1項 表紙

2項  ミニ説法

 「人の悪口を言わずに30分間、お互いが愉快に世間話をできる人を紳士という」。ドイツのことわざだと聞きます。人の悪口をいましめたものか、もしくはそれほど人は悪口を楽しむことを指摘した言葉なのか、隠し事のない関係での会話には、悪口は頻繁に出ます。
 実際、人の悪口ほど愉快で楽しい会話はありません。人の悪口は、他者を裁くことだから、自分が裁判官であり、精神的に優位な立場に置かれます。
 最近のワイドショウは、ゴシップや政治家・官僚を責める論調ばかりです。人は、豊かで平和が続くとゴシップや悪口を好み、飢餓や貧困が続くと美談やあこがれを話題にするようです。
 昨日(3/15)、京都で、待ち合わせには少し時間があったので、知恩院界隈を散策していました。知恩院から円山公園に行く途中、ひとりの女性が、親鳥がひなを庇うように、泣き叫ぶ7人の子ども護る等身大の青銅像がありました。青銅像の下には「師弟愛の像」と刻まれています。裏には、昭和9年の室戸台風に関わる像であると記されています。
 昭和9年9月に超大型台風が四国の室戸に上陸しました。近畿地方を横断し死者行方不明者3066人。特に小学校の校舎が倒壊し、多くの子どもが犠牲となっています。京都でも8校が倒壊し774人の子どもが死亡しています。青銅像の女性は、京都府下、西院校1年担当の松浦寿恵子さんです。自らの死を賭け身を挺して7人の子どもを護ったのです。
 当時の人々は、被害の悲しさの中で、おそらく松浦先生のような行動を話題とし、その悲しさを耐えたのでしょう。人は、恵まれない状況下では、美談を求めます。美談やゴシップ、話題とするのは共に私です。
 仏教では人間のことを「機」と言います。状況や環境によって変化し、色々な可能性をもっているという意味です。これは美談・ゴシップ話題程度ならいざ知らず、「機」とは、個人の努力ではどうにもならないものを抱えていると言うことです。その代表が「老・病・死」です。その老病死の渦巻く、どうにもならない状況の中で、自分の経験や願いだけに閉ざされて生きる。親鸞聖人はそれを自力と言われました。他力とは、その閉ざされた自分を捨てて、阿弥陀如来の慈しみに開かれて生きることです。
*機ー「き」と読みます


3項上段 今月の詩

若きより繙(ひも)きなれし書(ふみ)なれど今宵のわれはおしいただきぬ

吉野秀雄

 阪神・淡路大震災の折り、妻子を同時に失った悲しみの中で、ある僧侶が言われた言葉が脳裏にある。「もし無常のいう言葉がなかったら、その悲しみを受け入れるのに、もっと時間を要したであろう」。
 人は、悲しみや苦しみの中で、自分の存在を言い当ててくれる言葉に出合うことがある。その時、その言葉が存在に頷きを与えてくれる。その言葉により、自分や自分の存在のあり様が明らかになるからだ。 宗教的な言葉は、常人の域を超えた心の領域を問題とし、常識や経験、知性や理性など、自分を支えているすべてのものが虚しく終わるただ中で、その自分を潤し、支え、道となってくれる。
 宗教的な言葉は、その言葉に共鳴できる時の当来を待つか、その心の領域まで自身を深めていくしかない。


3項下段 仏事アラカルト
 
仏華について

Q 仏前にお供えするお花について教えて下さい。
A 仏前にお供えするお花を仏華(ぶっか)といいます。釈尊の国インドでは、花を撒いたり、花を盛った形式でしたが、挿し花となったのは、鎌倉時代のようです。現在のように立花として大成されたのは、色々の人の手を経て、室町時代、(一五三六)、池坊専慈に伝承されたと聞きます。
 現在の「いけばな」は、この仏華が観賞用として発展したものなのです。

Q 仏華は、何か意味があるのですか。
A ローソクの火は、阿弥陀如来の智慧を象徴し、お花は慈しみを象徴していると言われています。

Q お花を供える場合の心得は。
A 他宗では、よく挿し代える手間を省くために、紙や、木・金を用いた造花を挿すことがありますが、真宗では生花を用います。トゲのある木や毒花は避けることになっています。お水は毎日とりかえます。

Q 樒を挿すと聞いたことがありますが。
A 樒を挿す場合は、仏像を安置してある最上段に、小さな水瓶のような瓶に挿します。樒を挿すとは、樒が香りの木なので、香水を仏前にお供えするという意味があります。

 以上


4項上段 集い案内

4項下段 通信

● 4月3日は、花祭り(釈尊の誕生日)で、釈尊の誕生仏に甘茶をかけます。
 またご講師は、熊本から木下慶心先生に来て頂きます。
ご多用の中、ご無理を言って柏まで来て頂くことになった先生です。このご法話を見逃すと、再び聞けないご講師です。是非、時間を割いてお出かけ下さい。

● 東京の築地本願寺の中に、東京ビハーラの事務室があります。
 死別の悲しみの電話相談(03-5565-3418)や、がん患者・家族の語らいの会などを開催しています。現在、私がその代表をしています。
 そのビハーラの仕事で、老人ホームや病院へ出向して居室訪問や法話などをさせていただくのですが、過日、東京銀座にあるデイ・サービスの老人施設に、ご法話に行きました。
 こうしたご法話や東京ビハーラの活動は、すべてがボランテイアであり、直接は皆さんとは無関係です。しかし皆さまがお寺にお寄せ下さったお布施が、私の活動の源となっているのですから、広い意味では、皆さまに支援頂いている活動でもあります。

● 「冠省 …別れの体験を経て、これからの日々の歩みの中で、おそらく今まで感じられなかったことが感じられるようになったということがあるのではないかと拝察します。それこそ亡き方が私の残してくれたプレゼントの大きな1つではないかと考えます。死別の体験を通して、見えるようになったことや感じられるようになったことを育くみ深めていくことが、故人と共に生きていくということなのだと思います…」
 あるパートナーを失った方への手紙の一節です。先に逝った方は、私たちに色々なものを残して下さっています。その中で、仏縁は最も尊い、亡き方からのプレゼントなのです。 合掌

いのちの学び寺報 「いのちの学び」は

  2月・4月6月7月9月10月12月発行です。
            執筆者は、西原祐治です

NO137 平成14年2月1日号

NO136