を選択していて「これでいい」と言ったので、当然、その箱には餅が入っていなければなりません。お互いの意思をもっと確認していればよかったのですが後の祭りです。

 経典を読む場合は、自分の経験や知識を横に置いて、「聞思しべし」ものです。聞は「よくわからないことが耳に届く」ことです。お経によらず、何事も聞思すべきことが大切です。

3項

仏事アラカルト
      お念珠について

Q 数珠は何のために持つのですか。

A, 正式には数珠といいますが、近年、念珠という用語が定着しているようです。その起源は仏教が始まる以前のインドで用いていたようです。用途は、念仏の数を記すのに用いられていたもののようですが、いつの時代にか、仏教徒の間で、もっとも尊重すべき法具として日本に伝来しました。
 
 真宗各派によって、一輪の念珠、二輪念珠など使用用途の決め事がありますが、共通して数珠をねり鳴らすことはいたしません。

 念珠の持ち方は、本願寺派では、合掌以外の時は、左手の親指と他の四本の指の間にかけて持ち、房は下方に垂らし、親指で軽くおさえて持ちます。また一般には二連珠を用いず一輪の単念珠を用います(僧侶儀式用二連珠)。男性はひも房、女性は切り房です。そして合掌の時は親指と人差し指で軽くはさんで、房を下にして両手にかけます。

 大谷派では、男性の小念珠は一輪で紐房、玉房などをつけ、女性は二輪のものと一輪のものがありますが、一輪のときは、親玉(房の付け根)を下にしてかけます。二輪で長房のときは、二つの親玉(房の付け根)を親指ではさみ、房は左側に下げてかけます。二輪が正式とされています。合掌せず手に持っているときは、左手あるいは左手首にかけておきます。

 高田派では、男子はひもの房(ふさ)になっているもの、女子は総房になっているものを用います。合掌の時は、念珠を両手に通して、一番大きな親玉を上にして親指で押さえて、総を左に垂らします。女子で二連の念珠を使う場合は、総を左右に垂らします

 念珠の味わいとしては、素手で仏さまを手ずかみにするのではなく、敬いの心から数珠を用いて礼拝します。また念珠の形から、それ自身ではバラバラの玉が一本の紐によって一つになるように、私の乱れ心が仏に支えられて往生浄土の道に連なるとも味わえます。

*念珠は、直に人が歩くところへは置 かず、置く場合でも何か下に敷いて その上に置いて下さい。
*念珠の紐が切れた場合は、仏壇店に 持参して修理をしてもらいます。  但し二千円くらい掛かる場合があ るので、それ以下の金額の品は、買 い求めたほうが良いでしょう。
*使用しなくなった念珠は、お寺に納 めて下さい。粗末に成らないよう 処分いたします。(郵送可能)
*念珠は男物と女物があります。

4項

 住職雑感

● 西洋では勝負をコインの裏か表で決め、東洋は三つ巴のじゃんけんで決めると新聞で見ました。面白い指摘だと思います。善か悪かの二元論で語りがちな西洋思想、負けのふだが、状況によって勝ち手ともなる東洋、物には実体はないと説く仏教の考え方から生まれたものでしょうか。

● 築地の報恩講通夜布教(数人の講師が交代で夜通し法話をする)で、講師を務めました。浄土は明日と似ているとの話をしました。「明日はどこにあるか」といって、タンスの後ろを探す人はいません。明日は場所の概念ではなく、まだ到来していない今のことです。浄土も同じことです。

 『阿弥陀経』に「これより十万億仏土を過ぎた」所に阿弥陀仏の浄土があると説かれています。ある人はこれを計算して「その距離は十京光年、光の速さの乗り物で一億年の十億倍かかる」とする人もありますが、浄土は場所的概念ではないので距離を計ることは無意味です。

『梵網経』によるとビルシャナ仏の蓮華には千の葉があり、その一つ一つの葉に百億の国があって、百億の一つ一つの国に釈迦如来と同等の仏様がいて教化をしているのだそうです。千かける百億で十万億仏土です。これが釈迦如来の教化の行き届く世界なのです。その釈迦如来の教化に漏れた人々が、阿弥陀如来の救いの対象であることを「十万億仏土を過ぎる」との表現で語っているのです。