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いのちの学び151号(平成16.7月号)
表紙



不謝東君意,丹青獨立名,莫嫌孤葉淡,終久不彫零-画像を反転してあります

関羽が、劉備に送った竹の絵に隠した詩。(詳細は四項)


1項

まず  《河野 進》(1904〜1990)
 
 あたたかい母に そだてられた子は
 あたたかい母になり
 つめたい母に そだてられた子は
 つめたい母になる
 どうして人間だけが 例外であり得よう
 よい子になれないと いらだつより
 まず 良い母にと 祈ってほしい
       
 作者は、神戸中央神学校で学び玉島教会において牧師となった方です。母の詩を作って五十年、ご著書に病弱な母を通して「母」を学んだと紹介されていました。

 この詩を読んで、阿弥陀さまのことを連想しました。阿弥陀さまは、私に「こうなれ」という願いを一切お持ちでない仏さまです。常に、慈しみの深い仏になると願い続けます。その願いの背後に、転びつづける私の存在があったからです。

ミニ説法
 
ラジオをつけると、対談番組で動物園の「環境エンリッチメント」の話が流れてきました。「環境エンリッチメント」とは、その動物にとって何が幸福かを考える動物福祉の実践のことです。具体的には、動物の、行動レパートリーや行動の時間配分を本来の暮らしに近づけます。

野生のサルやチンパンジーは一日の大半を、口をもぐもぐ動かし何かを食べて過ごし、食べ物を求めて移動しています。ところが野生とくらべて飼育されているサルは、食事の時間が圧倒的に短く、移動にかける時間も少ない。逆に、じっと動かないで休息している時間が長いので、退屈し本来的でない行動に及びます。

 そこで時間配分を本来の行動パターンに近づけるために、食事の時間を長くし、運動をさせ、休む時間を減らす工夫をします。
 たとえば、採食時間をのばすには、「道具」を導入します。野生のチンパンジーは、木の枝を使ってオオアリを釣ることが知られています。それをまねて、ハチミツを釣らせます。壁に五ミリの穴を開けます。同時に、五十ミリリットルのボトルにも穴を開け、そのボトルにハチミツを満たします。そのボトルを、セロテープで反対側の壁に貼り付けます。チンパンジーが蜜をなめるための「道具」をあらかじめ刺しておきます。その道具も穴に入れることのできないものも含め二十種類与えるそうです。

 チンパンジーによって、すぐできるものと、できないものがいます。他の仲間の様子を見に行ったり、人間が与えた「道具」には満足せず、自分で作り始めたりもします。五ミリの穴から一時間に採取できるハチミツの量は、多い場合でボトル一本につき約三十グラムです。

 動物本来の特性を見極め、その特性に環境を整えていく。これが「環境エンリッチメント」の考え方です。
 この「環境エンリッチメント」の考え方は、動物に先立ち子どもの教育分野でも色々と考えられているはずです。 しかし、子どもによる悲惨な事件が起こるたびに、子どもの「環境エンリッチメント」はどうなっているのだろうと疑問をもちます。「環境エンリッチメント」は、無駄と思われるものをどう環境のなかに組み込んでいくかという試みです。私は、そのキーポイントは「遊び」だと思います。

 遊びは、自動車のハンドルやブレーキにある余裕という時間的・空間的な一面と、深い哲学的な一面があります。経典の中には、菩薩の行動を「遊ぶ」という言葉で表現されています。

 この「遊び」は、仏教的には深い哲学的な意味を持っているのです。

 たとえば「正信偈」の菩薩が「煩悩の林に遊ぶ」とあります。遊ぶとは見返りを求めず、その行為に徹するということです。「〜のため」といった代価を求めない行為のことです。子どもの世界にこの「遊び」がなくなっているのではないでしょうか。努力や学習が、「〜のため」という作為に満ちた比べあいの次元の営みとなっているということです。

 「遊び」は、子どもだけの問題ではありません。私たちも、親切やお布施や、念仏、聞法などが「〜のため」に陥ってはいないでしょうか。

親鸞聖人は念仏や聞法の中に、阿弥陀様のお育てや働きを喜んでいかれた方です。


仏事教室より(画讃について)

Q 西方寺の内陣に掛けられている親鸞聖人や蓮如上人、聖徳太子の絵の上に書いてある画讃について教えて下さい。

A まず本堂の正面には、本尊の阿弥陀如来立像が安置されています。そして向かって右脇が親鸞聖人です。
そこに書かれている画讃は

  慶哉愚禿仰惟
  樹心弘誓仏地
  流念難思法海
  嘆所聞慶所獲

(よろこばしかな愚禿、仰ぎおもう。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す、聞くところを慶び、うるところを嘆ず)とあります。

 この言葉は親鸞聖人「顕浄土真実教行証文類」(以下教行証)の二箇所の文からの造語です。

Q その右横の聖徳太子像の讃は?

A 吾為利生出彼
  衡山入此日域 
  降伏守屋之邪見 
  終顕仏法之威徳

(われ利生のために、かの衡山を出でこの日域に入る。守屋の邪見を降伏し、ついに仏法の威徳を顕わさん)とあります。
 仏教を排斥した守屋降伏の逸話にちなんだ讃です。
 
Q 本尊、左横の蓮如上人の讃は?

A 観仏本願力 遇無空過者
  能令速満足 功徳大宝海

(仏の本願力を観ずるに、まうあふてむなしくすぐるものなし、よくすみやかに、功徳の大宝海を満足せしむ)の天親菩薩のお言葉です。

なぜ、このお言葉が、蓮如上人の画讃となったかは不明ですが、阿弥陀仏のご本願を、多くの人に伝えて下さったという意味だと思います。


住職雑感

* 電気器具の保証をフアイルしてあるホルダーを整理していた。現在使用中のパソコを五年間保証する証書がありました。まだ期限内、販売店を見るとM店とあります。何だ、この店は二年前、閉店しているではないか。と心のつぶやき。

 ふと、いのちの学びで書いた話(一四五号)が思い出されました。その話とは、おおばともみつ氏の新刊『世界ビジネスジョーク集』(中公新書ラクレ)の一節です。

 「男がカバンに一万円札を山のように入れ、せっせと銀行の地下貸金庫に収めている。男に支店長が頼んだ。「貸金庫に入れても金利はつきませんよ。ぜひうちに預金して下さい」。男が答えた。「支店長、担保に何を出してくれるかね」。

 五年間保証をした店が、五年間存続することが、保証されていない。なんとも厄介な世相となっています。

*中国では、西安の碑林にある石碑の拓本を一本求めてきました。「関帝詩竹」という軸で、三国志で曹操の元にいた関羽が、劉備に自分の変わらぬ忠誠心を伝えるために書いた詩です。劉備に送るとき、関羽はそれを竹の絵に隠しました。それが表紙の画像です。よく見ると、竹の葉が文字になっているのが分かります。

「不謝東君意,丹青獨立名,莫嫌孤葉淡,終久不彫零」

 (東君(曹操)の好意に感謝はしないが、歴史に名を残したいと思っている。自分の力は一枚の葉っぱのように弱いが、永遠に枯れることはない。)という「信」に関る物語です。