いのちの学び167号(06.10発行)
166号
1項 表紙

下段
 ブッタの言葉
 
 すべての望みを達成しようとせず
 いまこのひと時を楽しむ人こそ
 最高の勝利者です。

2項
 ミニ説法

 知人のコラムに流行語に関する話題が載っていました。「えっ、うそ、ほんと…」この三つの言葉が現代を象徴しているのだそうです。

 私なりに解釈してみましょう。「えっ」という驚きの表現は、一過性の驚きに対する反応です。現代は、あまりにも悲惨な事故報道が多いため、感性が麻痺して驚きはしても深い悲しみを持ち得なくなっている。「うそ」は、情報から品物まで模擬の品々の中で、本物か嘘か確認しなくてならない現代社会の不透明さから生まれた言葉。「ほんと」は、殻の中に閉じ込めた自分を、危険がないと確認してからやっと自分をさらけ出す。いかがでしょうか。

 最近「えっ、うそ、ほんと」と思ったことの一つに平岩弓枝さんの講演があります。
 7月、よみうりホールで「食と暮らしと文学」の講座でのことです。
 
 元禄以降の江戸期にはみかんが大変もてはやされ、節分のとき金持ちが豆と一緒に当時高級品であるみかんを路面に捲いた。それほど冨が江戸に集中していた。ところがこの江戸は子捨てが多く奉行所が毎年お触れを出すがどうにもならない。ところがみかんなど回らない貧しい地方では子捨てはそれほどなかった。

 貧しいから子捨てではなく、豊かさが子捨ての原因だということです。貧しい地方では皆が貧しいので貧しさに絶えられるが、豊かな土地での貧しさは子捨てに及ぶほど絶えがたいものだということです。
 どうも、もてる者ほど悩みは深く傷つきやすいようです。これは人ごとではなくバブルを経験した現代人は、深く傷つきやすい人であるということです。

 アメリカ人へのアンケート結果だそうです。物価も環境も同じで、平均年俸二万五千ドルであるが、自分だけ五万ドルもらえる社会に住みたいか、もしくは平均年俸二十万ドルで、自分だけ十万ドルしかもらえない社会がいいか。答えは金額は少なくても自分だけ他人より多くもらえる社会を希望する人がほとんどであったそうです。

 金額の多少よりも、他人との比較の中に私たちは生きているということの査証です。
 仏教では「分別」という比較して考える思考方法を迷いの根本としています。分別を超えた価値観が大切です。

3項

仏事アラカルト

Q,お焼香のとき香を摘む回数ですが、どうなっていますか。

A,本願寺派は、頂かずに一回香をくべ、大谷派は、二回。 高田派は3回、興正派3回(1回でもよい)です。他宗で見ると、日蓮宗は、導師は三回、他は一回。曹洞宗は、一回目は頂き、二回目は頂かずの計二回。天台宗は、基本が一回で、二回、三回もよしとあります。
 
 バラバラで統一にかけているようですが、これは焼香の回数は最重要ではないということを物語っています。例えば、りんごを一つ供えるのがよいか、二つ供えるのがよいかの相違で、お供えすることが重要なのです。しかし、人間は形にこだわるので、大きな団体として、一つに形式を定めています。自分の所属する宗旨の作法で焼香するのが、焼香の作法です。

 また過般、「浄土真宗ではお香をなぜ頂かないのか」と聞かれました。「なぜするのか」という質問が多い中、「なぜしないのか」は面白い質問でした。

 浄土真宗では、お焼香の折りお香を頂きません。しかしその他のことでは頂く場合があります。それは経本を開いたり袈裟類を着用する場合です。共に頂いてから身に添えます。ところがお焼香や花、仏飯類は頂かずに供えます。他宗の方が、なぜ香を頂くのかと言えば、心をこめるのです。真心を込めてお供えするのです。ところが浄土真宗は、私の心は汚染されているとの自覚から心を込めることをしません。
 袈裟や経本は、仏の側に所属する類のものです。だから頂きます。本尊を奉るとき、仏をいただいて奉ります。これは心を込めるのではなく、尊敬の念から頂くのだと思います。

住職雑感

● 一人暮らしのお宅で法事を営み一緒に墓地へ行くこととなった。出かけに点いていなかったテレビと灯りを点けます。『無用心なので』とのことでした。
 女性の一人暮らしのお宅で、玄関に男物の履物が置かれてある家もあります。 安心・安全をお金で買う時代になりました。水を買い、酸素を買い、安心を買う。日常生活の中に潤沢にあった当たり前にことが当たり前でなくなってきています。

 地方格差が叫ばれる昨今、都会で疲弊した心を、田舎で癒す。田舎を都会化するのではなく、田舎を田舎のままに保存していく。そんな社会になればいいと思いますが。

● 稲敷市にみやざきホスピタルという精神科を主とした病院があります。近代的な建物です。その病院では、十数年前から病院内で法話会が開催されています。「精神科の患者は、病気よりも世間の目によって自尊心が病んでいる」という思いから心のケアを実践しているのです。

 ある日、統合失調症の患者が
 根なし草 流れ着いて そのまんま
と詠まれたことがあります。全人格が病気ではないということでしょう。 
 先日、その病院の前院長が亡くなり葬儀がありました。五人の弔事がありましたが、みな見事な弔辞でした。特に現病院長の弔辞は文学的にも見事でした。

 見事という尺度の基準は何かといえば、天国ではなくお浄土という言葉を正しく使いこなしていたことと、幽明境を越えてに代表される死者と私が断絶するのではなく、いつでもつながっているという表現が随所にあったことです。病院での法話会が患者のためではなく、私のための法話会になっている結果だと思いました。           以上