西原つれづれ06.8
06.7
8.30 がん患者・家族語らいの会ー通信9月号の編集後記です。8月号の後記と同じ日に書いて凍結保存していたものです。執筆は西原です。

【編集後記】過般『自分らしくがんと向き合う』(ジミー・C・ホランド、シュエルダン・ルイス共著、ネコ・パブリッシング刊)を読みました。アメリカの精神医学者であり、がんの心の専門家です。530ページに及ぶ本ですが、その中に「心理療法」の章があり、カウンセリング、リラクスゼーション法、瞑想、イメージ療法、芸術療法などが紹介されていました。しかしこの本の一貫した考えは、結びに「病気という貴方の重荷を軽くすることができたら」とあるように、苦しみを軽くするという考え方です。この軽くするという考え方の背景にあるのは、苦しみは非生産的なことであり、故に撲滅すべきこと≠ニいう理解です。苦しみを軽くするという考え方は、苦しみのなかった状態に近づくということであり、苦しみを通して価値観や考え方が変わるという成長の概念はありません。ビハーラケアで大切にしていることは、苦しみを通して、それまでの思い通りになる世界の中で安心を得てきた自己中心、物質偏執の自分であったことに気付いていくことです。苦しみを軽くするのではなく、苦しみの体験を通して自分が変質していくことです。

「苦しみの体験には意味がある」そう思うようになってから、相手の苦しみを解決する具体的な手立てはなくとも、苦しみを聴く場に自分の身を置くことができるようになったように思います。*いろいろな精神療法でも、苦しみ→苦しみがなくなる≠ニいうAからBへの地点移動という考え方がほとんどです。一般の仏教でも、迷いから悟りへ≠ニいうAからBへの地点移動の考え方に立っています。しかし浄土真宗の考え方は、迷いから悟りへ≠ニいう地点移動ではなく、我は迷いの存在そのものなり≠ニいうことが明らかになることです。Aでしかありえないという凡夫であることの気づきです。この凡夫の気づきは、日常生活が平々凡々と営まれている場合には起こり得ません。そのことが起こる人生の場は、「思い通りにならない」という場であり、苦しみの場です。その最も大きなウエーブが生命の危機です。浄土真宗をバックボーンとする東京ビハーラが、がん患者とのかかわりを大切にしている核心がここにあります。*集いは誰方でも参加いただけます。苦しみに耳を傾けてみませんか。       (N)


8.25 いのちの学び166号をアップしました。当寺は都市開教寺院です。私は口から出るにまかせて「都市開教は真っ白なキャンパスに自分の絵を描いていく。一般寺院は既に描かれて絵に修正を加えていくのだから、一般寺院のほうが伝道は難しい」と語ってきました。

一部は言い当てていますが不十分な点もあります。

一昨日、ある家庭に出勤しました。法話会の案内等は、ずいぶん以前から出していましたが、お寺開催の法要としては14日のお盆法要が初参加の方でした。家族で来てくださったようで、そのときのご子息との会話をお話くださいました。

お経の前に「みほとけは」という仏教賛歌を唱和しました。そのときそのご子息は、歌がよっぽど違和感があったのか、「おかあさん、ここ大丈夫」(新興宗教ではないか)と不安げに話しかけてきたそうです。

その会話を聞いた私のほうが驚きです。お寺には来たことがない方のですが、お寺とは「こうあるもの」のいうイメージはしっかりと持っているということです。そのイメージの中には歌を歌うというものはなかったのでしょう。

浄土真宗の伝道で取り組んでいかなければならない大衆の現場は、仏教に対する虚像をしっかりと持ってしまっているということです。都市開教の現場は真っ白なキャンパスではないということです。

8.17 お盆も本日、隣寺の法要に出勤して終了です。


8.7 「がん患者・家族語らいの会」通信が毎月出されています。その通信の編集後記は、種村健二朗先生(元国立癌センター医師、現武蔵野大学教授)の執筆でしたが、今月号から主に私が書くようになりました。短い文ですが、このつれづれにも掲載しておきます。

通信8月号

【編集後記】19888月、第1回目の「がん患者・家族語らいの集い」が築地本願寺で開催された。以来、当時、国立がんセンター婦人科医長であった種村健二朗先生を中心に、今日まで集いは継続されてきました。集いはこれからも先生のアドバイスを頂きながら開催されますが、種村先生は8月より世話人の立場ではなく、ビハーラ会員としてご協力頂くことになりました。まずは今までのご指導に感謝申し上げます。よってこの編集後記の執筆担当も代替わりとなりました。

「がん患者・家族語らいの会」は、ビハーラ・ケアを実践する場です。ケア(care)とは「@ 注意、用心A心づかい、配慮B世話すること」と辞書にありますが、決して強者と弱者といった上下関係の中で、相手に不足する部分を補ったり、相手のニーズに応えるといったことではありません。精神科医のメイヤロフは「その人自身の成長を助けることがケアの本質」と語っていますが、人間の成長に関わるのがビハーラ・ケアの本質です。なぜケアが成長と結びつくのか。この頃よくキュアcure=治療)からケアcare=看護)などという言葉を耳にしますが、「キュア」は病気や死を否定的に捕らえて治さなければならないとする考え方であるとしたら、ケアは病気や死を否定的に考えるのではなく、病気や死を抱えるありのままのその人を大切にすることであり、病気や死を否定しない考え方に立っています。このキュアからケアへの変更は、病気や死を否定的に見ることから、病気や死も必然であると肯定する考え方への変換であり、いのちを量から質(いのちの尊厳を見出せる心)を大切にすることへの転換でもあります。病気や死を抱える、ありのままのその人(私)が大切にされる。ここに成長のフイールドがあるのだと思います。いのちの質への転換は多くの場合、キュアの断念によって実現していきます。この断念に伴うのが苦しみです。ですから具体的なビハーラ・ケアの実践は、その人自身の苦しみに耳を傾けることになります。苦しみは新しい成長の疼きであり、成長の扉を開く意味ある営みだからです。              (N)


4日にビハーラケア研究会がありました。
龍大の鍋島教授の論文を突っつきながらの意見交換会でした。その論文の中に「患者を尊重しながら」という文脈がありました。
「患者を尊重する」とは、胡散臭い言葉なので私は引っかかりました。なぜ胡散臭いかといえば「患者を尊重する」とは、どういうことなのかが示されていないからです。

「患者を尊重する」とは、ありのままの私でその方に接するということです。「こんなことを言えば傷つく」「終末期の彼に死の話題は避けるべきだ」などの配慮は、相手を信頼していないこという事です。信頼していないとは、相手が動じないとか、気分を害さない彼であるという意味での信頼ではなく、落ち込む彼の大切な彼であるという意味での信頼です。もちろん配慮は必要ですが、死を話題にして傷つく彼も大切な彼であるという信頼が「患者を尊重する」ことなのです。

「患者を尊重する」とは、患者のすべての可能性ふくめて尊重することなのです。そこで問われるのは私自身です。あなたは患者をどこまで尊重できるのか。これがビハーラ・ケアの関わる側の恵み(成長)です。