いのちの学び166号(06.9月号)
165号
1項 表紙

 今月の言葉
     親鸞聖人「歎異抄」

 弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
 

  住職訳
仏さまの願いから生まれる働きは、人の善悪、老いや若さといった人間の性に左右されず、欲と怒りと愚痴に閉ざされている人を照らし、闇に沈むいのちを見いだし、そのいのちに尊厳を見いだす力があります。

2項 ミニ説法

親孝行

 親子の悲しい事件が多発しています。親子の心の距離が離れてしまっているようです。

「豊かな人間関係とは、相互に与え合うものが等しい価値を持っていると双方が実感できる関係」、アイデンティテーという概念や言葉を生み出したH・エリクソンの言葉です。母親が赤ちゃんと一緒にいて幸せだと思う。そのとき赤ちゃんも幸せだと感じているのだそうです。子どものためという打算ではなく、してもらう、してあげるという一つの行為が双方に等しい価値として実感できることが大切です。

 親孝行という昔話があります。殿様から紀州一の親孝行者というほうびをもらった男が、信州に日本一の親孝行者がいると聞いて訪ねていく。家には老婆だけがいて息子は不在であった。しばらくすると薪を背負った息子が帰ってきた。母親は息子の背負っている薪をおろし、息子を縁側に座らせ足を洗い、疲れたであろうと足腰をもみ始めた。

 紀州の男は、母親に足をもませるとは何たる親不孝かと立ち去る。途中でふと思い返して帰ってきて信州の息子に訊ねた。「あんたは日本一の親孝行者だそうだが、その秘訣は何か」と。信州の息子は「足腰をもんでもらうと、あのように母親が大変喜ぶのでもんでもらっている」とのこと。

 「親孝行という意識がなく、母親の喜ぶようにしてあげる」。ここに親孝行の秘訣があったという話です。
相互に一つの行為が等しい価値として実感できる関係とは、子どものため、親のためという力の綱引きを離れ、してあげていることと、して頂いていることが等価値をもって共に喜べることです。

子どもの学習を手伝う母の心に喜びがある。子どものためですが、そこに自分の幸せを実感できる。それが一つの行為を通して心が繋がっていくことであり、親子の一体感が一つの行為を通して成就していくのだと思います。

「もし救わずば仏にならない」。これが阿弥陀仏の願いです。阿弥陀さまは、私を救うことが存在の証であり自らの喜びであるというのです。そして「南無阿弥陀仏」の念仏となって私のいのちの上に至り届いたといいます。救われる対象である私は、「南無阿弥陀仏」の念仏を通して阿弥陀さまの願いを受け入れていきます。「南無阿弥陀仏」の念仏は、阿弥陀仏が私を救う喜びの時であり、私は阿弥陀仏に救われる喜びの時なのです。まさに「相互に与え合うものが等しい価値を持っていると双方が実感できる」時なのです。

3項

東西、本願寺の別立

 大阪にあった石山本願寺は、織田信長との11年の抗争も、宮廷の和睦のすすめを受けて和議を結びます。
講和に際して嗣法教如上人(東本願寺の祖となる)は、信長の表裏二心を警戒して、本願寺の大阪退出には反対します。反対の理由は、蓮如宗主以来の聖地を信長の軍に渡すことへの反対、また信長の裏切りを恐れたこと、東の武田や西の毛利と信長との和睦なく本願寺だけが信長と和平を結ぶことは不当であるという理由でした。

 顕如宗主は大阪退出後も教如上人は同調する門徒とともに大阪に篭城し、なお3<CODE NUM=00B9>月にわたって信長軍と交戦し続けました。
 本願寺はその後、豊臣秀吉から土地の寄進を受け京都に帰ることになりました。それが堀川六条にある現在の場所です。

 寺基を京都に定め、両堂を整備された顕如上人は翌文禄元年(1592)年、五十年の波乱に満ちた生涯を閉じます。 顕如宗主のあとを継がれたのは、ご長男の教如上人でした。

ところが継職されて十一ヶ月余りたったとき、秀吉の召喚を受け、「顕如上人の譲状は、第四子准如上人宛である」ので「十年後には准如上人に譲ること」等の申し入れがありました。教如上人は、これを断ったので秀吉の怒りをかい、宗主は当日辞職することになりました。そして第四子の准如上人が本願寺を継承されたのです。

 教如上人は、それからおよそ一ヵ月後、本堂の北の屋形に移られました。世人はこれを裏方とよびました。教如上人を慕う門信徒の人は、本山参詣のついでに訪ねるものもあり、また直々に参詣するものもあって、後には、そこに御堂・広間・玄関まで建ちました。
 
 秀吉没後、徳川家康が勢力を伸張していくと、教如上人は家康と親しくなっていきます。家康は、教如上人を本願寺住職に再任しようとしましたが、家康の重臣本多佐渡守は、「本願寺はすでに秀吉によって表方・裏方と分立しているのだから、今さら表方を押し込めるよりも、教如上人をたてれば、門信徒はそれぞれ両本願寺に帰します。それが天下のためにもよいでしょう」と具陳しました。家康はその意見をいれて、教如上人に現在の東本願寺の地を寄進します。ここに本願寺は、東西に分派して、法統を継承していくことになります。

4項 集い案内

住職雑感

● 親子にまつわる悲惨な事件が多発しています。今日の新聞にも「3歳児の餓死」が報道されていました。こうなると加害者の責任というよりも社会システム、文化がゆがんだ状態にあり、加害者自身が被害者だとも言えます。加害者個人の責任にするのではなく、社会全体が文化の欠陥として考えていかなければならない問題です。

 その一つに、人間関係の希薄化があります。友人、社会、先輩後輩、親子など人間関係が密でなくても生活ができてしまいます。そうした孤独化の中で育っていくのが自己愛です。自分だけよければという考え方です。釈尊の逸話に次のようなものがありました。弟子いわく「お釈迦様、この世で自分が一番愛おしいのですが…」。釈尊「私もこの世で自分が一番愛おしい。しかし私はすべての人が自分を愛おしいと思っていることを知っている」。自己愛が基本ですが、すべての人が自己愛を感じているという意識の拡張が欠落しているようです。

●  キリスト教関係のケアに関するある本の中に次のようなくだりがありました。《極限状態において人間は、「神様、どうしてですか?」と(問う)から、逆に神様から「お前はどうするの?この状態で」と(問われる存在)に変えられていく。神に答える責任がでてくるのです》とありました。足を切断して「神よ、なぜ私が」との思いが、「今をどう受け入れるか」と自分で考えを見出す存在になっていくというのです。「問う私」から、「答える私」にどう変わっていくか。それは「問う私」をありのままに受け入れてくれる存在が重要なようです。日常的な面で言えば、お仏壇の前の空間が、その役割を果たしてくれるのではないでしょうか。