1項 表紙

2項  ミニ説法

 「3人きょうだい第2子は親と疎遠?」。某新聞の記事です。
 3人きょうだいの第2子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが、東京大学大学院のアンケート調査で分かったとあります。
 同大学院認知行動科学研究室が、全国の3人きょうだいの大学生男女129人に、1か月に何回、両親に電話するかを聞いた。その結果、長子6・9回、第2子4・6回、末子5・9回と、第2子は明らかに回数が少なかった。男女別に分けても、傾向は同じだという。
 長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので親が世話をしやすい。一方、十分に手をかけてもらっていない中間の子は、両親への親密度を減らすのだそうです。
 この記事を読んで、以前「いのちの学び」を出版したときのことを思い出しました。この本は、わが子のエピソードばかりを絡めた法話集ですが、読者から「いつ子ちゃんは1回しか登場していない」と指摘されたことがあります。3人の子ども、数えてみると長男の大地は14回、第2子の「いつ子」は2回、末のサラナは10回登場しています。
 新聞の記事を見ながら、「ほんとに、ほんとに」と思ったことです。
この第2子のいつ子の文字は「一子」と書きます。この言葉は、涅槃経に仏の覚りの境地を「一子地」(いっしじ)といい、すべての生き物を、ひとり子のように慈しむことのできる慈悲に安住している方という意味です。親鸞聖人もこのお言葉を悦ばれ、お書き物に引用されています。
 親と子は同じ年という話をよく聞きます。子が1才なら親も親となって1才です。子が誕生して初めて親となるからです。親を親として成立させる根拠は、子どもにあると言うことです。
 これは阿弥陀如来も同様です。阿弥陀如来はお慈悲の仏さまです。阿弥陀如来は弱く闇に沈む凡夫を、無条件に救うという願いを成就された仏さまです。その存在のあかしが、「我はなんじの親なり」と呼びかけたもう「南無阿弥陀仏」の念仏です。
 この阿弥陀如来の願いが誕生する背後には、無条件に救われなければ救いようのない闇をもった私の存在があったと言うことです。阿弥陀如来の存在は、私の闇の深さを照らす光としてのみ、この世に存在理由があるのですから。


3項 今月の詩

どうしようもないわたしが歩いてる

山頭火

 そのものになりきるという境地がある。そう思ったとき、ふと西本願寺の即如ご門主のお言葉が思い出されました。
「人間に宗教があるのは、果たして動物より高級であるからなのだろうか、反対の考え方もできるのではないかと思ったのです。動物には、人間にあるような宗教は必要のないようないのちが恵まれている。自然の摂理といいますか、天地自然の移り変わりというものと一体になったいのちが恵まれている、とも考えられる」(著書「まことのよろこび」)。天地自然と一体となったいのち、この天地自然と一体といった感覚こそ、宗教的な一つの境地のようにも思われます。
 標記の山頭火の歌には、この天地自然と一体という響きがあります。そう思いこの歌に親しんでいると、はからいの巷の中で右往左往しているおのれが見えてきます。


3項 仏事アラカルト 

門徒について

Q お寺に所属する家のことを檀家とも門徒とも言いますが、違いはあるのでしょうか。

A 檀家を辞書で引くと「ある寺の信徒となり、布施などの経済的援助を持続して行い、葬式・法事などを行なってもらう家。また、その家の人」とあります。
門徒は「宗門を同じくする信徒。特に真宗の信者」とあります。江戸時代には、浄土真宗を一向宗とも門徒宗とは言っていました。ですから門徒と言えば浄土真宗の信徒に限っていっています。

Q 真宗でも檀家というのですか。
A 檀家とは、ダーナするお寺のことで、ダーナとは布施のことです。その意味から言えば真宗門徒も当てはまります。他に真宗では手次寺(てつぎでら)ともいい、これは本山宗主の教化をお手継ぎするお寺という意味です。

Q こうした檀家制度はいつから生じましたか。
A 江戸時代四代将軍家綱の頃、各宗共通の諸宗法度が発布され、寺院ごのと個別的統制から、画一的統制への移行していき、その一環で、全住民が宗旨人別帳に記載し、それを僧侶が証明するという檀家制度として成立したものです。
 その檀家制度の成立によって、仏教が形骸化していったとも言われています。
 以上


4項 上段 集い案内

4項下段 通信

● 5月8〜10日まで福井県勝山市に宗派の仕事(ご門主の組巡教)で行っていました。
 宿泊先は、スキー場のプリンス系のホテル。ほぼ12名でプール付きの大きなホテルが貸し切り状態でした。ホテル入りは両日共に日没後です。2泊とも海抜600mにあるホテルはガス状態で、一寸先も見えない状態でした。
 ご門主と夕食を共にしながら、話題が、ガスと霧の違いについてとなりました。私が乏しい知識から「沼」と「湖」の違いは、浸水5m以内を沼であることを持ち出して、「ガスと霧の違いは」と話を向けました。明快な回答はありませんでしたが、家に帰って広辞苑を引くと「ガスー濃霧」とあり、霧は「古は春秋ともに霞(かすみ)と言ったが、後世、春立つのを霞といい、秋立つのを霧といった」とありました。
 話題が同義語の話だったので私は知ったかぶって死亡年齢を示すとき「行年」とか「享年」とか記すが、その違いを話しました。その折りは大方いい加減だったのですが、家に帰ってこれまた複数の辞書を引きました。
享年とは、死んだ時、それまで生きてきた年数であり、行年とは、生きている人がこの世で経過した年数とあり、行年は生きている人でも使い、享年は死者だけに使うようでした。

 ● 上記の日程でご当地の某教務所長が始終ご一緒されました。この教務所長が「面白いこと」を意識して連発する方で、この所長の「おもしろい言葉」が、だじゃれかユーモカか少し話題となりました。ちなみに「だじゃれ」とは「つまらないしゃれ」と辞書にあり。「ユーモア」とは「上品なしゃれ」とあります。ご本人は「ユーモア」だと主張するのですが、まわりは「だじゃれ」だと思っていました。教務所の職員は仕事中にやられるので対応に困ると、このときとばかり、ご門主に告げ口をしていました。
合掌

いのちの学び寺報 「いのちの学び」は

  2月・4月6月7月9月10月12月発行です。
            執筆者は、西原祐治です

NO138 平成14年4月1日号

NO137