ベスト・ムービー
           『生涯の10本』
1.『眼下の敵』
2.『刑事コロンボ 別れのワイン』
3.『バベットの晩餐会』
4.『男はつらいよ 寅次郎紅の花』
5.『ブラザー・サン・シスター・ムーン』
6.『ロミオ&ジュリエット』
7.『小さな恋のメロディー』
8.『Shall We ダンス?』
9.『めぐり逢う朝』
10.『リング』
1.『眼下の敵』



この映画は、私にとっての「生涯の1本」であろう。
死ぬ前に「最後の1本」と言われたら、これしかない。

戦争映画としてだけでなく、人間ドラマとして最高である。★★★

30年前、高校生の時初めて、テレビ洋画劇場で観たとき、
主役の一人、Uボートの艦長であるクルト・ユルゲンスの
あまりのカッコよさに、ブルッと身震いがしたほどだ。

特に、ラスト近いクライマックス・シーンで、
炎に包まれた艦上で、瀕死の親友の副長を抱えて、
敵艦の艦長に向かって敬礼する場面は、
何度観ても、胸が熱くなる。
まさに、男の世界、闘いの美学・・・。

それ以来、ビデオ、LDで何十回見たことか・・・。

駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムも渋い。

この後、数多の戦争映画、潜水艦映画を見たが、
これを超えた作品は、未だにない・・・。

レンタル・ショップには「吹き替え版」があるかどうかは
定かではないが、『テレビ洋画劇場』でやった
吹き替えは、ピタリとはまっていて、それは見事であった。

Uボートの副長・ハイニ役が、『天才バカボン』のパパ声
雨森雅司 (あめのもりまさし)だったのが、最初は違和感があったのだが、
段々とハマッてくるにしたがって、それがとてもよかった。

両艦長の声も、文句なくフィットしていた。

もちろん、原画で観ても楽しめた。

お見事!! の一言しかない映画である。


2.『刑事コロンボ 別れのワイン』



『コロンボ』シリーズは、新作に至るまで、
全作品観たが、
これが最高傑作である。
コロンボ・ファンの誰もが、文句なくNo.1と認めるものだ。

犯人役のドナルド・プレザンスの存在感がいい。
『007』では悪役も演じたことがある彼だが、
ビーター・フォークと互角以上に渡りあって、
緊張感があって、作品に深みを与えている。

殊に、吹き替え版の、故・小池朝雄は絶品だ。
もちろん、原版でも充分に楽しめる。

ワインのちょっとした知識があれば、
この作品のオモシロさは、更に倍加するだろう。

『眼下の敵』と共に、「生涯の2本」に値する。


3.『バベットの晩餐会』



1987年のデンマーク映画で、ひとしきり話題になった。

料理映画でもあり、グルメ映画でもあるが、
何より、人間ドラマが上品に、格調高く描かれている。

まるで、古典絵画を見るがごとくの映像美も
素晴らしい。

観終わった後、何とも言えぬ「後味のよさ」を
感じさせてくれるし、充分に癒してくれる。
こころの栄養になる「美味しい映画」なのである。

「今夜、私は知りました・・・。
この美しい世界ではすべてが可能だと・・・」
「貧しい芸術家はいません・・・」

という、名セリフもこころに残る。
こころの豊かさとは何か、を伝えてくれる名画である。

これが、私の「生涯のベスト3」に入る。


4.『男はつらいよ 寅次郎紅の花』



『寅さんシリーズ』は全作品を何度も見たが、
これ1本といったら、やはり最終回をあげることになろう。

この後、渥美清の突然の死で、シリーズは終焉を迎えたが、
奇しくも、この作品には「ひとつの結末」が感じられる。

光男と泉エピソード・シリーズの紆余曲折後の大団円。
リリーと寅との淡い「つかず離れず」の関係。
そして、阪神大震災とその後の復興・・・。
といった、人間の永遠のテーマである「男と女」の関係、
「世代交代」、「定住と流浪」、
そして、「死と再生」のテーマが底流に描かれている。

ここにおいて、ヤクザな若造だった寅は、見事に垢抜けて、
宮沢賢治の理想とした「デクノボウ」、
良寛の自称した「大愚」、
そして、一休が生きた「風狂」
といった、聖人の生き方を体現するに至った。

これ以前の作中でも、ご前様が
「寅のような人間のほうが、わしらよりも、お釈迦様に
愛されるのではないか、と思うとるんです・・・」
と言うシーンがある。

『寅さんシリーズ』全編を俯瞰してみると、
車寅次郎という私生児の粗野な人間性が、
苦難を伴う失敗体験と、家族の見守る愛情によって、
陶冶され洗練されてゆく「自己実現の過程」
であることに気付くであろう。

『男はつらいよ』とは、ある意味で、
民俗学者・折口信夫の唱えた「貴種流離譚」
(若い神や英雄が他郷をさまよい、さまざまな試練を克服し、
その結果、神や尊い存在となること)
の物語ではなかったか、と思うのである。

愚直な寅が、晩年、若い光男らを善導する様は、
導師のようにも見え、高貴ささえ感ずるのである。

寅と似た実在のキャラクターに、長嶋茂雄がいる。
どちらも愚直で憎めない、人から愛される人柄である。

もし、長嶋が亡くなる日が来たとしたら、
どんなに日本は寂しくなるだろう。


5.『ブラザー・サン・シスター・ムーン』



アッシジの聖人・フランチェスコの物語である。
1972年イタリア・イギリス映画で、監督は名匠フランコ・ゼフィレッリ。

映像と音楽は、特筆すべき美しさ。

初めて観て泣いて、二度目に観て泣いた。
LDを購入して、たびたび観ては泣いたものである。

10年以上前の教員時代に、
120分の作品を50分に編集して
授業で高校生に見せたことがある。
なかなか良いレポートを書いてくれて、
嬉しかったのを覚えている。

初めから崇高な宗教者ありき、ではなく、
凡庸な若者が、純粋な生き方を求めてゆく過程で、
ついには、ローマ法王さえ、ひざまずかせる生き方ができる、
というお手本が描かれている・・・。

この映画には、穢れた心を浄化してくれるような、
カタルシス効果があるので、
心理カウンセラーとして、「シネマ・セラピー」が
可能ではないか、と思うのである。


6.『ロミオ&ジュリエット』



フランコ・ゼフィレッリ監督。
オリビア・ハッセー、レナード・ホワイティング主演。

見事な青春映画。
そして、美しくも哀しいシェイクスピアの傑作悲劇。

ニーノ・ロータの音楽は、イタリア・バロック音楽のオリジナルかと
思えるほどの見事な出来で、
オペラも手がけるゼフィレッリ監督の芸術的映像に
相まって、作品を完璧なものへと昇華させた。

それゆえ、音楽はしばしば、単独でも演奏される機会がある。

たしか、オリビア・ハッセーは当時17歳、
レナード・ホワイティングは18歳だったと思う。
シェイクスピアの原作に近い年齢である。

若い二人が演じるロミオ&ジュリエットは、
瑞々しく、ほんとうに美しかった。

私がこれを初めて観たのは、中1だった。
もちろん、劇場で・・・。
思春期の多感な頃で、眠れぬほど感激したことが、
今では懐かしい。

画面に描かれる中世のイタリアの都市ヴェローナや、
貴族屋敷での祝宴の様子など、
まるでタイム・スリップしたかのように空気感があり
とてもリアルであった。

ぜひ、10代のうちに観ておいてほしい名作である。


7.『小さな恋のメロディー』



マーク・レスターとトレイシー・ハイド主演。
イギリスの幼い美少年と美少女の、淡い恋の物語。

中1のとき劇場で観て、三日三晩、ほんとうに
胸の痛みが治まらなかった。

今思えば、何にそんなに感動したのだろう・・・。
たぶん・・・、
恋とは何か、まだ理解できない頃、
銀幕で、同世代の二人が「夢のような恋物語」を
成就させたことに、魂を揺すぶられたのかしれない。

三日も、胸がキューンと切なく痛んだ映画は、後にも先にも、
これしか思い浮かばない。

後年、幾度となく見返してはみたが、
もはや、その頃の胸キュンにはならなかった・・・。

あと数十年後、爺様になって、精神がいくらか退行したときに、
また泣けるかもしれない・・・。


8.『Shall We ダンス?』



あまり邦画を観ない私にとって、
周防監督の『シコふんじゃった』が大爆笑モノだったので、
期待して観てみた。

感動して帰ってきて、翌日、また劇場に足を運んだ。
二日続けて同じ映画を観たのは、この作品が
後にも先にも初めてである。

スポ根ものではないが、
競技ダンスという「優美さを競う」大会へ、
ロッキー的精進を続ける中年の姿が美しい。

ことに、背筋矯正器を付けて、深夜の雨降るガード下の石畳で
無心に踊る役所広司の姿は白眉で、
目頭が熱くなるほど素敵だった。

それまで、全く感心のなかった俳優だが、
この作品で彼が大好きになった。
 
私とほぼ同世代の、役所広司、渡辺えり子、
原日出子、周防正行監督らが、
熱い思いで創った映画だから、
共感し、感動したのであろう。

竹中直人、柄本明の両人とも大好きだし、
自然体の臭い演技がコケテイッシュでいい。
役所、渡辺、原は、いずれも芸達者である。
臭みのない俳優・女優である。

そこへ、草刈民代の新人らしい初々しい清楚な演技。
そして、本格的プロフェッショナルなバレエの妙技。

また、周防映画の常連ともいえる面々が
脇をしっかり固めて、この作品を更に重層的な
厚みのあるものに仕上げている。

中年が演じ、中年が観て、胸キュンになる名画であった。


9.『めぐり逢う朝』



フランス・バロック期の音楽家師弟、
サント・コロンブ、マラン・マレの生き様を描いた
91年のフランス映画。

この作品を観た音楽好きは、みなヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
が弾きたくなる、と言われた。
かく言う私も、これを観て、ヴィオールを始めた。
音楽の部屋5参照)

サントラ担当のヴィオールの名手・ジョルディ・サバール
のCDも何十枚と買い集めた。

珍しい楽器パロックリュートも映画に登場し、
リューテニストのはしくれである私は、
胸がワクワクした。
音楽の部屋13参照)

作品には、マレの非情さ、コロンブの娘の自殺・・・と、
色調の暗さ、苦味も伴うが、
それゆえに対照的に、純然たる美しい音楽が生まれる
というシニカルなことがわかる。

『アマデウス』で、サリエリがモーツァルトに嫉妬して
「なぜ、あれほどまで下劣で低俗な男に
神のような崇高な音楽が創れるのか・・・」
と絶句するシーンがある。

芸術を司る神々、ミューズやアポロン、ディオニソス
らの気まぐれさ、音楽誕生の神秘さを
考えさせられる芸術映画である。


10.『リング』



生涯、もっともビビッた映画はこれしかない。

仕事が休みの平日、
「ヒマだから、映画でも観てくっか・・・」
と、気軽に出かけて、珍しく2本立てを見つけたので、
「邦画だけど、ま、いっか・・・」
と、何の気なしに観たのだが・・・。

ラストで、あまりの怖さに、のけぞり過ぎて、
椅子から滑り落ちそうになった。
                    \(@_@)/
平日の地方の映画館なので、
学校サボリの女子高生が二人ほどいるだけの
広い映画館で、
しかも、前から3列目のあたりで見たものだから、
貞子の、どアップに、ギョエー )'0'(
・・・っと、ムンク顔になってしまった!

もう、ほとんど半泣きで、扉を開けて出たが
女子高生がマジに震えて
「めっちゃ、コワ〜!!」
と、出てきたので、ロビーで
虚勢をはって、ハハハと、引きつり笑いをしてしまった。

その後は、リング・ショックがしっかりトラウマになってしまい、
深夜のテレビには近づけない
(もっとも、ウチのは14インチで貞子がつっかえて
出て来れないのだが・・・(^♀^)>
というシャレが講演会で随分ウケた・・・)
『リング』作品中の「呪いのビデオ」を自分も
観てしまったから、1週間後に貞子が出てくるかなぁ・・・とか、(T0T)
夜、鏡をのぞくと静子が髪をとかしているのでないか・・・とか、
ほんとに参った。

怪談話が大好きで、教員時代は、テニス部の合宿や
スキー訓練のたびに、また毎年、夏の授業中には、
生徒たちを「怖い噺」でパニくらせたり、女生徒を泣かせたりして
喜んでいたオカルト教師だったのだが・・・。
これには、してやられた。

ことに、作者の鈴木光司も、監督の中田秀夫も57年生まれで
私と同い歳であるので、「してやられた感」は強い。
タメにやられた、という感じである。

でも、見事である。天晴れ、である。
こんなに凄い、上出来の、スグレモノ・ホラー作品を生み出した。

ホラー映画は好きではないが、『エクソシスト』のテープに吹き込まれた
不気味な声や、『キャリー』の突然、地下から手が出てガバリと
腕をつかむ、といった手法が、ここで使われているのがわかる。
フラッシュで顔面が固まるのは、『四谷怪談』などで使われた。

ユング派の心理屋として分析してみるに・・・
超能力者が恨みを残して死ぬと、ただならぬことになる・・・
という設定が秀逸だ。
落語のマクラに、バカの与太郎が死んだら、方々に見境なく
化けて出て困る、という噺があるが、
「そこが、バカだから・・・」
というオチ。

「バカは隣の火事より怖い」
と落語では云う。

ケタハズレの念力を持つ超能力者が化けて出るのは、反則だ。
そんなの日本の怪談話の「判例集」に乗ってません!裁判長!
・・・というくらい、シュールな発想である。

他に、怪談として、成功している要因・・・
 
 *都市伝説の不気味悪さ
 
*7日間という時限爆弾的追い込みの切迫感

 *美女・松嶋奈々子のシンメトリックな顔が、呪いの写真で
  アシンメトリック(非対称)になる・・・・。
  乳幼児に、アシンメトリックな顔の絵を見せると、不安反応が起こる。

 *数学的直感の世界に生きる科学者である元・夫が持つ
  シャドウの部分である非科学的オカルティスティックな領域への
  違和感。誰もが、合理性と非合理性の二面性をもっているが、
  現実は合理性優位で暮らしているので、非合理性は劣等機能
  となり、シャドウとなって気味悪いものと感じられる。

 *息子への「呪うべき気質」の世代間伝達。

*貞子の白い服・・・死に装束=花嫁の白無垢、を連想させる。
             (娘として死に、嫁として再生する)
  長い髪・・・・女性性の象徴だが、ネガティブな側面として、
          般若、夜叉、魔女、鬼婆、山姥、と
         女性の魔性のシャドウを想起させる。
         また、「少女から女へ」以降する過程での
          「死と再生」のイメージも喚起される。

 *最後まで無言の貞子・・・『らせん』『リング0』『リング2』とも
                 生身の貞子が喋っている。
                 それでは我々の現実感に近く、
                 親近感が生じて恐怖感は薄まる。
                 無言電話同様、得体の知れないものに
                 人は不安と恐怖を抱くのである。

 *松嶋奈々子のポジティブな母性性が、井戸で惨死した
  貞子の亡骸に頬ずりして慰霊し、呪いの連鎖の物語は
  大団円で終焉したかに見えたが(観客は一旦、安堵する)、
  その後、貞子のネガティブな母性性(殺す母)が突如現れ、
  父親を呪い殺す。安心させといて驚かすドンデン返しである。

 *井戸から現れる貞子の動きが淀んでいて不気味である。
  人間らしい円滑な動きをしない人間に、人間は恐れを抱く。
  テレビから実体化? し、現出する、という非合理性の恐怖。

 *非楽音的ノイズの多様。
  特に、金属が軋むような生理的嫌悪感を誘う音。
 
心理学者のユングは、元型に訴えてこない芸術作品は、
決して心に残ることはない、と言っている。
そういう意味では、観る者の深層心理を刺激する映画といえよう。