フランクフルトぼちぼち行こか日記
2001年9月後半の子連れFrankfurt am Main日記




2001年9月29日-Sa.(のい2歳1ヵ月22日) 住居引き渡し
  昨夜は、未明まで手荷物の仕分けをした。いつ眠ったのか、よく分からない。
  泊まったMホテルの朝食は、朝6時半から。開始と丁度にレストランへ。
  「もう今日はいつ食事できるか分からないから」と言いながら、しっかりと食べる。
  腹を満たした後すぐ、急いで家に戻り、水回りを重点的に、掃除に励んだ。
  硬水ゆえに溜まった“カルキ落とし”は厳しい。食器洗い機用のCalgonitとクレンザーを片手に奮闘。
  普段から気をつけて水滴を拭き取っていたつもりだが、1年前の入居時の新品同様のピカピカ状態にはならない。
  ドイツ人が許せる完璧さとは、どのくらいの程度なのか? 不安で仕方ない。
  「原状復帰」って、元は一体どうだったんだっけ? 一応、入居時に撮った写真も持ってきたが、
  頭がクラクラしてパニック状態。何だかよく分からない。
  とにかく、時間の許す限り、磨き続けるしかない。既に爪はボロボロである。
  雑巾を洗う時間も惜しいので、のい の古オムツを、使い捨てにした。ゴミは最後の最後まで出続ける。
  夫は、花瓶や華奢なスタンド、ガラスのテーブルなど、のい には危険なため、物置に隠しておいた大家の家具を
  エレベーターで何度も往復して運んだ。のいの悪戯防止に、取り外した家具の把手類を、元に戻したり。
  ハッと気付いたら、10時。
  10時ちょうどに、大家H氏夫妻が現れた。私の慌てようにH氏「もうちょっと待った方がいい?」。
  「Moment!」と叫んで、急いで浴室床のクレンザーを片付け、「どうぞ」。苦笑するH氏夫妻。
  H氏の妻とはこれが最初で最後の対面。妊婦の彼女はドイツ人らしく、チェックが細かい。
  部屋を点検された結果、問題になったのはこちらが気付いた箇所だけで、ホッとする。
  夫とH氏が、引き渡し書類のチェックに入ったので、私はカギを返却し、のいを連れて近所に挨拶へ。
  まず、真下のSおばあさん。ちょうど娘夫婦が来ていて、私たちを紹介してくれた。
  私が折々に話したことが、すべて話した通りに伝わっていたので、嬉しかった。
  また、先日差し上げた、日本の陶器の容れ物が、リビングの机の真ん中に置かれ、
  Bonbon(キャンデー)入れとして使われていて、光栄だった。
  次いで、通りを挟んだ別棟へ。よく遊んでくれた中国人の子供たちとその親3軒にも。
  挨拶を終え、家に戻ろうと通りを渡っていたら、のい の一番の仲良しYの、母親のSが
  ベランダに出て「ノイー!」と手を振っていてくれて、泣きそうになった。
  そして、別の家の、小学校に上がったばかりの少女も「ノイー!」と後を追ってきた。
  大事にしていたであろう首飾りを差し出し「ノイにあげる」と言う。その気持ちに感激し、頂戴した。
  のい本人は、ここ数日の激動に情緒不安定気味なせいか、私にしがみついているばかりだったが……。
  そうして後、自分の住まいに戻ると、引き渡しの諸々は、殆ど終わっており、
  H氏夫妻が、改めて掃除を始めよう(! さらにまだ掃除するのかい……)というところだった。
  廊下に出してあったゴミの数々をエレベーターで下ろし、それを手伝ってくれたH氏と、
  エントランス前でサヨナラ。「あと1時間は部屋にいるから何かあったら来て」と、アッサリ別れた。
  大仕事が済んだので、急いで街へ。土曜のお昼時とくれば、ただでさえお買い物競争まっただ中。
  私は昼食抜きで、夫に のい の昼食を頼んで、最後の土産物を買いに走った。
  45分間で嵐のように買い物をして、夫と子守をバトンタッチ。夫は学会(本日が最終日)へ。
  のい は、昼食を十分には食べなかったらしく、眠さもあってワカランチン状態となっており、
  乳母車に乗せるのも一苦労。とても繁華街で買い物などできる状態ではなく、
  心残りは若干あったが、仕方なく地下鉄に乗って、地元下町商店街に戻った。
  いつものお茶屋さんで、愛飲していたフルーツティーを買い、親切な店主に「1年間ありがとう」と御挨拶。
  のいは眠いくせに公園には行きたがり、年上の少年が棒を振り回すのを真似して、喜んでいた。
  疲れているだけに余計にワカランチンになっており、公園から引き剥がすときも大泣きだった。
  ホテルに着いたら、のい が眠り込んでしまい、声をかけようが、つつこうが、全然起きない。
  夕食を取ろうにも外に出られず。ルームサービスをとろうと思ったときには、もうサービス時間が終わっていた。
  夫は、学会の後、そのまま色々な国の研究者仲間と飲みに行った。この人脈もこの留学の成果である。
  私は結局、食品棚の残り物で焼いたクッキー(胡麻、胡麻油、シナモン、きな粉、レーズン等々)と
  リンゴで生き延びた。今日まともに食べられたのって、朝食のみじゃん。予想通りの結末だったが。
  で、ホテルの中で何をやってたかってーと、ひたすらの荷造り。とほほほ。



2001年9月28日-Fr.(のい2歳1ヵ月21日) 修羅場
  朝、近所の日本人Yさんに体重計を返却。帰国時に捨てるつもりで日本から持ってきた日用品も
  持っていって下さったので、大いに助かった。それらのうち、木のお椀はドイツで特に役に立ったもの。
  午後2時、ハウスマイスター(管理人)がメーターの読み取りに来た。以後、電気が使えなくなった。
  そのため、のいはいつも見ている子供専用テレビチャンネル(KI.KA)が見られなくなり、
  「キカー、キカー!」と泣き叫び、テレビをつけてくれと大暴れ。家の中は修羅場となってしまった。
  明日の朝は、いよいよ住居引き渡しなので、当初の計画では《本日日中には手荷物の荷造りとゴミ出し、
  掃除を終え、夕方にはホテルに移動する》はずだったのだが、子供をあやしながらでは、とてもとても。
  必死で頑張っているにもかかわらず、16時の時点で、どれも終わっていない状態。
  夫は本日の学会の、夕方〜夜の講演をどうしても聞きたいと言っていたが、とうとう「諦める」と言い出した。
  しかし、このドイツ暮らしは、夫の勉強のためのもの。絶対に行かせなければなるまい。
  作業を続けながら、喧嘩同然で怒鳴り合い。「私一人で片付けられる、行きなさいってば!」「無理だ、残る!」
  押し問答の末、若干遅刻にはなったが、会場に夫を送りだすことができた。
  私は17時、とにもかくにも、家から徒歩10分ほどのホテルにチェックインした。
  段ボール箱や紙袋を幾つも持って、泣き叫ぶ幼児を乳母車に入れて……異様なアジア人女である。
  家の電灯はもう使えないので、日没までに総ての手荷物を移動させねばならない。
  巨大リュックを背負い、ママリュックを乳母車に提げ、持てるだけの荷物を入れ、
  ホテルと家を4往復はしただろうか。あらかた荷物を運び終えたら、19時すぎになっていた。
  急いで、地下鉄でHauptwacheの某日系航空会社へ。昨日渡し忘れたFax機のマニュアルを渡すためだ。
  しかし、事務所はもう無人だった。階下の旅行代理店に無理矢理入れてもらい事情を話していたら、
  幸運なことに、T氏を知っている人がいた。押し付けるようにして、マニュアルが入った袋を託した。
  次に百貨店Kの電球売場へ。今日になって切れてしまった電球の替えを探す。しかし、品切れ!! 
  結局、地下鉄1駅分を走って、別の百貨店K(元H)に、20時閉店ギリギリに駆け込み、やっと入手。
  レジのオバサンが、乳母車の中の のいを見て、「あらあら、金魚みたい」と笑った。
  空腹しのぎに与えたレーズンパン を、大口開けて がっついていたから。
  いつもより1時間半も夕食が遅れてるんだもの、仕方ない。ゴメンね。
  K(元H)の前のポンフリ屋で、ポンフリとチューリンガーヴルスト(チューリンゲン風ソーセージ)を食べた。
  いつもは昼間来る店だが今やもう真っ暗。パンを道に落としても鳩は来ないのに、のい は「ハト!」と言っていた。
  帰りのS-bahnでは、向かいの席に座った美女が、のい のことを、やたらあやしてくれて、あげくの果てに、
  「私の姪も睫毛が長くて可愛くてパンパースのCMに出た。この子も可愛いからCMに出られるかも。
   この子、消臭剤のCMに出ている子にも似てる。トイレの水を流して“クシャイクシャイ”って言うの」
  などと、のたまう。こちらはボロボロに疲れているので、適当に相づちを打っていたのだが、相手は
  えらく熱心で「分かる?」「パンパースのCM知ってるよね?」と畳み掛けて来る。仕方なく、真面目に会話。
  話して、子供を誉められているうちに、だんだん愉快になってきた。彼女とは手を振って別れた。
  次に、DB(ドイツ国鉄)の、赤いベレー帽を被った保安官が同じ車両に来て、
  同じく赤いベレー帽を被った のい を見て、ニッコリ。昼間の保安官はコワモテばかりなのに。



2001年9月27日-Do.(のい2歳1ヵ月20日) あっ!電話機がない!
  のいの熱はまだ下がらない。夫がのいを抱いて安心させてくれている間、私は窓掃除に励んだ。
  洗濯物干し具の塗料が、ガラスにこびり付いて、傷のように見え、なかなか取れない。
  のい の布オムツの傷んだのを駆使して、磨く、磨く、磨く。掃除の鬼である。
  息抜きを兼ねて、のい と新聞屋のお姉さんのところへ。彼女は明日から休暇に入るので、今日でお別れ。
  のい は少し元気になったらしく、西駅まで行きたがったので、電車の見えるところまで散歩して、
  そこからバスで家の前まで戻った。バス停前のパン屋に入ったら、奥からオジサンが出てきて、
  いきなり のい を抱き上げ、魚の水槽を見せながら「Fisch(フィッシュ)!Fisch!」。
  前に夫が“パン屋でふと気付いたら のい が見知らぬ男に頬ずりされ、無理矢理、魚を見せられていた”
  と言っていたが、その男はこのパン職人らしきオジサンのことだったのね。のいはブ然としていた。
  それにしても、このパン屋のMischbrotは、最高に美味だったなあ……。
  さて、午後、夫は学会へ。子守がいないと、掃除がはかどらない。のい は残しておいた玩具にもすぐ飽きて、
  「ケラー(物置)に行く」と言ってきかない。しかたなく階下へ下りていって、物置の中を見せた。
  のい は「なーいねー」とつぶやいて、ションボリ。彼はまだ、三輪車があると思っていたようだ。
  夕方、約束通りの時間に、某日系航空会社のT氏が、我が家のFax機を引き取りに来訪。
  せっかくなので、ヒースロー空港の乗り換え案内図を頼んでおいたのだが、ちゃんと持ってきて下さった。
  「買ったときの箱もできれば欲しい」とおっしゃっていたので、ケラーから探し出して用意しておいたし、
  ついでに、残っていた鰹節パックも差し上げた。完璧。……と思っていたら、大失敗!
  Fax機のマニュアルを渡し忘れてるううう!!!! タンスの引き出しに入ったままだった。
  見送って5分後に気付き、T氏に電話をかけようとした。が、我が家にはもう電話が無いじゃないか!
  公衆電話をかけに行こうにも、もう暗くて危険だ。しくじったあ〜〜〜。
  のい の熱は、夜になって少し熱が下がった。



2001年9月26日-Mi.(のい2歳1ヵ月19日) 集荷、そして のい発熱
  朝、のいにパンツ型オムツを着けて遊ばせていたら、突然ズボンとパンツを自分で下げ、
  床におもむろにオシッコをした。うそー!! オシッコできるのお??
  しかし、便座もオマルも梱包されて、既に段ボール箱の中である。
  午前中に、次に入居する若い女性が下見に来た。なんと我々が出た翌日から住むらしい。
  今後は借り上げ社宅になるのだろう。借り手らしき紳士はドイツ語を話したが、入居者は英語だった。
  午後、集荷。日本の業者ではあるが、安いパックを選んだので、日本人の立ち会いはなし。
  来たヨーロッパ人2人組(若い男)は、「FRAGILE」のステッカーを貼ってあってもお構いなしに、
  まるで投げるように荷車に載せて、あっという間に持っていってしまった。
  のい はその間、寝室のベッドの真ん中で昼寝をしていたのだが、荷出しの音で目を覚まし、
  起き出たときには最後の箱が出ていくところだった。リビング一杯にあった21箱が、忽然と消えたので
  相当ショックを受けたらしい。その後、ボーッとして目がうつろに。39度の発熱。



2001年9月25日-Di.(のい2歳1ヵ月18日) 怒
  夫は午前中、銀行へ。午後、3人で土産の買出。まずは夫関係の土産選びに付き合った。
  しかし途中で、夫と繁華街Zeilのど真ん中で、大喧嘩。怒鳴り合い。とても土産どころではない。
  結局私関係のは買えずに帰らねばならなかった。もう時間がないのに、腹立たしい。
  買い物ぐらい一人で行けよ。こっちは普段、暴れる子連れで、品定めさえ満足にできないのに。



2001年9月24日-Mo.(のい2歳1ヵ月17日) 内容明細書の締切
  朝というか未明の2時半に起きて箱詰め。私の場合、デッドラインが近づくと、安心して眠っていられず、
  目覚ましなどなくても、目が覚めてしまう(寝付きは普段通りで、布団に入って3秒で熟睡なんだが)。
  寝ぼけながら箱に番号を振り、箱の蓋の閉じたとき内側になる部分に、内容物のあらましをメモ。
  業者の用意した箱には、三輪車が入らないので、日本から来るときに入れてきた巨大な段ボール箱に切り込みを入れ、
  三輪車を梱包。容積を計算し、隙間に壊れても構わない雑貨を詰め込んだ。
  航空便は、実重量または容積で料金が決まる。
  船便は、大体1箱が30kgまで。1箱違うと料金がかなり変わる。内容物の組み合わせには、かなり頭を使う。
  制限重量を超えないよう、荷物を入れ替え、その都度、蓋のメモも書き換え。
  さらに、業者の用意した番号入りステッカーを貼り(20箱分あったが、結局21箱になり1枚は手作りした)、
  自分のノートに、箱番号と内容明細を記入する。最後に、引越業者用の内容明細書を清書。
  海外引越と国内引越の大きな違いは、この『内容明細書』。これは通関があるからで、実に面倒くさい。
  「いちいち値段まで書いてられるかあ!」と思うが、書かねばならない。
  例えば、「no.16 書籍56冊(560DM).子供肌着類20点(50DM).........」。もうテキトーである。
  手が疲れたので、ファイルも資料コピーも雑誌切り抜きも、すべて「書類」とする。
  こうしている間にも、食べ、食べさせねばならぬし、寝かさねばならぬし、家庭内は地獄の沙汰。
  夕方、内容明細書を何とかFaxで送った。これで荷出しまでは、少し息がつける。
  その後、久々に3人で外出。BockenheimerWarteへ。歩く道々、
  のい が信号を見て「赤、青」と言う。緑色を「青」と覚えてしまったか。慌てた。



2001年9月23日-So.(のい2歳1ヵ月16日) 体重計/豆腐花
  未明から起きて作業。お昼前、ヨロヨロしながら近所の日本人Yさん宅へ。
  のい は奥さんの方には大いになついていたのだが、初めて見た旦那さんに大泣き。
  どうも、若い男の人は苦手らしい。旦那さんには悪いことをした。
  ついでに荷物を計量するために、体重計を貸してもらった。そして、うちのペンチをお貸しした。
  短期滞在の日本人家族同士、日本から持ってきた限られた物品が全然ダブっていないのが面白い。
  我が家は、炊飯器なし、体重計なし。でもYさん夫妻は我が家の荷物の量の多さに驚いていた。
  私自身、わざわざ日本から持って来る必要がなかったなあと思うものが色々ある。
  使い捨てカイロ、ベビー用掛け布団(→肌掛けで十分だった)、寿司桶、箸置き、生理用品、日本語の絵本……。
  午後は早速、借りた体重計を使って、夫と二人で計量をした。
  1人が箱を抱えて体重計に乗っては、もう片方が針を見る……を繰り返す。腰が痛くなった。
  アジア食料品店で買った「インスタント豆腐花」の最後の1袋を、初めて固めることができた。
  箱に書いてある通りにお湯を注いで10分待っても、今まで一度も固まったことが無かったのだ。
  乱暴にも、電子レンジで温めてみたら、やっと固まった。しかしこの甘さは妙だ。
  (私は、「豆腐花」がデザートであることを知らず、単なるインスタント「豆腐」だと信じていた。
   帰国して、朝の主婦向けTV番組『はなまるマーケット』なんぞ見て、初めてデザートだと知った次第)



2001年9月22日-Sa.(のい2歳1ヵ月15日) 赤十字のコンテナ
  荷物の処分と整理に目処がつき、ようやく箱詰めを本格スタート。
  24日中には内容明細を業者にFaxで送る必要があるため、実質、2日間で全て荷造りせねばならない。
  睡眠を削るのは必至である。というか、心配で寝ていられない!!
  のい を寝かし付けながら眠っても、4時間ほど後には目が覚める。そして、居間でひたすら作業。
  早朝、のいが起きる前にと、のいの大事な汽車セットを緩衝材でくるみ始めた。
  ほぼ終わりがけに、のい が寝ぼけて起きてきた。グルグル巻きにされた汽車やレールを見たら
  泣くかな?と思ったが、「キシャ」と言って私の横に座り、嫌がりもせずに作業を眺めていた。
  息抜きに、新聞+雑誌+タバコ+ロト屋さん に新聞をとりにいった。
  いつも のい を見ては呼び止めて可愛がってくれるお姉さんと記念写真を撮った。
  のいは、スタスタと店のレジ側に入っていき、すんなり抱かれ、当然のように動物の形のグミをいただいていた。
  夕方、赤十字のコンテナに、中古衣類を入れに行った。街のそこここに、寄附用のコンテナがある。
  コンテナに服や古靴を入れようとしていたら、後ろから「Hallo!」と女性の呼び声がした。
  私たち以外に通りに人影はない。でもこの頭巾の人、私知らないんだけど?
  すると道路を渡ってきて「それ、子供の衣類なの?見せて」。彼女の乳母車には、のい より大きな女の子が。
  「この子には小さい服だよ」と私が言っても「うちにはもっと小さい子もいる」。
  彼女は私の袋の半分程を持って去っていった。いいことをしたんだか、悪いことをしたんだか……。



2001年9月21日-Fr.(のい2歳1ヵ月14日) Herr Brieftraeger
  引越仕事をしていると、必然的に のいは家に閉じ込められてしまう。天気が良いのに可哀相なので、
  息抜きを兼ねて散歩に出してやった。その途中、うちの郵便配達のお兄さんに会った。
  うちの集合住宅の場合、同じ番地に40軒近くが入居しており、しかも部屋番号は書かれていないから、
  きちんとポストに配達するのは至難の技である。しかしこの人は、かなりのスピードでやり遂げる。
  彼が休暇のときに、代わりに来た人たちは、日本からの我々宛て郵便を「宛先人不明」で処理しやがった。
  彼に頼んで、のいと、黄色い自転車(ドイツの郵便は黄色)と一緒に、写真に納まってもらった。
  最初、ドイツ語で話しかけたのに「英語は分からない」と言われたのはショックだったが。
  さて、延々と続いている荷造りの途中、思い立って、私一人で街に出してもらった。
  ずっと迷いに迷っていたが、やはり、フォークとナイフのセットを買って帰ろうと思ったから。
  でも、カタログに穴があくほど(←大げさ)思い焦がれていたセットは、私たちにはまだ贅沢すぎる。
  のい が小さいうちは廉価で丈夫な方がいい。単純で綺麗な曲線のを選んだ。重ねられるので場所もとらない。
  夫は雑誌の量を減らすため、今ごろになって切り抜きを始めた。おいおい。夜は送別会に出かけた。



2001年9月20日-Do.(のい2歳1ヵ月13日) 最後の市場/OK
  下町商店街で夫の買い物に付き合う。リュックサックを物色。
  ドイツではスーツを着た大人も背負うせいか、リュックサックについては、選択の幅が多いし安いのだ。
  ついでに木曜市場に行ったら、Oさん親子にも会えた。もう会えないかと思っていたので、嬉しかった。
  毎週毎週世話になったこのBockenheimerWarteの市だが、来週は忙しくてとても無理だろう。
  「今日が最後」と思い、愛想がいい兄ちゃんのいる、美味しい鶏の丸焼き屋で、halbes Henchen(半羽)を買った。
  さらに、のい を夫に見てもらって、その間に一人でhauptwacheの刃物屋へ。
  叔母のつくってくれた日本の紙細工を見せて、店員に自慢しまくった。
  鋏に加えて、下見時には品切れしていたEtui(ケース)がちょうど入荷したところで、ラッキーだった。
  夜、余っていたココナツと卵と小麦粉で、リング型のココナツケーキを焼いてみた。結構うまい。
  朝食やオヤツにちょうどOK。そうそう、のい は夫の真似をして「オッケー!」と言うようになった。
  親にとっては全然「オッケー!」じゃないときでも連発するので、参る。



2001年9月19日-Mi.(のい2歳1ヵ月12日) Paeckchen
  日本宛にPaeckchen(簡易小包)を送ってみた。ドイツ国外ならどこでも統一料金なので、
  遠い日本にも宅急便なみの値段で2kgの荷物が送れるのである。
  窓口のお兄さんに「陸送でいいんだよね?」と聞かれたので(陸送+船だと割安)、
  「そう。これは、遅く着く方が良いのだ。ただし安全に」と答えたら、妙に受けてしまった。
  (後日談:この小包は11月初旬に日本到着。新品の箱を使ったのに、かなりひしゃげた模様)
  夫は、健康保険解約の手続きミスを指摘するため、下町商店街の真ん中にある保険事務所へ。
  ついでに、やはり商店街の真ん中にある市役所の窓口で、住民登録の取り消しもしてきてくれた。



2001年9月18日-Di.(のい2歳1ヵ月11日) Ffm-Hbf
  やはり今日も、のい に「キシャ、キシャ」と騒がれて、引越仕事が全然はかどらないので
  S-bahnに乗って外出した。のいには、赤いベレー帽(DBの保安官似)を被せた。
  このベレー帽を被っていると、本当のDBの人みたいで、のいは鼻高々なのだった。
  中央駅の新装なった郵便局(1階に移って利用しやすくなった)に寄り、Paeckchen(簡易小包)の箱を購入。
  窓口の人は機嫌のいいお姉さんで、ラッキーだった。酷い局員も結構いるからなあ。
  のい と中央駅と西駅の構内を散歩して、車掌になりきっている写真を撮った。
  のいは電車を、犬や猫同様の生き物だと思っているらしく、他の電車とすれ違うたびに、
  大声で「Hallo!」と叫び、周りの人を吃驚させたり笑わせたりしていた。
  車内では前の席のおじさんが振り返って、のいに「Hallo!」と言ってくれたが、のい は怪訝な顔。
  キシャに挨拶したのに、どうしてオジサンが?…とでも思っていたのかな。



2001年9月17日-Mo.(のい2歳1ヵ月10日) Sさん
  のい が外に出ろとうるさく、引越準備の邪魔ばかりするので、雨合羽を着せてバスに乗って散歩に出た。
  帰りのバス停で、Sさんに会った。真下の4階の部屋に住む、一人暮らしのおばあさんだ。
  バスに一緒に乗って、一緒に降りた。Sさんは、のい の手をつないで歩いてニコニコ。
  私が「日本の磁器の容れ物があるのだが、使ってもらえませんか?」とおずおずと切り出したら、
  「喜んで」と即答。うれしくて調子に乗って「のいと貴女を一緒に写真に撮りたい」と言ったら、こちらもOK。
  のい は、私がカメラと、差し上げる物をとりに行っている間に、Sさん宅にお邪魔して、
  オウムを見たり、部屋中をあちこち走り回っていたらしい。
  Sさんちは、我が家と同じ間取りとは思えないほど、優雅な住まいだった。
  オウムがしゃべれる言葉が、「Kuess mir!(キスして!)」というのは面白かった。



2001年9月16日-So.(のい2歳1ヵ月9日) 中国の子らと記念写真
  引越準備がなかなかはかどらず、焦る。とりあえずゴミを捨ててみたり。
  モノが少しでも減ると、気分がマシになる。
  のい に広場を歩かせていたら、中国のYとその母、祖母が通りかかった。私が「一緒に写真を撮りたい」と
  のい を頼んで、部屋にカメラを取りに戻った間に、他の中国の子たちも広場に出てきていた。
  まずは、一番仲良しのYと のい の2ショットを撮ろうとしたのに、のい が急に走り出し、
  他の子たちを手招き。意外に優しいところがあるんだなあと、ジーンとした。
  撮り終わると、皆で広場を走り回って、キャハキャハ言っていた。



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